鱗滝の養子   作:松雪草

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26話

 朝の水は、まだ指先が痺れるほど冷たい。

 

 それでも、薪を割る手に当たる風は、冬のそれよりわずかに柔らかくなっていた。

 雪解けの土の匂いが混じり始めると、春はもう遠くないと知れる。

 

 カァン、と。

 斧を振り下ろす乾いた音が、静まり返った狭霧山に響いた。

 

 割れた薪を拾い上げながら、ふと手が止まる。

 静かだ。

 

 三人の弟子がここを発ってから、もう幾月かが過ぎていた。

 

 錆兎。

 義勇。

 宗右衛。

 

 三羽の鎹烏は、それぞれに主の無事を運んでくる。

 それを聞くたび、胸の底のどこかが、わずかに緩む。

 

 薪を片付け、囲炉裏の前に腰を下ろす。

 湯気を立てるやかんを見やりながら、鱗滝左近次は、これまでに届いた手紙の束へ目を落とした。

 

 束の中身は、三人からの報せを順に重ねていったものだ。

 

 錆兎の手紙は、三人の中では一番少ない。

 それだけでも、文字を書くことを面倒がっている様が目に浮かぶ。

 だが、雑な文の中にも、無事の二文字だけは欠かさぬ。

 

 義勇の手紙は端正で余白が多い。

 文は短いが、そこに迷いがないわけではない。

 それでも、剣を折らずに前へ進んでいることは分かった。

 

 二人とも、それぞれの才と、それぞれの迷いを抱えながら、鬼殺隊士として立っている。

 そして、もう一人は、また別の在り方で生き延びていた。

 

 鱗滝は、束の一番上から一通の手紙を引き抜いた。

 宗右衛から届いた、今月三通目の報告だった。

 

 あれが初任務に赴いてから、そろそろ三ヶ月になる。

 

 文面は相変わらず簡潔で、余計なことがない。

 だが、それで十分だった。どう立ち回り、どう生き延びているかは、行間に出る。

 

 三通目にも、無事の二文字があった。

 まずは、それでよい。

 

 この三ヶ月、宗右衛は十五を超える鬼の討伐に関わっている。

 単独任務だけではない。階級の上の隊士と連携した任務も幾つかこなしたようだった。

 それでいて、一度として重傷を負わず帰ってきている。

 

 派手な勝ち方はしておらぬ。

 

 罠を張り、藤の香の灰を使い、時に暗器すら交える。

 泥臭い。華もない。

 才ある剣士の勝ち方ではない。

 

 だが、崩れぬ。

 

 勝つべきところでは勝ち、退くべきところでは退く。

 無理に己を飾らず、斬るべき鬼を斬っている。

 

 鬼狩りとしては、それで十分に尊い。

 

 手紙の束を脇へ置き、ふと囲炉裏の火を見る。

 無事でいる。

 それだけで、胸の奥のどこかが静かに緩むのを、自覚せざるを得なかった。

 

 錆兎のように剣才に恵まれた弟子がいる。

 義勇のように、水の呼吸に深く愛された弟子もいる。

 

 宗右衛は、そのどちらとも違う。

 

 水の呼吸そのものへの才は薄い。

 剣の冴えで押し切る類の弟子でもない。

 

 それは最初から分かっていたことだ。

 

 型は覚える。呼吸も保つ。

 だが、水の剣士として見たとき、あれの太刀には錆兎の激しさも、義勇の澄明さも宿らぬ。

 

 だからこそ、剣の冴えそのものは追わせなかった。

 

 身体の使い方。

 鬼と戦う基礎。

 全集中の呼吸。

 常中。

 格上と立ち会ったとき、どう食らいつき、どう生き残るか。

 

 叩き込んだのは、そちらだ。

 

 何度地面を転がしたかは、もう覚えていない。

 だが、一日たりとも基礎鍛錬を怠らなかったことだけは、よく覚えている。

 

 櫛那との鍛錬のなかで、常中の兆しを見せ始めた時は驚いた。

 あれは、人に言われたから出来るものではない。

 自分の内で必要を知った者だけが、ようやく掴む。

 

 格上と立ち会うたび、宗右衛は考えていた。

 

 どうすれば届くか。

 どうすれば致命傷を避けられるか。

 どうすれば、次も立っていられるか。

 

 錆兎や義勇のような才ある兄弟弟子を相手に、それを考え続けていた。

 その工夫は、好ましかった。

 

 何よりもまず、生き残ること。

 鬼殺隊士として折れぬ身体と、折れぬ心を持たせること。

 

 それが、あれには必要だった。

 

 白鼠に染まった刀を見た時、古い記録も一応は当たった。

 だが、目ぼしいものは見つからなかった。

 

 ならば、刀の色に意味を預ける必要はない。

 あれがどう戦い、どう育つかだけを見ればよい。

 

 そして今、宗右衛は崩れず、生き延び、勝つ術を身につけつつある。

 それでよい。まずは、それでよいのだ。

 

 鱗滝は、今日届いたばかりの最新の手紙を開いた。

 

『鱗滝さんへ。宗右衛です』

 

 書き出しからして、いつもと違った。

 報告の文ではない。迷いを抱えた文だ。

 

 任務で感じた限界。

 水の呼吸に行き詰まりを覚えていること。

 剣技の威力だけでは届かぬ場面が増えてきたこと。

 最終選別で見た他の呼吸の使い手たちの姿が、未だ頭に残っていること。

 他の呼吸の理を学ぶことが、自分の強さにつながるのではないかと思っていること。

 

 そこまで読んで、鱗滝は頷いた。

 

 順当だ。

 

 基礎が固まり、実戦を重ねたからこそ、自分の器の形が見えてきたのだろう。

 遅くはない。むしろ、ちょうどよい。

 

 問題は、その先だった。

 

『……しかし、他の呼吸を学びたいなどと言い出すことは、鱗滝さんの教えを否定することにならないでしょうか』

『水の呼吸を根気強く教えていただいた身で、他を望むのは不義理ではないかと思い、ずっと言えずにいました』

 

 読み終えて、鱗滝はしばらく黙った。

 

(……何を今さら)

 

 そう思う。

 だが、怒りではない。

 

 そんなことで一人で悩んでいたのか、という苦い驚きだった。

 

 不義理。

 教えの否定。

 そのようなことを、生きるか死ぬかの瀬戸際に立つ者が気にしてどうする。

 

 強くなりたいのであれば、泥をすすってでも学べ。

 頭を下げねばならぬなら、下げればよい。

 生き延びるための工夫に、遠慮など要らぬ。

 

 ……とはいえ。

 

(言葉が足りなかったな)

 

 鱗滝は手紙を畳み、視線を落とした。

 

 宗右衛に水の才が薄いことは、初めから分かっていた。

 だからこそ、いずれ別の道へ目を向けることになるやもしれぬとも思っていた。

 

 だが、それをこちらから先に言わなかったのは、剣の道は本人が決めるものだと考えていたからだ。

 こちらが先に「お前は水に向いていない」と言えば、それはただ弟子の心を狭めるだけになりかねない。

 

 自分で考え、自分で選ぶ。

 その時になれば、力を貸せばよい。

 

 そう思っていた。

 

 だが、あれは「裏切りになるのではないか」と、一人で遠回りをしていたらしい。

 考えすぎるところがある。そこもまた、あれの性分だ。

 

 机の上の筆を置き、ふと視線を横へ流す。

 

 そこに並ぶ木札は、昔と同じ場所にある。

 ただ、名を呼ぶ声だけが、もう戻らぬ。

 

 長く見はしない。

 だが、忘れたことは一度もない。

 

 送り出した命を守れなかった悔い。

 もっと出来たことがあったのではないかという痛み。

 

 それは、今も胸の奥に沈んでいる。

 消えることはない。

 消えてはならぬとも思っている。

 

 だからこそ。

 

(今度は、迷わぬ)

 

 今生きている弟子が、自分の足で次の道を望んだのだ。

 ならば、出来る助力は惜しまぬ。

 弟子の行く道をひらくのも、育手の務めだ。

 

 鱗滝は文机に向かい、真新しい紙を広げた。

 

 まずは、産屋敷耀哉への報告書から書く。

 

 宗右衛の件については、以前から折を見て報せてある。

 水の呼吸への適性は薄いが、基礎鍛錬と実戦経験により、鬼殺隊士として十分な実力を備えてきたこと。

 この三ヶ月、重傷を負うことなく堅実に任務をこなしていること。

 その上で、本人より他流派修行を望む申し出があったこと。

 鱗滝としても、それを認め、次の段へ進ませたいと考えていること。

 

 飾らず、曖昧にもせず、宗右衛という剣士をそのまま書く。

 

 秀でた剣士ではない。

 だが、積み上げた基礎がある。

 一筋の型に収まりきらぬからこそ、他の理を吸収させる価値がある。

 

 隊のためにも、本人のためにも、その道を試すべきだと。

 

 文章はあくまで正式に、硬く結ぶ。

 だが筆の運びには、自分の見立てへの確信をこめた。

 

 次いで、もう一通の書状を用意する。

 

 送り先を思案した時、真っ先に雷の桑島慈悟郎の顔が浮かんだ。

 いずれは岩の悲鳴嶼行冥のもとで、身体の使い方の極致を見せるのも良いだろうとも思う。

 だが、宗右衛がまず学ぶべき順を考えれば、先は違う。

 

 炎柱・煉獄槇寿郎へ。

 

 宗右衛という弟子を短期で預かり、炎の呼吸の基礎と、その考え方を見せてやってほしい。

 水で積んだ土台はあるが、一筋の適性には収まりきらぬ剣士である。

 どうか、元水柱の頼みとして聞いてはくれぬか。

 

 槇寿郎は努力の男だ。

 それゆえに、基礎を見る目は確かだ。

 宗右衛に足りぬもの、逆に既に持っているもの、その両方を見誤ることはあるまい。

 

 筆を進めながら、鱗滝はわずかに可笑しさを覚えた。

 

 自分のことなら、ここまでせぬ。

 頼み文など、そう易々と書く性分でもない。

 

 だが、弟子のこととなると話は別らしい。

 

(……儂も大概だな)

 

 天狗面の下で、小さく苦笑する。

 

 弟子のために頭を下げることなど、今さら惜しむ理由もない。

 それで命が繋がるのなら、なおさらだ。

 

 二通の書状を書き終えたあと、鱗滝は最後に宗右衛への返書をしたためた。

 

 長くは要らぬ。

 あれの迷いを断つだけでよい。

 

『何を今更、水臭いことを言っている』

 

 そう書き出し、ひと呼吸置く。

 

『儂はお前に「水」を継がせたかったのではない。

 生き抜く術を教えたのだ。

 お前に水の適性が薄いことは、初めから分かっていた』

 

『だからこそ、剣そのものより、基礎と身体の使い方を叩き込んだ。

 お前が強くなるためなら、道を用意する。

 それが育手の務めだ』

 

 そこまで書いて、鱗滝は静かに筆を置いた。

 

 ぶっきらぼうな文だと、自分でも思う。

 だが、あれにはこれで足りる。

 

 余計な遠慮は、ここで置いてこさせればよい。

 

 書状を待たせていた鎹烏たちに託す。

 

「頼んだぞ」

 

「カァッ! 任セロ!」

 

 産屋敷へ。

 煉獄へ。

 そして宗右衛へ。

 

 黒い羽が、春まだ浅い空へと飛び立った。

 狭霧山の木々の上を越え、やがて小さくなっていく。

 

 鱗滝はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。

 

 宗右衛はもう、守られるだけの子ではない。

 鬼を斬り、任務を果たし、自分で迷い、自分で次の道を望むところまで来た。

 

 それでも、送り出す側に出来ることはまだある。

 

 炎。

 水と並び、多くの柱を輩出する、使い手の多い呼吸。

 だからこそ、見せる価値がある。

 

 あれの剣が、どこへ向かうのか。

 何を土台にし、何を捨てずに進んでいくのか。

 

 それを見極める旅になるだろう。

 

 山を渡る風が、囲炉裏の残り香をわずかに攫っていく。

 

 鱗滝は静かに目を閉じ、そして心の中でだけ、短く告げた。

 

(行け、宗右衛)

 

(お前の剣が、どこへ向かうものか。見極めてこい)

 

 狭霧山の朝は、もう春の光へ移ろおうとしていた。




仕事が……仕事が追いつかない……

休みが、休みがほしい……
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