山で暮らすことが、いつものことになっていく。
そうなるまでに、どれくらいかかったのかは、よく分からない。
最初の頃は、朝起きるたびに、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。
薄い壁もない。
誰かの咳もない。
泣き声も、怒鳴り声も、足音もない。
ただ、山の音がある。
葉の擦れる音。
沢の水が石を叩く音。
梁の上で、烏が羽を整える音。
自然の音が多すぎて、かえって落ち着かなかった。
けれど、ひと月、ふた月と経つうちに、その静けさにも形があるのだと分かってきた。
朝は、烏の声で始まる。
梁の上で、二声。
少し間を置いて、一声。
それが合図だった。
続いて、鱗滝さんが短く言う。
「起きろ」
それで起きる。
最初のうちは、烏の声で起きるということ自体が妙だった。
山の鳥は賢いものなのだろうかと思っていたが、三月も経つ頃には、さすがに分かった。
あれは、ただの烏ではない。
俺が寝坊しかけると、梁から下りてきて、顔の真上で鳴く。
布団を頭まで被ると、布団の端をつつく。
起きたふりだけして目を閉じていると、鱗滝さんが来る前に鳴き方を変える。
完全に分かってやっている。
便利なのか、厄介なのかは、まだ判断がつかない。
起きたら、まず水を汲みに行く。
家のすぐ近くの沢で済ませる日もあるが、大抵は少し下ったところまで桶を担いでいく。
「山水でも、人が触れば汚れる。毎日だ」
そう言われた。
毎日、という言葉を聞いた時は、少し面倒に思った。
けれど、やっているうちに体が覚える。
桶を担ぐ。
樹の根を避ける。
石の濡れた面に足を置かない。
帰り道では、桶の中の水を揺らさないように歩く。
最初は肩が痛かった。
次に腕が痛くなった。
それから、腿と腰が痛くなった。
痛む場所が変わるたび、体の使い方も少しずつ変わった。
鱗滝さんは、ほとんど褒めない。
ただ、桶の水を見て、こぼれていなければ何も言わない。
こぼれていれば、短く言う。
「もう一度だ」
それだけだ。
けれど、何も言われない日が増えると、少しうれしかった。
裏長屋では、水を汲んでも、薪を運んでも、掃除をしても、それはただの仕事だった。
できて当たり前で、できなければ怒鳴られる。
ここでも、やること自体は似ている。
水を汲む。
薪を割る。
掃除をする。
飯の支度を手伝う。
けれど、同じではなかった。
ここでは、言葉が仕事の出来ではなく、身体の使い方の方に飛ぶ。
桶を担ぐ時の肩。
薪を割る時の腰。
雑巾を絞る指。
斜面を下りる足裏。
鱗滝さんは何もかも、ただの暮らしのような顔をさせて俺を置いている。
けれど中身は、なんだか俺のためのもののように感じた。
それに気づいた時、この家はやはりおかしいと思った。
おかしい、と言っても、嫌な意味ではない。
飯は出る。
湯もある。
薪は積まれている。
干した魚も、乾かした野菜も、油紙に包まれた薬草もある。
山の家としては、たぶん十分すぎるほど整っている。
けれど、ところどころに、普通ではないものがある。
板戸を拭く時、上から三分の一には触るなと言われた。
囲炉裏の灰も、時々「これは使う」と言って、鱗滝さんが一部をよける。
夜になると、火床に小さな包みを焚べることがある。
「これは何に使うんですか」
そう聞いても、返ってくる答えは決まっていた。
「山で暮らすための道具だ」
山で暮らすための道具なら、町でも見たことがありそうなものなのに、俺はそれを見た覚えがない。
戸棚の上の段。
床の間の脇に立てかけてある長い棒。
紐で束ねた金具。
針のように細い鉄。
一目見ただけで、人を傷つけるためにも使えると分かるものは、大抵触らせてもらえない。
「それはまだ要らん」
「それは子が触ると危ない」
「それは山で子を守る時に使う」
だいたい、そんな言い方だった。
子を守る時。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
この家には、人を守るためのものと、人を殺すためのものが、同じ顔をして置かれている。
それが怖いのか、頼もしいのか、俺にはまだ分からなかった。
ただ、触るなと言われたものには触らなかった。
ここで生きるためには、鱗滝家のやり方を覚える必要がある。
そう決めていた。
この一年の間に、俺のような子が二度ほど来た。
どちらも、長くはいなかった。
鱗滝さんが、日が落ちる頃に烏の声と一緒に家を出ていく。
そして夜明け前か、朝方に、子どもを一人連れて帰ってくる。
俺は湯を沸かす。
飯を温める。
布団を敷く。
その子は二日か三日ここにいて、それから迎えが来る。
産屋敷と名乗る人の使いだった。
連れていかれる時は一人は泣いて、もう一人は笑おうとして途中で顔を歪めていた。
そういう時、俺は何も聞かなかった。
聞いたところで、何ができるわけでもない。
裏長屋で覚えた癖だ。
けれど、囲炉裏のまわりに一人分の気配が増えて、また消えるたび、そこだけ床板の色が変わったような気がした。
だから掃除をした。
使った椀を洗い、布団を干し、灰をならし、玄関の土を払う。
そうしていると、少しだけ穴が埋まるような気がした。
山は春から夏へ移り、夏の暑さが少しずつ下り坂にさしかかっていった。
俺がこの家に来て、ほぼ一年が経とうとした頃。
また一人、子どもが来た。
その日は、午前中から鱗滝さんがいなかった。
「山の下まで降りる。薪を切っておけ。烏が見ている」
そう言い残して出ていった。
烏が見ている、というのは脅しではない。
本当に見ている。
少しでもさぼると、あとで鱗滝さんに知られる。
烏が何をどう伝えているのかは分からないが、もう疑うのはやめた。
俺は家の仕事を一通り終え、一人で薪を割った。
空気が重かった。
山の向こうにある雲が、青黒く膨らんでいる。
夕方には雨が来る。
そう思って、いつもより少し多めに薪を割った。
雨の日は、火を絶やさない方がいい。
斧を下ろすたび、乾いた音が山に吸われていく。
手のひらに硬い感触が残る。
汗が背中を伝う頃、板戸の向こうで足音がした。
鱗滝さんが戻ってきたのだと思って振り向く。
けれど、そこにはもう一つ、細い影があった。
鱗滝さんの後ろに、子どもが一人立っている。
着物は濡れていた。
髪も乱れている。
けれど、背筋だけはしゃんと伸びていた。
俺より二つ上くらいだろうか。
細い。
山道を登るには、まだ足りない体つきに見えた。
それでも、顔だけは崩していない。
町の子だ、と思った。
山を知らない目をしている。
けれど、誰かに見苦しいところを見せないようにしている目でもあった。
「新しい子?」
口に出してから、しまったと思った。
けれど、鱗滝さんもその子も、特に気にした様子はなかった。
「そうだ。当分はここにいる。まず湯だ」
「は、はい!」
俺は慌てて斧を置き、焚き口へ向かった。
すれ違いざま、その子が小さく息を吸う音が聞こえた。
ここまで、だいぶ歩かされたのだろう。
山の高さに、まだ喉が慣れていない。
息の上がり方が、ここに来た頃の俺と似ていた。
湯を見に行く。
火はまだ残っている。
桶を洗い、湯を足し、手拭いを出す。
一年前、鱗滝さんが俺にしてくれたことを、今度は俺が手でなぞっている。
それに気づいて、少し妙な気持ちになった。
湯の準備をして戻ると、その子は囲炉裏の傍で泣いていた。
さめざめと、という言葉がある。
たぶん、ああいう泣き方のことを言うのだと思った。
声を荒げるわけではない。
肩を大きく揺らすわけでもない。
ただ、静かに、涙だけが落ちている。
手元には、櫛があった。
暗い桔梗のような色の帯が、その櫛にまとわりついている。
赤と青が絡まって、沈んだような色だった。
悲しみと、怒りと、それでも乱れまいとする気配。
細かい事情は分からない。
けれど、その櫛が、その子にとって大事なものなのは分かった。
俺は、見すぎないように少し視線を外した。
「宗右衛。ついていてやれ」
「わかりました」
言われる前から、そうするつもりだった。
ここでは、俺の方が先にいる。
風呂の沸かし方も、桶の置き場所も、寝床の敷き方も、湯冷めしない順番も知っている。
山の夜がどれくらい冷えるかも、梁の烏が意外とよく見ることも知っている。
俺は、その子の少し手前で足を止めた。
「湯、使えるよ」
その子が、ゆっくり顔を上げる。
泣いていたはずなのに、目だけはまっすぐだった。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
でも、言葉遣いは丁寧だった。
俺が初めて来た時は、湯があることに驚きすぎて、変な声を出した気がする。
それを思い出して、少しだけ気まずくなる。
「桶はそこのを使っていい。底の方はまだ熱いから、いきなり触らない方がいいよ。手拭いはこっち」
「はい」
「湯から上がったら、髪はちゃんと拭いた方がいい。山は夜になると冷えるから」
「……はい」
返事は素直だった。
けれど、素直さの奥に固いものがある。
ちゃんと聞いている。ちゃんと分かろうとしている。
でも、今はそれどころではない。
そういう色だった。
木戸の向こうへ案内してから、俺はそっと離れた。
風呂場の中から、誰かを呼ぶ声は聞こえない。
泣き声も、もうほとんど聞こえない。
それが我慢なのか、落ち着いたのかは分からなかった。
囲炉裏の方へ戻ると、鱗滝さんは濡れた草鞋をほどいていた。
雨に降られた日は、いつもああして干す。
なんでもない日常の手つきだった。
けれど、その背中には、どこか仕事から戻ってきた人の重さがあった。
鱗滝さんの周りには、広く薄い灰がある。
今日はその縁に、少し濃い色が混じっていた。
何かと戦ってきた人の色。
そう思った。
俺は箒を取り、囲炉裏の周りを掃こうとした。
そこで、いつもはないものに気づく。
戸の脇。
布団を干す竿しか立てかけない場所に、長い包みが一つ置かれていた。
布ではなく、油紙で包まれている。
濡れてもいいように、きつく巻いてある。
形は、見ただけで分かった。
刀だ。
油紙の上からでも本物だと分かった。
視線が、そこに吸い寄せられる。
鱗滝さんが手を止めた。
「それは触るな」
「……はい」
いつもより、声が強かった。
これは、本当に触らせたくない時の声だ。
俺は箒の先を少しずらし、その包みに近づかないように掃除を続けた。
目を離すと、鱗滝さんの視線もすっと外れた。
やっぱり、この家はおかしい。
そう思う。
けれど今は、そのおかしさが少しだけ分かる。
この家は、ただ暮らすだけの家ではない。
誰かを山に上げる。
誰かを休ませる。
誰かを戻す。
詳しくは分からないが、なにか、そういうことをずっと繰り返してきた家なのだ。
雨は、日が落ちる前に降り始めた。
細い雨が、山の斜面を叩く。
その音を聞きながら、俺は飯の支度を手伝った。
風呂から上がったその子は、濡れた髪をきちんと拭いていた。
顔はまだ青白い。
でも、湯に入った分だけ、体の芯の冷えは少し引いたように見えた。
囲炉裏を囲む。
飯を食わせると、その子の顔つきが、ほんの少しまるくなった。
名前はまだ聞かない。
鱗滝さんも聞かなかった。
「今夜は寝ろ。明日から歩く」
それだけ言って、寝床を示す。
その子は小さく頷いた。
明日から歩く。
それはたぶん、この家では、明日から教えるという意味だ。
森を歩く。
沢へ下りる。
水を汲む。
薪を運ぶ。
ここで生きるための、当たり前のことを。
寝床へ案内すると、その子は布団の前で一度立ち止まった。
櫛を握る手に、暗い色がまた少し集まる。
「……ここで、寝てもよろしいのでしょうか」
俺は少し驚いてから、頷いた。
「うん。ここでいい。寒かったら、隣の布団も使っていいと思う。鱗滝さん、そういうのは怒らないから」
「……ありがとうございます」
その言葉は、さっきよりも少しだけ薄かった。
疲れているのだろう。
眠る前、人は弱くなる。
裏長屋でもそうだった。
だから俺は、それ以上話しかけなかった。
その子が布団に入るのを見届け、そっと襖を閉める。
囲炉裏の方へ戻ると、鱗滝さんは行燈の明かりを落としていた。
火だけが、部屋の中に残る。
外では雨が続いている。
鱗滝さんは火を細くしながら、ふいに言った。
「人には、それぞれ事情がある」
「……はい」
「ここへ来る者にも、ここを出る者にもだ」
俺は、黙って聞いた。
「出るからとて、誰かが悪いわけではない。山が合わぬだけのこともある。病があることもある。外に待つ者がいることもある」
そこで、一度言葉が切れた。
面の奥で、誰かの名を思い出しているようだった。
「だが儂は――」
火が、小さく弾ける。
「儂は、お前のような子は出したくない」
胸の奥で、どくりと音がした。
出したくない。
それが、この家から出て行ってほしくないという意味なのか。
俺がいた場所へ戻したくないという意味なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
すぐには分からなかった。
けれど、鱗滝さんがその言葉を簡単には言っていないことだけは分かった。
灰の色が、囲炉裏の火に沈む。
その奥に、細い金がある。
俺は膝の上で、指を握った。
何か言わなければいけない気がした。
でも、何を言えばいいのか分からない。
迷っているうちに、鱗滝さんの声が続いた。
「だから、触るなというものは触るな。お前がやると決めた時に渡す。早すぎると、死ぬ」
「……はい」
素直に返事をした。
死ぬのは嫌だ。
それに、鱗滝さんにも、自分にも、嘘をつきたくなかった。
触ってはいけないものには触らない。
やると決めた時までは、渡されないものがある。
鱗滝家のやり方は、そういうものなのだろう。
外では、雨が山を叩き続けている。
俺は囲炉裏の傍で、鱗滝さんの背中を見ていた。
今度の子は、長くいるといい。
ぼんやり、そう思った。
来た時から体の芯が冷えていて、ここまで登るだけで精一杯で、暗い色を櫛に絡ませて泣いていた子。
ここに来た子がすぐにいなくなるのは、少し嫌だった。
風呂に入って、飯を食って、隣の部屋で眠っている。
それだけで、囲炉裏の周りに一人分の場所ができる。
当分いる、というのなら、数月はいるのだろうか。
そう思うと、火の色が少し明るく見えた。
鱗滝さんは、雨音を聞きながら火を一つ落とす。
それから、包んであった刀を持ち上げた。
奥の間――普段はあまり開けない戸の向こうへ運んでいく。
その背中が、ぽつりと言った。
「……先の子は、戻らなんだ」
戻らなかった、ではなく、戻らなんだ。
山の老人みたいな言い方だった。
でも、その一言で、詳しく聞いてはいけないことなのだと分かった。
ここに長くいた子なのだろう。
俺のように、あるいは、今夜来た子のように、この囲炉裏の傍に座った子。
その子は、戻らなかった。
どこへ行って。
何があって。
なぜ戻れなかったのか。
聞きたいと思うより先に、聞けないと思った。
俺は膝の上で手を組み、短く答えた。
「はい」
戻らなかった子のことは、今は聞かない。
それも、この家のやり方だ。
聞ける時が来たら、鱗滝さんの方から話す。
この一年で、そういう順番を少しだけ覚えていた。
雨が、山の斜面を流れていく。
明日になったら、あの子を沢へ連れていこう。
桶は俺が持てばいい。
石の滑るところを教えて、根に足を引っかける場所を教えて、烏が見ているからさぼるとばれると教える。
風呂の入り方も、布団のしまい方も、薪の積み方も、少しずつ教えればいい。
ここに来る子を、この家のやり方に慣らしていく。
いつの間にか、それが俺の役目になっていた。
そう思うと、胸の奥が少しだけあたたかくなった。
色で見るなら、たぶん薄い金に近い。
けれど、自分の色は見えない。
だから俺は、ただ囲炉裏の火を見ていた。
火は細く、静かに燃えている。
雨の夜でも消えないように、鱗滝さんが残してくれた火だった。