年度初めですのでね、皆さんも進学、就職、異動などなどなどなど……忙しない時期ですね。
私は異動がありましてなんかもう色々あって心が死にそうです!
皆さんも心も体も健康に気を付けて、死なない程度に頑張っていきましょうね!
目を開けると、天井の木目がまだ薄暗く浮かんでいた。
障子の向こうから、夜の名残を帯びた青白い光が、遠慮がちに部屋の縁だけを照らしている。
しばらくぼんやりと天井を見つめてから、ゆっくり息を吐いた。
煉獄家の客間。
昨日のうちに頭では理解していたが、寝起きの心にはまだ少しだけ現実味が薄い。
身を起こすと、外はしんと静かだった。
だが、まったくの無音ではない。遠くの方で、何かが擦れるような音がする。火を起こす気配にも聞こえた。
狭霧山にいた頃からの習慣で、朝は勝手に目が覚める。
俺は布団を畳み、部屋を軽く整えた。借りた部屋を散らかしたままにしておくのは性に合わない。
身支度を整える。
袴の紐を結び、刀を腰に差す。そこでようやく、体の内側にいつもの感覚が戻ってきた。
忘れ物がないか一通り確かめてから、部屋を見回す。
それでも、いつまでもじっとしているのは落ち着かなかった。
(……勝手に歩き回るのは悪いか)
そう思いはする。
だが、音のする先が気になるのも事実だった。
少しだけ迷ってから、俺は廊下へ出た。
板張りの床はよく磨かれている。朝の冷たさが足袋越しにも伝わってきた。
音は、廊下の奥からしていた。
進んでいくと、ほのかな出汁の香りと湯気が、開け放たれた厨から流れてきた。
淡い光を背にして、瑠火さんが炉の前に立っている。鍋に湯を張り、静かな手つきで味噌を溶いていた。
「……瑠火さん」
俺が声をかけると、瑠火さんは振り返り、昨夜と同じ柔らかな微笑みを見せた。
「おはようございます、宗右衛さん。お早いのですね」
「おはようございます。あの……何か手伝えることはありませんか」
言ってから、少し早まったかと思った。
客間から出てきていきなりこれでは、落ち着きのない若造に見えたかもしれない。
だが、瑠火さんは気にした様子もなく、やわらかく首を振った。
「とんでもありません。お客様にそのようなことはさせられません」
「いえ、でも、こちらこそ世話になっている身ですし」
「それでも、です」
短い言葉なのに、責任とやさしさの両方がにじんでいた。
それでも、ただ見ているだけではどうにも落ち着かない。
「弟子みたいなものですから、こういうのは慣れてます」
思わず言うと、瑠火さんが少しだけ目を丸くした。
俺は慌てて言い足す。
「すみません、弟子“みたい”じゃなくて、一応ちゃんと弟子なんですけど……家事も山仕事も一通りやってきたので。邪魔でなければ、何でも」
瑠火さんの目元がふっと緩む。
「そうですか。では……そこまで仰るなら、お言葉に甘えてもよろしいでしょうか」
「はい」
返事が少し大きくなって、自分でも少し気恥ずかしい。
「では、お椀を並べていただけますか。椀はそちらの棚にあります」
「それくらい、いくらでも」
器棚へ向かうと、瑠火さんがまた静かに笑った。
その微笑みは、まだ朝の冷たさが残る厨の空気を、じわりとやわらげていくようだった。
俺は袖を軽くまくり、言われた通りに器を出しはじめた。
どれもよく手入れされていて、使い込まれているのに曇りがない。
「本当に慣れていらっしゃるのですね」
「鱗滝さんのところでは、手の空いてるやつがやる感じだったので」
「皆さんで、ですか?」
「はい。……まあ、やる気の差はありましたけど」
思い浮かぶのは、狭霧山の朝の匂いが満ちるあの家だ。
俺が布団を片付けている間、錆兎は寝間着のまま鍋を眺めている。
義勇は無言で飯台を整え、鱗滝さんは竈の前で火の具合を見ている。
必要以上のことを語らず、それぞれがやるべきことをしていた。
山の空気と炊き立ての米の匂い。誰かのあくび。梁の上の烏の気配。
それが、俺にとっての確かな温もりだった。
瑠火さんは興味深そうにそれを聞いて、やがて静かに頷いた。
「鱗滝様のお家が、少し見える気がします」
「そうですか?」
「ええ。厳しくて、けれど、きちんと暮らしていらっしゃる家なのだろうと」
その言い方が、何だか妙にうれしかった。
俺はほっとしながら、器の位置を揃える。
ふと瑠火さんの横顔を見る。
手つきには慣れがあるのに、動きの節々に小さな間が混じっていた。朝の支度の合間に、ほんのわずか息を整えるような沈黙が差し込む。
体調が優れないというのは、本当なのだろう。
何も言わずにいると、瑠火さんの方が先に口を開いた。
「ご心配なさらなくても大丈夫ですよ」
「……顔に出てましたか」
「少しだけ」
やわらかく笑われて、俺は素直に頭を下げるしかなかった。
「すみません」
「いいえ。ですが、今日は昨日より楽なのです。こうして朝の支度もできますし」
それが気遣いなのか本心なのか、たぶん両方なのだろう。
無理に踏み込むべきではない気がして、俺は小さく頷いた。
その時、廊下の向こうからばたばたと足音がした。
「母上! おはようございます!」
杏寿郎の声が屋敷じゅうに明るく響く。
続いて、もう少し小さな足音。
「お、おはようございます……!」
千寿郎が後ろから顔を出した。
「おはようございます、杏寿郎、千寿郎」
瑠火さんがふわりと応える。
杏寿郎はすでに支度を済ませているらしく、しゃんと背筋を伸ばしていた。千寿郎は目をこすりながらも、しっかり木刀を抱えている。
「宗右衛さん! もう起きておられたのですね!」
「まあ……癖で」
「うむ! 早起きは良いことだ!」
朝から全力である。
千寿郎が俺の方を見て、ぺこりと頭を下げた。
「お、おはようございます、宗右衛さん」
「おはよう、千寿郎くん」
そう返すと、千寿郎は少しだけ安心したように目を瞬かせた。
朝食の支度は程なく整った。
座敷に瑠火さんが座り、杏寿郎と千寿郎が続き、俺も勧められるまま席に着く。
そこで初めて、用意がひとつ足りないことに気づいた。
「あの……槇寿郎さんは」
訊ねると、杏寿郎が当然のように答えた。
「父上は鬼狩りに出ておられる!」
俺は箸を持つ手を止めた。
「もしかして、昨日のうちに?」
「うむ! 夜に伝令があったのだ!」
あまりにも自然な口ぶりだった。
今日の天気を言うように、父が鬼を斬りに出たと告げる。
「留守の間は、俺が家を預かるよう仰せつかっている! それから、宗右衛さんとは一緒に鍛錬するようにとも!」
迷いのない返事だった。
その目の奥には、父が鬼狩りに出たことを当然のこととして受け止める、澄んだ光だけがある。
「……そうなんだ」
「はい!」
視線を逸らすと、千寿郎も静かに椀を持って食事を続けている。
驚いている様子も、寂しがっている様子もない。幼さは残っているのに、この家の当たり前を自然に受け入れている顔だった。
俺には、それが少し不思議だった。
鱗滝さんが鬼狩りに出る時、俺はその背中をじっと見送った。
見送れない時でも、心の底では「どうか無事で」と願っていた。
鱗滝さんが欠ければ、あのあたたかな家の輪が崩れてしまうような気がしていた。
最終選別の時だって、錆兎や義勇のことを考えると胸がざわついた。
だが、煉獄家は少し違う。
父が鬼狩りに出る。
残された家族は淡々と役目を背負う。
語るでもなく、騒ぐでもなく、日々の鍛錬と暮らしを続けていく。
行く側も、待つ側も、その覚悟をわざわざ口にしない。
俺は箸で米を口に運んだ。
炊き立ての白米はやわらかく、噛むほどに甘さがゆっくり広がっていく。
その温かさが、かえって胸の奥にひやりとしたものを生んだ。
この家では、鬼狩りが日常なのだ。
厳しいようにも思えるが、決して冷たいわけではない。
むしろ、ひどく強い。
そこに、自分の知らなかった生き方の差を感じた。
朝食を終えると、杏寿郎がすぐさま立ち上がった。
「では宗右衛さん! さっそく鍛錬に参りましょう!」
「今から?」
「今からです!」
勢いに押されながら瑠火さんを見ると、苦笑しながらも鍛錬に向かうように促される。
「分かった」
そのまま庭へ出ると、朝の冷たい空気がまだ残っていた。
千寿郎は俺の隣で、木刀を腰に差している。
先を歩く杏寿郎が、こちらへ振り向いた。
「まずは宗右衛さんにも、千寿郎と共に基礎から行っていただきます!」
「何からすればいい?」
「まずは立つ練習です!」
即答だった。
「立つ、練習……?」
杏寿郎は千寿郎の肩を軽く叩く。
「千寿郎、まずはお前からだ!」
千寿郎は小さく息を吸い、足を揃えて直立する。
肩の力を抜こうとしているが、まだわずかに緊張が残っている。
「宗右衛さんも千寿郎を真似してください!」
「わ、分かった」
俺も千寿郎を真似るように、静かに足を揃えた。
土の上に立つ両足の裏に、朝露の冷たさがほんのり沁みてくる。
そして、立つ練習と言われて生まれて初めて、「立つ」ことを意識した。
千寿郎を真似るつもりで立ったのに、自分の足のどこへ重心を置くべきか、一瞬迷う。
杏寿郎は真剣な面持ちで二人を見比べ、ゆっくりと説明し始めた。
「自然に立つだけでは、人の身体というのはとても不安定なんです。炎の呼吸では、まず正しく、安定して立つことを身につけます!」
俺は思わず足裏の感触に意識を向ける。
杏寿郎は、槇寿郎に何度も指摘されて身につけたのであろう立ち方の注意を、迷いなく口にしていく。
親指のつけ根、小指のつけ根、かかと。
三点で地面を押し広げるように立つこと。
腰を少し落とし、左右の足裏にかかる重さを揃えること。
目線は遠く、背筋はまっすぐ。
頭のてっぺんから糸で引かれているように、重力と吊り合いを取ること。
呼吸に合わせて、余分な力だけを静かに抜いていくこと。
千寿郎も大きく息を吐きながら、少しずつ身体の力を抜いていく。
その様子を横目に、俺も同じように、体の内側に残るわずかな緊張を流した。
何度か杏寿郎に姿勢を直されながら、身体の隅々に意識を巡らせる。
庭の端で枝葉が揺れ、静かな朝日が地面を照らし始める頃、ただ「正しく立つ」ことの難しさにふと気づいた。
杏寿郎は誇らしげに続けた。
「この立ち方を、ひと時も崩さずできるようになったら、次へ進めるのです! 昔の自分も、何度も何度も父上に立たされました!」
その言葉に、俺は初めて、炎の呼吸の家が受け継いできたものの一端に触れた気がした。
単純に見えることを、ただひたすらに、愚直なまでに繰り返す。
その反復が、この家の強さを形づくっているのだ。
どれくらいそうしていただろうか。
朝日がゆっくり庭に降り注ぎ、自分の呼吸だけがやけに耳につく頃、ようやく杏寿郎の声が響いた。
「そこまで!」
その言葉に、俺も千寿郎も同時に小さく息を吐いた。
緊張の糸がほどける。
杏寿郎がぱっと俺に満面の笑みを向ける。
「こんなにわずかな時間で正しい立ち方を習得されるとは、さすがです!」
素直な賛辞に、少し照れくさい気分になる。
だが、鱗滝さんに「骨で立て」と付きっきりで鍛えられた日々を思えば、どこか誇らしくもあった。
「……うん。鱗滝さんの修行が厳しかったからね」
自然と笑みがこぼれる。
横では千寿郎も、どこか誇らしげに背筋を伸ばしていた。
「さて、次は何をする?」
俺が問うと、杏寿郎は意気込みに満ちた顔で木刀を差し出してきた。
「運足の練習です!」
打ち合いになるのだろうと思っていた俺は、つい笑いそうになる。
「いや、まあ、やるけどさ」
「基礎は何より大事ですから!」
杏寿郎の真剣な眼差しに、冗談めいた気持ちはすぐに引っ込んだ。
俺は木刀を受け取り、杏寿郎と並ぶ。
踏み込む。
引く。
腰を捻る。
木刀を振り下ろし、時に薙ぐ。
ひとつひとつは基本中の基本だ。狭霧山でも腕が上がらなくなるほど繰り返した。
今さら、と思う気持ちがどこかにあった。
だが、「正しく立つ」ことを守りながらとなると、話はまるで違ってきた。
無意識に省いていた身体の細かな調整、足裏の圧、腰の高さ。
それら全部を意識しなければ、すぐどこかが崩れる。
雑に動かせば、重心はあっという間に揺らいでいく。
さっきまではただ静かに立っていただけで、これでは「身についた」などとはとても言えない。
俺は少しだけ、調子に乗っていた自分が恥ずかしくなった。
ふと視線を横に送ると、まだ身体に幼さを残した杏寿郎の姿が映る。
背丈も俺より低い。
筋肉のつき方も、これから育つものだと分かる。
けれど、その動きはまっすぐだった。
踏み込みにも、木刀を振るう腕にも、迷いがない。
踏み出す一歩も、振るう一太刀も、「これでいい」という確信を持っているように見える。
俺は、自分の視線が足元に落ちそうになるのをなんとか堪えた。
「よし!」
杏寿郎の声が、空気の張りつめた鍛錬に一区切りをつけた。
千寿郎はその場に膝をつき、肩で荒く息をしている。
俺は静かに水筒を取り出して差し出した。
「ほら」
「あ、ありがとうございます……」
太陽はもうかなり高い。そろそろ昼が近いのだろう。
杏寿郎がくるりとこちらを向き、両目を輝かせて言った。
「宗右衛さん、軽く打ち合っていただけますか!」
「軽く、ね」
「はい! 軽くです!」
軽くで済むのだろうか、と俺は思う。
だが杏寿郎の目はきらきらしていて、断れる空気ではない。
「分かった」
二人は向かい合い、距離を測る。
杏寿郎の構えは、まだ成長しきっていない身体の線に不似合いなほど、正確で揺らぎがない。
足元から一本の糸が天へ伸びるように、まっすぐ俺を見据えていた。
正面から来る。
色で分かる。
迷いのない太刀筋。
澱みも小細工も入り込む余地がない。
俺は木刀を正眼に構え、深く息を吐いた。
「いつでもどうぞ」
「行きます!」
杏寿郎が一直線に踏み込んでくる。
速い。
だが、まだ見える。
体の未熟さ。間合いの詰め方の粗さ。直線的な動き。
その全部を、俺の経験が受け止める。
打ち込まれた木刀をさばき、半歩ずらし、自分の得意な間合いを作る。
相手の勢いを流すようにして、一打を返す。杏寿郎も必死に食らいつき、乾いた音が何度も庭に響いた。
「もう一度!」
杏寿郎が笑う。
俺は受け、流し、時に攻めを入れる。
何合か交えれば、実戦経験の差ははっきり出た。今の時点では、俺の方が一枚上だ。
それは杏寿郎も分かっているだろうに、その表情には楽しくて仕方ないと書いてあるようだった。
少年特有の楽しさ。
いや、まなざしだけは、幼さ以上に澄んでいる。
ただ、これが今だけの優位だということも、肌で分かっていた。
それ以上に姿勢の正しさがもたらす安定、太刀筋の鋭さ、攻防の切り替え。
杏寿郎の動きには、無駄な力の入り込みがない。
崩れなく立ち続ける芯。
これが炎の呼吸の基礎がもたらすもの。
ふと、脳裏をよぎるのは、あの山で同じように三人でしのぎを削った日々だった。
錆兎と義勇の姿を思い出す。
互いに自分の持ち味を認め、吸収し合いながら、少しずつ高みに手を伸ばしてきた。
今だけの優位。
それはいつだって、数日後には誰かに追い越されていく。
「はあっ!」
再び返ってきた杏寿郎の打ち込みを、丁寧に受け流す。
手首を返し、木刀の先を素早く相手の脇腹に当てる。
静まり返った庭で、千寿郎が小さく息を呑むのが聞こえた。
「……一本、かな?」
俺が言うと、杏寿郎は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと顔を輝かせる。
「うむ! 負けました!」
悔しさよりも、真っ直ぐな嬉しさが先に立っている。
「やはり宗右衛さんは強いですね!」
「いや……今のは年と経験の差だよ」
「それでも強いものは強いです!」
きっぱり言われれば、うまく返す言葉もなく、俺は自然と木刀を下ろした。
今は、どう動いても自分の方が上回れる。
心も技も経験も、まだ差があるのだと分かる。
それにもかかわらず、心の奥にじっとりとしたものが沈みはじめるのを感じていた。
杏寿郎の目に宿る真っ直ぐな意志と、立ち姿のぶれなさ。
そして、迷わずに「斬るべきもの」を見つめられそうなまなざし。
胸の中の何かが、ぞくりと震えた。
自分は、鬼を斬ってきた。
襲いかかられれば、斬るしかなかった。
そのたびに胸の奥には、うまく名づけられない燻りだけが残った。
それに比べて、この家はどうだ。
鬼狩りを、もっと当たり前の責務として抱いているように見える。
少なくとも、今の俺の目にはそう映る。
その違いが、少しだけ怖かった。
「もう一度お願いします!」
杏寿郎が木刀を握り直す。
「……まだやるの?」
「もちろんです!」
迷いを取り繕うように、わざと大きく息を吸った。
「はいはい、分かったよ」
そう答えて、もう一度木刀を構える。
庭の端では、千寿郎もまた苦しそうな顔の奥に何かを見つめながら、木刀を握り直していた。
庭の向こう、座敷の中からは、瑠火さんが静かにこちらを見守っている。
この家では、昨日の延長のまま、今日も明日も、鍛錬と暮らしと鬼狩りが途切れずに繋がっていくのだろう。
俺は改めて木刀を構えた。
まだ、ここへ来たばかりだ。
それなのに、胸の内側のどこかを静かに抉られている気がする。
煉獄家の朝は、思っていた以上にあたたかく、そして厳しかった。
その眩しさを、まっすぐ見返す勇気が、今の自分にはまだ持てそうになかった。