鱗滝の養子   作:松雪草

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20話

 目を覚ました時、俺は自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。

 

 高い天井。

 木の匂い。

 かすかに湿った、冷たい空気。

 

(……ああ、そうだ。

 狭霧山の、家の天井だ)

 

 そこでようやく寝ぼけた頭に、昨夜までのことが、一気に胸の奥まで流れ込んできた。

 

 藤襲山で過ごした七日間。

 錆兎が死にかけるほどの鬼との対決。

 義勇と錆兎で生存者を集めたこと。

 十九人が生き残ったこと。

 そして、「ただいま」を言えたこと。

 

 ぐ、と喉の奥が締め付けられる。

 安堵のあまり、また涙腺が緩みそうになった時だった。

 

「宗右衛、起きろ! 起きろ!」

 

 頭のすぐ上で、やたらと元気な声が響いた。

 

「ぐあっ、うるさい……。

 分かったから嘴でつつくな……」

 

 額をちょんちょんとつついていた鎹烏を、手でそっと追い払う。

 こいつも、最終選別からの新顔だ。

 

「とっとと起きろ! 飯の匂いがするぞ!」

 

「……えっ、はっ!?

 もうそんな時間か!?」

 

 寝起きの頭が一気に回る。

 まずい、まだ水汲みに行ってない!

 

 身を跳ね起こすと、すぐ隣の布団でもぞもぞと動く気配がした。

 

「……んぁ……もう朝か」

 

 錆兎が、頭に手拭いを乗せたまま寝ぼけた声を漏らす。

 その向こうの義勇も、布団の中から這い出してきている。

 

 早朝から鱗滝さんだけを働かせて、弟子三人が寝こけていることが確定した。

 

「寝坊だ! 早く起きろ錆兎! 義勇!

 鱗滝さんがもう飯作ってる!」

 

「……へぁっ?

 ……それは……。

 そんなこと…………?

 っ、やばいじゃねぇか!!」

 

 錆兎が、がばっと起き上がる。

 もう一枚の布団からは、義勇が静かに身を起こしていた。

 

「……すごく、すごく、よく寝ました。

 …………寝すぎました」

 

「気持ちは分かるけど早く起きろ、水汲みに行くぞ」

 

 床板に足を下ろすと、木の冷たさがじかに伝わってくる。

 狭霧山の冬が近づいてきているのを感じて、そんなことにも心が温かくなる気持ちもあるが、今はそれどころではない。

 

 三人でバタバタと布団をたたんで、部屋の隅に寄せる。

 襖を開けると、もう出汁の匂いが漂ってきている。

 

(……いつもの匂いだ)

 

「おはようございます! 寝坊しました!」

 

 錆兎が、声を一段明るくして土間に顔を出す。

 竈の前に立っていた鱗滝さんが、ちらりとこちらを振り向いた。

 

「起きたか」

 

「遅くなってすみません。何か手伝います」

 

 義勇が深々と頭を下げる。

 

「まだやってないことありますか?」

 

 俺も続けると、鱗滝さんはいつもの調子で、淡々と指示を出した。

 

「錆兎と義勇は水を汲んでこい。

 宗右衛は味噌を出してくれ」

 

「了解です!」

 

 錆兎が勢いよく返事をして、義勇の腕を引っ張って外に飛び出していく。

 その背中を見送ってから、俺は棚から木桶を引き寄せた。

 

 味噌を皿によそって、鱗滝さんの傍に置く。

 鱗滝さんが、湯気が白く立つ鍋をゆっくりとかき混ぜながら、小さく頷く。

 

 これは、もう椀も出して良さそうだ。

 ご飯もよそっていいだろうかと考えながら動く。

 

(こうして鱗滝さんを手伝うのも、久しぶりだな)

 

 藤襲山での七日間は、ずっと「生き残るため」に動いていた。

 今は、「暮らすため」の動きに戻ってきている。

 たった七日離れただけだというのに、とても懐かしく、得難いものだと感じる。

 

 竈の隣で、鱗滝さんが味噌汁の具材を切っている。

 深く皺が刻まれた手が、迷いなく包丁を動かす。

 

 その横顔には、いつもと同じ天狗面。

 けれど仮面をつけていても、いつもとは違って見えた。

 

 静かな緑に、ほのかに混ざる白と金。

 俺たちの帰還を喜んでいてくれている、そんな気持ちを色で覗いてしまうのは申し訳なくもあるが、確認してつい口元が緩んでしまう。

 

(……帰ってきたんだな、俺たち)

 

 言葉にすると、なんだか照れ臭い。

 代わりに、器を並べる手を出来るだけ丁寧に動かした。

 

 やがて、錆兎と義勇が、肩で息をしながら水桶を持って戻ってくる。

 

「み、水、持って、きたぞっ!」

 

「錆兎、なんでっ……朝から、全力で走るの……」

 

 どんと置かれた桶の縁から、ばしゃと少し水が溢れる。

 鱗滝さんが肩をすくめた。

 

「ご苦労だったな。すぐ飯にする。

 座って休め」

 

「はっ、はい」

 

 そんな何でもないやり取りに、胸の奥がじんわり暖かくなった。

 

 少しして、食卓が整う。

 味噌汁、焼き魚、山菜の小鉢、白い米。

 いつも食べていたはずのそれらに、手を合わせて、いつもより深くお辞儀する。

 

「いただきます」

 

 味噌汁を一口すすって、舌が驚いていた。

 

(えっ……これ、うま)

 

 思わず心の中で呟いてしまう。

 

 味噌汁の中から肉が出てきた。

 ただの味噌汁じゃない、豚汁だ。

 

 よく煮た人参や大根の甘さと、味噌の優しい塩気が、一口すする毎に身体に染みわたる。

 具を噛み締めると、薄く切られた豚からほのかに甘い脂がじゅわじゅわと溢れてくる。

 旨すぎる、豚汁だけでご飯が何杯でもいけそうだ。

 

 炊き立ての米を口いっぱいにほおばる。

 舌に触れる米の柔らかな甘さを飲み込むと、次はまた豚汁の塩気が欲しくなるが、魚に箸を伸ばす。

 

 焼けた魚の脂が米と絡む。

 パリッと焼けた魚の皮が、わずかに口に苦みを連れてきたのを誤魔化すように、豚汁を口に含むと豚の脂の旨みが際立つ。

 

 いつもより少しだけ豪華な朝ごはんを食べるだけの、そんな当たり前の日常が、「生きて戻った」って実感を連れてくる。

 

「鱗滝さん。これ、めちゃくちゃ美味しいです」

 

「そうか」

 

 少し照れたような声で鱗滝さんが答える。

 

「味噌を買うときにな、作り方を聞いた。

 気に入ったなら、後で教えよう」

 

 その声は陽だまりのように柔らかかった。

 けれどその言葉には、別れが近付いていることの気配も、わずかに混じっているように思えた。

 

 しばらく、四人とも黙々と食べる。

 身体の隅々まで、温かさが染み渡るのを確かめるように。

 

 ある程度腹が落ち着いたところで、俺は箸を置いた。

 

「……最終選別のこと、報告しないとな」

 

 錆兎と義勇も同時に顔を上げる。

 

「そうだな」

 

「はい」

 

 鱗滝さんは、「食いながらでいい」とだけ言って、黙ってこちらを見る。

 

 俺たちは三人で、順番に七日間のことを話していった。

 

 藤襲山に入る前から。

 錆兎が異能の鬼と戦ったこと。

 あの鬼が、鱗滝さんの弟子たちを狙い続けていたこと。

 そして、錆兎がそれを斬ったこと。

 

 参加者皆で拠点を作り、十九人が生き残ったこと。

 錆兎と義勇が、何度も何度も人を助けに走ったこと。

 

「こいつらがですね」

 

 途中で、俺は箸で二人を指した。

 

「“助けに行く”“まだいるはずだ”って聞かなくて……。

 二日目なんか、俺は拠点守りながら、ずっと胃が痛かったですよ」

 

「なんだそれ。

 宗右衛だって、結構無茶してただろ。

 他の奴らに聞いたぞ」

 

「そうですよ、何度も言ったのに交替の見張りずっと最後でしたよね」

 

「はいはい、俺も悪かったですよ」

 

 口では文句を言いながらも、どこか嬉しそうに笑ってしまう。

 

「でも、本当に……こいつら怒ってやってください。

 助けに行くのはいいとしても、もう少し自分の身体を大事にしてほしいんです」

 

 半分冗談、半分本気でそう言うと、鱗滝さんが静かに二人へ視線を向けた。

 

「錆兎」

 

「……はい」

 

「義勇」

 

「……はい」

 

 名を呼ばれた二人が、背筋を伸ばす。

 

「誰かを救いたいと言う気持ちは尊い。

 だが、自分が死ねば、その手はそこで終わる。

 お前たちの“正しさ”は、自分が生きて戻ってきて初めて意味を持つ。忘れるな」

 

「……はい」

 

「肝に銘じます」

 

 二人の色が、少し強く、深くなった気がした。

 単純な反省ではない、これは覚悟の色だ。

 

「……まあ」

 

 そこで鱗滝さんは、ふっと息を吐く。

 

「よくやった」

 

 錆兎が、ぐっと唇を噛んで下を向く。

 義勇の指が、茶碗の縁をぎゅっと握りしめる。

 

 俺は、なんだか照れくさくなって、残った味噌汁を一口で飲み込んだ。

 

―――

 

 食事が片付いたあと、俺たちは囲炉裏の前に座り直す。

 鱗滝さんが、火箸で炭を一つ突いて形を整える。

 

「日輪刀が届くまでの、十日から十五日ほど。

 それが、お前達がここで過ごす最後の時間になるだろう」

 

「最後……」

 

 その呟きは誰のものだったか。

 三人ともが、きっと同じ気持ちだった。

 続きの言葉が出ないまま、鱗滝さんの言葉を待つ。

 

「育手の所在が鬼らに明らかにされれば、真っ先に狙われるからだ。

 お前達が剣士となった後、狭霧山への出入りをすることは出来なくなる」

 

 鱗滝さんは、淡々と続ける。

 

「お前たちの基礎の鍛錬は、これまで通り自分たちで続けろ。

 走り込み、素振り、体捌き。

 山の罠も外さぬ。

 ……最終選別を越えたお前たちに、儂がしてやれることはそう多くない」

 

 そこで一拍置いて、言葉を変える。

 

「だが、今日はいくらでも話せる。

 鬼殺隊のこと。

 鬼のこと。

 儂が見てきた血鬼術のこと。

 知っておいて損はないものを、全部渡しておきたい」

 

 錆兎の背筋が、ぐっと伸びる。

 義勇も、真剣な眼差しで前を見る。

 俺も自然と姿勢を正した。

 

 それからしばらくの間、鱗滝さんは、普段あまり語らないことを、少しずつ言葉にしてくれた。

 

 鬼殺隊の階級のこと。

 各地に散らばる藤の紋の屋敷のこと。

 隠と呼ばれる後方支援の者たちの役割。

 任務の指令がどうやって下り、その報告をどうするのか。

 

 鬼の習性や、どのように鬼が増えるのか。

 血鬼術と呼ばれる異能が、どれほど理不尽なものか。

 鱗滝さん自身が、若い頃に戦った鬼たちの話も少し出た。

 

「かつて、空中に針のような物を作り出す鬼がいた」

 

 鱗滝さんが、ふっと視線を遠くにやった。

 

「見えないところに、細い針をいくつも浮かせてな。

 僅かでも触れれば毒となるそれを、合図もなく、一斉に打ち出してくる。

 風の流れと、空気の匂いで、わずかな変化を感じ取らねば避けきれん」

 

「そんなの……」

 

 錆兎が眉をしかめる。

 

「どうしようもなくないですか、それ」

 

「だが、強い鬼とはそういうものだ」

 

 鱗滝さんはきっぱりと言い切った。

 

「理屈が通じると思うな。

 人を喰らい続けた結果が、あの異能だ。

 理不尽に抗うために、儂は理不尽を想定して鍛える」

 

 そう言って、少しだけ声に厳しさが滲む。

 

「山の罠もそうだ」

 

 ああ、と俺は思わず小さく声を漏らした。

 

「裏山の……あの、石とかが飛んでくるやつとか」

 

「そうだ」

 

 鱗滝さんは、わずかに頷く。

 

「細い筒に仕込んだ石や木片を、圧力で一気に飛ばしている。

 見えないところからの攻撃に、体が勝手に伏せられるようになるまで叩き込むためだ」

 

「……現役時代に、自分が苦戦した血鬼術を、罠にしてるってことですか」

 

「そうだ」

 

 あまりにもさらりと言うので、思わず肩の力が抜けた。

 

(いや、だからって弟子にやるかそれを)

 

 内心で苦言が飛び出すが、義勇がぽつりと言う。

 

「僕たち、何度か死にかけてますが……」

 

「だが、死んでいない」

 

 鱗滝さんの声が、少しだけ低くなる。

 

「命懸けの修行だ。

 お前たちを、理不尽に晒したくてやっていたわけではない。

 理不尽の手前で留まれるようにするためだ」

 

 火の粉が、ぱち、と弾けた。

 その赤い光を見ながら、俺はぐっと拳を握る。

 

(……やっぱり、この人の優しさは分かりづらい)

 

 でも、その厳しさがなければ、きっと藤襲山で誰かが死んでいた。

 鱗滝さんが渡そうとしてくれていたものを、確かに受け取ったという実感が、胸の奥を熱くする。

 

「基礎はもう、お前たちの身体に刻まれているだろう」

 

 鱗滝さんは、俺たち三人を見渡す。

 

「これから先は、互いを打ち合う方が伸びる。

 立ち合いを主にして鍛えろ。

 自分と、自分以外の刀を、よく見るといい」

 

 錆兎が、ぐっと拳を握って笑った。

 

「任せてください」

 

「僕も、よろしくお願いします」

 

 義勇が静かに頭を下げる。

 俺も、自然と胸の奥が高鳴っていた。

 

(……こっから先は、本当に“剣士”としての鍛錬だな)

 

―――

 

 昼過ぎ、俺たちはいつもの修練場に立っていた。

 

 木々に囲まれた、平らに均された地面。

 周りには、いくつもの木剣が立てかけられている。

 

「順番は、宗右衛と錆兎からだ」

 

 鱗滝さんの声に、俺と錆兎は向かい合う。

 

 木刀を構えた錆兎の色は、明るい朱に、わずかに冷たい青が差している。

 燃えるような闘志に、藤襲山で得た「広さ」が、ほんの少し混ざっていた。

 

「行くぞ、宗右衛」

 

「手加減しろよー」

 

「男がそんなことするか!」

 

 いつもの口上。

 でも、錆兎の視線の質が、ほんの少し違う。

 俺じゃなく、その周りの空気まで、全部掬い取ろうとしているような目。

 

(……“広く見ようとしてる”な)

 

 さっきまでは、昨夜の盗み聞きを思い出して申し訳なくなっていたが……聞いておいて、良かった。

 嫌な予感が、首筋を撫でた。

 

「始め」

 

 鱗滝さんの号令と同時に、錆兎が踏み込んでくる。

 

 真っ向から。

 迷いのない一太刀。

 速さも重さも、以前より一段階増している。

 木刀と木刀がぶつかった衝撃が、腕の骨まで響いた。

 

(重……)

 

 受け流しながら、俺は錆兎の色を探る。

 

 燃えるように立つ赤の中に、細い青の線がある。

 その青は、俺の足元から、肩、腕、視線へと、せわしなく動き回っていた。

 

(……俺の全体を見てる)

 

 以前までの錆兎には見られなかった、慎重に、観察する動き。

 

 刀の動きだけじゃない。

 俺が足を一瞬だけ踏み替えようとした瞬間に、その色がぴくりと揺れた。

 そう感じた途端、錆兎の身体が、半歩だけ下がる。

 

(うーわ、やりにくっ)

 

 胸の中で舌打ちした。

 

 いつものように、距離を詰めて組み打ちに持ち込む隙を伺う。

 あるいは、蹴りや、砂を掴む隙を見計らう。

 だが、その“何かをしようとする瞬間”を、錆兎はことごとく捉えて、一歩の距離を取る。

 

 木刀の間合いを保ちながら、俺の手の内を潰してくる。

 だが、それは錆兎の得意な距離からも、僅かに遠い。

 いつもの、自分の得意を押し付けて押し付けて、押しつけ切る戦い方をやめて、俺に何もさせないことを優先しているような……。

 

(……そうか、そういうことか)

 

 ようやく理解した。

 

(錆兎は、“俺が何をするか”までは読めてない。

 けど、“何かをする”瞬間は、ちゃんと感じてる)

 

 それは、色と気配を読む俺からすれば、よく知っている感覚だ。

 鬼が殺意を向けた瞬間。

 誰かが逃げ出そうと決めた瞬間。

 そういう「心の揺れ」は、どうしたって色や空気に滲む。

 

 錆兎は元々そういう“起こり”を読むのが得意だったが、この臆病に見えるほどの慎重な観察のおかげで、錆兎の“起こり”を見る力が格段に跳ね上がった。

 

(だったら――)

 

 俺は、ひとつ息を整えた。

 

 刀を交えながら、一歩踏み込み、わざと体重を前に乗せる。

 錆兎の色が、ぴくりと反応して引きかける。

 

 ――そこで、踏み込まずに俺も下がる。

 

 体重をすっと抜いて、ただ木刀を受け流すだけに留める。

 

 もう一度、ぎりぎりまで踏み込みの気配を見せる。

 錆兎が半歩引く。

 けれど踏み込まない。

 

 三度目。四度目。

 

「……宗右衛、お前」

 

 錆兎が、わずかに眉をひそめた。

 色が、一瞬だけ散る。

 「読めていたはずのもの」が、読めなくなって戸惑っている色だ。

 

(これは、隙だ)

 

 俺は、わざとらしいほど大きく、肩を落としてため息をついた。

 

「いやー、錆兎さ、前より随分やりづらくなったね。

 なんか、全部見透かされてる感じで」

 

「はっ……そりゃどうも」

 

 答えながらも、錆兎の視線が、俺の刀を離した左手に、ほんの刹那だけ揺れた。

 その揺れを見逃さず、右足で地面を強く蹴る。

 

 今度は、本当に踏み込む。

 上段から斬り下ろす軌道。

 右手だけで振るわれた木刀を錆兎が反射的に受けに来た瞬間、俺は空の左手と、右腕で振るう木刀の軌道を左右に振る。

 

 錆兎の一瞬の迷い。

 木刀のない左手への警戒の色が強いのを確認する。

 引く判断が、先程より僅かに遅い。

 

 僅かに意識が逸れた木刀の軌道をずらし、錆兎の手首に軽く打ち込んだ。

 

「くっ……!」

 

 木刀が一瞬だけ錆兎の手から浮く。

 俺はその隙に、一歩踏み込み、喉元へ木刀を軽く当てた。

 

「一本」

 

 鱗滝さんの声が、静かに響く。

 

「……やるじゃないか」

 

 錆兎が、悔しそうに、でもどこか楽しそうに笑った。

 

「なんだよ。

 大人しくなったと思ったら、意識だけ何度も重ねてきやがって」

 

「読まれてる感じがしたからさ。

 “何かするふりだけする”ってのを挟んでみた」

 

「宗右衛は性格悪いな」

 

「そりゃあお互い様だなぁ」

 

 軽口を叩きながらも、俺は錆兎の色から目を離さなかった。

 いつもなら悔しがって斑になる色が、静かに収束し始めている。

 

(今ので、“どう騙されたか”をもう考え始めてる)

 

 きっと錆兎の中で、負けの認識が変わった。

 

 今までは、俺たちの立ち合いが鍛錬の成果を確認する、いわゆる本番みたいなものだった。

 だが、藤襲山での本当の意味での本番、特に手鬼との死闘を経験して気付いたのだ。

 立ち合いでの負けは、むしろ自分の足りない点を知る良い経験なのだと。

 

 悔しい色は消えていないが、それ以上に楽しむように黄色の帯が揺れる。

 

(……やっぱり、錆兎はすごいな)

 

 おそらく、今回の手は次には通じない。

 

「次はこっちから行くから覚悟しろよ、宗右衛」

 

「それはこっちの台詞だよ、錆兎」

 

 そう返したところで、鱗滝さんの声が飛んだ。

 

「そこまでにしておけ。

 次は宗右衛と義勇だ」

 

 錆兎が名残惜しそうに木刀を下ろす。

 

「続きは、あとでな」

 

「ほどほどにしてくれると助かるよ」

 

 息を整えるように息を吐くと、俺は義勇の方へ向き直った。

 その瞬間、ぞわりと全身に鳥肌が立つ。

 

「宗右衛、義勇、準備はいいな」

 

 鱗滝さんの声を聴きながら、その声がどこか遠くで聞こえるような気がする。

 

 義勇と向かい合った瞬間から、背筋に冷たいものを感じ続けている。

 

 義勇の構えは、何度も見てきたものだ。

 左足を半歩前に出し、木刀の切っ先を低くこちらの喉へ向ける。

 真面目で、綺麗で、櫛那姉ちゃんを思い出す構え。

 

(……そうだ。

 義勇は最初から綺麗だった)

 

 狭霧山に来たばかりの、ぎこちない足取り。

 それでも、一つ一つの型を真面目になぞっていく姿。

 最初に見た時から、「型そのもの」は綺麗だった。

 

 けれど、どこか未完成で。

 まだ蕾のままの花みたいだと、そう思っていた。

 

(だけど、今目の前に立つ義勇の、コレは……)

 

 そこまで考えて、意識を切り替える。

 

「始め」

 

 鱗滝さんの声が落ちた瞬間、世界から音が抜けたような感覚が走った。

 

(……色が消えた!?)

 

 義勇の周囲に淡く揺らいでいた灰色すら、ふっと消える。

 輪郭に流れていた薄い青も、本当に「消えた」。

 

 一瞬、本当にそう見えた。

 

 完全な灰色。

 義勇が纏うそれは、鱗滝さんをも超えて、輪郭すら薄い。

 

 水面が風一つなく、凪いで止まってしまったような。

 義勇ごと消えてしまったのかと思えるほどに、気配が読めない。

 

 足の向き、肩の角度、握り、視線。

 これまで積み重ねてきた「前触れ」のどれもが、あまりにも薄くなっていた。

 

(来る)

 

 頭が警鐘を鳴らした時には、もう義勇は動いていた。

 

 踏み込みは静かだ。

 土を蹴る音は小さいのに、距離だけが一気に詰まる。

 振りかぶりはない。

 溜めも、力みも見えない。

 

 ただ、構えからそのまま横薙ぎに、木刀が滑り出してくる。

 

 思考より先に、身体が勝手に受けに動いた。

 木刀を合わせに行きながら、目は色の流れを必死に探してしまう。

 

 ――ない。

 

 眼だけを頼りにしないように気を付けていたつもりだった。

 だが、これはあまりにも、異質だ。

 「色」が、どこにも見当たらない。

 

(なんっ、なんだ……!)

 

 その、ほんのわずかな遅れが、決定的な差になった。

 

 木刀がぶつかる直前、衝撃を予感する。

 受け止めるために木刀を強く握る。

 

 次の瞬間。

 顔のすぐそばで、綺麗な音がした。

 

 重さが、手から消える。

 視界の端で、自分の木刀が空を舞っていた。

 

 折れたのではない。

 斜めに裂けている。

 いや、裂けるどころではない。

 刀で斬ったような滑らかな断面が、日の光を細く弾いていた。

 

「えっ、あっ、ごっ、ごめんなさい!」

 

 義勇が慌てて木刀を引いた。

 息を呑んだまま固まっていた俺の前に、血相を変えた義勇が駆け寄る。

 

「宗右衛さん! 怪我は……!」

 

「あ、ああ。

 いや、全然平気、平気。 ほら」

 

 空いた手のひらを見せる。

 指先が少し震えていたが、怪我はない。

 全身の血が一気に巡ったせいだ。

 

(……やられた)

 

 単純に速いとか、力が強いとか、そういう話じゃない。

 心に揺れが一つもない程の、集中。

 だから、こんなに綺麗で、こんなに鋭い。

 

 義勇の色が、ゆっくりと戻ってくる。

 安堵の緑が揺れて、心配そうにこちらを覗き込んでいる。

 さっきまで「無」だった同じ目が、今はいつもの義勇だ。

 

「ごめんなさい。

 木刀、折っちゃいました……」

 

「謝るなって。

 これは……ちゃんと受けなかった俺が悪い」

 

 冗談めかして笑ってみせると、義勇がほっと息を吐いた。

 その肩越しに、錆兎が目を丸くしているのが見える。

 

(……義勇が、やっと自分の才能に追いついた)

 

 昨日まで、まだ蕾だと思っていた才能が、藤襲山での経験を経て一気に開花した。

 その瞬間を、真正面から見た。

 受けた。

 

 身体の芯から来る震えが止まらない。

 

 鱗滝さんは何も言わない。

 けれど、面の奥から注がれる視線には、うっすらとした安堵が見えた気がした。

 

 錆兎にも、義勇にも、剣の腕では、もう追いつけないところまで行かれている。

 それでも、不思議と悔しさより先に、嬉しさがこみ上げた。

 

(錆兎も、義勇も……ほんと、とんでもないな)

 

 この二人と並んで剣を振っていくなら、俺はもっと違うところを鍛えないと駄目だ。

 

 そんな考えが、頭の片隅で形を取り始めていた。

 

―――

 

「最後は、錆兎と義勇だ」

 

 俺の新しい木刀が用意される頃には、二人はもう向かい合っていた。

 

 錆兎は、いつものように前のめりに構える。

 攻める気満々の、男らしい構え。

 

 義勇は、さっきと同じ静かな構え。

 切っ先がぶれない。

 色は、静かな青。

 

 さっき俺と対峙した時の「灰色」ではない。

 俺のせいで、義勇の集中を切らせてしまった。

 錆兎はさっきまでの義勇と戦いたかっただろうに、悪いことをした。

 

 錆兎の剣先が僅かに揺れる。

 目の前の義勇を、慎重に計っている色。

 

(……あの一撃を、錆兎も見てる)

 

 さっきの、俺の木刀を斬り裂いた太刀筋。

 錆兎の目は、それを見逃していない。

 だからこそ、迂闊に間合いに入れない。

 錆兎の色にも、薄く暗い赤が混ざっている。

 危険を感じたときの、警戒の色。

 

「始め」

 

 号令と同時に、二人は動いた。

 

 最初の一合。

 錆兎が踏み込み、義勇が受ける。

 いつもの光景のはずなのに、何かが違う。

 

 一合、二合。三合。

 

 打ち合うたびに、錆兎は少しずつ引く。

 がむしゃらに攻め続けるのではなく、打ち込みの角度や距離を変え、探るように木刀を交差させている。

 

(……あの錆兎が、“探ってる”)

 

 いつもなら、「男なら正面から!」と、真正面から叩き斬りに行くはずだ。

 でも今は、攻めに行くどころか、むしろ「どこからなら安全に入れるか」を測っている。

 

 義勇も、攻めには転じない。

 錆兎の打ち込みを、最小限の動きで受け、いなし、流す。

 さっきのような一振りを、あえて見せないようにしている。

 

(……二人とも、“切り札”を切る機会を探している)

 

 錆兎には、藤襲山で身につけた「起こり」への鋭い感覚がある。

 義勇には、さっき俺の木刀を斬り裂いた、一太刀の鋭さがある。

 

 いまだに錆兎が義勇を崩せる位置を探って攻めているように見えるが、実態は逆だ。

 錆兎はあの一撃を打たせないように守りを主眼に、義勇は一撃を当てるように後の先を探り続けている。

 

 どちらも木刀を何度も打ち合いながら、僅かな機会を計っている。

 

 一歩深く踏み込めば、義勇の一撃が飛んでくるかもしれない。

 相手の木刀がわずかに受け損ねれば、自分の喉元に木刀が吸い込まれてくるかもしれない。

 そんな「もし」を、二人ともよく知っている。

 

 打ち合う音だけが、一定の拍を取るように鳴り続ける。

 互いの息遣いは乱れない。

 足運びも崩れない。

 

 外から見れば、ただ淡々と打ち合っているだけにも見えるだろう。

 けれど、色を追う俺には分かる。

 

 錆兎の色は、攻めるたびに一瞬だけ赤が濃くなる。

 しかしすぐに、冷静な青がそれを抑えていく。

 「ここで無理に攻めても、あの一撃をもらうだけだ」と、そう自分に言い聞かせている色。

 

 義勇の色も、受けるたびに、一瞬だけ赤が混ざる。

 「今、返せるかもしれない」という誘惑。

 それを、水のような青がさらっていく。

 

(お互いに僅かな隙も晒さないように、隙を作るように、互いの型の組み合わせから最適解を探り合っている)

 

 そんな慎重さが、二人の間の空気を張り詰めさせていた。

 

 俺は、木刀を握ったまま、その光景に見入っていた。

 

 なんでもありの模擬戦なら、俺もまだやりようはある。

 蹴りでも、投げでも、砂でも、罠でも、この目でも、全部使えば、なんとか一太刀くらいは入れられる。

 でも今目の前でぶつかり合っているのは、「刀だけ」の世界だ。

 

 そこに、俺の居場所はない。

 

 打ち合う音が、徐々に速くなっていく。

 錆兎は、少しずつ、少しずつ、打ち込みの拍子をずらしていく。

 

 半拍遅らせる。

 逆に一拍早める。

 義勇の鉄壁の守りを乱しにいく。

 

 義勇もまた、それに合わせて上手く間合いを変える。

 足の運びで錆兎の拍を調整し、錆兎の木刀が「届かない」位置を維持し続ける。

 

(……こいつら、どっちかがぶっ倒れるまで、このまま続くんじゃないか?)

 

 そんな予感がしたときだった。

 

「――そこまで」

 

 鱗滝さんの声が、ぱつん、と糸を切るように飛んだ。

 

 二人の木刀が、ぴたりと止まる。

 

「これ以上続けても、先に集中が切れた方の負けだ。

 決着までやっていては身体がもたん」

 

 短い叱責に聞こえるが、その声の底には、確かな満足があった。

 

 錆兎が、息を吐いて木刀を下ろす。

 

「はぁ……。

 やっと“本気の義勇”とやり合えた気がするな」

 

「僕はずっと本気だよ?」

 

 義勇が、少しだけ口元を緩めた。

 

「そういう意味じゃねぇよ」

 

 木刀を肩に担いだ錆兎が、にやりと笑う。

 

「……男なら、これからだろ?」

 

 義勇はぽかんとしてから、笑う。

 

「うん。これからだね」

 

 二人の色が、同じ方向を向いた。

 俺は、その背中を見ながら、木刀の柄を握り直した。

 

(すげぇよ、お前ら)

 

 心の底からそう思った。

 同時に、はっきりと突きつけられる。

 

(俺は、このまま“水の呼吸”だけで鍛錬しても、きっと二人には追いつけない)

 

 俺はもともと剣が得意だったわけじゃない。

 いや、それは優しい言い方だ。

 俺は初めから、櫛那にも錆兎にも義勇にも、明確に剣の腕で劣っている。

 

 それでも、裏長屋で身につけた「汚い手」と、識彩を使って工夫することで、なんとか二人と肩を並べてきた。

 錆兎も義勇も、俺がいたことで効率的に修行できた部分は確かにある。

 鬼を斬る経験を重ねる中で、得られたものにも差はあるだろう。

 

 でも――。

 

(それだけで説明できるような……いや、……自分を誤魔化せるような差じゃない)

 

 悔しくないと言えば嘘になる。

 胸の奥が、きゅっと締め付けられる。

 

(本当はさ。

 鱗滝さんの一番弟子として、“水の呼吸”を一番上手く使えるようになりたかった)

 

 義勇の美しさ。

 錆兎の強さ。

 

 二人が強いのは、本気で嬉しい。

 胸を張って、「俺の兄弟弟子だ」と言える。

 それとは別に、どうしようもなく、自分が歯がゆい。

 

 藤襲山で出会った、他の流派の話が頭をよぎる。

 

 炎。

 雷。

 風。

 

 いろんな呼吸で戦っていたやつらがいた。

 

(……もしかしたら、俺が強くなれる道は、“別のところ”にあるのかもしれない)

 

 水の呼吸を諦めたわけじゃない。

 けれど、心のどこかで、別の扉の気配を感じていた。

 その扉を叩くべきかどうか。

 それを決めるには、まだ少し時間がいる。

 

「どうした、宗右衛」

 

 気付けば、鱗滝さんがすぐ近くに立っていた。

 

「……いえ」

 

 首を振って、無理やり笑みを作る。

 

「二人がすごすぎて、ちょっと見惚れてただけです」

 

「そうか」

 

 鱗滝さんは、それ以上は何も訊かなかった。

 ただ、ぽつりと言う。

 

「お前は、お前のやり方で強くなれ。

 剣の形は一つではない」

 

 面の奥の目が、少しだけ細くなった気がした。

 

「迷うなら、立ち止まるな。

 迷いながら振れ。

 答えは、その先にある」

 

「……はい」

 

 短く返事をして、俺は木刀を握り直した。

 錆兎と義勇は、もう次の立ち合いに向けて構えを取り始めている。

 

(迷っててもいい。

 迷ってても、手は止めない)

 

 胸の奥で、昨日心に打ち込んだ決意を思い出す。

 

(俺も、絶対強くなる。

 俺なりの方法で)

 

 お前らを守れて、自分も守れて。

 誰かの選んだ「戦い方」も、誰かの選んだ「生き方」も、全部背負えるくらいに。

 

 そう決めて、俺は再び、二人の木刀の音に耳を澄ませた。

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