鱗滝の養子   作:松雪草

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23話

 山を下りてから半日。

 俺の目の前には、今まで見たこともない景色が広がっていた。

 

 北西の町。

 名前を聞いたこともなかったその場所は、俺が育った裏長屋のある町よりもずっと大きく、そして活気に満ちていた。

 

 夕暮れ時の通りは、人で溢れかえっている。

 荷車を引く男たちの掛け声。

 夕餉の買い出しをする女たちの笑い声。

 子どもが駆けていく足音。

 店先から漂ってくる、油と醤油の焦げる匂い。

 

 そのすべてが、押し寄せる波のように一気に飛び込んでくる。

 町の入口で足が止まり、こめかみの奥がきゅうと締めつけられた。

 

「おい、どうした宗右衛。

 腹でも痛いのか? 情けないぞ!」

 

 肩に乗った鎹烏が、耳元でギャアギャアと騒ぎ立てる。

 

「……うるさい。ちょっと、人に酔っただけだ」

 

「酔った? 酒でも飲んだのか!」

 

「ちょっと静かにしててくれるか……」

 

 俺は深く息を吐き出して、視界を少しだけ細めた。

 

 狭霧山では、見える色はもっと単純だった。

 木々の緑、土の茶色、水の青。

 たまに通る獣の、生存本能に根ざした単純な警戒色。

 鱗滝さんの、静かで深い湖のような色。

 錆兎と義勇の、燃えるような、あるいは澄み切った色。

 

 けれど、ここは違う。

 

 視界に映る人間の一人一人が、複雑怪奇な色をまき散らしている。

 

 商売人の欲の濁った黄色。

 仕事帰りの男の、疲労が滲む紺色。

 恋人たちの浮ついた桃色。

 誰かを妬む棘のような紫色。

 

 それらが混ざり合い、渦を巻き、泥水のような奔流となって通りを流れている。

 慣れていないせいか、その情報の濁流に脳が揺さぶられるようだった。

 

(……人が暮らす場所の色か)

 

 裏長屋にいた頃は、当たり前のように見ていたはずの光景だ。

 だが、静かな山で研ぎ澄まされた今の感覚には、この雑踏はあまりにも刺激が強すぎた。

 

「……慣れなきゃな」

 

 俺は自分に言い聞かせるように呟いて、再び歩き出した。

 

 ここには、鬼がいる。

 毎夜、人を喰らう化け物が潜んでいる。

 

 これだけ人がいて、活気があって、誰もが当たり前の明日が来ると信じているこの町に。

 

 俺は刀の柄に手を添えた。

 白鼠色の鞘の感触だけが、ここが戦場なのだと教えてくれていた。

 

 ―――

 

 まずは、町の形を頭に入れる必要があった。

 

 俺は通りを端から端まで歩き、路地の入り口や広場、寺や橋の位置を大まかに把握していく。

 往来の人々とすれ違うたび、色を一瞬だけ確かめる。

 

 疲れた苔色、酒の匂いがしそうな赤、子どもの無邪気な白。

 どれも「人間として」自然な揺れ方をしている。

 

(鬼の色は、もっと歪んでいる……はずだ)

 

 そう思ってはいても、見知らぬ人間が多すぎて、判断材料が足りない。

 

 藤襲山のように、「ここに鬼がいるから倒せ」と言われていたわけではない。

 今は、町全体から異物を探し出さねばならない。

 

(そりゃあ、そう簡単に見つかるわけもないか)

 

 一通り大通りを歩き終えたところで、肩の烏を見上げた。

 

「なあ。例の“藤の紋の屋敷”ってやつは?」

 

「うむ! 藤の紋の屋敷! 鬼殺隊の味方!! 案内してやる!!」

 

 鎹烏は得意げに羽を震わせると、ぱっと飛び上がった。

 

「宗右衛、ついてこい!」

 

「分かった、分かった。あんまり目立つなよ」

 

 烏の案内に従って進むと、少し外れた通りに、その屋敷はあった。

 

 黒い瓦屋根に、白い土壁。

 軒先には、藤の花の紋が描かれた暖簾が掲げられている。

 表向きは旅籠か、あるいはそれに近い何かだろう。

 

 鬼殺隊を影から支えてくれる、藤の花の家紋の家だ。

 

「お待ちしておりました。鬼殺隊の剣士様ですね」

 

 出迎えてくれたのは、品の良い年配の女将だった。

 深々と頭を下げられ、俺は慌てて礼を返した。

 

「あ、はい。鱗滝宗右衛といいます。

 あの、そんなに丁寧にしなくて大丈夫です。俺、まだ新人なので」

 

「いいえ。鬼狩り様は、私どもの命の恩人ですから」

 

 女将は穏やかに微笑むと、俺を奥の座敷へと通してくれた。

 

 通された部屋は掃除が行き届いていて、床の間には季節の花が生けられている。

 出された茶と茶菓子を前にして、俺はようやく人心地ついた気がした。

 屋敷の中は静かで、あの町の喧騒が嘘のようだ。

 

「……それで、事件について詳しく聞かせていただけますか」

 

 俺が切り出すと、女将の表情が曇った。

 

「……烏から、事情はお聞きだと」

 

「ええ。ここひと月ほど、この町から人が消えている、と」

 

 女将の話によれば、被害者は年齢も性別もばらばらだという。

 若い娘が消えた日もあれば、働き盛りの男が消えた日もある。

 共通しているのは、「夜に消える」ことと、「跡形もなくいなくなる」こと。

 そしてもう一つ。

 

「消えたのは、皆それなりに身なりのいい者たちばかりなんです。

 商家の跡取り、手代、評判の良かった娘……。

 皆さん、急にいなくなるような人たちではないんです」

 

 それは確かに、鬼の仕業と考えていい状況だった。

 

「それと……妙な噂がありまして」

 

「噂、ですか」

 

「はい。消えた方々は皆、消える少し前から、何やら様子が変わっていたそうなのです」

 

「様子が?」

 

「ええ。たとえば、急に羽振りが良くなって人を伴って飲み歩くようになったり。

 あるいは、内気だった娘が急に派手な着物を着て出歩くようになったり。

 まるで、人が変わったように乱暴になった、とか。

 それが、数日続いたと思ったら、ぱったり消えるのだとか」

 

「ちなみに……喧嘩や争いの跡は?」

 

「そういったものもないので、皆が口をそろえて神隠しにあった、と言うのです」

 

 女将は静かに首を横に振った。

 

 この鬼は少なくとも、その場で派手に人を殺しているわけではない。

 だからこそ、人々は“鬼”ではなく“神隠し”と呼んで、自分たちの理解の外に押しやっているのだ。

 

 それよりも、消える数日前に「人が変わる」。

 その言葉が、今回の鬼の重要な手がかりであるように感じる。

 

「……なるほど。

 他には、何か変わったことはありませんでしたか?」

 

「他に……と言われましても、ここしばらくは神隠しの件でどこも手いっぱいでして……」

 

「どんな些細なことでも構いません。

 神隠しが始まる前、とかでも」

 

 俺が食い下がると、女将は少し考え込んでから、思い出したように口を開いた。

 

「あ、そういえば……関係あるかは分かりませんが。

 神隠しが始まる少し前に、気味の悪い騒ぎがありました」

 

「気味の悪い騒ぎ?」

 

「はい。町の真ん中で、一匹の野良犬の死体が見つかったのです。

 ただの死体ではありません。

 中身が……骨も肉も内臓も、綺麗になくなっていて。

 まるで、皮だけを脱ぎ捨てたように、犬の毛皮だけが落ちていたのだそうです」

 

「……犬の、皮だけ?」

 

「犬のことは、役人に知らせましたけど、ただの悪質な悪戯だろうって。

 そのあとすぐに人がいなくなり始めたので、結局それどころではなくなってしまったんです」

 

 犬をわざわざ皮だけにして、町中に捨てた。

 そんなことをする意味があるとしたら。

 

 逆に考えろ。

 鬼にとって、それが「必要な行動だった」と考えるんだ。

 

 犬の皮を、町のど真ん中に捨てざるを得ない理由があったんだ。

 

 考えるべきは、なぜ犬の中身を抜かなくてはならなかったのか、だ。

 

 単純に考えれば、犬の皮の中に何かを入れるため。

 犬の振りをした何かを、町の中に持ち込むため――。

 

 そこまで考えて、背筋に冷たいものが走った。

 

 中身のない、犬の死体。

 人が変わったようになる、行方不明者たち。

 

(……つながった、気がする)

 

 まだ確信はない。

 だが、嫌な予感の欠片が、音を立てて繋がろうとしていた。

 

「情報、ありがとうございます。

 ……それと、行方不明者の目録をいただいてもよろしいでしょうか?」

 

 俺は残りの茶を一気に飲み干すと、刀を掴んで立ち上がる。

 日が落ちる前に、確かめなければならないことができた。

 

―――

 

 再び通りに出た頃には、空は茜色に染まり始めていた。

 

 家路を急ぐ人々の波に逆らって、俺はゆっくりと歩く。

 視覚を、識彩に集中させる。

 

 山での修行とは違う。

 鬼の「気配」を探すのではない。

 人の中に紛れ込んだ「異物」を探すのだ。

 

 通りすがる人々の色を見る。

 

 今日の売り上げを計算している商人の、そろばんのような茶色。

 晩御飯の献立を考えている女の、温かい黄緑色。

 仕事の愚痴をこぼす男の、くすんだ藍色。

 

 どれも、人間らしい色だ。

 感情と、生活と、体温が混ざり合った、複雑で生々しい色。

 

(……どこだ)

 

 手元の帳面には、行方不明になった者たちの名と、ざっくりとした素性が記されている。

 

 商家の息子。

 裕福な家の娘。

 手堅く商売をしていた店の若主人。

 

 どれも「町の中で、それなりに上等な暮らしをしていた」者たちばかりだ。

 

 俺は頭の中で線を引きながら、次の店へ向かった。

 

 最近消えたという、呉服屋の若旦那の話を聞き込む。

 

「あいつ、人が急に変わったみたいになったかと思ったら、消えちまったんだよ」

 

 呉服屋の近所の男はそう言った。

 

「前は真面目で、親の言うことばかり聞いてる大人しい奴だったのに。

 一週間くらい前かな、ある日急に豪快になってさ。

 高い酒を店のみんなに奢ったり、芸者を呼んで騒いだり。

 『人生楽しまなきゃ損だ』なんて笑ってたよ。

 そんなことやった次の日にいなくなったもんだから、なんかあったんだろうって皆して噂してんのさ」

 

 まるで、別人のように。

 

(中身が変われば、色も変わる。

 いや、中身そのものが別なら――)

 

 その時だった。

 

 向こうから、派手な着物を着た男が歩いてきた。

 若い男だ。取り巻きのような男たちを数人引き連れて、大声で笑っている。

 

「今日は俺の奢りだ! 好きなだけ飲め!」

 

「よっ、若旦那! 日本一!」

 

 男は上機嫌だ。

 顔は赤らみ、目尻は下がり、口は大きく開かれている。

 誰がどう見ても、人生の春を謳歌している幸せな若者に見えた。

 

 だが。

 

(……なんだ、あれ)

 

 俺は、思わず足を止めた。

 呼吸が止まるかと思った。

 

 男の周りには、確かに「楽しげな色」が漂っている。

 明るい黄色や、興奮の赤が、薄い膜のように男を覆っている。

 

 けれど、その膜のすぐ下。

 男の身体の輪郭に沿うように、どす黒い、泥のような色。

 それと、鱗滝さんの静かな灰ともまた違う、底の抜けた虚無のような色。

 

 空っぽの洞窟の奥で、何かが飢えてのたうち回っているような、おぞましい気配。

 

 外側の「明るい色」と、内側の「虚無」が、全く混ざり合っていない。

 まるで、油と水だ。

 誰かの色を、上から無理やり貼り付けているような。

 そこに、「その人自身の色」と呼べるものがどこにも見当たらないことが、ひどく気味が悪かった。

 

(……あれが、鬼だ)

 

 直感が、警鐘を鳴らす。

 

 あれは人間じゃない。

 人間の形をした、人間の皮を被った、鬼だ。

 

 男とすれ違う。

 男は俺の方を一瞥もしなかった。

 

 俺のような地味な人間など、視界に入れる価値もないと言わんばかりに、楽しげに笑いながら通り過ぎていく。

 

 すれ違いざま、鼻をつくような甘い脂の匂いと、その奥に隠しきれない腐臭がした気がした。

 

 俺は振り返り、男の背中を見送った。

 斬りかかりたい衝動を、必死で抑え込む。

 

(落ち着け。

 ここで斬れば、俺がただの辻斬りになる)

 

 衆人環視の中だ。

 それに、まだ確証が足りない。

 「色が変だから斬りました」では通らない。

 

 だが、目標は見つけた。

 俺は、男の背格好を記憶して、その場を離れた。

 

―――

 

 日が完全に落ち、町に夜の帳が下りた頃。

 

 俺は町外れにある橋の下にいた。

 鎹烏が、血相を変えて俺を呼びに来たからだ。

 

「おい! こっちだ宗右衛! 変なものを見つけた!」

 

「見つかったか?」

 

「犬だ! 犬が妙なものを咥えている!」

 

 烏に先導されて川原へ下りると、そこには数匹の野犬がたむろしていた。

 何かを奪い合うように唸り声を上げている。

 

 俺が近づくと、犬たちは驚いて散り散りになった。

 その場に残されたものを、俺は月明かりの下で覗き込んだ。

 

「……っ」

 

 息を呑む。

 

 それは、人間の腕の皮だった。

 指先から肘のあたりまで。

 中身の骨も肉もなく、手袋のようにぺらぺらになった、人の皮。

 

 吐き気がこみ上げてくるのを堪えて、俺は犬たちが逃げていった先、橋の橋脚の裏側へと目を向けた。

 

 そこには、枯れ草や瓦礫に隠されるようにして、古びた小屋の跡があった。

 近くの森林の管理のために建てられたのであろう小屋は、既に朽ちて大半が崩れているが、そこから異様な臭気が漂ってきている。

 

 腐った肉の匂いではない。

 もっと乾いた、古い皮脂と、獣の匂い。

 

 俺は刀の鯉口を切り、崩れた小屋の中を覗き込んだ。

 

 月光が、小屋の中を照らす。

 

「…………嘘だろ」

 

 そこにあったのは、人の皮の山だった。

 

 老人のようなしわくちゃな顔の皮。

 女の長い髪がついたままの頭皮。

 子どもの小さな服のような胴体の皮。

 

 何人分あるか分からない。

 それらが、ゴミのように無造作に投げ捨てられ、積み重なっている。

 

 俺の中で、欠片となっていた情報が一本の線で繋がった。

 

 あの鬼の能力は、「皮を被ること」。

 中身を食らい、その皮を被ることで、その人間に成りすますのだ。

 

 町に入る時、最初は犬の皮を試しに使ったのだろう。

 そして、味をしめて人間に手を出した。

 

 そうして、町の住人の振りをして、次々と新しい皮に着替えては、前の皮をここに捨てに来ている。

 行方不明者が「人が変わったようになる」のは当然だ。

 中身は、鬼なのだから。

 

(……許せない)

 

 積み重なった抜け殻から立ち上る、無念。

 抜け殻たちの叫びが聞こえるようだった。

 

 俺の視界が、怒りで赤く染まりそうになるのを、深く息を吸って鎮める。

 

 怒るな。

 冷静になれ。

 怒りは視野を狭くする。

 鱗滝さんの教えを思い出せ。

 

(鬼は、必ずここに戻ってくる)

 

 ここが「捨て場」だ。

 新しい皮を着るためには、古い皮を脱がなければならない。

 今の皮が古くなれば、また新しい獲物を求めて動き出す。

 

 どちらにせよ、鬼にとってここは都合のいい更衣場なのだろう。

 

 俺は烏を見上げた。

 

「烏。藤の家の人に伝えてくれ。

 今夜は絶対に外出するなと。

 戸締まりを厳重にして、誰が訪ねてきても開けるなとな」

 

「承知した! お前はどうする!」

 

「俺はここで待つ」

 

 俺は橋脚の闇に身を沈めた。

 

「ここで張って、あの鬼が着替えに来たところを斬る」

 

 烏が飛び去ると、あたりには川の流れる音だけが残った。

 

 遠くに見える町の灯りは、あんなにも明るい。

 祭り囃子のような音が、風に乗って微かに聞こえてくる。

 

 あの中で、あの鬼は笑っているのだ。

 盗んだ皮を被って、盗んだ人生を楽しんで、中身のない空虚な腹を満たしている。

 本当なら、その人生は、誰かが汗を流して、笑って、泣いて、やっと掴んだもののはずなのに。

 

 刀の柄を握る手に、力がこもる。

 

 俺は目を閉じ、気配を消した。

 闇に溶け込み、ただ一つの「異物」が来るのを待つ。

 

 皮を脱ぎ、中身を晒したその瞬間に。

 一太刀で、その首を落とすために。

 

 これが、俺の最初の任務だ。

 絶対に、失敗はしない。

 

 ――今夜、この場所で。

 皮を渡り歩く鬼と、俺は初めて真正面から向き合う。

 

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