鱗滝の養子   作:松雪草

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22話

 風鈴の音が、山風にさらわれて小さくなっていく。

 

 さっきまであれほど賑やかだった刀鍛冶たちの気配が、山の空気からすっかり消えていた。

 狭霧山に、いつもの静けさが戻る。

 

 けれど、俺たちはもう「いつもの」ままではなかった。

 

 俺の目の前には、日輪刀がある。

 白鼠色の刃を収めた、俺だけの刀だ。

 

 鞘ごと持ち上げると、ずしりと腕に重さがかかった。

 当たり前だが、木刀の軽さとはまるで違う。

 そこには鬼を斬るための鉄の重さだけでなく、鬼殺の剣士としての責任の重さも備わっているようだった。

 

 横を見ると、錆兎も義勇もそれぞれの刀を腰に帯びたり、柄に手を添えて感触を確かめたりしている。

 二人の横顔がいつもと違って見えた。

 岩を砕くために剣を振っていた子供のものではない。人々を守るという決意に満ちた、「剣士」の顔をしていた。

 

(そうか……これで、終わったんだな)

 

 胸の奥に、静かな波が広がる。

 罠にかかって転げ回り、何度も肺が焼けるまで走らされた日々が、終わった。

 鱗滝さんに見守られ、育まれてきた、狭霧山での生活の、終わり。

 

 俺たちはついに、守られる側から、守る側へ。

 その境目に、今、片足だけだが、確かに踏み入れたのだ。

 

「……よし!」

 

 沈黙を破ったのは、錆兎だった。

 

「せっかく自分の刀をもらったんだ。ちょっと素振りしてくる。

 重さの感覚、今のうちに身体に叩き込んどきたい」

 

「僕も行く」

 

 義勇もすぐに立ち上がる。

 声は短くても、目は完全に戦う人間のそれだった。

 

 二人が庭先に向かうのを見て、俺も苦笑しながら腰を上げようとした、その時だった。

 

「待て」

 

 鱗滝さんの低い声が、二人を縫い止める。

 

「その前に、お前たちに渡したいものが……」

 

 言い切る前に、その声をかき消すような羽音が響いた。

 

 バサバサバサッ、と、戸を叩くような激しい音。

 

「カァァァッ!!」

 

 開け放たれた縁側から、黒い影が弾丸のように飛び込んできた。

 

「宗右衛! 宗右衛!!」

 

「うわっ……!」

 

 思わずのけぞる。

 こいつは、俺についた鎹烏だ。

 烏は俺の頭にとまると、鼓膜が破れそうな声で叫んだ。

 

「伝令! 伝令!!

 神無月宗右衛、北西の町へ向かえ!!

 そこで人が消えている!! 毎夜人が消えている!!」

 

「え……い、今か!?」

 

「今! 今だ! すぐにだ!!

 鬼を狩れ!

 鬼殺隊としての任務を始めろ!!」

 

 畳みかけるように叫ぶと、そのまま休ませる間もなく嘴を動かし続ける。

 

「冨岡義勇! 冨岡義勇!!

 お前は北の川沿いの宿場町へ向かえ! 旅人が襲われている!!

 錆兎! 錆兎!!

 お前は東の峠だ! 街道に鬼が出る!!」

 

 矢継ぎ早に告げられる地名と任務。

 俺の鎹烏が三人分の指令を喚き散らすのを、梁の上に陣取っていた錆兎の烏が、どこか「やれやれ」とでも言いたげな目で見下ろしている。

 

 一通りの用件を吐き出すと、俺の烏はようやく嘴を閉じて、ふんと鼻を鳴らし、何事もなかったかのように梁の上に飛び上がり羽繕いを始めた。

 

 残されたのは、ぽかんと立ち尽くす俺たち三人だ。

 

「……刀が届いた、その日のうちにか」

 

 錆兎がぽつりと呟く。

 さっきまで浮き足立っていた表情が、きりと引き締まっていく。

 橙に楽し気に揺れていた色の帯が、鋭い赤に変わっていく。

 

 鱗滝さんは、静かに立ち上がると、俺たちに向き直った。

 

「聞いたな」

 

 天狗の面越しの声は先ほどまでの温かさが消え、師としての厳しいものに変わる。

 

「お前たちの初任務だ。

 今この時をもって、お前たちは『鬼殺隊』の剣士となる」

 

 三人同時に、背筋が伸びる。

 胸の奥で何かが音を立てて、明確に切り替わる感覚がした。

 

「心して聞け」

 

 間を置いてから、鱗滝さんは続けた。

 

「我々鬼殺隊が剣を握るのは、生きるためだ。

 人が人として生きるために、我々は鬼と戦うのだ。

 我々の背の後ろには、守らなければならないものがある。

 そのために、命を賭して鬼に立ち向かうこととなる」

 

 それは、いままで聞いていた鬼殺隊の目標とは、少し違う言い回し。

 これはきっと、鱗滝さん自身の言葉だ。

 

「だからこそ、お前たちは決して忘れるな。

 己の命も、お前たちの後ろにある命も、どちらも軽くしてはならない。

 恐れるな――ただ、進め。

 お前たちの決意でもって、道を切り拓け」

 

 淡々とした声なのに、一言一言が、重かった。

 

「はい」

 

 返事をした瞬間、鱗滝さんがゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。

 天狗の面の奥で、師範がどんな表情をしているのか、想像がつかない。

 けれど、その沈黙のわずかな間に、囲炉裏の火が小さくパチリと鳴った。

 

「それと……儂ら『育手』の居場所は、秘匿されねばならん」

 

 言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

 

「鬼どもは復讐のためか、あるいは剣士の芽を摘むためにか、育手を狙う。

 ゆえに、隊士となった者は、頻繁にここへ出入りすることは許されん」

 

 剣士となれば、狭霧山から出ていかなくてはならなくなる。

 以前から聞かされていたことなのに、その事実で、胸の奥が冷たい手でぎゅっと掴まれたみたいに痛んだ。

 

 俺にとって、ここは家だった。

 

 裏長屋を連れ出されて、辿り着いた安息の場所。

 朝、烏の声で起きて、夜、囲炉裏の火を見ながら眠る場所。

 鍋の匂いと木煙の匂いが、安心できる目印だった。

 

 それが、もう「帰る場所」ではなくなる。

 

「……はい」

 

 喉の奥で詰まりそうになった返事を、無理やり押し出す。

 錆兎も、義勇も、真っ直ぐに鱗滝さんを見つめて頷いた。

 

 言葉を失った沈黙の中で、鱗滝さんの周りの色が、深い藍色に染まっていくのが見えた。

 

「だが」

 

 鱗滝さんは、少しだけ声を柔らかくした。

 

「ここは、お前たちの家だ」

 

 思わず顔を上げる。

 

「どうしても耐え難い時。

 身体が動かなくなり、心が折れそうになった時。

 死に場所を探すくらいなら、迷わず戻って来い」

 

 肩の力が、少し抜ける。

 

「儂は、いつでもここにいる」

 

 天狗の面の下で、口元がわずかに緩んだ気がした。

 

 簡単には戻れない。

 けれど、ここは俺たちの家だ。

 矛盾した二つの言葉が、どちらも嘘ではないと分かってしまうからこそ、胸の奥がじんと熱くなった。

 

―――

 

 支度までの、わずかな時間。

 俺たちは土間で隊服に袖を通し始めた。

 

 袖を滑らせると、裏地のひやりとした感触が肌を撫でる。

 布は見た目より軽く、けれど指先でつまむと、ぎゅっと押し返してくるような強さがあった。

 

「その隊服は、特別な繊維で織ってある」

 

 俺たちの様子を見ていた鱗滝さんが、ぽつりと言う。

 

「通気性がよく、濡れにくく、燃えにくい。

 そこらの雑鬼の爪や牙では、そう簡単には破れん。

 それは、命を守るためのものだが……決して過信はするな」

 

「……はい」

 

 背中の『滅』の文字の重みを確かめるように、三人そろって返事をした。

 

「それと」

 

 鱗滝さんが、小さく息をつく。

 

「これは、餞別だ」

 

 囲炉裏のそばに置いてあった包みを三つ、俺たちの前に並べる。

 

「宗右衛」

 

 名を呼ばれて顔を上げると、鱗滝さんが一番大きな包みを差し出していた。

 受け取って紐を解くと、空の色を閉じ込めたような羽織が現れた。

 

 前身頃に、薄く瑞雲の模様が走っている。

 裾から腰へ、雲が流れるように染め抜かれていて、動かすと光の加減で表情を変えた。

 背中には、見覚えのある紋がひとつ、大きく据えられている。

 

「……亀甲花菱」

 

 思わず声が漏れる。

 櫛那の羽織の、あの紋だ。

 

「お前は、もう一人ではないという印だ」

 

 鱗滝さんの声が、静かに落ちる。

 

「あの娘とも、こことも、切れぬ縁でつながっている。そのことを、忘れんようにな」

 

「……はい」

 

 空色の布を指先でつまむと、胸の奥まで澄んだ色が染み込んでくるような気がした。

 俺は隊服の上から、その羽織に袖を通した。

 

「義勇」

 

 次に呼ばれた義勇に、鱗滝さんはもうひとつの包みを渡す。

 

 義勇が黙って包みを開くと、赤錆色と亀甲柄の片身替りの羽織が現れた。

 右半分は、鮮やかな赤錆色。そして左半分は、錆兎と同じ黄と緑の亀甲柄だ。

 

「これには、お前の姉の形見の着物の布を使っておる」

 

 鱗滝さんの言葉に、義勇が驚いたように顔をあげる。

 

「で、でも、あの着物は、鬼にボロボロにされて……

 それに、血が……」

 

「鬼殺隊に、腕の良い針師がいる。

 使える部分を洗い張りし、足りぬ半分は兄弟子と同じ柄をあてがい、仕立て直させた。

 ……住まいが決まれば、烏に伝えるといい。残りの布も送ろう」

 

 泣きそうな顔をした義勇が、震える手で羽織を胸に抱く。

 姉の形見と、兄弟弟子の絆がつながった一枚。

 

 しばらく、そうしている義勇を静かに見守る。

 そして次に義勇が顔をあげた時、静かに燃えている心が目の中に見えた。

 

「鱗滝さん、ありがとうございます」

 

「うむ。お前が背負っているものは、もはや一つや二つではない」

 

 義勇が羽織を纏う。

 赤錆の胸元には、亀甲花菱の紋がひとつ、糸で縫い取られていた。

 

「錆兎」

 

 最後に呼ばれた錆兎には、掌に収まるほどの細長い包みが手渡された。

 

「なんだ、俺だけ小さいな」

 

 錆兎が笑いながら紐を解くと、中から黒漆の印籠が現れる。

 全体に亀甲柄が彫られ、印籠の中央に金で亀甲花菱の紋が一つ、くっきりと描かれていた。

 

「腰に下げておけ」

 

 鱗滝さんは、簡潔に言う。

 

「ひとまずは血止めの薬を入れておいたが、それは三月程度で効き目がなくなる。

 使いきらずとも必ず捨てて、その後は好きなものを入れろ」

 

「へえ……」

 

 錆兎は印籠を手の中で転がし、にやりと笑った。

 

「じゃあ、落として割ったりしたら、鱗滝さんにぶん殴られるな」

 

「……落とすな」

 

「せっかくの贈り物に何てこと言うんだ、この馬鹿」

 

 鱗滝さんの短い叱責と、それにかぶせる様に俺の口から飛び出した言葉に、俺たち三人とも思わず笑ってしまう。

 笑い声が、さっきまで胸に重く溜まっていたものを、少しだけ溶かしてくれた。

 

 支度を終え、俺たちは改めて庭先に並んだ。

 

「……やっと、俺たちも誰かを守る側になるわけだな」

 

 錆兎が、羽織の上から帯を締め直して言う。

 腰では、黒漆の印籠が小さく揺れている。

 

「うん。……今度は、必ず守ってみせる」

 

 義勇が答える。

 赤と亀甲の羽織が、その肩を左右から包んでいた。

 その横顔には、自信なさげに揺れていたあの夜の少年の影はもうなかった。

 

 俺も、空色の羽織の裾を整え、白鼠色の刀を差した。

 

「二人とも」

 

 本当は「死ぬな」とか「無茶をするな」とか、いくらでも言いたい。

 錆兎は突っ走りすぎるし、義勇は何でも抱え込みすぎる。

 心配の種には事欠かない。

 

 けれど、口から出てきたのは、やっぱり小言めいた言葉だった。

 

「鬼を斬るのも大事だけど、自分の身体のこともちゃんと考えろよ。

 飯は食え。

 寒かったら着込め。

 怪我をしたら、ちゃんと休め。

 ……生きてないと、誰も守れないからな」

 

「ははっ、相変わらず宗右衛は母親みたいだな!」

 

 錆兎が豪快に笑う。

 義勇も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「分かってます。

 ……宗右衛さんも」

 

「ああ。気をつけるよ」

 

 三人で顔を見合わせて頷き合う。

 それだけで、言葉よりも多くのものが通じた気がした。

 

 足を踏み出そうとしたとき、鱗滝さんが俺だけを呼び止めた。

 

「宗右衛」

 

「はい」

 

 大きくて分厚い手が、ぽんと肩に置かれる。

 

「お前の目は、よく見える。

 人の心の機微も、鬼の感情さえも、色として捉える」

 

「……はい」

 

 識彩のことを、ここまでまっすぐ言われたことはあまりない。

 少しだけ、胸がざわつく。

 

「他人の色に振り回されるな。

 自分の色を見失うな」

 

 肩に乗った手に、ぐっと力がこもる。

 

「お前は優しい。

 だからこそ、自分のことを後回しにしすぎるきらいがある。

 ……生きろ、宗右衛。

 誰かのためだけでなく、お前自身のために」

 

 その言葉は、胸のいちばん柔らかいところに突き刺さった。

 

 鱗滝さんの周りに見える色が、温かく揺るぎない金色に変わっていく。

 俺に向けられた、まっすぐな愛情の色だ。

 

「……はい。行ってきます」

 

 深く一礼して顔を上げると、不思議と足が軽くなっていた。

 

 三人で山道を下る。

 駆け足ではない。一歩一歩、踏みしめるように。

 

 見慣れた木々、見慣れた岩。

 罠にかかって痛い目を見た斜面も、今はただの山道に見える。

 

 山の中腹にある分かれ道まで来たところで、俺たちは足を止めた。

 北へ向かう道と、東へ向かう道が枝分かれしている。

 

「じゃあな。俺は、こっちだ」

 

 錆兎が東の道を顎で指した。

 

「俺と宗右衛さんは、途中まで一緒ですね」

 

 義勇が北の道を見る。

 

「ああ。町の手前で別れることになるな」

 

 ここから、それぞれの道が始まる。

 もう三人並んで走ることは、そう多くはないだろう。

 

 錆兎が、にっと笑って拳を突き出した。

 

「次会うときには、柱になってるかもな」

 

「ふふっ……じゃあ、僕も置いていかれないようにしないとね」

 

 義勇がその拳に、自分の拳を軽く当てる。

 二人の色は、燃える赤と、静かな青。

 どちらも迷いのない、強い色だ。

 

 俺も、少し遅れて拳を重ねた。

 

「絶対に、また三人で会おう」

 

 三つの拳が触れ合う。

 小さな音がした気がした。

 

 錆兎が背を向けて、東の道を駆け出す。

 義勇と俺も、それぞれの方向へ歩き出した。

 

 霧が立ち込め始めた山道を進みながら、俺は一度だけ足を止めかける。

 振り返れば、霧の向こうに、あの家の屋根が見えるかもしれない。

 

 でも、振り返らなかった。

 

 振り返ったら、足が止まる。

 足が止まったら、本当に帰りたくなる。

 

(行こう)

 

 小さく息を吐き、前を向いて一歩を踏み出す。

 

 ふと、鱗滝さんの言葉を思い出した。

 「たまには手紙の一つくらい寄越せ」と。

 

 刀の柄をぎゅっと握りしめる。

 

(無事に鬼を斬って……

 『生きてここまで帰りました』って、ちゃんと書けるようにしよう)

 

 最初の任務地、北西の町までは、ここから半日ほど。

 空を見上げて、深く息を吸い込んだ。

 

 これが、俺の「鬼殺隊」としての最初の旅路の始まりだった。

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