鱗滝の養子   作:松雪草

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2話

 山で暮らすことが、いつものことになっていく。

 

 そうなるまでに、どれくらいかかったのかは、よく分からない。

 

 最初の頃は、朝起きるたびに、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。

 薄い壁もない。

 誰かの咳もない。

 泣き声も、怒鳴り声も、足音もない。

 

 ただ、山の音がある。

 

 葉の擦れる音。

 沢の水が石を叩く音。

 梁の上で、烏が羽を整える音。

 

 自然の音が多すぎて、かえって落ち着かなかった。

 

 けれど、ひと月、ふた月と経つうちに、その静けさにも形があるのだと分かってきた。

 

 朝は、烏の声で始まる。

 

 梁の上で、二声。

 少し間を置いて、一声。

 

 それが合図だった。

 

 続いて、鱗滝さんが短く言う。

 

「起きろ」

 

 それで起きる。

 

 最初のうちは、烏の声で起きるということ自体が妙だった。

 山の鳥は賢いものなのだろうかと思っていたが、三月も経つ頃には、さすがに分かった。

 

 あれは、ただの烏ではない。

 

 俺が寝坊しかけると、梁から下りてきて、顔の真上で鳴く。

 布団を頭まで被ると、布団の端をつつく。

 起きたふりだけして目を閉じていると、鱗滝さんが来る前に鳴き方を変える。

 

 完全に分かってやっている。

 

 便利なのか、厄介なのかは、まだ判断がつかない。

 

 起きたら、まず水を汲みに行く。

 

 家のすぐ近くの沢で済ませる日もあるが、大抵は少し下ったところまで桶を担いでいく。

 

「山水でも、人が触れば汚れる。毎日だ」

 

 そう言われた。

 

 毎日、という言葉を聞いた時は、少し面倒に思った。

 けれど、やっているうちに体が覚える。

 

 桶を担ぐ。

 樹の根を避ける。

 石の濡れた面に足を置かない。

 帰り道では、桶の中の水を揺らさないように歩く。

 

 最初は肩が痛かった。

 次に腕が痛くなった。

 それから、腿と腰が痛くなった。

 

 痛む場所が変わるたび、体の使い方も少しずつ変わった。

 

 鱗滝さんは、ほとんど褒めない。

 ただ、桶の水を見て、こぼれていなければ何も言わない。

 こぼれていれば、短く言う。

 

「もう一度だ」

 

 それだけだ。

 

 けれど、何も言われない日が増えると、少しうれしかった。

 

 裏長屋では、水を汲んでも、薪を運んでも、掃除をしても、それはただの仕事だった。

 できて当たり前で、できなければ怒鳴られる。

 

 ここでも、やること自体は似ている。

 

 水を汲む。

 薪を割る。

 掃除をする。

 飯の支度を手伝う。

 

 けれど、同じではなかった。

 

 ここでは、言葉が仕事の出来ではなく、身体の使い方の方に飛ぶ。

 

 桶を担ぐ時の肩。

 薪を割る時の腰。

 雑巾を絞る指。

 斜面を下りる足裏。

 

 鱗滝さんは何もかも、ただの暮らしのような顔をさせて俺を置いている。

 けれど中身は、なんだか俺のためのもののように感じた。

 

 それに気づいた時、この家はやはりおかしいと思った。

 

 おかしい、と言っても、嫌な意味ではない。

 

 飯は出る。

 湯もある。

 薪は積まれている。

 干した魚も、乾かした野菜も、油紙に包まれた薬草もある。

 

 山の家としては、たぶん十分すぎるほど整っている。

 

 けれど、ところどころに、普通ではないものがある。

 

 板戸を拭く時、上から三分の一には触るなと言われた。

 囲炉裏の灰も、時々「これは使う」と言って、鱗滝さんが一部をよける。

 

 夜になると、火床に小さな包みを焚べることがある。

 

「これは何に使うんですか」

 

 そう聞いても、返ってくる答えは決まっていた。

 

「山で暮らすための道具だ」

 

 山で暮らすための道具なら、町でも見たことがありそうなものなのに、俺はそれを見た覚えがない。

 

 戸棚の上の段。

 床の間の脇に立てかけてある長い棒。

 紐で束ねた金具。

 針のように細い鉄。

 

 一目見ただけで、人を傷つけるためにも使えると分かるものは、大抵触らせてもらえない。

 

「それはまだ要らん」

 

「それは子が触ると危ない」

 

「それは山で子を守る時に使う」

 

 だいたい、そんな言い方だった。

 

 子を守る時。

 

 その言葉だけが、妙に耳に残った。

 

 この家には、人を守るためのものと、人を殺すためのものが、同じ顔をして置かれている。

 それが怖いのか、頼もしいのか、俺にはまだ分からなかった。

 

 ただ、触るなと言われたものには触らなかった。

 

 ここで生きるためには、鱗滝家のやり方を覚える必要がある。

 そう決めていた。

 

 この一年の間に、俺のような子が二度ほど来た。

 

 どちらも、長くはいなかった。

 

 鱗滝さんが、日が落ちる頃に烏の声と一緒に家を出ていく。

 そして夜明け前か、朝方に、子どもを一人連れて帰ってくる。

 

 俺は湯を沸かす。

 飯を温める。

 布団を敷く。

 

 その子は二日か三日ここにいて、それから迎えが来る。

 

 産屋敷と名乗る人の使いだった。

 

 連れていかれる時は一人は泣いて、もう一人は笑おうとして途中で顔を歪めていた。

 

 そういう時、俺は何も聞かなかった。

 

 聞いたところで、何ができるわけでもない。

 裏長屋で覚えた癖だ。

 

 けれど、囲炉裏のまわりに一人分の気配が増えて、また消えるたび、そこだけ床板の色が変わったような気がした。

 

 だから掃除をした。

 

 使った椀を洗い、布団を干し、灰をならし、玄関の土を払う。

 

 そうしていると、少しだけ穴が埋まるような気がした。

 

 山は春から夏へ移り、夏の暑さが少しずつ下り坂にさしかかっていった。

 

 俺がこの家に来て、ほぼ一年が経とうとした頃。

 

 また一人、子どもが来た。

 

 その日は、午前中から鱗滝さんがいなかった。

 

「山の下まで降りる。薪を切っておけ。烏が見ている」

 

 そう言い残して出ていった。

 

 烏が見ている、というのは脅しではない。

 本当に見ている。

 

 少しでもさぼると、あとで鱗滝さんに知られる。

 烏が何をどう伝えているのかは分からないが、もう疑うのはやめた。

 

 俺は家の仕事を一通り終え、一人で薪を割った。

 

 空気が重かった。

 山の向こうにある雲が、青黒く膨らんでいる。

 

 夕方には雨が来る。

 

 そう思って、いつもより少し多めに薪を割った。

 雨の日は、火を絶やさない方がいい。

 

 斧を下ろすたび、乾いた音が山に吸われていく。

 手のひらに硬い感触が残る。

 

 汗が背中を伝う頃、板戸の向こうで足音がした。

 

 鱗滝さんが戻ってきたのだと思って振り向く。

 

 けれど、そこにはもう一つ、細い影があった。

 

 鱗滝さんの後ろに、子どもが一人立っている。

 

 着物は濡れていた。

 髪も乱れている。

 

 けれど、背筋だけはしゃんと伸びていた。

 

 俺より二つ上くらいだろうか。

 細い。

 山道を登るには、まだ足りない体つきに見えた。

 

 それでも、顔だけは崩していない。

 

 町の子だ、と思った。

 

 山を知らない目をしている。

 けれど、誰かに見苦しいところを見せないようにしている目でもあった。

 

「新しい子?」

 

 口に出してから、しまったと思った。

 

 けれど、鱗滝さんもその子も、特に気にした様子はなかった。

 

「そうだ。当分はここにいる。まず湯だ」

 

「は、はい!」

 

 俺は慌てて斧を置き、焚き口へ向かった。

 

 すれ違いざま、その子が小さく息を吸う音が聞こえた。

 ここまで、だいぶ歩かされたのだろう。

 

 山の高さに、まだ喉が慣れていない。

 息の上がり方が、ここに来た頃の俺と似ていた。

 

 湯を見に行く。

 火はまだ残っている。

 桶を洗い、湯を足し、手拭いを出す。

 

 一年前、鱗滝さんが俺にしてくれたことを、今度は俺が手でなぞっている。

 

 それに気づいて、少し妙な気持ちになった。

 

 湯の準備をして戻ると、その子は囲炉裏の傍で泣いていた。

 

 さめざめと、という言葉がある。

 たぶん、ああいう泣き方のことを言うのだと思った。

 

 声を荒げるわけではない。

 肩を大きく揺らすわけでもない。

 ただ、静かに、涙だけが落ちている。

 

 手元には、櫛があった。

 

 暗い桔梗のような色の帯が、その櫛にまとわりついている。

 赤と青が絡まって、沈んだような色だった。

 

 悲しみと、怒りと、それでも乱れまいとする気配。

 

 細かい事情は分からない。

 けれど、その櫛が、その子にとって大事なものなのは分かった。

 

 俺は、見すぎないように少し視線を外した。

 

「宗右衛。ついていてやれ」

 

「わかりました」

 

 言われる前から、そうするつもりだった。

 

 ここでは、俺の方が先にいる。

 

 風呂の沸かし方も、桶の置き場所も、寝床の敷き方も、湯冷めしない順番も知っている。

 山の夜がどれくらい冷えるかも、梁の烏が意外とよく見ることも知っている。

 

 俺は、その子の少し手前で足を止めた。

 

「湯、使えるよ」

 

 その子が、ゆっくり顔を上げる。

 

 泣いていたはずなのに、目だけはまっすぐだった。

 

「……ありがとうございます」

 

 小さな声だった。

 でも、言葉遣いは丁寧だった。

 

 俺が初めて来た時は、湯があることに驚きすぎて、変な声を出した気がする。

 それを思い出して、少しだけ気まずくなる。

 

「桶はそこのを使っていい。底の方はまだ熱いから、いきなり触らない方がいいよ。手拭いはこっち」

 

「はい」

 

「湯から上がったら、髪はちゃんと拭いた方がいい。山は夜になると冷えるから」

 

「……はい」

 

 返事は素直だった。

 

 けれど、素直さの奥に固いものがある。

 ちゃんと聞いている。ちゃんと分かろうとしている。

 でも、今はそれどころではない。

 

 そういう色だった。

 

 木戸の向こうへ案内してから、俺はそっと離れた。

 

 風呂場の中から、誰かを呼ぶ声は聞こえない。

 泣き声も、もうほとんど聞こえない。

 

 それが我慢なのか、落ち着いたのかは分からなかった。

 

 囲炉裏の方へ戻ると、鱗滝さんは濡れた草鞋をほどいていた。

 

 雨に降られた日は、いつもああして干す。

 

 なんでもない日常の手つきだった。

 けれど、その背中には、どこか仕事から戻ってきた人の重さがあった。

 

 鱗滝さんの周りには、広く薄い灰がある。

 今日はその縁に、少し濃い色が混じっていた。

 

 何かと戦ってきた人の色。

 

 そう思った。

 

 俺は箒を取り、囲炉裏の周りを掃こうとした。

 そこで、いつもはないものに気づく。

 

 戸の脇。

 

 布団を干す竿しか立てかけない場所に、長い包みが一つ置かれていた。

 

 布ではなく、油紙で包まれている。

 濡れてもいいように、きつく巻いてある。

 

 形は、見ただけで分かった。

 

 刀だ。

 

 油紙の上からでも本物だと分かった。

 

 視線が、そこに吸い寄せられる。

 

 鱗滝さんが手を止めた。

 

「それは触るな」

 

「……はい」

 

 いつもより、声が強かった。

 

 これは、本当に触らせたくない時の声だ。

 

 俺は箒の先を少しずらし、その包みに近づかないように掃除を続けた。

 

 目を離すと、鱗滝さんの視線もすっと外れた。

 

 やっぱり、この家はおかしい。

 

 そう思う。

 

 けれど今は、そのおかしさが少しだけ分かる。

 

 この家は、ただ暮らすだけの家ではない。

 誰かを山に上げる。

 誰かを休ませる。

 誰かを戻す。

 

 詳しくは分からないが、なにか、そういうことをずっと繰り返してきた家なのだ。

 

 雨は、日が落ちる前に降り始めた。

 

 細い雨が、山の斜面を叩く。

 その音を聞きながら、俺は飯の支度を手伝った。

 

 風呂から上がったその子は、濡れた髪をきちんと拭いていた。

 顔はまだ青白い。

 でも、湯に入った分だけ、体の芯の冷えは少し引いたように見えた。

 

 囲炉裏を囲む。

 

 飯を食わせると、その子の顔つきが、ほんの少しまるくなった。

 

 名前はまだ聞かない。

 鱗滝さんも聞かなかった。

 

「今夜は寝ろ。明日から歩く」

 

 それだけ言って、寝床を示す。

 

 その子は小さく頷いた。

 

 明日から歩く。

 

 それはたぶん、この家では、明日から教えるという意味だ。

 

 森を歩く。

 沢へ下りる。

 水を汲む。

 薪を運ぶ。

 

 ここで生きるための、当たり前のことを。

 

 寝床へ案内すると、その子は布団の前で一度立ち止まった。

 櫛を握る手に、暗い色がまた少し集まる。

 

「……ここで、寝てもよろしいのでしょうか」

 

 俺は少し驚いてから、頷いた。

 

「うん。ここでいい。寒かったら、隣の布団も使っていいと思う。鱗滝さん、そういうのは怒らないから」

 

「……ありがとうございます」

 

 その言葉は、さっきよりも少しだけ薄かった。

 

 疲れているのだろう。

 

 眠る前、人は弱くなる。

 裏長屋でもそうだった。

 

 だから俺は、それ以上話しかけなかった。

 

 その子が布団に入るのを見届け、そっと襖を閉める。

 

 囲炉裏の方へ戻ると、鱗滝さんは行燈の明かりを落としていた。

 

 火だけが、部屋の中に残る。

 

 外では雨が続いている。

 

 鱗滝さんは火を細くしながら、ふいに言った。

 

「人には、それぞれ事情がある」

 

「……はい」

 

「ここへ来る者にも、ここを出る者にもだ」

 

 俺は、黙って聞いた。

 

「出るからとて、誰かが悪いわけではない。山が合わぬだけのこともある。病があることもある。外に待つ者がいることもある」

 

 そこで、一度言葉が切れた。

 

 面の奥で、誰かの名を思い出しているようだった。

 

「だが儂は――」

 

 火が、小さく弾ける。

 

「儂は、お前のような子は出したくない」

 

 胸の奥で、どくりと音がした。

 

 出したくない。

 

 それが、この家から出て行ってほしくないという意味なのか。

 俺がいた場所へ戻したくないという意味なのか。

 それとも、もっと別の何かなのか。

 

 すぐには分からなかった。

 

 けれど、鱗滝さんがその言葉を簡単には言っていないことだけは分かった。

 

 灰の色が、囲炉裏の火に沈む。

 その奥に、細い金がある。

 

 俺は膝の上で、指を握った。

 

 何か言わなければいけない気がした。

 でも、何を言えばいいのか分からない。

 

 迷っているうちに、鱗滝さんの声が続いた。

 

「だから、触るなというものは触るな。お前がやると決めた時に渡す。早すぎると、死ぬ」

 

「……はい」

 

 素直に返事をした。

 

 死ぬのは嫌だ。

 

 それに、鱗滝さんにも、自分にも、嘘をつきたくなかった。

 

 触ってはいけないものには触らない。

 やると決めた時までは、渡されないものがある。

 

 鱗滝家のやり方は、そういうものなのだろう。

 

 外では、雨が山を叩き続けている。

 

 俺は囲炉裏の傍で、鱗滝さんの背中を見ていた。

 

 今度の子は、長くいるといい。

 

 ぼんやり、そう思った。

 

 来た時から体の芯が冷えていて、ここまで登るだけで精一杯で、暗い色を櫛に絡ませて泣いていた子。

 

 ここに来た子がすぐにいなくなるのは、少し嫌だった。

 

 風呂に入って、飯を食って、隣の部屋で眠っている。

 

 それだけで、囲炉裏の周りに一人分の場所ができる。

 

 当分いる、というのなら、数月はいるのだろうか。

 

 そう思うと、火の色が少し明るく見えた。

 

 鱗滝さんは、雨音を聞きながら火を一つ落とす。

 

 それから、包んであった刀を持ち上げた。

 奥の間――普段はあまり開けない戸の向こうへ運んでいく。

 

 その背中が、ぽつりと言った。

 

「……先の子は、戻らなんだ」

 

 戻らなかった、ではなく、戻らなんだ。

 

 山の老人みたいな言い方だった。

 

 でも、その一言で、詳しく聞いてはいけないことなのだと分かった。

 

 ここに長くいた子なのだろう。

 俺のように、あるいは、今夜来た子のように、この囲炉裏の傍に座った子。

 

 その子は、戻らなかった。

 

 どこへ行って。

 何があって。

 なぜ戻れなかったのか。

 

 聞きたいと思うより先に、聞けないと思った。

 

 俺は膝の上で手を組み、短く答えた。

 

「はい」

 

 戻らなかった子のことは、今は聞かない。

 

 それも、この家のやり方だ。

 

 聞ける時が来たら、鱗滝さんの方から話す。

 この一年で、そういう順番を少しだけ覚えていた。

 

 雨が、山の斜面を流れていく。

 

 明日になったら、あの子を沢へ連れていこう。

 

 桶は俺が持てばいい。

 石の滑るところを教えて、根に足を引っかける場所を教えて、烏が見ているからさぼるとばれると教える。

 

 風呂の入り方も、布団のしまい方も、薪の積み方も、少しずつ教えればいい。

 

 ここに来る子を、この家のやり方に慣らしていく。

 

 いつの間にか、それが俺の役目になっていた。

 

 そう思うと、胸の奥が少しだけあたたかくなった。

 

 色で見るなら、たぶん薄い金に近い。

 

 けれど、自分の色は見えない。

 

 だから俺は、ただ囲炉裏の火を見ていた。

 

 火は細く、静かに燃えている。

 雨の夜でも消えないように、鱗滝さんが残してくれた火だった。

 

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