錆兎の肩に手を回した瞬間、自分の手のひらに伝わる震えで、さっきまでの戦いがどれほどぎりぎりだったかが分かった。
初めて真剣で模擬戦をさせられた時のような、ふとした拍子に膝から崩れてしまいそうな、そんな力の抜け方だった。
鍛えた身体には体力は残っているだろうが、命の取り合いですり減った精神の方は限界に近いのだろう。
「……歩けるか?」
「ああ、大丈夫だ。……ちょっと足が笑ってるだけだ」
錆兎はいつもの調子で笑おうとする。
けれど、その口元は乾いていて、笑みの端が少し引きつっていた。
義勇は少し離れたところで、まだ刀を抜いたまま周囲を警戒してくれている。
背中越しでも分かるくらい、緊張で張り詰めていた。
俺はまず、周囲を一度見回した。
ここは、さっきまで大型の鬼が暴れていたのだろう場所だ。
木々は何本も根元から折られ、幹には抉られた跡がいくつも残っている。
地面もなにをどうしたらこうなるのか、一面の土と石がむき出しでぼこぼこだ。
そこに、やたらに大きな「手」で踏み荒らされたような跡が重なっている。
(これは……人間の戦った跡じゃないな)
鱗滝さんの言葉が頭に蘇る。
『鬼は人を喰うごとに強くなる』
この戦闘痕の凄まじさが、その言葉の意味を物語っていた。
「錆兎、とりあえず怪我、見せて」
「お、なんだよこんなとこで急に。 惚れ直したか?」
「毎日でも惚れ直してやるから早く見せろ」
軽口を返しながら、袖を捲り上げて、腕や肩の動きを確かめる。
細かい擦り傷や打ち身は多いが、骨は折れていない。
致命的な外傷もなさそうだ。
ただ、脚と脇腹に、深くはないが何かで抉られたような傷が走っていた。
「これ、さっきの鬼にやられた怪我か?」
「ん? ああ。地面から生えてきた手にやられた怪我だな」
錆兎が、あっさりと答える。
「地面から……手が?」
「そう。伸びるし、増えるし、土の下からも飛び出てくるしで、やりにくいのなんのって」
さらりと言っているが、それはつまり、四方を鬼に囲まれているのと同義だろう。
しかも、鬼の急所である首を遥か遠くに置きながら、再生力に優れる鬼が無限に腕だけを伸ばしてくるというのは、どんな出鱈目だと言いたくなる。
「それは……問題なかったのか?」
半ば分かっていながらも、確認せずにはいられなかった。
「問題なかった、と言いたいところだが、何度かは本当に死んだと思った」
錆兎は、少しだけ遠くを見るような目になった。
「いつもの調子で戦おうとしてたら、きっと負けていただろうな」
あまりにも気軽に話すが、その内容に愕然とする。
「錆兎、お前、死ぬ気だったのか?」
そんなはずはないのは分かっていても、つい責めるような口調になる。
「まさか。 ただ、俺が相手をすればあいつに襲われる奴が減る。
それで、時間を稼げばお前らが来てくれるだろうと思っていただけだ」
しばらく見つめていると、小さな声で「すまなかった」と口にしながら目を逸らす。
それでも生きて、こうして話している。
その事実が、何よりも重い。
思わず、安心と呆れとを半分にしたようなため息が漏れる。
「でも、結局一人で斬ったんだな」
「ああ。 倒せたのは、宗右衛と義勇のおかげだ」
「俺たちの?」
「そう。俺の攻めが通じない相手に対して、どうすべきかを教えてくれたのは、お前たちだ」
錆兎は、ひゅう、と息を吐いて笑った。
「宗右衛とは何でもありの模擬戦やってただろ?」
「……ああ」
「あれは役に立った」
単に俺が負けず嫌いで始めてしまった悪あがきなのだが、錆兎は本当に感謝を告げるように続ける。
「宗右衛は隙を見せるとすぐ組み打ちしてくるし、蹴りは出すし、砂は握ってくるしで、やられているときは本当に腹が立ったが、そんな時こそ呼吸を整えて、相手の出方を見ないと駄目だってな。
今回も、それが出来た」
手鬼の腕が伸びた時、無理に斬り込まず、受けて流し、動きの癖を一つ一つ拾った。
不意打ちの地面からの攻撃も、視線や表情から予測できた。
義勇の「沈む受け」を真似して、拳や腕の芯を捉え、力の流れをずらしながら間合いを調整した。
「それでも、首を守る腕がやたら固くてな。
最後は義勇の型を思い出しながら、斬らせてもらった」
「……そうか」
胸の奥で、さっきまでの戦場がうっすらと違う色を帯びて見える。
自分の負けず嫌いが拗れて始まった、何でもありの模擬戦。
それが、錆兎の生存の役に立った。
恥ずかしいような、くすぐったいような誇らしさが、少しだけ胸の中を温める。
「とりあえず、この山にいる強い鬼が一体減ったってことでいいんですよね?」
義勇が少し離れたところからこちらを見る。
「ああ、それは間違いない。 ただ、他にもこの強さの鬼が居るんだとすれば、かなり厳しい試験だな」
錆兎が答えた。
「いや、多分、そんなに数はいないと思うよ。
勝てない鬼からは逃げる選択肢を取るようにって意図だろうし、居ても何人かで協力すれば倒せる程度の鬼なんだと思う」
最終選別の始まりの言葉。
鬼殺隊当主の「逃げてもいい」という発言に引っかかっていたが、その意図は恐らく“一人では勝てない強さの鬼が山に放たれている”ということだ。
「それは、安心できる話だな」
錆兎が先ほどの鬼との戦闘を思い出すように、苦々しい表情で安堵の言葉をこぼす。
義勇が折れた木々の上を見上げる。
「……ここ、朝になったら、陽が入ります。
周りの木が折れていて、鬼にはあまり居心地のいい場所じゃないと思います」
(なるほど)
この開けた場所なら、朝になれば光が差し込む。
鬼が暴れた跡で足場は悪いが、拠点にするには悪くない。
「じゃあ、ここを一旦の拠点にしようか」
俺が言うと、義勇が少し頷いた。
「それと、ここに来るまでに会った錆兎が助けた人たちを、ここに集めませんか?」
義勇の目には彼らを助けてあげたいという意思が見て取れる。
人が集まれば動きにくくなるが、数は武器にもなる。
全員で動き回るのは危険だが、陽の光が入る場所に集めて、見張りを交代で回すだけでも、多少は楽になるだろう。
「いい案だな」
義勇がほっとしたように表情を和らげる。
「錆兎はしばらく体力回復に努めろ。義勇、先頭頼む。
俺は錆兎の後ろで警戒する、さっきの道を戻るぞ」
「了解です」
義勇が頷き、先に立とうとしたところで、錆兎がふいと俺の袖を引いた。
「宗右衛、ちょっと話がある」
「今か?」
「今だ。義勇、悪いけど、ちょっと先に行っててくれ」
「……? 分かった。先に様子だけ見てくるよ」
義勇が少し離れ、俺と錆兎だけになる。
「……何だよ、改まって」
「さっきの鬼のことだ」
錆兎の声色が、いつになく真面目なものに変わった。
「さっきのって、でかい鬼のことか?」
「ああ、あれは、昔、鱗滝さんが捕まえた鬼らしい」
眉がぴくりと動いた。
「どういうことだ?」
「戦ってる間、あいつ、よく喋るんだよ。
『また狐が来た』とか『鱗滝への恨みだ』とか、そんなことばっかりな」
風が一瞬、冷たくなった気がした。
「そして、鱗滝の弟子を十三人殺した、と言っていた」
錆兎が、自分の面を軽く指で弾く。
「江戸の頃から、厄徐の面をつけてるやつを狙って、鱗滝さんへの腹いせに殺してきたんだと」
喉の奥が、じわりと苦くなる。
「……それを、何で俺に言おうと思った?」
聞きたくないような、でも、聞かずにはいられないような気持ちで、問う。
錆兎は少し目を伏せてから、正直に告げた。
「確証はないが、多分、あいつが櫛那さんを殺した」
「……」
「『花柄の着物を着たすばしっこい女のガキ』と『最近来た亀甲花菱の羽織を着た女』が印象に残っていると。
強い剣士だったとか、そんなことを、言っていた。」
胸の奥で、何かがゆっくりと沈んでいく。
亀甲花菱の羽織は、櫛那が狭霧山に来た時に持っていた家族の遺品だ。
櫛那が最終選別に行く日に、仕立て直したものを鱗滝さんが渡した姿が脳裏に浮かぶ。
泣きそうな表情で「ありがとうございます」と告げた櫛那を、今も憶えている。
(そうか、櫛那姉ちゃんを殺した鬼は、こいつだったのか)
頭の中では、既に分かっていたような気もする。
錆兎のように、夜の山の中を走り回った櫛那。
厄徐の面を付けた参加者を狙い続けている異能の鬼。
線でつなげば、答えは一つだ。
「本当ならお前が、倒したかっただろう」
錆兎が、ぽつりと言う。
「お前が倒すべきだったかもしれない。
でも、戦ってる時、それを考える余裕がなかった。
これは言い訳だ。悪かった」
「……いや」
言葉が、すぐには出てこなかった。
錆兎の言う通り、確かに自分の手で櫛那の仇を取りたかった気持ちはある。
俺自身、櫛那のために刀を握ってきたと、そう信じていた。
けれど、錆兎の言葉を聞いている自分の胸の中には、悔しさとか、怒りとかそういうのは無かった。
いま心の中にあるのは――
(ああ、そうか)
という、妙に静かな納得だけだ。
櫛那を殺した鬼は、鱗滝さんの弟子を狙い続けていた。
その鬼を、鱗滝さんの弟子の一人である錆兎が、みんなの思いを背負って斬った。
ただそれだけのことが、ひどく「あるべき形」のように思えた。
「むしろ、有難いよ」
そう口にしている自分に、少しだけ驚く。
「だとしたら、それは俺一人の仇じゃない。
櫛那姉ちゃんを殺した鬼は、鱗滝さんから弟子たちを奪い続けた鬼だ。
錆兎が倒してくれたなら、それでいい」
それどころか、胸の奥に、感謝と尊敬と、どうしようもなく晴れやかな気持ちが湧き上がってくる。
(……櫛那姉ちゃんのことしか背負ってない俺よりも、錆兎の方がずっとそれらしい。
なんてのは言い訳なのか。
俺は櫛那の為に刀を握ったのだと、そう思ってたけど……)
そんな疑問が、一瞬だけ顔を出すが、すぐに蓋をする。
今は、考えるべき事が他にある。
「それに」
少し息を整えてから、言葉を続ける。
「俺があいつと戦ってたら、負けてたかもしれないからな。
そんなことよりも、錆兎が生き残ってくれたことの方が、ずっと大事だ」
錆兎は、泣き出しそうな、消えてしまいそうな、そんな顔をして小さく笑った。
「……そう言ってもらえると、助かる」
その声は、疲れ切っているのに、不思議と明るく聞こえた。
「よし、じゃあ行くか」
「おうよ。義勇ー、悪いな、待たせた!」
義勇がこちらに戻ってきて、三人で来た道を戻り始めた。
目を閉じると、夕陽の中の櫛那の横顔が少し笑った気がした。
―――
道中で、俺たちは何人もの参加者と合流した。
中には、おかっぱ頭の少年の姿もあった。
俺たちがあの場を離れたあと、そのままじっとしていたらしい。
あの後鬼に襲われることもなく、木の傍で蹲っていたので、声を掛けて合流した。
道中、鬼に襲われた参加者の亡骸から遺品の回収も行った。
遺体はほとんど残っておらず、服や刀が回収できただけだったが、何もないよりはマシだろうと思えた。
そうして錆兎が助けた者たちと、途中で遭遇した参加者を合わせると、俺たち三人を含めて十四人ほどになった。
全員がそれぞれ傷や疲労を抱えていたが、致命的な怪我人はいない。
「ここが、拠点の場所です」
義勇の案内で、再び鬼との戦闘跡地へ戻る。
折れた木々が空を切り、そこから薄く明るみかけた空が覗いていた。
まだ夜の気配は濃いが、確かに、他の場所よりも開けている。
「昼になれば、この辺り一帯に陽が当たります。
もう少しだけ警戒を続けて、明るくなったらみんな交替で休みましょう」
義勇が言う。
山に入ったばかりの弱々しい雰囲気が消え、背筋をしゃんと伸ばしてはきはき喋る姿に、少しだけ笑みがこぼれる。
周囲をざっと見て、倒木や岩を背に出来る位置をいくつか指し示す。
「十四人……ですか」
誰かが数を確認した。
「だいたいそれくらいだな」
ここから先で減るかもしれないし、増えるかもしれない。
数そのものに、あまり意味はなかった。
「じゃあ、見張りは、四人ずつで交代しようか。
二刻ずつ休むように回せば、みんな同じぐらい休めるだろ。
夜明けも近いし、休める時に休んでおかないと駄目だ」
俺がそう言うと、何人かがほっとしたように地面に腰を下ろした。
「疲れてるやつから、優先的に寝ろ。
顔色悪いのはお前とお前と……お前もだな」
識彩の色を見ながら、暗く沈んでいる者を選んでいく。
実際に顔も青ざめていたり、肩が落ちていたりしていた。
誰かが、ぽつりと言う。
「……あんた、なんかよく分かんねぇけど、頼りになるな」
「よく分かんなくていいよ」
肩をすくめる。
「これは俺が楽をしたいからやってるだけだし」
そう言うと、少し笑いが起きた。
錆兎の色は、少し暗い黄緑だった。
興奮と疲労が入り混じり、ようやく落ち着きかけている色。
義勇の色は、明るい青緑。
まだ体力を充分に残しているのが分かる。
この場全体に意識を広く伸ばしながら、完全には警戒を解いていない。
この二人の色が安定していることに、俺はようやく深く息をついた。
「錆兎、お前は先に寝ろ」
「いや、俺は――」
「山中の鬼とやり合ってきたやつが何言ってんだ。
今ここで錆兎が倒れたら、俺は鱗滝さんになんて言い訳すればいいか分からなくなる」
錆兎は、むっとした顔をしつつも、結局は諦めたように座り込む。
「義勇、最初の見張り頼めるか?」
「はい。任せてください」
「じゃあ、その次が俺で、最後に錆兎。
それくらいで夜が明けるように回す」
自然と、その順番になっていた。
(俺が一番動けるから、休むのは最後でいいだろう)
そんな思考が、無意識のうちに出てくる。
「……そういえば、宗右衛さ」
少し落ち着いたところで、錆兎が口を開いた。
「さっき、他の参加者助けに行くってなった時さ。
俺に、何か言いたそうだったよな?」
「ああ」
ため息が漏れた。
「七日生き残ることが目標の試験で、初日からあっちこっち走り回って人助けしてる馬鹿がいたからな」
「手厳しいなぁ」
「手厳しくもなるよ。
刀だって消耗品なんだぞ、無限に振れる訳じゃないし、呼吸だって無限に出来るわけじゃない。
人助けが悪いわけじゃないけど、万が一でもそのまま倒れられたら、残された方はたまったもんじゃない」
そう言いながらも、きつく言い切れない自分がいる。
やっていることが間違いだとは思えなかった。
助けられる命を助けるのは、きっと正しい。
ただ、その「正しさ」で死なれたら、嫌だった。
「分かってるよ」
錆兎は、少しだけ目を細めた。
「でも、助けられそうなやつがいるのに、助けずにいられるほど器用じゃないんだ」
「知ってる」
即答してやる。
「そういうところが、腹立つほど格好いいってのも、知ってる」
「なんだよそれ、褒めてんのか怒ってんのか分かんねぇぞ」
「……半分ずつくらいかな」
また、小さな笑いが生まれた。
集まった参加者たちが、窮地を救ってくれた錆兎への礼を述べに来る。
同時に、戻ってきて道を引き返し、皆をここまで連れてきた俺たち三人へも、何度も頭を下げていく。
そのたびに、錆兎の色は少しずつ柔らかくなり、義勇の色は静かに明るさを増していった。
―――
やがて、最初の見張り交代の時間が来た。
陽がだいぶ高くなってきた頃合いだった。
「義勇、そろそろ代わる」
「はい。周辺に鬼の気配はありませんでした」
義勇が報告し、俺が見張りの位置に立つ。
錆兎は既に浅い眠りに落ちていた。
宍色の髪が日の光で光り、呼吸はまだ少し早いが、さっきよりはずっと穏やかだった。
倒木にもたれながら見張りに立とうとしたときだった。
「あの……」
背後から、おずおずと声がかかった。
振り向くと、おかっぱ頭の少年が立っていた。
昼間の土や血で汚れていた顔は、今は少しだけ洗われていて、目の周りが赤い。
「どうした、寝なくていいのか?」
「いや、その……その前にあんたに、謝りたくて」
少年はぎゅっと拳を握りしめている。
なにか謝られるようなことがあっただろうかと頭を悩ませていると、吹く風の音に負けてしまいそうな、弱々しい声が聞こえた。
「さっき、あんたたちが行ったあと……俺、むちゃくちゃに怒ってたんだ」
「怒ってた?」
「ああ……。
その、自分にも、鬼にも、死んじまった二人にも、あんたたちにも」
言葉を探るように、ぽつぽつと続ける。
「あんたたちが俺を残していったことを、心の中でさんざん呪った。
なんで助けに来てくれないんだって。
どうして俺を連れてってくれないんだって」
少年の声が震える。
「でも、そのあと……」
視線を、眠っている錆兎たちの方に向けた。
「助けてくれた宍色の髪の人が、また鬼を斬ってたって聞いて。
あんたたちも、わざわざ戻ってきて、他にも困ってるやつらを拾って、ここまで連れてきてくれた。
その姿見てたら、恥ずかしくなって」
自分が、当たり散らしていたことも、呪っていたことも、全部。
「それで……二人の、遺品を探したいって言った時も、付き合ってくれた」
少年の手の中には、小さく折れた刀の鍔と、血で染まった布切れが握られていた。
夜明け前の薄暗がりの中で、血だまりの中に見つけた同門だったという二人の遺品。
俺は何と言って渡せばいいか分からず、何も言わずに土を払って彼に渡した物だ。
「こんなのしか、残ってなかったけど。
それでも、あんたたちは、何も言わずに一緒に探してくれた」
少年は、震える口で必死に言葉を紡ぐ。
「こんなこと言っても困らせるって分かってるけど、それでも言わずにはいられなかった……。
ありがとう。
さっきは、ごめん」
「……別に、謝られることじゃないよ」
正直にそう思った。
「怖いのは当たり前だし、誰かを恨みたくなるのも、普通だと思う。
俺だって、そういうときは、心の中でいっぱい誰かを殴ってる」
少年が、少しだけ目を丸くした。
「だから、謝るなら自分にだけ謝っとけ。
『あの時は仕方なかったけど、今度はもうちょっとマシな自分になろうな』って」
少年は、ふっと笑った。
「うん……そうする」
そう言って、深く頭を下げてから、元いた場所に戻っていった。
少年の背中から立ち上る色は、さっきまでよりも、少しだけ白が混ざっていた。
―――
一人になって、改めて空気を吸い込む。
藤襲山の昼間は、静かだった。
さっきまで遠くから聞こえていた悲鳴も、今は聞こえない。
その静けさが、逆に不気味でもあったが。
(櫛那姉ちゃん)
心の中で、そっと呼びかける。
櫛那のこと、鬼のこと、錆兎のこと、鱗滝さんのこと。
頭の中でもう一度なぞっていく。
櫛那に恥じない今日を迎えられているだろうか。
俺はちゃんとやれているのだろうか。
(俺は……鬼を斬りたいのか?)
それとも、ただ『斬らなきゃいけないから』斬っているだけなのか。
錆兎や義勇、櫛那姉ちゃん。
あの人たちが鬼を斬る理由は、憎しみや悲しみや、誰かを守るという強い思いで、眩しいほどに色づいている。
それに比べて、俺の中はどうだろう。
怒りや憎しみはある。
でも、それは何かを燃やし尽くすほど強いわけじゃない。
今日、何体も鬼を斬った。
けれど、俺は結局、鬼を哀れみながら、斬らなければならないから斬っただけだ。
(……それでも)
胸の奥に、かすかな芯のようなものが残っている。
(鬼を斬る)
それは、決めたことだ。
(二人を連れて、鱗滝さんの家に帰る)
それも、決めたことだ。
至った点も、至らない点もある。
櫛那に胸を張れるような今日だったかと問われると、自信はない。
どこまでも「正しい」錆兎を見ていると、自分の中の虚ろが、どこまでも際立って見える。
それでも、明日は来る。
振り返れば後悔するようなことがあっても、今日を歩き続けなければならない。
(正しくなくてもいい)
心の中で、静かに呟く。
(正しくなくても、やることはやれる)
そう思えたわけじゃない。
そう思うことに、決めただけだ。
高く昇った太陽は、ちょうど薄い雲に隠れていた。
俺は刀の柄にそっと手を置き、眠る二人と、丸くなって眠っている他の参加者たちの寝顔を一度見渡してから、もう一度木々の影へと意識を向けた。
最終選別は、まだ終わっていない。