朝の水は、まだ指先が痺れるほど冷たい。
それでも、薪を割る手に当たる風は、冬のそれよりわずかに柔らかくなっていた。
雪解けの土の匂いが混じり始めると、春はもう遠くないと知れる。
カァン、と。
斧を振り下ろす乾いた音が、静まり返った狭霧山に響いた。
割れた薪を拾い上げながら、ふと手が止まる。
静かだ。
三人の弟子がここを発ってから、もう幾月かが過ぎていた。
錆兎。
義勇。
宗右衛。
三羽の鎹烏は、それぞれに主の無事を運んでくる。
それを聞くたび、胸の底のどこかが、わずかに緩む。
薪を片付け、囲炉裏の前に腰を下ろす。
湯気を立てるやかんを見やりながら、鱗滝左近次は、これまでに届いた手紙の束へ目を落とした。
束の中身は、三人からの報せを順に重ねていったものだ。
錆兎の手紙は、三人の中では一番少ない。
それだけでも、文字を書くことを面倒がっている様が目に浮かぶ。
だが、雑な文の中にも、無事の二文字だけは欠かさぬ。
義勇の手紙は端正で余白が多い。
文は短いが、そこに迷いがないわけではない。
それでも、剣を折らずに前へ進んでいることは分かった。
二人とも、それぞれの才と、それぞれの迷いを抱えながら、鬼殺隊士として立っている。
そして、もう一人は、また別の在り方で生き延びていた。
鱗滝は、束の一番上から一通の手紙を引き抜いた。
宗右衛から届いた、今月三通目の報告だった。
あれが初任務に赴いてから、そろそろ三ヶ月になる。
文面は相変わらず簡潔で、余計なことがない。
だが、それで十分だった。どう立ち回り、どう生き延びているかは、行間に出る。
三通目にも、無事の二文字があった。
まずは、それでよい。
この三ヶ月、宗右衛は十五を超える鬼の討伐に関わっている。
単独任務だけではない。階級の上の隊士と連携した任務も幾つかこなしたようだった。
それでいて、一度として重傷を負わず帰ってきている。
派手な勝ち方はしておらぬ。
罠を張り、藤の香の灰を使い、時に暗器すら交える。
泥臭い。華もない。
才ある剣士の勝ち方ではない。
だが、崩れぬ。
勝つべきところでは勝ち、退くべきところでは退く。
無理に己を飾らず、斬るべき鬼を斬っている。
鬼狩りとしては、それで十分に尊い。
手紙の束を脇へ置き、ふと囲炉裏の火を見る。
無事でいる。
それだけで、胸の奥のどこかが静かに緩むのを、自覚せざるを得なかった。
錆兎のように剣才に恵まれた弟子がいる。
義勇のように、水の呼吸に深く愛された弟子もいる。
宗右衛は、そのどちらとも違う。
水の呼吸そのものへの才は薄い。
剣の冴えで押し切る類の弟子でもない。
それは最初から分かっていたことだ。
型は覚える。呼吸も保つ。
だが、水の剣士として見たとき、あれの太刀には錆兎の激しさも、義勇の澄明さも宿らぬ。
だからこそ、剣の冴えそのものは追わせなかった。
身体の使い方。
鬼と戦う基礎。
全集中の呼吸。
常中。
格上と立ち会ったとき、どう食らいつき、どう生き残るか。
叩き込んだのは、そちらだ。
何度地面を転がしたかは、もう覚えていない。
だが、一日たりとも基礎鍛錬を怠らなかったことだけは、よく覚えている。
櫛那との鍛錬のなかで、常中の兆しを見せ始めた時は驚いた。
あれは、人に言われたから出来るものではない。
自分の内で必要を知った者だけが、ようやく掴む。
格上と立ち会うたび、宗右衛は考えていた。
どうすれば届くか。
どうすれば致命傷を避けられるか。
どうすれば、次も立っていられるか。
錆兎や義勇のような才ある兄弟弟子を相手に、それを考え続けていた。
その工夫は、好ましかった。
何よりもまず、生き残ること。
鬼殺隊士として折れぬ身体と、折れぬ心を持たせること。
それが、あれには必要だった。
白鼠に染まった刀を見た時、古い記録も一応は当たった。
だが、目ぼしいものは見つからなかった。
ならば、刀の色に意味を預ける必要はない。
あれがどう戦い、どう育つかだけを見ればよい。
そして今、宗右衛は崩れず、生き延び、勝つ術を身につけつつある。
それでよい。まずは、それでよいのだ。
鱗滝は、今日届いたばかりの最新の手紙を開いた。
『鱗滝さんへ。宗右衛です』
書き出しからして、いつもと違った。
報告の文ではない。迷いを抱えた文だ。
任務で感じた限界。
水の呼吸に行き詰まりを覚えていること。
剣技の威力だけでは届かぬ場面が増えてきたこと。
最終選別で見た他の呼吸の使い手たちの姿が、未だ頭に残っていること。
他の呼吸の理を学ぶことが、自分の強さにつながるのではないかと思っていること。
そこまで読んで、鱗滝は頷いた。
順当だ。
基礎が固まり、実戦を重ねたからこそ、自分の器の形が見えてきたのだろう。
遅くはない。むしろ、ちょうどよい。
問題は、その先だった。
『……しかし、他の呼吸を学びたいなどと言い出すことは、鱗滝さんの教えを否定することにならないでしょうか』
『水の呼吸を根気強く教えていただいた身で、他を望むのは不義理ではないかと思い、ずっと言えずにいました』
読み終えて、鱗滝はしばらく黙った。
(……何を今さら)
そう思う。
だが、怒りではない。
そんなことで一人で悩んでいたのか、という苦い驚きだった。
不義理。
教えの否定。
そのようなことを、生きるか死ぬかの瀬戸際に立つ者が気にしてどうする。
強くなりたいのであれば、泥をすすってでも学べ。
頭を下げねばならぬなら、下げればよい。
生き延びるための工夫に、遠慮など要らぬ。
……とはいえ。
(言葉が足りなかったな)
鱗滝は手紙を畳み、視線を落とした。
宗右衛に水の才が薄いことは、初めから分かっていた。
だからこそ、いずれ別の道へ目を向けることになるやもしれぬとも思っていた。
だが、それをこちらから先に言わなかったのは、剣の道は本人が決めるものだと考えていたからだ。
こちらが先に「お前は水に向いていない」と言えば、それはただ弟子の心を狭めるだけになりかねない。
自分で考え、自分で選ぶ。
その時になれば、力を貸せばよい。
そう思っていた。
だが、あれは「裏切りになるのではないか」と、一人で遠回りをしていたらしい。
考えすぎるところがある。そこもまた、あれの性分だ。
机の上の筆を置き、ふと視線を横へ流す。
そこに並ぶ木札は、昔と同じ場所にある。
ただ、名を呼ぶ声だけが、もう戻らぬ。
長く見はしない。
だが、忘れたことは一度もない。
送り出した命を守れなかった悔い。
もっと出来たことがあったのではないかという痛み。
それは、今も胸の奥に沈んでいる。
消えることはない。
消えてはならぬとも思っている。
だからこそ。
(今度は、迷わぬ)
今生きている弟子が、自分の足で次の道を望んだのだ。
ならば、出来る助力は惜しまぬ。
弟子の行く道をひらくのも、育手の務めだ。
鱗滝は文机に向かい、真新しい紙を広げた。
まずは、産屋敷耀哉への報告書から書く。
宗右衛の件については、以前から折を見て報せてある。
水の呼吸への適性は薄いが、基礎鍛錬と実戦経験により、鬼殺隊士として十分な実力を備えてきたこと。
この三ヶ月、重傷を負うことなく堅実に任務をこなしていること。
その上で、本人より他流派修行を望む申し出があったこと。
鱗滝としても、それを認め、次の段へ進ませたいと考えていること。
飾らず、曖昧にもせず、宗右衛という剣士をそのまま書く。
秀でた剣士ではない。
だが、積み上げた基礎がある。
一筋の型に収まりきらぬからこそ、他の理を吸収させる価値がある。
隊のためにも、本人のためにも、その道を試すべきだと。
文章はあくまで正式に、硬く結ぶ。
だが筆の運びには、自分の見立てへの確信をこめた。
次いで、もう一通の書状を用意する。
送り先を思案した時、真っ先に雷の桑島慈悟郎の顔が浮かんだ。
いずれは岩の悲鳴嶼行冥のもとで、身体の使い方の極致を見せるのも良いだろうとも思う。
だが、宗右衛がまず学ぶべき順を考えれば、先は違う。
炎柱・煉獄槇寿郎へ。
宗右衛という弟子を短期で預かり、炎の呼吸の基礎と、その考え方を見せてやってほしい。
水で積んだ土台はあるが、一筋の適性には収まりきらぬ剣士である。
どうか、元水柱の頼みとして聞いてはくれぬか。
槇寿郎は努力の男だ。
それゆえに、基礎を見る目は確かだ。
宗右衛に足りぬもの、逆に既に持っているもの、その両方を見誤ることはあるまい。
筆を進めながら、鱗滝はわずかに可笑しさを覚えた。
自分のことなら、ここまでせぬ。
頼み文など、そう易々と書く性分でもない。
だが、弟子のこととなると話は別らしい。
(……儂も大概だな)
天狗面の下で、小さく苦笑する。
弟子のために頭を下げることなど、今さら惜しむ理由もない。
それで命が繋がるのなら、なおさらだ。
二通の書状を書き終えたあと、鱗滝は最後に宗右衛への返書をしたためた。
長くは要らぬ。
あれの迷いを断つだけでよい。
『何を今更、水臭いことを言っている』
そう書き出し、ひと呼吸置く。
『儂はお前に「水」を継がせたかったのではない。
生き抜く術を教えたのだ。
お前に水の適性が薄いことは、初めから分かっていた』
『だからこそ、剣そのものより、基礎と身体の使い方を叩き込んだ。
お前が強くなるためなら、道を用意する。
それが育手の務めだ』
そこまで書いて、鱗滝は静かに筆を置いた。
ぶっきらぼうな文だと、自分でも思う。
だが、あれにはこれで足りる。
余計な遠慮は、ここで置いてこさせればよい。
書状を待たせていた鎹烏たちに託す。
「頼んだぞ」
「カァッ! 任セロ!」
産屋敷へ。
煉獄へ。
そして宗右衛へ。
黒い羽が、春まだ浅い空へと飛び立った。
狭霧山の木々の上を越え、やがて小さくなっていく。
鱗滝はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
宗右衛はもう、守られるだけの子ではない。
鬼を斬り、任務を果たし、自分で迷い、自分で次の道を望むところまで来た。
それでも、送り出す側に出来ることはまだある。
炎。
水と並び、多くの柱を輩出する、使い手の多い呼吸。
だからこそ、見せる価値がある。
あれの剣が、どこへ向かうのか。
何を土台にし、何を捨てずに進んでいくのか。
それを見極める旅になるだろう。
山を渡る風が、囲炉裏の残り香をわずかに攫っていく。
鱗滝は静かに目を閉じ、そして心の中でだけ、短く告げた。
(行け、宗右衛)
(お前の剣が、どこへ向かうものか。見極めてこい)
狭霧山の朝は、もう春の光へ移ろおうとしていた。
仕事が……仕事が追いつかない……
休みが、休みがほしい……