帰りの道は、行きよりも随分と時間が掛かってしまった。
案内が無いこともさることながら、俺達の格好が問題だった。
俺達は藤襲山の中で七日間を過ごしたため、鱗滝さんが折角用意してくれた着物も泥と汗とで汚れている。
錆兎は軽傷とはいえ怪我が多かったので全身包帯だらけだし、俺も義勇も怪我は殆ど無いけれど、怪我人の介抱をしている中で付いた血が着物のあちこちに染みを作っている。
そんな姿で帯刀している少年三人は、誰の目から見ても怪しかったようで、人目を避けるようにして帰らねばならなかった。
道の脇からじろじろと向けられる視線を避けるように歩き、明日食べるものを心配しなくてはならなくなった頃、ようやく狭霧山を視界に収めることが出来た。
身体は疲れていたが、三人共が自然と足早になる。
狭霧山の麓についた時には、もう薄闇が山の輪郭を飲み込みかけていた。
懐かしい霧の匂いが鼻をくすぐる。
冷たいはずの空気なのに、「帰ってきた」というだけで少しだけ温かい。
「……やっと着いたな」
ぽつりと呟くと、隣で錆兎が大きく伸びをした。
「はーっ、さすがに風呂に入りたいな。
綺麗な布団で寝たい。
あと飯を腹いっぱい食いたいな!」
「僕もお腹すきました」
義勇も疲れをにじませながらも安心した調子で言う。
「風呂は良いけど、錆兎は傷開かない程度にしとけよ」
「折角帰ってきたのに、宗右衛は小言が多いな……」
「はいはい、うるさくてごめんなさいね」
錆兎が眉をへの字にして文句を言えば、俺は降参したように手を上げる。
義勇はそれを苦笑するように微笑み、山道を登る。
風が木々を撫でる音を聞きながら、見慣れた大岩を越え、小さな沢を渡る。
霧の向こうに、ぼんやりと見えてくる屋根の影。
鱗滝さんの家が見えた瞬間、胸の奥の緊張が、ふっとほどけた気がした。
格子の隙間からは、ほのかな明かりと、出汁の匂いが漏れている。
「……ただいま、だな」
俺が小さく呟くと、錆兎がいつもの調子で背中を叩く。
「何照れてんだよ、宗右衛。
ほら、行くぞ」
錆兎が先に立ち、戸を開ける。
中から立ち上る湯気と、食べ物の匂いと、懐かしい家の空気。
土間の奥に、天狗面が見えた。
「……戻ったか」
「はい、ただいま戻りました!」
いつもの調子の、いや、いつも以上に張り上げた声が、狭霧山に響く。
土間の奥で、天狗面がこちらを向いた。
「遅かったな」
鱗滝さんの声に、怒っている響きはない。
ただ「遅かった」という事実の向こうに、心配していた時間が透けて見えるだけだ。
「ただいま戻りました」
義勇が、深く頭を下げる。
「約束通り、三人で無事に戻りました」
俺も、そう付け加えて胸を張る。
鱗滝さんは、ゆっくりと立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
面の奥の視線が、足元から順番に、俺たちをなぞっていくのが分かった。
怪我をしているところ。
服の汚れ方。
包帯の位置。
そして、刀。
ひと通り見終わってから、面の下から長く息が吐き出された。
「……よく、生きて戻った」
鱗滝さんが絞り出すように吐き出した、たったそれだけの言葉に、万感の思いがこもっていた。
顔が見えなくてもそれが分かるような、そんな言い方だった。
鱗滝さんの声を聞いて、俺も胸の奥が熱くなって、膝から力が抜けそうになる。
「湯は沸かしてある。
泥と血を落とすといい。
飯は風呂から上がる頃には用意しておこう。
報告は――」
そこで、ほんの少しだけ間をおいて、静かに言った。
「明日でいい。今日は休め」
「はい!」
錆兎が元気良く返事をして、脱いだ草履を蹴飛ばす勢いで上がり込む。
その背中からは、心配をかけないために明るく振る舞う錆兎なりの優しさが見て取れた。
「そっか、僕たち、“ただいま”になったんですね」
義勇がぽつりと言うと、鱗滝さんの肩がわずかに揺れた。
「……さっさと行け。湯が冷める」
わざと冷たく聞こえるように言うそれは、鱗滝さんの照れ隠し以外の何物でもなかった。
俺も義勇も、言いたいことは同じだったろう。
同時に互いに見合って、小さく笑って風呂に向かった。
―――
湯気が白く立ちのぼる桶風呂に身体を沈めると、錆兎が「っはー」と声を漏らした。
「生きててよかった……」
「本当に死にかけた人の台詞は重みが違うよね」
「義勇までそんな事言うのは止めてくれ、死ぬ気はなかったって何度も言っているだろう」
ふてくされたように言いながらも、錆兎の身体のあちこちに走る傷跡が、七日間の現実を物語っている。
錆兎が死に急いでいるわけではないのは、疑う余地もない。
だが、その身体に刻まれた傷跡は、他の誰かの命と、自分の命を秤に乗せていたことを物語るものだ。
俺の視線に気付いた錆兎が、不満げに、ふん、と鼻を鳴らす。
俺は何も言ってないだろ。
義勇は、錆兎と一緒の湯に半身だけ浸かって、じっと湯面を見ていた。
「……あったかいです」
「当たり前だろ……湯だぞ?」
「そうなんだけど、こういう“あたたかさ”が、久しぶりだなって」
義勇がそんなことを言うと、錆兎が手ぬぐいを頭に乗せてそっぽを向く。
「湿っぽいことを言うな。湯に涙が混じるだろうが」
「僕は泣いてないよ?」
「俺が泣きそうなんだよ、察しろ」
「じゃあ素直にそう言えば良いのに……」
「男がそんな軟弱なこと言えるか」
口では軽口を叩き合っているが、義勇の声色は柔らかい。
張り詰めていた弦が、ようやく弛んだようだった。
錆兎の表情からも、すっかりと力が抜けていた。
(……本当に、帰ってきたんだ)
俺はと言えば、手拭いで身体の汚れを拭いながら、そんな実感がじわじわと皮膚の内側までしみていく。
生きている実感が、湯のあたたかさと一緒に、じわじわと身体に戻ってきていた。
―――
夕飯は、食べ慣れた献立だった。
味噌汁と、焼き魚と、山菜と、白い米。
けれど、藤襲山から戻った三人の前に並ぶと、それはどんな豪華な料理よりも輝いて見えた。
「……いただきます」
一口目で、錆兎が動きを止める。
「鱗滝さん。これ、味付け変えた?」
「変えてない。
変わったのはお前の舌だろう」
「そうか……そうだよな……」
妙にしみじみ頷きながら、錆兎は米をかき込む。
生きるための補給ではなく、味わうための食事。それがこんなにも美味いとは。
義勇も、いつもより噛む回数が多い。
「……鱗滝さんの、ご飯ですね」
「当たり前だ。誰の家の飯だと思っている」
鱗滝さんが、ぶっきらぼうに答える。
でも、その声の周りには、いつもの落ち着いた響きに喜びが滲んでいる。
弟子たちが自分の作ったご飯を食べる。
ただそれだけのことが、鱗滝さんにとっては得難い時間だったのだ。
何年も、もしかしたら何十年も、弟子の帰りを待ちながら、こんなぶっきらぼうな受け答えすら出来なかったのだろうか。
名札だけが増え続ける家で、一人佇む姿に思いを馳せて、目の奥が熱くなる。
「飯を食ったら、今日はもう休め。
――生きていれば、鍛える時間はいくらでもある」
いつもと同じ調子の鱗滝さんの低い声が、今日はやけに優しく聞こえる。
俺も何か言いたかったけれど、喋ると声が震えそうだったので、ご飯を口いっぱいに掻き込む。
そうして、鱗滝さんに見守られながら食事を進める。
お風呂で温まり、美味しいご飯を食べて、緊張しっぱなしだった身体が解れていく。
皿が空になる頃には、三人共に瞼が落ちそうになっていた。
―――
布団に潜り込んでから、どれくらい経っただろう。
いつとも分からない夜半に、ふとハッキリと目が覚めてしまった。
外の風の音、虫の声が聞こえてくる。
視界に映っているのが寝室の天井だと理解するまでのわずかな間に、自分の手が自然に刀を探してしまっていたことに気付いた。
身体がまだ鬼の気配を探しているのか、ちょっとした物音で目が覚めてしまったのだろう。
さっさと寝てしまおうと掛け布団を掴んで、ごろりと身体を回すと、居間の方からぼんやりと灯りが漏れていることに気がついた。
(……話し声?)
耳を澄ますと、二人分の声が届いてくる。
鱗滝さんと、錆兎だ。
何を話しているのだろうか?
悪いとは思いながらも、そのまま寝返りを打ったふりをしながら、そっと耳だけをそちらに向けた。
「――錆兎が、私の弟子たちの無念を晴らしてくれたこと、嬉しく思う」
鱗滝さんの声が聞こえてきた。
察するに、錆兎が最終選別の、特に手鬼を倒したことの報告をしている所のようだ。
錆兎なら「そうだろう!」とか「男なら当たり前のことだ」とか、胸を張って応えるだろうと、そう思って耳を澄ます。
しかし、期待したような錆兎の声は聞こえず、しばらくして衣擦れの音をさせて首を振る気配がした。
「……そんな立派なもんじゃありません」
それは錆兎の口から出たとは思えないような、静かな答えだった。
鱗滝さんも面食らったのか、少しの間を空けて返事をする。
「どうしてそう思う」
そこで、錆兎の方も言葉が詰まる。
「“この鬼を倒せば、兄弟子たちの仇をとれる”……そう思ったのは、本当です」
何かを言おうとして、喉の奥で押し留めているような間が空く。
「けれど……それが罠だということに気付いていていました。
俺は……止まれなかった。
一歩間違えたら、死んでいたのは俺の方でした」
悔しさを噛み殺したような声で、錆兎が言った。
「生きて戻ると約束したことが、よぎりました。
……今思えば、二人と合流するべきだったと思います」
藤襲山の夜が、思い出される。
錆兎のあの、躊躇のなさ。
ただ真っ直ぐ、助けを呼ぶ声の方へ走っていこうとする背中。
俺には決して出来ないと、眩しいとまで思ったその後ろ姿が目に浮かぶ。
鱗滝さんは、すぐには返事をしなかった。
否定も肯定も、慰めもせず、ただ静かに錆兎の言葉を待っていた。
錆兎が、自分自身を責めるように言葉を継ぐ。
「人が襲われてるのを見たら、体が勝手に動いていました。
“男なら、助けるのが道理だ”って」
“男なら”というのは、錆兎の口癖で、錆兎の持つ“正しさ”の象徴だ。
「でも、宗右衛と、義勇に止められて……目が覚めました。
俺が血相を変えて、鬼を斬るために山を走り回ってる間、人を守ってるやつらがいました。
誰も死なせないように、全体を見て……。
鬼を斬るだけじゃない、俺にはできない役割を、果たしているやつがいるんだと」
錆兎がポツリ、ポツリと、地面に零すように言葉を繋いでいる。
(出来ない役割を果たしていたと言うなら、それはお前の方だよ、錆兎。
俺には絶対に出来ないことを、お前はしてたんだ。
あの試験で十九人も生き残ったのは、お前のお陰なんだ)
今すぐにでも飛び出して、そう言ってやりたいのを我慢して、心の中で叫ぶ。
「俺は、ただ自分の思う“正しさ”に酔っていただけでした。
鬼を斬れば、それさえやっていれば、男として立派なはずだと」
あの錆兎の、声が震えていた。
深い後悔がにじむような声が続く。
「刀も握れないで震えてるやつらを見て……どこかで、“情けない”と見下していたんです。俺は」
言いながら、服をきつく握り込む音がする。
「男なら戦えよ。自分の身くらい自分で守れよ、と。
そんな傲慢な考えが、俺の目を曇らせていた」
居心地の悪い沈黙が、しばし続いた。
やがて、鱗滝さんが静かに口を開く。
「己の傲慢さを恥じるか」
「……はい。穴があったら入りたいくらいです」
「……ならば、良い」
幾度となく聞いた、短いけれど、とても温かい言葉。
「向けるべき先を知らぬまま振るう剣は、凶器になる。
それは言葉でも、心でも同じ事。
お前は己の弱さを知った。
それは、お前の強さになるだろう」
「……怒らないんですか」
錆兎が囁くような小さな声で言う。
その言葉に錆兎が納得がいっていない時の、特有の響きがあった。
きっと錆兎自身が、自分のことを許せないのだ。
だから、鱗滝さんに叱って欲しい、罰して欲しいと、そう思っている。
そう感じた。
でも錆兎、もし、そうなのだとしたら、鱗滝さんに怒られるべきは錆兎だけじゃない。
(そんなこと俺だって思ったよ。
お前らを助けるために、錆兎や義勇が死んだらどうしてくれるんだ、って俺も心の中で怒ってたんだ。
お前が助けなかったら、俺は初めから誰も助けやしなかったんだから)
「怒ってほしいか?」
「……一発くらいなら」
間髪入れずに返ってきたその一言に、鱗滝さんがくつ、と喉を鳴らして笑った気配がした。
「では、言葉で打っておく」
声に、師範としての厳しさが宿る。
「お前一人に、全ては背負えん」
それは叱責というより、真理を説く声だった。
「誰かを救いたいと願うのは、お前の強さだ。
だが、『自分だけが救える』と思うな。
それは過信だ。
過信は足をすくう」
「……はい」
錆兎の返事は、真っ直ぐだった。
「剣を握れぬ者を守るのが、剣士の務め。
見下すのではなく、背負うのだ。
――それができる男に、お前はなりたいのだろう?」
「……っ、はい!」
錆兎の声が震えた。
一番言われたかった言葉を、一番言ってほしかった人にもらえた。そんな響きだった。
「では、錆兎。問うぞ」
鱗滝さんの声色が、改まる。
「今、お前はどうしたい」
迷いを確認するのではなく、次の一歩を問う声だ。
錆兎は、即答した。
「強くなりたいです」
その声には、もう迷いも、余計な気負いもなかった。
「もっと、広く見えるようになりたい。
仲間も、人も、自分も。
……すべてを守れる、本物の男になりたいです」
鱗滝さんは、深く頷いた気配を見せてから、短く言った。
「よし」
それで全部を受け止めた。
「ならば、また明日から鍛えるだけだ。
悩むなら、手を抜かずに悩め。
考えながら、振れ」
「はい!」
「――だが今日は、もう夜遅い。
湯も飯も済ませた。
ならばお前に残る仕事は一つだ」
錆兎が笑うように一つ息を吐き出す。
「寝ろ、ですね?」
「そうだ。さっさと寝ろ」
鱗滝さんの言葉に、錆兎が小さく声に出して笑う。
「……おやすみなさい、鱗滝さん」
「ああ、おやすみ」
灯りが、ふっと落ちた。
足音が近づいてきて、俺の部屋の前を通り過ぎる。
その瞬間、天狗面の奥の視線が、襖越しにこちらを一瞬だけ掠めた気がした。
(……バレてるな、これ)
慌てて目を閉じて、寝息を整える。
しばらくして、隣から錆兎の寝息が聞こえ始めた。
ほんの少しだけ、子どもみたいないびきが混ざっている。
参加者全員の命を背負おうとしていた背中も、布団の中では年相応の柔らかな子供の姿だ。
(恥ずかしいとか言ってたけどさ、俺からしたら錆兎は十分かっこいいよ)
声にはしないまま、心の中でだけ呟く。
(自分の弱さを認めて、恥じて、それでも前を向ける。
それはもう、お前がなりたい“男”の顔をしてる)
胸の奥に、静かな熱が灯る。
(……俺もだよ、錆兎)
心の中でだけ、言葉を結ぶ。
(俺も絶対に強くなる。
今の俺じゃまだ足りない。
お前らも、自分のことも、ちゃんと守れるくらい強くなる)
決意は、声に出さない。
杭みたいに自分の心に打ち込んでおけばいい。
外では、風が木々を揺らしていた。
あの藤襲山の不気味な夜風とは違う、狭霧山の優しい静けさだ。
その音を聞きながら、俺はようやく、本当の意味で深い眠りに落ちた。