山を下りてから半日。
俺の目の前には、今まで見たこともない景色が広がっていた。
北西の町。
名前を聞いたこともなかったその場所は、俺が育った裏長屋のある町よりもずっと大きく、そして活気に満ちていた。
夕暮れ時の通りは、人で溢れかえっている。
荷車を引く男たちの掛け声。
夕餉の買い出しをする女たちの笑い声。
子どもが駆けていく足音。
店先から漂ってくる、油と醤油の焦げる匂い。
そのすべてが、押し寄せる波のように一気に飛び込んでくる。
町の入口で足が止まり、こめかみの奥がきゅうと締めつけられた。
「おい、どうした宗右衛。
腹でも痛いのか? 情けないぞ!」
肩に乗った鎹烏が、耳元でギャアギャアと騒ぎ立てる。
「……うるさい。ちょっと、人に酔っただけだ」
「酔った? 酒でも飲んだのか!」
「ちょっと静かにしててくれるか……」
俺は深く息を吐き出して、視界を少しだけ細めた。
狭霧山では、見える色はもっと単純だった。
木々の緑、土の茶色、水の青。
たまに通る獣の、生存本能に根ざした単純な警戒色。
鱗滝さんの、静かで深い湖のような色。
錆兎と義勇の、燃えるような、あるいは澄み切った色。
けれど、ここは違う。
視界に映る人間の一人一人が、複雑怪奇な色をまき散らしている。
商売人の欲の濁った黄色。
仕事帰りの男の、疲労が滲む紺色。
恋人たちの浮ついた桃色。
誰かを妬む棘のような紫色。
それらが混ざり合い、渦を巻き、泥水のような奔流となって通りを流れている。
慣れていないせいか、その情報の濁流に脳が揺さぶられるようだった。
(……人が暮らす場所の色か)
裏長屋にいた頃は、当たり前のように見ていたはずの光景だ。
だが、静かな山で研ぎ澄まされた今の感覚には、この雑踏はあまりにも刺激が強すぎた。
「……慣れなきゃな」
俺は自分に言い聞かせるように呟いて、再び歩き出した。
ここには、鬼がいる。
毎夜、人を喰らう化け物が潜んでいる。
これだけ人がいて、活気があって、誰もが当たり前の明日が来ると信じているこの町に。
俺は刀の柄に手を添えた。
白鼠色の鞘の感触だけが、ここが戦場なのだと教えてくれていた。
―――
まずは、町の形を頭に入れる必要があった。
俺は通りを端から端まで歩き、路地の入り口や広場、寺や橋の位置を大まかに把握していく。
往来の人々とすれ違うたび、色を一瞬だけ確かめる。
疲れた苔色、酒の匂いがしそうな赤、子どもの無邪気な白。
どれも「人間として」自然な揺れ方をしている。
(鬼の色は、もっと歪んでいる……はずだ)
そう思ってはいても、見知らぬ人間が多すぎて、判断材料が足りない。
藤襲山のように、「ここに鬼がいるから倒せ」と言われていたわけではない。
今は、町全体から異物を探し出さねばならない。
(そりゃあ、そう簡単に見つかるわけもないか)
一通り大通りを歩き終えたところで、肩の烏を見上げた。
「なあ。例の“藤の紋の屋敷”ってやつは?」
「うむ! 藤の紋の屋敷! 鬼殺隊の味方!! 案内してやる!!」
鎹烏は得意げに羽を震わせると、ぱっと飛び上がった。
「宗右衛、ついてこい!」
「分かった、分かった。あんまり目立つなよ」
烏の案内に従って進むと、少し外れた通りに、その屋敷はあった。
黒い瓦屋根に、白い土壁。
軒先には、藤の花の紋が描かれた暖簾が掲げられている。
表向きは旅籠か、あるいはそれに近い何かだろう。
鬼殺隊を影から支えてくれる、藤の花の家紋の家だ。
「お待ちしておりました。鬼殺隊の剣士様ですね」
出迎えてくれたのは、品の良い年配の女将だった。
深々と頭を下げられ、俺は慌てて礼を返した。
「あ、はい。鱗滝宗右衛といいます。
あの、そんなに丁寧にしなくて大丈夫です。俺、まだ新人なので」
「いいえ。鬼狩り様は、私どもの命の恩人ですから」
女将は穏やかに微笑むと、俺を奥の座敷へと通してくれた。
通された部屋は掃除が行き届いていて、床の間には季節の花が生けられている。
出された茶と茶菓子を前にして、俺はようやく人心地ついた気がした。
屋敷の中は静かで、あの町の喧騒が嘘のようだ。
「……それで、事件について詳しく聞かせていただけますか」
俺が切り出すと、女将の表情が曇った。
「……烏から、事情はお聞きだと」
「ええ。ここひと月ほど、この町から人が消えている、と」
女将の話によれば、被害者は年齢も性別もばらばらだという。
若い娘が消えた日もあれば、働き盛りの男が消えた日もある。
共通しているのは、「夜に消える」ことと、「跡形もなくいなくなる」こと。
そしてもう一つ。
「消えたのは、皆それなりに身なりのいい者たちばかりなんです。
商家の跡取り、手代、評判の良かった娘……。
皆さん、急にいなくなるような人たちではないんです」
それは確かに、鬼の仕業と考えていい状況だった。
「それと……妙な噂がありまして」
「噂、ですか」
「はい。消えた方々は皆、消える少し前から、何やら様子が変わっていたそうなのです」
「様子が?」
「ええ。たとえば、急に羽振りが良くなって人を伴って飲み歩くようになったり。
あるいは、内気だった娘が急に派手な着物を着て出歩くようになったり。
まるで、人が変わったように乱暴になった、とか。
それが、数日続いたと思ったら、ぱったり消えるのだとか」
「ちなみに……喧嘩や争いの跡は?」
「そういったものもないので、皆が口をそろえて神隠しにあった、と言うのです」
女将は静かに首を横に振った。
この鬼は少なくとも、その場で派手に人を殺しているわけではない。
だからこそ、人々は“鬼”ではなく“神隠し”と呼んで、自分たちの理解の外に押しやっているのだ。
それよりも、消える数日前に「人が変わる」。
その言葉が、今回の鬼の重要な手がかりであるように感じる。
「……なるほど。
他には、何か変わったことはありませんでしたか?」
「他に……と言われましても、ここしばらくは神隠しの件でどこも手いっぱいでして……」
「どんな些細なことでも構いません。
神隠しが始まる前、とかでも」
俺が食い下がると、女将は少し考え込んでから、思い出したように口を開いた。
「あ、そういえば……関係あるかは分かりませんが。
神隠しが始まる少し前に、気味の悪い騒ぎがありました」
「気味の悪い騒ぎ?」
「はい。町の真ん中で、一匹の野良犬の死体が見つかったのです。
ただの死体ではありません。
中身が……骨も肉も内臓も、綺麗になくなっていて。
まるで、皮だけを脱ぎ捨てたように、犬の毛皮だけが落ちていたのだそうです」
「……犬の、皮だけ?」
「犬のことは、役人に知らせましたけど、ただの悪質な悪戯だろうって。
そのあとすぐに人がいなくなり始めたので、結局それどころではなくなってしまったんです」
犬をわざわざ皮だけにして、町中に捨てた。
そんなことをする意味があるとしたら。
逆に考えろ。
鬼にとって、それが「必要な行動だった」と考えるんだ。
犬の皮を、町のど真ん中に捨てざるを得ない理由があったんだ。
考えるべきは、なぜ犬の中身を抜かなくてはならなかったのか、だ。
単純に考えれば、犬の皮の中に何かを入れるため。
犬の振りをした何かを、町の中に持ち込むため――。
そこまで考えて、背筋に冷たいものが走った。
中身のない、犬の死体。
人が変わったようになる、行方不明者たち。
(……つながった、気がする)
まだ確信はない。
だが、嫌な予感の欠片が、音を立てて繋がろうとしていた。
「情報、ありがとうございます。
……それと、行方不明者の目録をいただいてもよろしいでしょうか?」
俺は残りの茶を一気に飲み干すと、刀を掴んで立ち上がる。
日が落ちる前に、確かめなければならないことができた。
―――
再び通りに出た頃には、空は茜色に染まり始めていた。
家路を急ぐ人々の波に逆らって、俺はゆっくりと歩く。
視覚を、識彩に集中させる。
山での修行とは違う。
鬼の「気配」を探すのではない。
人の中に紛れ込んだ「異物」を探すのだ。
通りすがる人々の色を見る。
今日の売り上げを計算している商人の、そろばんのような茶色。
晩御飯の献立を考えている女の、温かい黄緑色。
仕事の愚痴をこぼす男の、くすんだ藍色。
どれも、人間らしい色だ。
感情と、生活と、体温が混ざり合った、複雑で生々しい色。
(……どこだ)
手元の帳面には、行方不明になった者たちの名と、ざっくりとした素性が記されている。
商家の息子。
裕福な家の娘。
手堅く商売をしていた店の若主人。
どれも「町の中で、それなりに上等な暮らしをしていた」者たちばかりだ。
俺は頭の中で線を引きながら、次の店へ向かった。
最近消えたという、呉服屋の若旦那の話を聞き込む。
「あいつ、人が急に変わったみたいになったかと思ったら、消えちまったんだよ」
呉服屋の近所の男はそう言った。
「前は真面目で、親の言うことばかり聞いてる大人しい奴だったのに。
一週間くらい前かな、ある日急に豪快になってさ。
高い酒を店のみんなに奢ったり、芸者を呼んで騒いだり。
『人生楽しまなきゃ損だ』なんて笑ってたよ。
そんなことやった次の日にいなくなったもんだから、なんかあったんだろうって皆して噂してんのさ」
まるで、別人のように。
(中身が変われば、色も変わる。
いや、中身そのものが別なら――)
その時だった。
向こうから、派手な着物を着た男が歩いてきた。
若い男だ。取り巻きのような男たちを数人引き連れて、大声で笑っている。
「今日は俺の奢りだ! 好きなだけ飲め!」
「よっ、若旦那! 日本一!」
男は上機嫌だ。
顔は赤らみ、目尻は下がり、口は大きく開かれている。
誰がどう見ても、人生の春を謳歌している幸せな若者に見えた。
だが。
(……なんだ、あれ)
俺は、思わず足を止めた。
呼吸が止まるかと思った。
男の周りには、確かに「楽しげな色」が漂っている。
明るい黄色や、興奮の赤が、薄い膜のように男を覆っている。
けれど、その膜のすぐ下。
男の身体の輪郭に沿うように、どす黒い、泥のような色。
それと、鱗滝さんの静かな灰ともまた違う、底の抜けた虚無のような色。
空っぽの洞窟の奥で、何かが飢えてのたうち回っているような、おぞましい気配。
外側の「明るい色」と、内側の「虚無」が、全く混ざり合っていない。
まるで、油と水だ。
誰かの色を、上から無理やり貼り付けているような。
そこに、「その人自身の色」と呼べるものがどこにも見当たらないことが、ひどく気味が悪かった。
(……あれが、鬼だ)
直感が、警鐘を鳴らす。
あれは人間じゃない。
人間の形をした、人間の皮を被った、鬼だ。
男とすれ違う。
男は俺の方を一瞥もしなかった。
俺のような地味な人間など、視界に入れる価値もないと言わんばかりに、楽しげに笑いながら通り過ぎていく。
すれ違いざま、鼻をつくような甘い脂の匂いと、その奥に隠しきれない腐臭がした気がした。
俺は振り返り、男の背中を見送った。
斬りかかりたい衝動を、必死で抑え込む。
(落ち着け。
ここで斬れば、俺がただの辻斬りになる)
衆人環視の中だ。
それに、まだ確証が足りない。
「色が変だから斬りました」では通らない。
だが、目標は見つけた。
俺は、男の背格好を記憶して、その場を離れた。
―――
日が完全に落ち、町に夜の帳が下りた頃。
俺は町外れにある橋の下にいた。
鎹烏が、血相を変えて俺を呼びに来たからだ。
「おい! こっちだ宗右衛! 変なものを見つけた!」
「見つかったか?」
「犬だ! 犬が妙なものを咥えている!」
烏に先導されて川原へ下りると、そこには数匹の野犬がたむろしていた。
何かを奪い合うように唸り声を上げている。
俺が近づくと、犬たちは驚いて散り散りになった。
その場に残されたものを、俺は月明かりの下で覗き込んだ。
「……っ」
息を呑む。
それは、人間の腕の皮だった。
指先から肘のあたりまで。
中身の骨も肉もなく、手袋のようにぺらぺらになった、人の皮。
吐き気がこみ上げてくるのを堪えて、俺は犬たちが逃げていった先、橋の橋脚の裏側へと目を向けた。
そこには、枯れ草や瓦礫に隠されるようにして、古びた小屋の跡があった。
近くの森林の管理のために建てられたのであろう小屋は、既に朽ちて大半が崩れているが、そこから異様な臭気が漂ってきている。
腐った肉の匂いではない。
もっと乾いた、古い皮脂と、獣の匂い。
俺は刀の鯉口を切り、崩れた小屋の中を覗き込んだ。
月光が、小屋の中を照らす。
「…………嘘だろ」
そこにあったのは、人の皮の山だった。
老人のようなしわくちゃな顔の皮。
女の長い髪がついたままの頭皮。
子どもの小さな服のような胴体の皮。
何人分あるか分からない。
それらが、ゴミのように無造作に投げ捨てられ、積み重なっている。
俺の中で、欠片となっていた情報が一本の線で繋がった。
あの鬼の能力は、「皮を被ること」。
中身を食らい、その皮を被ることで、その人間に成りすますのだ。
町に入る時、最初は犬の皮を試しに使ったのだろう。
そして、味をしめて人間に手を出した。
そうして、町の住人の振りをして、次々と新しい皮に着替えては、前の皮をここに捨てに来ている。
行方不明者が「人が変わったようになる」のは当然だ。
中身は、鬼なのだから。
(……許せない)
積み重なった抜け殻から立ち上る、無念。
抜け殻たちの叫びが聞こえるようだった。
俺の視界が、怒りで赤く染まりそうになるのを、深く息を吸って鎮める。
怒るな。
冷静になれ。
怒りは視野を狭くする。
鱗滝さんの教えを思い出せ。
(鬼は、必ずここに戻ってくる)
ここが「捨て場」だ。
新しい皮を着るためには、古い皮を脱がなければならない。
今の皮が古くなれば、また新しい獲物を求めて動き出す。
どちらにせよ、鬼にとってここは都合のいい更衣場なのだろう。
俺は烏を見上げた。
「烏。藤の家の人に伝えてくれ。
今夜は絶対に外出するなと。
戸締まりを厳重にして、誰が訪ねてきても開けるなとな」
「承知した! お前はどうする!」
「俺はここで待つ」
俺は橋脚の闇に身を沈めた。
「ここで張って、あの鬼が着替えに来たところを斬る」
烏が飛び去ると、あたりには川の流れる音だけが残った。
遠くに見える町の灯りは、あんなにも明るい。
祭り囃子のような音が、風に乗って微かに聞こえてくる。
あの中で、あの鬼は笑っているのだ。
盗んだ皮を被って、盗んだ人生を楽しんで、中身のない空虚な腹を満たしている。
本当なら、その人生は、誰かが汗を流して、笑って、泣いて、やっと掴んだもののはずなのに。
刀の柄を握る手に、力がこもる。
俺は目を閉じ、気配を消した。
闇に溶け込み、ただ一つの「異物」が来るのを待つ。
皮を脱ぎ、中身を晒したその瞬間に。
一太刀で、その首を落とすために。
これが、俺の最初の任務だ。
絶対に、失敗はしない。
――今夜、この場所で。
皮を渡り歩く鬼と、俺は初めて真正面から向き合う。