橋の下を撫でる川の音だけが、絶え間なく続いていた。
北西の町の灯りは、ここからだと遠くにぼんやりと滲んで見える。
さっきまで耳に届いていた笑い声や囃子のような喧騒の音も、今は風に紛れるほどに小さくなっていた。
俺のすぐ横には、人の皮の山がある。
鼻をつく、腐った皮と獣の臭い。
最初は吐き気を催すほどだったが、時間が経つにつれて、鼻が麻痺したのか、あるいは覚悟が決まったのか、不思議と気にならなくなっていた。
(……慣れてきてるのが、嫌だな)
最初に覗き込んだときは、胃が裏返るかと思った。
今も気持ちいいものではないが、こうしてじっと座っていれば、その臭いにさえ人は慣れてしまう。
川音。遠い人々のざわめき。皮の山の臭い。
それ以外のものは、だんだんと薄れていく。
橋の向こうから聞こえていた人の足音も、さっきからほとんど聞こえない。
夜が、深くなってきていた。
俺は、橋脚を登り、柱の陰に身をうずめるようにして、息をひそめる。
識彩を意識の奥に沈めて、必要なものだけを拾い上げるように、目を細める。
遠くから聞こえていた町のざわめきも、今はもうない。
町が眠りにつく時間だ。
(……今日は来ないかもしれない)
そこではたと気づく。
これが、「今日は来ない」のではなく、鬼が町を去ってしまっていたら―――。
そうなれば、この皮の山は、ただの「見つけた死体」で終わる。
同時に、どこか別の町で、同じ山が積み上がっていくことでもある。
烏にあの鬼の後を追わせるべきだったと、判断の甘さを痛感した、そのときだった。
コツ、コツ、と。
遠くから、靴が橋を叩くような音がした。
町からこちらへ向かってくる足音が大きくなっていく。
その後に、ジャリ、と微かな音。
橋を降りて、河原の砂利を踏んだ音だ。
俺は息を殺し、神経を研ぎ澄ませた。
識彩の眼を開く。
闇の向こうに、うっすらと人影が現れ、その周囲に色がにじんでいる。
その色は、人間のものにも見えるが、決して人間のものではない。
帯の輪郭がぼやけていて、中身がスカスカだ。
(……来た)
真夜中の、橋の下。
こんな時間に、普通の人間が来るはずもない。
皮を捨てる鬼と、その鬼を待つ俺以外には。
その肩には、ぐったりとした人間を担いでいる。
息を殺したまま、担がれている方に意識を向ける。
意識はないようだが、呼吸で肩がかすかに揺れている。
ピクリと指先が動く。
まだ、生きている。
俺の心臓が、早鐘を打ち始めた。
今、飛び出せば、間違いなく鬼の不意を突ける。
人間を担いでいる今、奴の体勢は崩れている。
一撃で首を落とせるかもしれない。
鬼を斬るだけなら、それが一番合理的で、確実な方法だ。
でも。
(……鱗滝さんの弟子としては、違うだろ……!)
俺は、鱗滝左近次の弟子だ。
「守るために斬れ」と教えられてきたのに。
守るべき人間が、目の前で鬼に担がれているというのに、鬼を斬ることを優先しようとしたのか、俺は。
思わず、刀の柄をきつく握りしめる。
ほんの一瞬。
本当に、刹那の迷い。
そのわずかな隙間に、鬼の色が跳ね上がった。
ぼんやりした薄緑が、ぱっと濃い赤に弾ける。
驚きと、警戒と、意識が周囲に伸びていく色。
(……っ、やば)
自分の頭の中で、自分に向かって怒鳴る。
(鬼は夜目も鼻も効くのに、何やってんだ俺!)
完全に気づかれる前に、身体が先に飛び出していた。
橋脚から飛び降りる勢いそのまま刀に乗せる。
『捌の型・滝壺』
「――ッ!」
鬼が何か言葉を発するより早く、白鼠色の刃が走った。
肉を裂き、骨を断つ手応えが掌を通して腕に伝わる。
次の瞬間、鬼の右腕が空を舞った。
「ぎゃああああああッ!!?」
甲高い悲鳴が、橋の下に響き渡り、肩から先を失った鬼の身体が大きくよろける。
その隙に、地面に落ちそうになった人の身体を抱き留める。
重い。大人の男だ。
俺はそのまま勢いを利用して転がり、男を岩陰へと引きずり込んだ。
(間に合った)
短くそう思って、鬼の方へと向き直る。
鬼は切り落とされた肩口を押さえ、地面を転げ回っていた。
その様だけを見れば、人間と何も変わらないように見える。
「いってぇぇぇぇぇぇぇッ!! なんだよお前!! いきなり斬りつけてきやがって!!
お、俺の腕が、腕がぁぁぁぁぁ!!!」
鬼が切断面を押さえて、子供のように泣き叫んだ。
その声は哀れで、聞く者の同情を誘うような響きがあった。
だが、俺の目は騙されない。
本来なら恐怖と痛みで真っ赤に染め上がるはずだが、その下で別の色が動いていた。
冷静な、暗い青。
逃げ道を探し、取り繕う言葉を探し、次の手を計算する色。
(……演技だな)
痛みはあるだろう。
ただ、それを利用しているだけだ。
「どうしてこんなことをォ~~……! 俺が……俺が何をしたって言うんだよォ~~……!」
地面を叩き、俺を睨み、喚き散らす。
言葉は哀れみを誘うように取り繕っているが、その言葉に付いてくる色は、どこまでも冷めている。
泣き叫ぶことで相手を油断させようとしているのが、丸見えだった。
「……無駄だ」
俺は刀を構え直し、静かに言った。
「泣き落としは通用しない。
お前は少しも悲しんでなんかいない」
俺の言葉に、鬼の悲鳴がピタリと止まった。
「……なんだ」
さっきまで泣き声を張り上げていた喉から、拍子抜けするような吐息が漏れた。
「バレてんのか」
鬼がゆっくりと顔を上げた。
月明かりに照らされたその顔は、昼間町で見かけた、あの上機嫌な若旦那の顔だった。
だが、その表情には何の感情もなく、ただ冷たい目が俺を見据えていた。
「俺の皮衣(かわごろも)は完璧なはずなんだけどな。
なんでバレたんだ?」
泣き声の残滓もない、平板な声。
さっきまでの芝居をそのまま脱ぎ捨てたような喋り方だ。
「どこが完璧なんだ」
俺は刀を向けたまま吐き捨てるように言った。
「俺の目には、人の人生を食い潰す小汚い盗人にしか見えないな」
鬼の色が、一瞬だけぐちゃりと乱れた。
侮辱に対する怒りというより、もっと何か、別の何かに触れられたような妙な苛立ちの色。
「……はっ」
鬼は鼻で笑う。
「あー……もういいか。
この町もそろそろ飽きてきてたしな。
いい機会だった」
俺に話しかけているようで、内容はどこか上の空。
誰に向けているのかよく分からない独り言に、微かな違和感が残る。
そのとき、鬼の背中が、不自然に盛り上がった。
ぞわり、と首筋を冷たいものが撫でていく。
人間の背中の皮が、内側から押し広げられる。
骨格が歪み、肉と皮の間に、別の何かが這い出ようとしている。
「……っ」
喉の奥がひゅっと鳴る。
セミが殻を割って出てくるのを、人間の身体でやらせたらこんな感じになるのかもしれない。
背中の皮がぱっくりと裂け、中からぬめったものがズルリと顔を出した。
月光が、その輪郭を照らし出す。
痩せぎすで、小柄な鬼だった。
骨ばった肩。こけた頬。薄い唇。
子どものように細い腕と脚。
全体に、栄養の足りない子どものような体つきに見える。
肋骨が浮き出るほど痩せているのに、細い手足が妙に長く、その爪は刃物のように鋭い。
肌は土気色で、目はギョロリと大きく、瞳孔が縦に裂けている。
脱ぎ捨てられた若旦那の皮が、くしゃりと地面に落ちた。
「ふぅ……やっぱり生身は動きやすいな」
鬼は、脱ぎ捨てた若旦那の皮を蹴飛ばして、こちらを品定めするように睨みつける。
「そうだ。お前を皮にして、鬼殺隊に紛れ込めば、『あの方』も喜ぶだろうな」
その「あの方」という言葉にだけ、色が強く跳ねた。
赤黒い、濁った色に。
恐怖? 絶望?
「あの方」を慕うような言葉からは、かけ離れた色。
「あの方、ね……。
名前も言えないような奴のために、こんなことをしてるのか?」
「はっ、俺はな、俺のためにやってるのさ」
鬼は肩を揺らして笑う。
「知ってるか?
人間ってのは馬鹿ばっかりだ。
俺が成りの良い女の皮を被れば、男が山ほど寄ってくる。
金持ちの皮を被れば、誰もが金欲しさに太鼓を叩く。
華族の爺の皮を被った時は、俺が声を出すだけで誰もが地面を這いつくばったもんだ。
分かるか?
『あの方』のために働けば、もっといい皮が手に入る。
もっとマシな人生が、手に入る」
言葉だけ聞けば、傲慢で、卑しい。
だが、その言葉のまわりには、明るい色が一片も浮かばない。
あるのは、薄い虚飾にまみれたような、淡い色だけ。
楽し気な言葉とは裏腹に、鬼の回りには暗い色ばかりが目立つ。
(どうして……こんな)
さっきから感じていた違和感の正体が、少しだけ形を持った気がした。
「さあて」
鬼が、ゆっくりと前傾姿勢を取る。
「鬼狩りの肉なんざ、そうそう喰えるもんじゃねえからなァ。
じっくり味わわせてもらうぜぇ!」
殺意の黒が、全身から噴き上がるように膨らむ。
次の瞬間。
叫びと共に、鬼が地面を蹴った。
速い。
普通の人間なら、目で追うことさえできないだろう。
だが――。
「――遅い」
体感としては、錆兎や義勇の半分もない。
それでも、普通の人間にとっては十分すぎる速さだ。
けれど、それは俺にとっては、ただ速いだけだ。
色が先に動いてしまっている。
色が、未来の鬼の攻撃の軌道を描いてくれる。
殺意が、左側面へと伸びる赤黒の帯となって見える。
俺は半歩下がり、鬼の爪を紙一重でかわす。
更に色が形になりきる前に、一歩だけ退く。
鬼の爪が、さっき俺がいた位置を薙いだ。
風圧で裾が揺れる。
「ちょこまかと……!」
鬼の怒りが赤く強まる。
俺は足元の木片や石を蹴り上げて、鬼の視界を遮る。
振りぬかれた腕に触れた木片が飴のように砕かれ、弾けた石片が橋脚に突き刺さる。
その一撃一撃は、当たれば人間の身体を易々と引き裂くだろう。
だが当たらない。
右。左。上。下。
どこを狙おうとしているのか、その意識がそのまま色になってあふれていた。
(こんなお粗末な攻撃、錆兎なら三合ともたないな)
少しだけ、肩の力が抜ける。
俺はしばらく、避けるだけに徹した。
鬼の身体能力を確かめる。
異形の身体から行われる攻撃を経験する。
この鬼に、どの程度の戦闘経験があるのかを想像する。
一つひとつ、自分の中に積み上げていく。
「逃げてばっかりかよォ!!」
「いや」
鬼の爪をかわしながら、短く答える。
「試してるだけだ」
「はァ?」
「お前、異能持ちの鬼だろ?
俺が、異能の鬼を相手にどの程度やれるのか知りたかったんだ」
「ふ、ふざけるな……!!」
怒号とともに、鬼の爪が振り下ろされる。
その一撃を、俺はあえて避けず、刀を立てて受けた。
金属がぶつかり合う、高い音。
骨の硬さと、その奥の肉の弾力。
重い。当たり前だが、鬼とまともな力比べは出来ない。
「……なるほど」
小さく呟き、膝を抜き、鬼の体勢を崩させるように受け流す。
崩れた鬼の身体に刃を走らせ、その肘から先を切り払った。
ぶしゅ、と血が飛び散る。
「ぎっ……!」
さっきよりも短く、濁った悲鳴。
地面に落ちた腕が、ごろりと転がる。
だが、斬り落とされた肩口から、すぐに肉が蠢き始めた。
骨が伸び、筋が繋がり、皮がかぶさっていく。
「再生は……早いな」
今度は、跳びかかってくる瞬間に、すれ違うようにして軸足をなぎ払う。
鬼の身体が派手に転がる。
足もまた、すぐに再生を始めている。
俺は斬りながら、どこか冷静に鬼を見ている。
この硬さ、この膂力、この再生速度。
探すとなれば厄介な異能だが、戦いとなれば錆兎や義勇ほどの恐ろしさもない。
その時だった。
鬼の色が、ふっと変わった。
集中と僅かな緊張、焦り。
「何かをする」とき特有の、群青の帯。
(なにをする気だ……?)
意識がそちらに向いた、その刹那。
鬼の口元が、ぐにゃりと歪んだ。
唇が、あり得ないほど前へ突き出される。
蚊の口のように細く尖り、その先から黒い針のようなものがぬるりと伸びた。
「死ね!」
鬼が叫ぶ。
手も足も利かない状態から、不意打ちを狙った、最速の一撃。
(刺されれば勝てる、とでも思ってる色だな)
針が、俺の胸元を目掛けて一直線に伸びてくる。
けれど、それよりも先に鬼の狙いを色が教えてくれている。
「ここだ」と。
俺は半身だけ、すっとずらした。
針が、ほんの紙一重で脇を抜けていく。
鼻先に、腐った甘い匂いがかすめた。
「なっ――」
鬼が驚愕の声を上げる。
すれ違いざまに、俺は刀を振り下ろした。
黒い針を根元から叩き斬る。
細いのに、岩を切る時のような手応え。
切り落とされた針の先から、黒い液体が飛び散り、地面に落ちたそれが、じゅっ、と音を立てて土を焼いた。
「なんで……なんで当たらねぇんだよ!
なんで全部読まれるんだよぉ!!」
「俺には見えてるんだ」
俺は刀についた血を振り払い、静かに歩み寄った。
「お前が何をしようとしているのかも。
お前が何を感じているのかも、全部な」
「ひっ……あっ!」
鬼が震えながら、俺を見る。
その周りの色が、目まぐるしく変わっていく。
怒り、焦り、恐怖。
そして、それらの奥底にある、もっと根源的な色。
灰色だ。
何もかも諦めたような、空っぽの灰色。
(……やっぱり、そうだ)
戦いながらも、目が離せなかった。
鱗滝さんや、義勇のような「俺が読めない灰色」じゃない。
見えているのに、色が無い。
この鬼の中には、明るい色が一度も浮かばない。
町ですれ違ったときも。
今、こうして俺と向き合っているときも。
傲慢な物言い。
人間を踏み台にして笑うような言葉。
それらは全部、空っぽだ。
人の皮を被り、贅沢な暮らしをし、欲望のままに生きていたはずなのに。
その中身には、喜びの色など欠片もなかった。
あるのは、飢えと、寒さと、埋まらない孤独に苦しむような、暗い色だけ。
裏長屋で見てきた、腹を空かせた子どもたちの顔が頭をよぎる。
自分が劣っていると嘲られ、見下され、それでも生きるために笑うしかなかった目。
細く痩せた腕と、ささくれ立った掌。
目の前の鬼の体つきと、その色とが、いやでも重なってしまった。
(……なんだよ、なんでこんなに、虚しいんだ)
そんな感情が、胸のどこかにじわりと滲む。
人の人生を喰い散らかしておきながら、どこまでいっても満たされない。
誰かの皮を被って歩きながら、一度も「幸せ」のない人生だったのか。
「なあ、お前」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「そんなふうに生きてきて……楽しかったか?」
「は?」
鬼が目を剥く。
色が、一瞬ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた。
驚きと困惑と、ほんのわずかな戸惑い。
「突然何言って――」
「今だってそうだ。
なんで、そんなに、苦しそうなんだ……。
助けてって、叫ぶような色なんだよ……」
鬼の顔に、一瞬だけ、何とも言えない影が差した。
「……お前、お前に何が……ッ!!」
それを塗りつぶすように、すぐに怒りの赤が表面を覆う。
「クソックソッ!! うるせえ、うるせえよ!!」
怒鳴りながら、また飛びかかってくる。
けれど、その意識はもう、攻撃の意思はなかった。
(逃げようとしてる……)
意識の向きが、はっきりとそう告げている。
話を続ければ、もう少し違う何かが聞けるのかもしれない。
この鬼が、人間だった頃のことも。
どうしてこんなふうになったのかも。
でも――。
(ここで逃せば、また誰かの皮が増える)
橋の下の山が、目の端に映る。
ゴミのように積み上げられた抜け殻たち。
もうこれ以上、あれを増やすわけにはいかない。
同情と、怒りと、やりきれなさ。
いくつもの感情が胸の奥で絡み合う。
鱗滝さんの言葉が、耳の奥で蘇った。
『人が人として生きるために、我々は鬼と戦うのだ。
我々の背の後ろには、守らなければならないものがある』
(俺が、ここで斬らなきゃいけない)
そう思った。
鬼の色が、決定的に「恐怖」に傾いた瞬間。
背を向けて逃げようとした、その一瞬。
俺は、地面を蹴った。
水の呼吸が、身体の中で静かに満ちる。
肺に取り込んだ空気が、全身に駆け巡るような感覚。
「水の呼吸……伍の型」
刀を構えた腕に、静かな力が宿る。
「干天の慈雨」
踏み込みは、柔らかかった。
鬼にとって、痛みも恐怖も、これ以上増えないように。
ただ、降り注ぐ雨のように。
乾ききった大地に、そっと落ちる一滴のように。
一太刀で、首を落とす。
鋼が骨を断ち、肉を分ける感触。
黒い血が、夜の川面に散った。
「っ……」
鬼の頭が、地面を転がる。
その目が、大きく見開かれていた。
そこにあったのは、憎しみでも、怒りでも、恨みでもない。
ただ、理解できないものを前にした子どものような、茫然とした色。
「なんで……」
転がった口が、かすれた声で零す。
「なんで、俺ばっかり……」
その問いは、きっと誰にも届かない。
それは、ずっと心の中で繰り返してきた言葉なのだろう。
やがて、鬼の身体から、色がすうっと抜けていった。
初めからここには何もいなかったように。
全部、夜の闇に溶けるように消えていく。
(……さよなら)
胸の奥で、そう呟いた。
俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
刀を振り払い、鞘に収める。
カチン、という鍔鳴りの音が、静寂に戻った河原に響いた。
終わった。
初めての任務。
初めての異能の鬼。
俺の手で、斬った。
そして残ったのは、戦闘の跡と、死体と呼ぶにはあまりにも歪な抜け殻だけ。
岩の影に戻り、気を失っている男の様子を確かめる。
呼吸は浅いが、整っている。
さっきは気付かなかったが、酒臭い。
酔っぱらって寝ているだけのようだ。
気が抜けて、どっと疲れが押し寄せてくる。
「……大丈夫だ。もう大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように呟き、刀の柄にそっと手を置いた。
俺は、自分が思っていたよりもずっと冷静に、あいつを斬ることができた。
けれど、胸の奥には、割り切れない重いしこりが残っていた。
あの鬼の、最後の色。
空っぽの灰色。
(錆兎なら、迷いなく斬っただろうか。
義勇なら、何を思いながら首を落としただろう)
ふと、二人の顔が浮かんだ。
そうだ、やるべきことは変わらない。
守るために斬る。
盗まれる人生を、これ以上増やさないために。
そして――俺が俺のままでいるために、斬る。
そう、決めたのに―――
「宗右衛! 宗右衛!!」
橋の上から、鎹烏の声が飛んできた。
「よくやった! 初陣にしては上出来だ!」
どこから見ていたのか、鎹烏が嬉しそうに声をあげる。
「……ああ、そうだな」
俺は空を見上げ、短く答える。
川風が、橋の下を抜けていった。
戦いの熱と、胸の奥のざらつきを、ほんの少しだけ連れ去っていくように感じた。