東へ向かう道すがら、宗右衛は幾度となく懐へ手をやった。
そこにあるのは、鱗滝からの返書だ。
『何を今更、水臭いことを言っている。
儂はお前に水を継がせたかったのではない。
生き抜く術を教えたのだ』
短く、ぶっきらぼうで、それでいて迷いを断ち切るには十分すぎる言葉だった。
俺がより高みを目指すための道を、鱗滝さんが示してくれたのだ。
ならば、あとは進むだけだ。
……進むだけ、なのだが。
何とも言えない気の重さに、つい腹をさする。
(まさか、柱の家に行くことになるとはな……)
歩きながら、宗右衛は小さく息を吐いた。
他の呼吸を学びたい。
そう言い出したのは自分だ。
だが、思い描いていたのは、せいぜい別の育手のもとを訪ねる程度の話だった。
それが蓋を開けてみれば、鱗滝さんからの手紙と共に紹介状が届き、宛先は現役の炎柱、煉獄槇寿郎。
別格も別格である。
「遅いぞ、宗右衛! もっとしゃきしゃき歩け!」
頭上から鎹烏がやかましく喚いた。
「お前は気楽でいいな……」
「気楽ではない! 重大任務だ! 炎柱の家だ!」
「分かってるよ。だから胃が痛いんだ」
呟いてから、少しだけ顔を上げた。
烏の案内に従って町に入ったが、道はいつしか賑やかな商いの通りから外れ、落ち着いた町並みへ移っていた。
歩く人の数は少ない。
だが静かだからといって寂れているわけではなく、むしろ一軒一軒の家構えがきちんとしている。塀は高く、門は重く、庭木もよく手入れされていた。
夕暮れの光が瓦の上を赤銅色に染めている。
風は乾いていて、遠くの空は高い。
どこか、音が少ない。
鱗滝さんの家は山の中に根を下ろしたような空気だったが、こちらは町の中にありながら、内へ内へと強さを蓄えているような雰囲気があった。
「もうすぐだ!」
烏が一声鳴いた。
曲がり角をひとつ折れた先で、宗右衛は思わず足を止めた。
「……でかいな」
声が小さく漏れた。
そこにあったのは、武家屋敷だった。
立派な門。
そこに埋め込まれた煉獄家の家紋。
高く真っ白な塀が伸びる。
無駄な飾りはなく、格式の高さだけが静かに滲んでいる。
手入れの行き届いた松が、門の脇で枝を張っていた。
門札には、力強い筆で二文字。
煉獄。
(本当に着いたのか……)
鎹烏は当然だと言わんばかりに胸を張っている。
宗右衛はそれを無言で見上げ、それから改めて門へ向き直った。
大きく息を吸う。
吐く。
懐の上から紹介状の位置を確かめる。
修行に来た。
ただ、それだけのことだ。
そう言い聞かせても、門の前に立つだけで背筋を伸ばさせるものがある。
鱗滝さんの家とは違う。
ここは、ただ強い者を育てるための家ではない。
家として積み重ねてきたものが、そのまま柱の家格になっている。
そんなふうに思えた。
意を決して声を掛けようとした、その時だった。
「──よし! もう一度だ!」
門の向こうから、とてつもなくよく通る声が響いた。
思わず肩が跳ねる。
続いて、空気を叩く鋭い音。
竹刀か、木刀か。
いずれにせよ、真っ直ぐ打ち込まれた音だ。
「はい!」
今度の声にはさらに張りがあった。
先ほどよりも若い声。
打ち込みの音がなおも続く。
宗右衛は一瞬その場に立ち尽くしたが、頭を振って門を叩いた。
鍛錬の音が止む。
門の向こうで足音が近づき、ほどなくして、ぎい、と扉が開いた。
現れたのは、少年だった。
自分より二つ三つは年下に見える。
身長も低い。頭一つとまでは言わずとも、かなり差がある。
だが、目に飛び込んできた瞬間に宗右衛が覚えたのは、「年下だ」という認識より先に、押し返されるような感覚だった。
燃えるような髪。
太い眉。
見開かれた双眸は大きく、真っ直ぐこちらを射抜いてくる。
「君は、鱗滝殿の弟子かな!?」
声が大きい。
耳に響くというだけでなく、胸板のあたりを直接叩いてくるような声だった。
宗右衛は反射的に背筋を伸ばした。
「は、はい。鱗滝左近次の弟子、鱗滝宗右衛と申します」
「うむ! 話は聞いている! 鍛錬の最中であったためこのような姿で失礼する!」
言いながら少年はからりと笑った。
笑い方まで、まぶしい。
視線を逸らしそうになるのを堪える。
(なんだ、この……)
意識が、勝手に彼を追ってしまう。
小柄な体躯。
まだ少年のものだ。
だがその内側から発せられる気配は、人一人分の器に収まっているとは思えなかった。
識彩で見える色も、燃えているようだった。
黄とも赤とも言い切れぬ揺らめく帯が、炎が立ち上がる時のように上へ上へと伸びていく。
しかも、ぶれない。
少年とは思えぬほどの強い意志。
年齢や体格とはまるで別のところから押し寄せてくる圧。
気づけば、宗右衛はその少年を見上げていた。
「俺は煉獄杏寿郎だ!
これからよろしく頼む!」
その名を聞いた途端、宗右衛の中でいくつかの線が繋がる。
炎柱の子。
代々炎柱を輩出してきた家の、次代。
継子。
なるほど、と妙に納得する。
継子とはこれほどのものなのかと感心してしまう。
「どうした!? 立ち話もなんだ、中へどうぞ!」
「は、はい」
宗右衛は慌てて頷き、門をくぐった。
中へ入ると、思った通り、いや思った以上に、家の中にまで鍛錬の気配が行き渡っていた。
庭はただ広いだけではない。
地面はよく踏み固められ、一角には打ち込み台が見える。
木刀が立てかけられ、走り込みのための目印らしき石も置かれていた。
家そのものが、暮らしの場でありながら訓練場でもある。
鱗滝の山では、木々や岩や滝そのものが鍛錬だった。
ここは逆だ。
人が長く鍛錬し続けてきたことで、家そのものがそういう場になっている。
(すごいな……)
心の中で呟く。
奥の方で、小さな背中がちらりと見えた。
幼い子供が、木刀をぎこちなく振っている。こちらに気づいて動きを止め、じっと宗右衛を見た。
杏寿郎よりもずっと幼い。
弟だろうか。
杏寿郎はその視線に気づいて軽く手を挙げ、それ以上は何も言わず宗右衛を先へ促した。
座敷へ通されると、ほどなくして女性が姿を見せた。
「遠路、ようこそおいでくださいました」
穏やかな声だった。
槇寿郎の妻、煉獄瑠火。
手紙では体調が優れないと記してあったが、想像していたような弱々しさはない。
静かで、柔らかく、それでいて背に一本芯が通っている。
ただ、体調が万全でないことは、立ち居振る舞いの端に微かに、だが確かに見えた。
「このような姿で失礼します」
「俺……いえ、自分が突然押しかけたようなものですから」
宗右衛が慌てて頭を下げると、瑠火はほんの少し微笑んだ。
「お気になさらず。鱗滝様のお弟子さんと伺っております。
本来なら、もっときちんとお迎えしたいところなのですが……」
その言い方には、申し訳なさよりも、客をきちんと迎えたいという意志の方が強く滲んでいた。
宗右衛は、思わず居住まいを正す。
「どうぞ気を楽に、と申し上げたいところですが……我が家は少々賑やかで」
瑠火の視線が、廊下の向こうへ向く。
ちょうどその時、庭先からまた、杏寿郎のよく通る声が響いた。
宗右衛はつられてそちらを見やり、先ほどの杏寿郎との出会いを思い返す。
自然体のまま、みなぎる存在感。
どのような心の在り様ならばああなるのか分からない、炎のような意志の色。
二つか三つ年下のはずの少年の、歩く姿から感じる確かな強さ。
少しだけ肩に力が入る。
「杏寿郎に、驚かれましたでしょう」
その言葉に、心臓がどきりとした。
「……分かりますか?」
漏れた言葉に、瑠火は声を立てぬまま目元で笑った。
「ええ。あの子は昔から、ああいう子ですので」
特別な何かを見るようではなく、当たり前のものとして受け止めている声音だった。
「家の中が、明るくなりますね」
思わずそう言うと、瑠火はわずかに肩を竦めた。
「ええ。賑やかで、時々その熱にあてられてしまうこともあります」
冗談めいた言い方だったが、その奥にある眼差しは静かだった。
座しているだけなのに、瑠火のまわりには人を落ち着かせる温かさがあった。
「……はい」
ようやくそれだけを返すと、瑠火は静かに頷く。
杏寿郎が燃え上がる炎なら。
この人は、夜を温めてくれる囲炉裏の火のようだ。
その時だった。
座敷の空気が、変わる。
姿を見る前に分かった。
圧が来る。
堂々とした足音。
一歩近づくたびに、戸の向こうの圧が濃くなっていく。
襖が開いた。
宗右衛は反射的に膝の上で拳を握った。
現れた男は、杏寿郎をそのまま大人にしたようだった。
外見だけではない。
あの少年の持つ炎の気配を、何年も何年も鍛え上げ、実戦で磨き抜けばこうなるのだろうと思わせる重厚さがあった。
煉獄槇寿郎。
当代の炎柱。
自然と背筋が伸びる。
浅くなろうとする呼吸を、意識して深く保つ。
槇寿郎は宗右衛を一瞥すると、そのまま座敷の中央まで歩み、どかりと腰を下ろした。
「お前が鱗滝の弟子か」
不機嫌を隠そうともしない、低い声。
「はい。鱗滝左近次の弟子、鱗滝宗右衛と申します」
「ふん」
槇寿郎は鼻を鳴らした。
「たかだか一隊士の修行に、現役の柱の時間を割けと言うか。
あの天狗面も、ずいぶん図々しい頼みをしたものだ」
背に、嫌な汗が伝った。
声は明らかに不機嫌そうだ。
だが、それだけではない。
元水柱の頼みを、炎柱が怒っている。
……ように見える。
けれど、宗右衛の目に映るものは本物の怒りのそれと違った。
本気で腹を立てている人間の色は、もっと濁る。
もっと暗く、相手へ刺すように伸びる。
だというのに、この男の内側から滲む色は、もっと明るく、もっと真っ直ぐで……面白がっているようですらある。
(怒っている、演技、か……?)
そう思った瞬間、首筋にぞわりと寒気が走る。
見える色は違う。
だが、槇寿郎から向けられている帯が、気づかぬうちに己の首へ伸びていた。
今この場で、お前の首などいつでも飛ばせる。
そう言われたのだと、体が勝手に理解する。
怒りも殺意の色もないまま、これだけの圧を向けてくる。
この人は怒らずとも、人を斬れるのではないか。
そんな考えが頭をよぎる。
喉が乾く。
飲み込む唾もないのに、喉がひとりでにひくりと鳴った。
「どうした。黙り込んで」
槇寿郎がわずかに口元を歪めた。
「誰に頼みごとをしているのか、今更理解して怖じ気づいたか?」
宗右衛は唇を噛みそうになるのを堪えた。
怖い。
それはそうだ。
柱だ。
鬼殺隊に幾人もいない、鬼に立ち向かう人間の頂点だ。
だが、ここで引くわけにはいかない。
(鱗滝さんの弟子が、鱗滝さんに頭を下げてもらっておいて、ここで黙るのか)
宗右衛は膝の上の拳をほどき、槇寿郎を真っ直ぐ見返した。
「柱の貴重なお時間を頂くこと、本当に申し訳なく思っています」
喉から絞り出す声は少し硬い。
だが、震えてはいない。
「けれど、この度は鱗滝左近次の弟子として、炎の呼吸を学ぶため、強くなるためにここへ来ました」
槇寿郎の目が細くなる。
「ここで何も得ずに帰るわけにはいきません。
必ず何かを学び取り、必ず強くなります。
家事でも、鍛錬の雑用でも、何でもやります。
どうか、炎の呼吸のご指導をお願いします」
言い切った瞬間、自分でも心臓がうるさいほど鳴っているのが分かった。
しばし、沈黙。
瑠火は静かにそのやり取りを見守っている。
やがて、槇寿郎の肩がふっと揺れた。
「……なるほど」
くつくつと低い笑いが混じる。
「肝は据わっているらしい」
その一言と共に、場を覆っていた圧が唐突に緩んだ。
宗右衛は一気に息を吐きそうになり、慌てて堪える。
「宗右衛君、悪かったな。
鱗滝さんの期待の弟子と聞いて、少しばかり試した」
「宗右衛さん、ごめんなさいね……。
主人がどうしてもやると言ってきかなくて……」
本当に、あっさりと種明かしをされて、宗右衛は思わず瑠火の方を見た。
「本当に、殺されるかと思いました……」
「はっはっは!」
槇寿郎は豪快に笑う。
瑠火も、ほんの少しだけ目を和らげた。
宗右衛は、遅れてどっと力が抜けてくるのを感じた。
汗が、背中にじっとりと張りついている。
「今日は長旅のあとだろう」
槇寿郎が言う。
「今すぐどうこうはせん。明日から見てやる」
宗右衛は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「いい、いい。礼は、何かを掴んでから言え」
ぶっきらぼうな物言い。
どこの師匠もこういうところは同じなのかもしれないと、少しだけ鱗滝を思い出す。
それだけで十分だった。
「杏寿郎」
「はい!」
「宗右衛君を客間へ案内しろ」
「承知しました!」
大きな返事と共に、杏寿郎が襖の向こうから顔を出す。
どうやら部屋のすぐ外で待っていたらしい。
いや、先ほどまで庭にいたはず……と考えてはたと気付く。
最初から試しを煉獄家総出で見守るつもりだったのだろうと思い至り、少しだけ眩暈がした。
杏寿郎に案内され、廊下を歩く。
その後ろ姿を見ながら、宗右衛は改めて思った。
間違いなく、自分の方が年上だ。
まだ身体も出来上がりきってはいない。
実戦経験も、今の時点ではおそらく自分の方が上だろう。
それなのに、門で顔を合わせた瞬間から、ずっと押されている。
これは実力の上下だけではない。
煉獄家の重み。
代々鬼狩りを続けてきた家の者の、当たり前のようにそこにある芯。
槇寿郎からも杏寿郎からも感じる、不思議な圧。
この少年には既に、自分とは違う“鬼殺隊士としての立ち方”があるように思えた。
それを思うと、胸の奥に燻り続けている何かが、かすかに疼いた。
宗右衛は鬼を斬る。
斬るべきものとして、淡々と斬ってきた。
だが、それで胸の奥の燻りが消えたことは、一度もない。
鬼を斬るたび、哀れみとも虚無ともつかぬものだけが残る。
それに比べて、この家はどうだ。
鬼を斬ることを、もっと真っ直ぐなものとして抱えている。
少なくとも、そう見える。
その違いが、少し怖かった。
「こちらです!」
杏寿郎が客間の襖を開けた。
中はきちんと整えられ、無駄がない。
宗右衛が礼を述べると、杏寿郎は胸を張って頷いた。
「何かあれば遠慮なく言ってくれ!」
「ありがとう」
「明日から忙しくなるぞ!」
その言葉を残して、杏寿郎は颯爽と去っていく。
廊下の向こうから、またあの張りのある声が聞こえた。
宗右衛は部屋に入り、ようやく大きく息を吐いた。
「……すごいな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
緊張が解けたようで、まだ解けきっていない。
門をくぐってから今まで、ずっと気を張りっぱなしだったのだと、今さら分かった。
外からは木刀の音が聞こえる。
ぱん、ぱん、と乾いた音が、日が落ちたあとも途切れない。
鍛錬が日常なのだ。
この家では、呼吸をするように。
宗右衛は膝を立て、その上に腕を置いた。
ここは、ただ強い者の家ではない。
炎柱を育て続けてきた家だ。
今日一日で、それを嫌というほど思い知らされた。
そしてたぶん、自分はまだ門をくぐったにすぎない。
そっと、羽織の亀甲花菱の紋をなぞった。