鱗滝の養子   作:松雪草

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24話

 橋の下を撫でる川の音だけが、絶え間なく続いていた。

 

 北西の町の灯りは、ここからだと遠くにぼんやりと滲んで見える。

 さっきまで耳に届いていた笑い声や囃子のような喧騒の音も、今は風に紛れるほどに小さくなっていた。

 

 俺のすぐ横には、人の皮の山がある。

 

 鼻をつく、腐った皮と獣の臭い。

 最初は吐き気を催すほどだったが、時間が経つにつれて、鼻が麻痺したのか、あるいは覚悟が決まったのか、不思議と気にならなくなっていた。

 

(……慣れてきてるのが、嫌だな)

 

 最初に覗き込んだときは、胃が裏返るかと思った。

 今も気持ちいいものではないが、こうしてじっと座っていれば、その臭いにさえ人は慣れてしまう。

 

 川音。遠い人々のざわめき。皮の山の臭い。

 それ以外のものは、だんだんと薄れていく。

 

 橋の向こうから聞こえていた人の足音も、さっきからほとんど聞こえない。

 夜が、深くなってきていた。

 

 俺は、橋脚を登り、柱の陰に身をうずめるようにして、息をひそめる。

 識彩を意識の奥に沈めて、必要なものだけを拾い上げるように、目を細める。

 

 遠くから聞こえていた町のざわめきも、今はもうない。

 町が眠りにつく時間だ。

 

(……今日は来ないかもしれない)

 

 そこではたと気づく。

 

 これが、「今日は来ない」のではなく、鬼が町を去ってしまっていたら―――。

 

 そうなれば、この皮の山は、ただの「見つけた死体」で終わる。

 

 同時に、どこか別の町で、同じ山が積み上がっていくことでもある。

 

 烏にあの鬼の後を追わせるべきだったと、判断の甘さを痛感した、そのときだった。

 

 コツ、コツ、と。

 

 遠くから、靴が橋を叩くような音がした。

 町からこちらへ向かってくる足音が大きくなっていく。

 

 その後に、ジャリ、と微かな音。

 橋を降りて、河原の砂利を踏んだ音だ。

 

 俺は息を殺し、神経を研ぎ澄ませた。

 識彩の眼を開く。

 

 闇の向こうに、うっすらと人影が現れ、その周囲に色がにじんでいる。

 

 その色は、人間のものにも見えるが、決して人間のものではない。

 帯の輪郭がぼやけていて、中身がスカスカだ。

 

(……来た)

 

 真夜中の、橋の下。

 こんな時間に、普通の人間が来るはずもない。

 皮を捨てる鬼と、その鬼を待つ俺以外には。

 

 その肩には、ぐったりとした人間を担いでいる。

 息を殺したまま、担がれている方に意識を向ける。

 

 意識はないようだが、呼吸で肩がかすかに揺れている。

 ピクリと指先が動く。

 まだ、生きている。

 

 俺の心臓が、早鐘を打ち始めた。

 

 今、飛び出せば、間違いなく鬼の不意を突ける。

 人間を担いでいる今、奴の体勢は崩れている。

 

 一撃で首を落とせるかもしれない。

 鬼を斬るだけなら、それが一番合理的で、確実な方法だ。

 

 でも。

 

(……鱗滝さんの弟子としては、違うだろ……!)

 

 俺は、鱗滝左近次の弟子だ。

 「守るために斬れ」と教えられてきたのに。

 守るべき人間が、目の前で鬼に担がれているというのに、鬼を斬ることを優先しようとしたのか、俺は。

 

 思わず、刀の柄をきつく握りしめる。

 

 ほんの一瞬。

 本当に、刹那の迷い。

 そのわずかな隙間に、鬼の色が跳ね上がった。

 

 ぼんやりした薄緑が、ぱっと濃い赤に弾ける。

 驚きと、警戒と、意識が周囲に伸びていく色。

 

(……っ、やば)

 

 自分の頭の中で、自分に向かって怒鳴る。

 

(鬼は夜目も鼻も効くのに、何やってんだ俺!)

 

 完全に気づかれる前に、身体が先に飛び出していた。

 橋脚から飛び降りる勢いそのまま刀に乗せる。

 

 『捌の型・滝壺』

 

「――ッ!」

 

 鬼が何か言葉を発するより早く、白鼠色の刃が走った。

 肉を裂き、骨を断つ手応えが掌を通して腕に伝わる。

 

 次の瞬間、鬼の右腕が空を舞った。

 

「ぎゃああああああッ!!?」

 

 甲高い悲鳴が、橋の下に響き渡り、肩から先を失った鬼の身体が大きくよろける。

 

 その隙に、地面に落ちそうになった人の身体を抱き留める。

 重い。大人の男だ。

 俺はそのまま勢いを利用して転がり、男を岩陰へと引きずり込んだ。

 

(間に合った)

 

 短くそう思って、鬼の方へと向き直る。

 

 鬼は切り落とされた肩口を押さえ、地面を転げ回っていた。

 その様だけを見れば、人間と何も変わらないように見える。

 

「いってぇぇぇぇぇぇぇッ!! なんだよお前!! いきなり斬りつけてきやがって!!

 お、俺の腕が、腕がぁぁぁぁぁ!!!」

 

 鬼が切断面を押さえて、子供のように泣き叫んだ。

 その声は哀れで、聞く者の同情を誘うような響きがあった。

 

 だが、俺の目は騙されない。

 

 本来なら恐怖と痛みで真っ赤に染め上がるはずだが、その下で別の色が動いていた。

 冷静な、暗い青。

 逃げ道を探し、取り繕う言葉を探し、次の手を計算する色。

 

(……演技だな)

 

 痛みはあるだろう。

 ただ、それを利用しているだけだ。

 

「どうしてこんなことをォ~~……! 俺が……俺が何をしたって言うんだよォ~~……!」

 

 地面を叩き、俺を睨み、喚き散らす。

 言葉は哀れみを誘うように取り繕っているが、その言葉に付いてくる色は、どこまでも冷めている。

 泣き叫ぶことで相手を油断させようとしているのが、丸見えだった。

 

「……無駄だ」

 

 俺は刀を構え直し、静かに言った。

 

「泣き落としは通用しない。

 お前は少しも悲しんでなんかいない」

 

 俺の言葉に、鬼の悲鳴がピタリと止まった。

 

「……なんだ」

 

 さっきまで泣き声を張り上げていた喉から、拍子抜けするような吐息が漏れた。

 

「バレてんのか」

 

 鬼がゆっくりと顔を上げた。

 月明かりに照らされたその顔は、昼間町で見かけた、あの上機嫌な若旦那の顔だった。

 だが、その表情には何の感情もなく、ただ冷たい目が俺を見据えていた。

 

「俺の皮衣(かわごろも)は完璧なはずなんだけどな。

 なんでバレたんだ?」

 

 泣き声の残滓もない、平板な声。

 さっきまでの芝居をそのまま脱ぎ捨てたような喋り方だ。

 

「どこが完璧なんだ」

 

 俺は刀を向けたまま吐き捨てるように言った。

 

「俺の目には、人の人生を食い潰す小汚い盗人にしか見えないな」

 

 鬼の色が、一瞬だけぐちゃりと乱れた。

 侮辱に対する怒りというより、もっと何か、別の何かに触れられたような妙な苛立ちの色。

 

「……はっ」

 

 鬼は鼻で笑う。

 

「あー……もういいか。

 この町もそろそろ飽きてきてたしな。

 いい機会だった」

 

 俺に話しかけているようで、内容はどこか上の空。

 誰に向けているのかよく分からない独り言に、微かな違和感が残る。

 

 そのとき、鬼の背中が、不自然に盛り上がった。

 

 ぞわり、と首筋を冷たいものが撫でていく。

 人間の背中の皮が、内側から押し広げられる。

 骨格が歪み、肉と皮の間に、別の何かが這い出ようとしている。

 

「……っ」

 

 喉の奥がひゅっと鳴る。

 

 セミが殻を割って出てくるのを、人間の身体でやらせたらこんな感じになるのかもしれない。

 背中の皮がぱっくりと裂け、中からぬめったものがズルリと顔を出した。

 

 月光が、その輪郭を照らし出す。

 

 痩せぎすで、小柄な鬼だった。

 

 骨ばった肩。こけた頬。薄い唇。

 子どものように細い腕と脚。

 全体に、栄養の足りない子どものような体つきに見える。

 肋骨が浮き出るほど痩せているのに、細い手足が妙に長く、その爪は刃物のように鋭い。

 

 肌は土気色で、目はギョロリと大きく、瞳孔が縦に裂けている。

 脱ぎ捨てられた若旦那の皮が、くしゃりと地面に落ちた。

 

「ふぅ……やっぱり生身は動きやすいな」

 

 鬼は、脱ぎ捨てた若旦那の皮を蹴飛ばして、こちらを品定めするように睨みつける。

 

「そうだ。お前を皮にして、鬼殺隊に紛れ込めば、『あの方』も喜ぶだろうな」

 

 その「あの方」という言葉にだけ、色が強く跳ねた。

 赤黒い、濁った色に。

 

 恐怖? 絶望?

 「あの方」を慕うような言葉からは、かけ離れた色。

 

「あの方、ね……。

 名前も言えないような奴のために、こんなことをしてるのか?」

 

「はっ、俺はな、俺のためにやってるのさ」

 

 鬼は肩を揺らして笑う。

 

「知ってるか?

 人間ってのは馬鹿ばっかりだ。

 俺が成りの良い女の皮を被れば、男が山ほど寄ってくる。

 金持ちの皮を被れば、誰もが金欲しさに太鼓を叩く。

 華族の爺の皮を被った時は、俺が声を出すだけで誰もが地面を這いつくばったもんだ。

 分かるか?

 『あの方』のために働けば、もっといい皮が手に入る。

 もっとマシな人生が、手に入る」

 

 言葉だけ聞けば、傲慢で、卑しい。

 だが、その言葉のまわりには、明るい色が一片も浮かばない。

 あるのは、薄い虚飾にまみれたような、淡い色だけ。

 楽し気な言葉とは裏腹に、鬼の回りには暗い色ばかりが目立つ。

 

(どうして……こんな)

 

 さっきから感じていた違和感の正体が、少しだけ形を持った気がした。

 

「さあて」

 

 鬼が、ゆっくりと前傾姿勢を取る。

 

「鬼狩りの肉なんざ、そうそう喰えるもんじゃねえからなァ。

 じっくり味わわせてもらうぜぇ!」

 

 殺意の黒が、全身から噴き上がるように膨らむ。

 次の瞬間。

 叫びと共に、鬼が地面を蹴った。

 

 速い。

 普通の人間なら、目で追うことさえできないだろう。

 だが――。

 

「――遅い」

 

 体感としては、錆兎や義勇の半分もない。

 それでも、普通の人間にとっては十分すぎる速さだ。

 けれど、それは俺にとっては、ただ速いだけだ。

 

 色が先に動いてしまっている。

 色が、未来の鬼の攻撃の軌道を描いてくれる。

 

 殺意が、左側面へと伸びる赤黒の帯となって見える。

 俺は半歩下がり、鬼の爪を紙一重でかわす。

 

 更に色が形になりきる前に、一歩だけ退く。

 鬼の爪が、さっき俺がいた位置を薙いだ。

 風圧で裾が揺れる。

 

「ちょこまかと……!」

 

 鬼の怒りが赤く強まる。

 俺は足元の木片や石を蹴り上げて、鬼の視界を遮る。

 

 振りぬかれた腕に触れた木片が飴のように砕かれ、弾けた石片が橋脚に突き刺さる。

 その一撃一撃は、当たれば人間の身体を易々と引き裂くだろう。

 だが当たらない。

 

 右。左。上。下。

 

 どこを狙おうとしているのか、その意識がそのまま色になってあふれていた。

 

(こんなお粗末な攻撃、錆兎なら三合ともたないな)

 

 少しだけ、肩の力が抜ける。

 俺はしばらく、避けるだけに徹した。

 

 鬼の身体能力を確かめる。

 異形の身体から行われる攻撃を経験する。

 この鬼に、どの程度の戦闘経験があるのかを想像する。

 一つひとつ、自分の中に積み上げていく。

 

「逃げてばっかりかよォ!!」

 

「いや」

 

 鬼の爪をかわしながら、短く答える。

 

「試してるだけだ」

 

「はァ?」

 

「お前、異能持ちの鬼だろ?

 俺が、異能の鬼を相手にどの程度やれるのか知りたかったんだ」

 

「ふ、ふざけるな……!!」

 

 怒号とともに、鬼の爪が振り下ろされる。

 その一撃を、俺はあえて避けず、刀を立てて受けた。

 

 金属がぶつかり合う、高い音。

 骨の硬さと、その奥の肉の弾力。

 重い。当たり前だが、鬼とまともな力比べは出来ない。

 

「……なるほど」

 

 小さく呟き、膝を抜き、鬼の体勢を崩させるように受け流す。

 崩れた鬼の身体に刃を走らせ、その肘から先を切り払った。

 

 ぶしゅ、と血が飛び散る。

 

「ぎっ……!」

 

 さっきよりも短く、濁った悲鳴。

 地面に落ちた腕が、ごろりと転がる。

 だが、斬り落とされた肩口から、すぐに肉が蠢き始めた。

 骨が伸び、筋が繋がり、皮がかぶさっていく。

 

「再生は……早いな」

 

 今度は、跳びかかってくる瞬間に、すれ違うようにして軸足をなぎ払う。

 鬼の身体が派手に転がる。

 足もまた、すぐに再生を始めている。

 

 俺は斬りながら、どこか冷静に鬼を見ている。

 この硬さ、この膂力、この再生速度。

 探すとなれば厄介な異能だが、戦いとなれば錆兎や義勇ほどの恐ろしさもない。

 

 その時だった。

 鬼の色が、ふっと変わった。

 集中と僅かな緊張、焦り。

 「何かをする」とき特有の、群青の帯。

 

(なにをする気だ……?)

 

 意識がそちらに向いた、その刹那。

 鬼の口元が、ぐにゃりと歪んだ。

 

 唇が、あり得ないほど前へ突き出される。

 蚊の口のように細く尖り、その先から黒い針のようなものがぬるりと伸びた。

 

「死ね!」

 

 鬼が叫ぶ。

 手も足も利かない状態から、不意打ちを狙った、最速の一撃。

 

(刺されれば勝てる、とでも思ってる色だな)

 

 針が、俺の胸元を目掛けて一直線に伸びてくる。

 けれど、それよりも先に鬼の狙いを色が教えてくれている。

 「ここだ」と。

 

 俺は半身だけ、すっとずらした。

 

 針が、ほんの紙一重で脇を抜けていく。

 鼻先に、腐った甘い匂いがかすめた。

 

「なっ――」

 

 鬼が驚愕の声を上げる。

 すれ違いざまに、俺は刀を振り下ろした。

 

 黒い針を根元から叩き斬る。

 細いのに、岩を切る時のような手応え。

 

 切り落とされた針の先から、黒い液体が飛び散り、地面に落ちたそれが、じゅっ、と音を立てて土を焼いた。

 

「なんで……なんで当たらねぇんだよ!

 なんで全部読まれるんだよぉ!!」

 

「俺には見えてるんだ」

 

 俺は刀についた血を振り払い、静かに歩み寄った。

 

「お前が何をしようとしているのかも。

 お前が何を感じているのかも、全部な」

 

「ひっ……あっ!」

 

 鬼が震えながら、俺を見る。

 その周りの色が、目まぐるしく変わっていく。

 

 怒り、焦り、恐怖。

 そして、それらの奥底にある、もっと根源的な色。

 

 灰色だ。

 何もかも諦めたような、空っぽの灰色。

 

(……やっぱり、そうだ)

 

 戦いながらも、目が離せなかった。

 鱗滝さんや、義勇のような「俺が読めない灰色」じゃない。

 見えているのに、色が無い。

 

 この鬼の中には、明るい色が一度も浮かばない。

 町ですれ違ったときも。

 今、こうして俺と向き合っているときも。

 

 傲慢な物言い。

 人間を踏み台にして笑うような言葉。

 それらは全部、空っぽだ。

 

 人の皮を被り、贅沢な暮らしをし、欲望のままに生きていたはずなのに。

 その中身には、喜びの色など欠片もなかった。

 あるのは、飢えと、寒さと、埋まらない孤独に苦しむような、暗い色だけ。

 

 裏長屋で見てきた、腹を空かせた子どもたちの顔が頭をよぎる。

 自分が劣っていると嘲られ、見下され、それでも生きるために笑うしかなかった目。

 細く痩せた腕と、ささくれ立った掌。

 

 目の前の鬼の体つきと、その色とが、いやでも重なってしまった。

 

(……なんだよ、なんでこんなに、虚しいんだ)

 

 そんな感情が、胸のどこかにじわりと滲む。

 人の人生を喰い散らかしておきながら、どこまでいっても満たされない。

 誰かの皮を被って歩きながら、一度も「幸せ」のない人生だったのか。

 

「なあ、お前」

 

 気づけば、口が勝手に動いていた。

 

「そんなふうに生きてきて……楽しかったか?」

 

「は?」

 

 鬼が目を剥く。

 色が、一瞬ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた。

 驚きと困惑と、ほんのわずかな戸惑い。

 

「突然何言って――」

 

「今だってそうだ。

 なんで、そんなに、苦しそうなんだ……。

 助けてって、叫ぶような色なんだよ……」

 

 鬼の顔に、一瞬だけ、何とも言えない影が差した。

 

「……お前、お前に何が……ッ!!」

 

 それを塗りつぶすように、すぐに怒りの赤が表面を覆う。

 

「クソックソッ!! うるせえ、うるせえよ!!」

 

 怒鳴りながら、また飛びかかってくる。

 けれど、その意識はもう、攻撃の意思はなかった。

 

(逃げようとしてる……)

 

 意識の向きが、はっきりとそう告げている。

 

 話を続ければ、もう少し違う何かが聞けるのかもしれない。

 この鬼が、人間だった頃のことも。

 どうしてこんなふうになったのかも。

 

 でも――。

 

(ここで逃せば、また誰かの皮が増える)

 

 橋の下の山が、目の端に映る。

 ゴミのように積み上げられた抜け殻たち。

 もうこれ以上、あれを増やすわけにはいかない。

 

 同情と、怒りと、やりきれなさ。

 いくつもの感情が胸の奥で絡み合う。

 

 鱗滝さんの言葉が、耳の奥で蘇った。

 

『人が人として生きるために、我々は鬼と戦うのだ。

 我々の背の後ろには、守らなければならないものがある』

 

(俺が、ここで斬らなきゃいけない)

 

 そう思った。

 

 鬼の色が、決定的に「恐怖」に傾いた瞬間。

 背を向けて逃げようとした、その一瞬。

 

 俺は、地面を蹴った。

 

 水の呼吸が、身体の中で静かに満ちる。

 肺に取り込んだ空気が、全身に駆け巡るような感覚。

 

「水の呼吸……伍の型」

 

 刀を構えた腕に、静かな力が宿る。

 

「干天の慈雨」

 

 踏み込みは、柔らかかった。

 鬼にとって、痛みも恐怖も、これ以上増えないように。

 

 ただ、降り注ぐ雨のように。

 乾ききった大地に、そっと落ちる一滴のように。

 

 一太刀で、首を落とす。

 

 鋼が骨を断ち、肉を分ける感触。

 黒い血が、夜の川面に散った。

 

「っ……」

 

 鬼の頭が、地面を転がる。

 その目が、大きく見開かれていた。

 そこにあったのは、憎しみでも、怒りでも、恨みでもない。

 

 ただ、理解できないものを前にした子どものような、茫然とした色。

 

「なんで……」

 

 転がった口が、かすれた声で零す。

 

「なんで、俺ばっかり……」

 

 その問いは、きっと誰にも届かない。

 それは、ずっと心の中で繰り返してきた言葉なのだろう。

 

 やがて、鬼の身体から、色がすうっと抜けていった。

 初めからここには何もいなかったように。

 全部、夜の闇に溶けるように消えていく。

 

(……さよなら)

 

 胸の奥で、そう呟いた。

 

 俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 刀を振り払い、鞘に収める。

 カチン、という鍔鳴りの音が、静寂に戻った河原に響いた。

 

 終わった。

 初めての任務。

 初めての異能の鬼。

 

 俺の手で、斬った。

 

 そして残ったのは、戦闘の跡と、死体と呼ぶにはあまりにも歪な抜け殻だけ。

 

 岩の影に戻り、気を失っている男の様子を確かめる。

 呼吸は浅いが、整っている。

 さっきは気付かなかったが、酒臭い。

 酔っぱらって寝ているだけのようだ。

 

 気が抜けて、どっと疲れが押し寄せてくる。

 

「……大丈夫だ。もう大丈夫だ」

 

 自分に言い聞かせるように呟き、刀の柄にそっと手を置いた。

 

 俺は、自分が思っていたよりもずっと冷静に、あいつを斬ることができた。

 けれど、胸の奥には、割り切れない重いしこりが残っていた。

 あの鬼の、最後の色。

 空っぽの灰色。

 

(錆兎なら、迷いなく斬っただろうか。

 義勇なら、何を思いながら首を落としただろう)

 

 ふと、二人の顔が浮かんだ。

 そうだ、やるべきことは変わらない。

 守るために斬る。

 盗まれる人生を、これ以上増やさないために。

 

 そして――俺が俺のままでいるために、斬る。

 

 そう、決めたのに―――

 

「宗右衛! 宗右衛!!」

 

 橋の上から、鎹烏の声が飛んできた。

 

「よくやった! 初陣にしては上出来だ!」

 

 どこから見ていたのか、鎹烏が嬉しそうに声をあげる。

 

「……ああ、そうだな」

 

 俺は空を見上げ、短く答える。

 

 川風が、橋の下を抜けていった。

 戦いの熱と、胸の奥のざらつきを、ほんの少しだけ連れ去っていくように感じた。

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