夜明け前の空が、藍色から白茶けた色へと変わろうとしていた。
橋の下を流れる川音だけが、変わらずに響き続けている。
俺は、白鼠色の刀を鞘に収め、呆然と立ち尽くしていた。
足元には、鬼が崩れ去ったあとの灰が、風に吹かれて散り散りになろうとしている。
その少し離れた場所には、異様な光景が広がっていた。
人の皮の山。
無造作に積み上げられた、かつて誰かだったものたちの抜け殻。
そして、岩陰には、俺が助け出した男が一人、気を失って横たわっている。
(……終わったのか?)
確かに鬼は斬った。
この男の命も守った。
だが、胸の奥には鉛を飲み込んだような重苦しさが残っていた。
この山が築かれた時点で、もう手遅れだった命がこれだけある。
俺が来る前に、奪われてしまった日常がこれだけある。
(……この人を、町まで送り届けないとな)
男を背負おうと身をかがめた時だった。
ふと、橋の上から複数の足音が聞こえてきた。
誰かが、橋の縁から身を乗り出して下を覗き込んでいる。
「……こちらです!」
低い声がして、数人分の足音が一斉に動き始める。
「鬼殺隊士、鱗滝宗右衛殿でお間違いないでしょうか」
「は、はい」
顔を上げると、黒い装束に身を包み、顔の下半分を布で隠した男たちが数人、橋の欄干から身軽に飛び降りてきた。
背中には大きく『隠』の一文字。
鬼殺隊の事後処理部隊、「隠(かくし)」だ。
「隠の者です。お怪我はありませんか?」
代表らしき男が、手際よく周囲を見渡しながら俺に問う。
「はい。怪我はありません。
鬼は……斬りました」
「ご苦労様です。状況は?」
俺は努めて冷静に、事実だけを伝えた。
人の皮を被って他人に成りすます鬼だったこと。
ここにある皮の山は、すべてその犠牲者であること。
そして、この気絶している男が、今夜の獲物になるはずだったこと。
隠たちは、眉一つ動かさずに俺の話を聞いていたが、皮の山を見た瞬間、僅かに息を呑む気配がした。
「……承知いたしました。
ここから先は、我々にお任せください」
隠の一人が、手際よく男を担架に乗せようとする。
別の一人は、皮の山へと近づいていく。
「あの、俺も手伝います」
思わず口に出していた。
これだけの惨状だ。少しでも人手が欲しいはずだ。
それに、俺だけがここで「終わった」顔をして帰るわけにはいかない気がした。
だが、代表の隠は、静かに首を横に振った。
「お気持ちは有難いですが、無用です。
鬼を斬っていただいたうえに、後始末までまでさせるわけには参りません。
それが、我々の役目ですので」
丁寧に、しかし拒絶の意志を含んだ言葉だった。
言い返そうとして、言葉に詰まる。
(……役目、か)
俺は刀の柄を握りしめた。
彼らの言うことはもっともだ。
だが、助けられなかった人間の方が多いのに、こうして感謝され、労われることに、どうにも落ち着かない。
何かしなければいけない気がする一方で、他人の仕事を取り上げてまで手を出すのは違うようにも思えた。
「じゃあ……せめて、見ていてもいいですか?」
俺が言うと、隠は少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いた。
「もちろんです。
お疲れでしたら、藤の家にお戻りいただいても構いません。」
「いえ。少し、ここにいさせてください」
俺は橋脚にもたれかかり、彼らの作業を見守ることにした。
―――
隠たちの仕事は、迅速かつ丁寧だった。
一人が皮の山を崩し、一枚ずつ丁寧に広げて、大きな白布の上に並べていく。
まるで、遺体を扱うように――。
そんな感想が浮かんでしまうほどの異様な遺体だ。
もう一人は、皮の近くに落ちていた指輪や髪飾り、巾着などの遺品を拾い集め、小さな布袋に分類していく。
気を失っている男は、簡易の担架に乗せられ、布をかけられた。
淡々と進む作業をじっと見守る。
隠たちの目元からは感情の起伏はあまり読み取れない。
ただ、仕事の重さだけが、その背中の張りつめ方に滲んでいる。
「……そういえば」
俺は、男を運ぼうとしていた隠に声をかけた。
「その男の人には、どう説明するんですか?」
「昨夜、橋の近くで酔いつぶれていたところを保護した、とだけ申し上げます」
作業の手を止めずに、隠の男が答える。
「細かいことは、聞かれない限りこちらからは言いません。
真実を知ることが、救いになるとは限りませんから」」
「……被害にあった人たちには?」
その問いには、隠の男の手が一瞬だけ止まった。
ほんのわずかに、肩が重く沈んだように見えた。
「行方不明のままだと、いつまでも探し続けてしまうご家族も多いのです」
彼は淡々とした口調のまま、ゆっくりと言葉を継いだ。
「遺品と共に、『亡くなった』と伝えます。
川に落ちたか、獣に襲われたか……遺体が見つからない理由はいくらでも作れます。
せめて、神仏のもとへ行ったのだと、諦めをつけていただけるように」
「納得……してもらえるんですか」
「おそらくは、していただけないでしょう」
そう言って、男は苦笑ともため息ともつかない息を漏らした。
「けれど、何も知らされないまま、帰らぬ人を待ち続けさせるのは……もっと酷なことでしょう」
隠は布袋の口を縛りながら言った。
「我々に出来るのは、少しでもましになるような道を選ぶことだけです」
その言葉が、胸に刺さった。
少しでもましな道。
それは、決して「救い」ではない。
ただの、悲しみの整理だ。
その言葉には、長くこの役目を続けてきた者にしか出せない重さがあった。
この人たちはこれから、あの遺品だけを手がかりに、家族へ「死んだ」と伝えに行くのだという。
しかも、そのうえで真実を隠さねばならないのだ、と。
それでも、誰かが伝えなければならない。
(俺は、これで守ったと言えるのか……)
改めて、皮の山を見る。
それぞれに名前があり、家があり、生きていた時間があったはずだ。
鬼に成り代わられていた若旦那は、どんな人だったのだろう。
どんな仕事をして、どんな家族がいて、どんな夢を見ていたのだろう。
皮一枚残して消えてしまった彼らの人生を、俺は守れなかった。
考えれば考えるほど、胸の奥に鉛が溜まっていくようだった。
少なくとも、もう神隠しは起きない。
これ以上、悲しむ人は増えない。
胸を張れるのは、そこだけだ。
作業がひと段落した頃には、空はすっかり白んでいた。
「ここから先は、町の者と連携して行います。
宗右衛様も、どうぞお休みを」
「……ああ。ありがとう」
俺は頭を下げ、その場を離れた。
「休む」という言葉が、どこか他人事のように響いていた。
―――
朝の町は、昨夜とはまた違う空気をしていた。
行き交う人の数は少なく、店先にはまだ戸が下りているところも多い。
それでも、遠くからは屋台を引く音や、井戸端で水を汲む音が聞こえてくる。
「神隠し」は、今日もこの町のどこかで話題になっているのだろうか。
考えながら歩いているうちに、藤の紋の屋敷へたどり着いた。
藤の花の家紋の屋敷に戻ると、戸口で女将が待っていた。
「お帰りなさいませ、宗右衛様」
その柔らかな声に、張り詰めていた糸が少しだけ緩むのを感じた。
「……ただいま戻りました」
俺は縁側に上がらせてもらいながら、簡潔に顛末を話した。
鬼を斬ったこと。
神隠しの元凶がその鬼だったこと。
もう、同じことは起こらないはずだということ。
女将は目を閉じて、じっと俺の話を聞いていた。
そして、静かに目を開け、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
その言葉に、俺は思わず顔を背けた。
「いえ。礼を言われるようなことは……」
「宗右衛様?」
思わず言い淀む。
「せいぜい自分は、目の前の鬼を斬っただけで……多くの犠牲を許してしまいました」
口に出した瞬間、自分で自分にとどめを刺したような気分になった。
情けなさと、惨めさと、何か得体の知れないものが喉に引っかかる。
事後処理の手伝いすら断られて、たった一人助けただけで帰ってきた。
「……宗右衛様」
女将が、静かに俺の名を呼んだ。
ハッとして顔をあげると、女将が俺をじっと見ていた。
「私には、宗右衛様のお心のすべては分かりません」
「はい」
「けれど、一つだけ確かなことがあります」
女将は、まっすぐに俺を見た。
「それでも、こうして『誰も消えなかった朝』を迎えられたのは、紛れもなく貴方様のおかげなのです」
その言葉には、俺を慰めたり、同情するような響きがなかった。
自分がそう感じているから、そのまま口にした、という感じだった。
「私たちは、それぞれに出来ることを、それぞれにしているだけです」
「出来ることを……」
俺は言葉を反芻する。
隠の『我々の役目』という言葉が頭の中によみがえる。
俺は、鬼を斬った。
役目を果たした。
ならばなぜ、こんなにも気持ちが晴れないのか。
そうして、はたと気付く。
「そう、ですよね……。
そうか、俺は……助けられなかった人たちのことばかり考えていました」
どんな人だったのか。
家族はいたのか。
痛かっただろうか。
怖かっただろうか。
そんなことばかりが、頭の中をぐるぐると回っていた。
勝手に、自分のことで手いっぱいになっていた。
皆がそれぞれ役目を果たしている中で、俺だけがお礼の言葉すら素直に受け取らなかったことを思うと、とても子供じみた、失礼なことをしたように思えた。
「……い、いやー、助けにきたはずなのに、逆に慰められてるんじゃ、鬼狩り失格ですね。
はは……」
誤魔化すように笑って、頬を掻く。
照れ隠しと、自己嫌悪が混ざり合った、苦い笑いだった。
「いいえ」
女将はきっぱりと否定した。
「宗右衛様は命を懸けて鬼を斬ってくださいました。
それは、私には決して出来ない立派なことです」
指先が、そっと膝の上で組まれる。
「隠の皆様は、鬼が残していったものを片付け、ご遺族に伝えてくださっています。
それも、私には出来ない立派なことです」
女将の視線が、廊下の向こう、町の方角へ向けられる。
そして、女将は少しだけ微笑んだ。
「私には、この宿を整え、皆様の帰りを待つことしかできません。
ですが、こうして宗右衛様のお話を聞くことが出来ます。
それが、私に出来ることなのだと思います」
声は穏やかだったが、その目には強い意志が宿っていた。
その言葉を聞いて、俺の中で何かがすとんと落ちた気がした。
役割。
そうか、そういうことか。
(……俺は馬鹿だ)
ギリ、と奥歯を噛み締める。
俺は鬼殺隊になれた時、心のどこかで、鬼を斬って大勢の人を守れる英雄のような、何か立派なモノになれるような気がしていた。
でも現実は違う。
俺は、鬼が被害を出したところに駆けつけて、『これ以上の』被害が出ないようにするだけなんだ。
それが、鬼殺隊という仕事の本質なのかもしれない。
常に後手に回り、失われたものを取り返すことはできず、ただ被害を食い止めるだけの、泥臭い仕事。
錆兎も義勇も、きっと櫛那も、そんなことはとっくに分かっていたはずだ。
彼らは、鬼に家族を奪われた人だから。
俺だけが、勘違いをしていた。
当たり前のことを、分かっていなかった。
恥ずかしさと、申し訳なさで、合わせる顔がない。
俺は深く俯いて、膝の上で拳を握りしめた。
「……すみません。
鬼を斬った報告をするはずが、こんな……泣き言みたいなことばかり」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。
けれど女将は、そんな俺を咎めるでもなく、ただ静かに言葉を紡いだ。
「宗右衛様が『助けられなかった』と背負っているお気持ち……その幾ばくかを、こうして私に話してくださるだけでも。
……それもきっと、無駄ではないのだと思いますよ」
女将の言葉が、じんわりと心に染み渡る。
胸の重石が、少しだけ溶けていくような感覚。
「……ありがとうございます。
女将さんのおかげで、少しだけ、楽になりました。
女将さんのお仕事も、俺には出来ない、とても素敵なものだと思います」
俺は深く頭を下げた。
なんだか頭がすっきりとしたような気がする。
ゆっくりと、大きく息を吸って、吐き出す。
もやがかっていた思考が晴れていく。
そうだ、鱗滝さんに報告の手紙を出さなきゃ。
それに、錆兎と義勇の安否も確かめないと。
やるべきことが、次々と浮かんでくる。
それは、生きている俺の役目でもあった。
―――
それから数日間、俺は藤の家に滞在した。
身体を休めながら、鬼の残党がいないか町を巡回する。
あの橋の下にも何度か足を運んだが、そこにはもう何も残っていなかった。
皮の山も、血の跡も、隠たちが綺麗に片付けていったあとだった。
町の様子は、相変わらず雑多で騒がしい。
けれど、初日ほど頭が痛くなることはなかった。
人混みの中で、どの色を見て、どの色を見ないか。
識彩との距離感が、ほんの少しだけ掴めてきたような気がする。
ある日の午後、通りで一人の男を見かけた。
あの夜、俺が助けた男だ。
妻らしき女性と、小さな子供の手を引いて歩いている。
男の周りには、町と同じように、雑多でそれでも穏やかな色が揺れている。
男は俺のことなど知らない。
俺も、声をかけるつもりはない。
(……これでいい)
礼を言われるほど立派なことをしたとは、今でも思えない。
けれど、守れたものが確かにここにある。
それだけで、十分だった。
三日目の夕方。
中庭の縁側で風に当たっていると、空から聞き慣れた羽音が降ってきた。
「戻ったぞ! 戻ったぞ!
手紙を預かってきている! 喜べ!」
鎹烏が、俺の膝の上に手紙を落とす。
「ご苦労様。……みんな、無事か?」
「無事だ! お前ら三人は優秀だと、お館様も褒めておられた!」
俺は安堵の息を吐き、手紙を手に取った。
二通ある。錆兎と、義勇からだ。
まずは錆兎の手紙を開く。
相変わらず、紙からはみ出しそうなほど大きな字だ。行間も狭い。
『宗右衛! 無事でなにより!
俺の方は峠の鬼を叩き斬ってやったぞ!
思ったより骨のある奴だったが、俺の敵じゃなかったな!
ただ、山道を一つ間違えて迷ってしまってな、着くのが遅れたのが誤算だった。
宿場の婆さんに飯をご馳走になったんだが、「よく食べるねぇ」と驚かれたぞ。
昔は宗右衛の食う量に呆れてたのにな、いつの間にか俺も似てきたらしい!』
読んでいて、思わず吹き出しそうになる。
あの声が聞こえてくるようだ。
『俺たち三人で、必ず柱になろうな!』
力強い言葉に、胸が熱くなる。
次に、義勇の手紙。
端正な字だが、余白が多い。育ちの良さと、口数の少なさがそのまま表れている。
『宗右衛さんへ。
こちらの任務も無事に完了しました。
まだうまくやれているとは言えませんが、何とかやれています。
時々、姉さんのことを思い出すこともありますが、鱗滝さんがくれた羽織に、背中を押してもらえている気がします』
短い文面の中に、義勇なりの成長と、前を向こうとする意志が詰まっていた。
『宗右衛さんも、無事でいてほしいです』
最後の一行に、俺は目頭が熱くなった。
(二人とも、ちゃんとやってるんだな)
自分も負けていられない。
改めて、そう強く思った。
―――
部屋に戻り、机に向かう。
まずは本部への報告書だ。
北西の町での鬼討伐の結果。
被害状況。藤の家での援助内容。
感情を交えず、事務的に、簡潔に記す。
書き終えてから、新しい紙を広げた。
鱗滝さんへの手紙だ。
筆を墨に浸し、書き出しを考える。
『鱗滝さんへ。
宗右衛です。無事に最初の任務を終えました』
そこまで書いて、筆が止まった。
ここ数日も何度か鱗滝さんに手紙を書こうとして、止まってしまっていた。
何を書けばいいのだろう。
皮の山のこと。鬼の色。女将の言葉。
頭の中で、色々なことがごちゃごちゃになっている。
(でも……今ここで書かないと、もう一生書けない気がする)
俺は意を決して、筆を走らせた。
鬼を斬る時に、迷ってしまったこと。
鬼狩りになったからと言って、全員を救えるわけではないと痛感したこと。
それでも、守れた人たちが確かにいること。
『救えなかった人たちのことが、まだ胸のどこかに残っています。
藤の家の女将さんに「それぞれに出来ることをしているだけだ」と言われ、少しだけ楽になりました』
そして、最後の一文。
あの夜、狭霧山を発つ時に誓った言葉を思い出す。
『――生きて、鬼殺隊になりました』
書き終えた瞬間、胸の奥にあった何かが、少しだけ形を変えたように感じた。
さっきまで胸の中でぐらついていた石が、すうっと沈んで、そこに落ち着いたような。
重さは変わらない。
けれど、それはもう「重荷」ではなく、「碇」のような確かな重みに変わっていた。
墨が乾くのを待って、手紙を畳む。
烏の足に結びつける。
「鱗滝さんのところまで、ちゃんと届けてくれよ」
「任せろ! 任せろ!」
烏が元気に鳴いて、夕暮れの空へと飛び立っていった。
空の色が、茜色から群青色へと変わっていく。
町にはポツポツと灯りがともり始め、遠くから家路を急ぐ子供たちの笑い声が聞こえてくる。
これからもきっと、俺は迷いながら鬼を斬るのだろう。
これからも、取り返せない命に出会い、歯噛みすることになるのだろう。
それでも。
(……見ていよう)
俺は心に誓った。
斬ったあとの色まで、ちゃんと見ていたい。
守られた側の色も、失われた側の色も。
そして、それを支える人たちの色も。
俺の目は、そのためにあるのだから。
北西の町での最初の任務は、こうして静かに幕を下ろした。