風鈴の音が、山風にさらわれて小さくなっていく。
さっきまであれほど賑やかだった刀鍛冶たちの気配が、山の空気からすっかり消えていた。
狭霧山に、いつもの静けさが戻る。
けれど、俺たちはもう「いつもの」ままではなかった。
俺の目の前には、日輪刀がある。
白鼠色の刃を収めた、俺だけの刀だ。
鞘ごと持ち上げると、ずしりと腕に重さがかかった。
当たり前だが、木刀の軽さとはまるで違う。
そこには鬼を斬るための鉄の重さだけでなく、鬼殺の剣士としての責任の重さも備わっているようだった。
横を見ると、錆兎も義勇もそれぞれの刀を腰に帯びたり、柄に手を添えて感触を確かめたりしている。
二人の横顔がいつもと違って見えた。
岩を砕くために剣を振っていた子供のものではない。人々を守るという決意に満ちた、「剣士」の顔をしていた。
(そうか……これで、終わったんだな)
胸の奥に、静かな波が広がる。
罠にかかって転げ回り、何度も肺が焼けるまで走らされた日々が、終わった。
鱗滝さんに見守られ、育まれてきた、狭霧山での生活の、終わり。
俺たちはついに、守られる側から、守る側へ。
その境目に、今、片足だけだが、確かに踏み入れたのだ。
「……よし!」
沈黙を破ったのは、錆兎だった。
「せっかく自分の刀をもらったんだ。ちょっと素振りしてくる。
重さの感覚、今のうちに身体に叩き込んどきたい」
「僕も行く」
義勇もすぐに立ち上がる。
声は短くても、目は完全に戦う人間のそれだった。
二人が庭先に向かうのを見て、俺も苦笑しながら腰を上げようとした、その時だった。
「待て」
鱗滝さんの低い声が、二人を縫い止める。
「その前に、お前たちに渡したいものが……」
言い切る前に、その声をかき消すような羽音が響いた。
バサバサバサッ、と、戸を叩くような激しい音。
「カァァァッ!!」
開け放たれた縁側から、黒い影が弾丸のように飛び込んできた。
「宗右衛! 宗右衛!!」
「うわっ……!」
思わずのけぞる。
こいつは、俺についた鎹烏だ。
烏は俺の頭にとまると、鼓膜が破れそうな声で叫んだ。
「伝令! 伝令!!
神無月宗右衛、北西の町へ向かえ!!
そこで人が消えている!! 毎夜人が消えている!!」
「え……い、今か!?」
「今! 今だ! すぐにだ!!
鬼を狩れ!
鬼殺隊としての任務を始めろ!!」
畳みかけるように叫ぶと、そのまま休ませる間もなく嘴を動かし続ける。
「冨岡義勇! 冨岡義勇!!
お前は北の川沿いの宿場町へ向かえ! 旅人が襲われている!!
錆兎! 錆兎!!
お前は東の峠だ! 街道に鬼が出る!!」
矢継ぎ早に告げられる地名と任務。
俺の鎹烏が三人分の指令を喚き散らすのを、梁の上に陣取っていた錆兎の烏が、どこか「やれやれ」とでも言いたげな目で見下ろしている。
一通りの用件を吐き出すと、俺の烏はようやく嘴を閉じて、ふんと鼻を鳴らし、何事もなかったかのように梁の上に飛び上がり羽繕いを始めた。
残されたのは、ぽかんと立ち尽くす俺たち三人だ。
「……刀が届いた、その日のうちにか」
錆兎がぽつりと呟く。
さっきまで浮き足立っていた表情が、きりと引き締まっていく。
橙に楽し気に揺れていた色の帯が、鋭い赤に変わっていく。
鱗滝さんは、静かに立ち上がると、俺たちに向き直った。
「聞いたな」
天狗の面越しの声は先ほどまでの温かさが消え、師としての厳しいものに変わる。
「お前たちの初任務だ。
今この時をもって、お前たちは『鬼殺隊』の剣士となる」
三人同時に、背筋が伸びる。
胸の奥で何かが音を立てて、明確に切り替わる感覚がした。
「心して聞け」
間を置いてから、鱗滝さんは続けた。
「我々鬼殺隊が剣を握るのは、生きるためだ。
人が人として生きるために、我々は鬼と戦うのだ。
我々の背の後ろには、守らなければならないものがある。
そのために、命を賭して鬼に立ち向かうこととなる」
それは、いままで聞いていた鬼殺隊の目標とは、少し違う言い回し。
これはきっと、鱗滝さん自身の言葉だ。
「だからこそ、お前たちは決して忘れるな。
己の命も、お前たちの後ろにある命も、どちらも軽くしてはならない。
恐れるな――ただ、進め。
お前たちの決意でもって、道を切り拓け」
淡々とした声なのに、一言一言が、重かった。
「はい」
返事をした瞬間、鱗滝さんがゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
天狗の面の奥で、師範がどんな表情をしているのか、想像がつかない。
けれど、その沈黙のわずかな間に、囲炉裏の火が小さくパチリと鳴った。
「それと……儂ら『育手』の居場所は、秘匿されねばならん」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「鬼どもは復讐のためか、あるいは剣士の芽を摘むためにか、育手を狙う。
ゆえに、隊士となった者は、頻繁にここへ出入りすることは許されん」
剣士となれば、狭霧山から出ていかなくてはならなくなる。
以前から聞かされていたことなのに、その事実で、胸の奥が冷たい手でぎゅっと掴まれたみたいに痛んだ。
俺にとって、ここは家だった。
裏長屋を連れ出されて、辿り着いた安息の場所。
朝、烏の声で起きて、夜、囲炉裏の火を見ながら眠る場所。
鍋の匂いと木煙の匂いが、安心できる目印だった。
それが、もう「帰る場所」ではなくなる。
「……はい」
喉の奥で詰まりそうになった返事を、無理やり押し出す。
錆兎も、義勇も、真っ直ぐに鱗滝さんを見つめて頷いた。
言葉を失った沈黙の中で、鱗滝さんの周りの色が、深い藍色に染まっていくのが見えた。
「だが」
鱗滝さんは、少しだけ声を柔らかくした。
「ここは、お前たちの家だ」
思わず顔を上げる。
「どうしても耐え難い時。
身体が動かなくなり、心が折れそうになった時。
死に場所を探すくらいなら、迷わず戻って来い」
肩の力が、少し抜ける。
「儂は、いつでもここにいる」
天狗の面の下で、口元がわずかに緩んだ気がした。
簡単には戻れない。
けれど、ここは俺たちの家だ。
矛盾した二つの言葉が、どちらも嘘ではないと分かってしまうからこそ、胸の奥がじんと熱くなった。
―――
支度までの、わずかな時間。
俺たちは土間で隊服に袖を通し始めた。
袖を滑らせると、裏地のひやりとした感触が肌を撫でる。
布は見た目より軽く、けれど指先でつまむと、ぎゅっと押し返してくるような強さがあった。
「その隊服は、特別な繊維で織ってある」
俺たちの様子を見ていた鱗滝さんが、ぽつりと言う。
「通気性がよく、濡れにくく、燃えにくい。
そこらの雑鬼の爪や牙では、そう簡単には破れん。
それは、命を守るためのものだが……決して過信はするな」
「……はい」
背中の『滅』の文字の重みを確かめるように、三人そろって返事をした。
「それと」
鱗滝さんが、小さく息をつく。
「これは、餞別だ」
囲炉裏のそばに置いてあった包みを三つ、俺たちの前に並べる。
「宗右衛」
名を呼ばれて顔を上げると、鱗滝さんが一番大きな包みを差し出していた。
受け取って紐を解くと、空の色を閉じ込めたような羽織が現れた。
前身頃に、薄く瑞雲の模様が走っている。
裾から腰へ、雲が流れるように染め抜かれていて、動かすと光の加減で表情を変えた。
背中には、見覚えのある紋がひとつ、大きく据えられている。
「……亀甲花菱」
思わず声が漏れる。
櫛那の羽織の、あの紋だ。
「お前は、もう一人ではないという印だ」
鱗滝さんの声が、静かに落ちる。
「あの娘とも、こことも、切れぬ縁でつながっている。そのことを、忘れんようにな」
「……はい」
空色の布を指先でつまむと、胸の奥まで澄んだ色が染み込んでくるような気がした。
俺は隊服の上から、その羽織に袖を通した。
「義勇」
次に呼ばれた義勇に、鱗滝さんはもうひとつの包みを渡す。
義勇が黙って包みを開くと、赤錆色と亀甲柄の片身替りの羽織が現れた。
右半分は、鮮やかな赤錆色。そして左半分は、錆兎と同じ黄と緑の亀甲柄だ。
「これには、お前の姉の形見の着物の布を使っておる」
鱗滝さんの言葉に、義勇が驚いたように顔をあげる。
「で、でも、あの着物は、鬼にボロボロにされて……
それに、血が……」
「鬼殺隊に、腕の良い針師がいる。
使える部分を洗い張りし、足りぬ半分は兄弟子と同じ柄をあてがい、仕立て直させた。
……住まいが決まれば、烏に伝えるといい。残りの布も送ろう」
泣きそうな顔をした義勇が、震える手で羽織を胸に抱く。
姉の形見と、兄弟弟子の絆がつながった一枚。
しばらく、そうしている義勇を静かに見守る。
そして次に義勇が顔をあげた時、静かに燃えている心が目の中に見えた。
「鱗滝さん、ありがとうございます」
「うむ。お前が背負っているものは、もはや一つや二つではない」
義勇が羽織を纏う。
赤錆の胸元には、亀甲花菱の紋がひとつ、糸で縫い取られていた。
「錆兎」
最後に呼ばれた錆兎には、掌に収まるほどの細長い包みが手渡された。
「なんだ、俺だけ小さいな」
錆兎が笑いながら紐を解くと、中から黒漆の印籠が現れる。
全体に亀甲柄が彫られ、印籠の中央に金で亀甲花菱の紋が一つ、くっきりと描かれていた。
「腰に下げておけ」
鱗滝さんは、簡潔に言う。
「ひとまずは血止めの薬を入れておいたが、それは三月程度で効き目がなくなる。
使いきらずとも必ず捨てて、その後は好きなものを入れろ」
「へえ……」
錆兎は印籠を手の中で転がし、にやりと笑った。
「じゃあ、落として割ったりしたら、鱗滝さんにぶん殴られるな」
「……落とすな」
「せっかくの贈り物に何てこと言うんだ、この馬鹿」
鱗滝さんの短い叱責と、それにかぶせる様に俺の口から飛び出した言葉に、俺たち三人とも思わず笑ってしまう。
笑い声が、さっきまで胸に重く溜まっていたものを、少しだけ溶かしてくれた。
支度を終え、俺たちは改めて庭先に並んだ。
「……やっと、俺たちも誰かを守る側になるわけだな」
錆兎が、羽織の上から帯を締め直して言う。
腰では、黒漆の印籠が小さく揺れている。
「うん。……今度は、必ず守ってみせる」
義勇が答える。
赤と亀甲の羽織が、その肩を左右から包んでいた。
その横顔には、自信なさげに揺れていたあの夜の少年の影はもうなかった。
俺も、空色の羽織の裾を整え、白鼠色の刀を差した。
「二人とも」
本当は「死ぬな」とか「無茶をするな」とか、いくらでも言いたい。
錆兎は突っ走りすぎるし、義勇は何でも抱え込みすぎる。
心配の種には事欠かない。
けれど、口から出てきたのは、やっぱり小言めいた言葉だった。
「鬼を斬るのも大事だけど、自分の身体のこともちゃんと考えろよ。
飯は食え。
寒かったら着込め。
怪我をしたら、ちゃんと休め。
……生きてないと、誰も守れないからな」
「ははっ、相変わらず宗右衛は母親みたいだな!」
錆兎が豪快に笑う。
義勇も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「分かってます。
……宗右衛さんも」
「ああ。気をつけるよ」
三人で顔を見合わせて頷き合う。
それだけで、言葉よりも多くのものが通じた気がした。
足を踏み出そうとしたとき、鱗滝さんが俺だけを呼び止めた。
「宗右衛」
「はい」
大きくて分厚い手が、ぽんと肩に置かれる。
「お前の目は、よく見える。
人の心の機微も、鬼の感情さえも、色として捉える」
「……はい」
識彩のことを、ここまでまっすぐ言われたことはあまりない。
少しだけ、胸がざわつく。
「他人の色に振り回されるな。
自分の色を見失うな」
肩に乗った手に、ぐっと力がこもる。
「お前は優しい。
だからこそ、自分のことを後回しにしすぎるきらいがある。
……生きろ、宗右衛。
誰かのためだけでなく、お前自身のために」
その言葉は、胸のいちばん柔らかいところに突き刺さった。
鱗滝さんの周りに見える色が、温かく揺るぎない金色に変わっていく。
俺に向けられた、まっすぐな愛情の色だ。
「……はい。行ってきます」
深く一礼して顔を上げると、不思議と足が軽くなっていた。
三人で山道を下る。
駆け足ではない。一歩一歩、踏みしめるように。
見慣れた木々、見慣れた岩。
罠にかかって痛い目を見た斜面も、今はただの山道に見える。
山の中腹にある分かれ道まで来たところで、俺たちは足を止めた。
北へ向かう道と、東へ向かう道が枝分かれしている。
「じゃあな。俺は、こっちだ」
錆兎が東の道を顎で指した。
「俺と宗右衛さんは、途中まで一緒ですね」
義勇が北の道を見る。
「ああ。町の手前で別れることになるな」
ここから、それぞれの道が始まる。
もう三人並んで走ることは、そう多くはないだろう。
錆兎が、にっと笑って拳を突き出した。
「次会うときには、柱になってるかもな」
「ふふっ……じゃあ、僕も置いていかれないようにしないとね」
義勇がその拳に、自分の拳を軽く当てる。
二人の色は、燃える赤と、静かな青。
どちらも迷いのない、強い色だ。
俺も、少し遅れて拳を重ねた。
「絶対に、また三人で会おう」
三つの拳が触れ合う。
小さな音がした気がした。
錆兎が背を向けて、東の道を駆け出す。
義勇と俺も、それぞれの方向へ歩き出した。
霧が立ち込め始めた山道を進みながら、俺は一度だけ足を止めかける。
振り返れば、霧の向こうに、あの家の屋根が見えるかもしれない。
でも、振り返らなかった。
振り返ったら、足が止まる。
足が止まったら、本当に帰りたくなる。
(行こう)
小さく息を吐き、前を向いて一歩を踏み出す。
ふと、鱗滝さんの言葉を思い出した。
「たまには手紙の一つくらい寄越せ」と。
刀の柄をぎゅっと握りしめる。
(無事に鬼を斬って……
『生きてここまで帰りました』って、ちゃんと書けるようにしよう)
最初の任務地、北西の町までは、ここから半日ほど。
空を見上げて、深く息を吸い込んだ。
これが、俺の「鬼殺隊」としての最初の旅路の始まりだった。