翌朝、目を覚ました瞬間、俺は静かに呻いた。
「っ……」
起き上がろうとしたところで、背中から腿の裏にかけて鈍い痛みが走る。
腕も肩も、妙なところまで痛い。
昨夜のうちに疲れは取れたつもりだが、痛みまでは取れなかったようだ。
原因は分かっている。
昨日の鍛錬の終わり際、杏寿郎と千寿郎が当然のように始めた柔軟だ。
柔軟、と呼ぶにはいささか穏やかさに欠ける代物だった。
脚を開かされ、背を押され、腕を捻られ、息を吐け力を抜けと明るい声で励まされながら、身体のあちこちを悲鳴を上げるところまで伸ばされた。
途中からは鍛錬というよりも、拷問に近かった気がする。
あの世の終わりのような柔軟は、どこも痛くないところがないほど続けられた。
ゆっくりと息を吐いて、改めて起き上がる。
節々は痛むが、動けないほどではない。
「……鱗滝さんに鍛えられてるからな」
誰に聞かせるでもなく呟いて、布団を畳んだ。
客間を整え、身支度を済ませる。動いているうちに血が巡って、痛みも少しずつ和らいでいった。
それでも歩くたびに、普段使わない筋がギシリと軋む。
障子の向こうはまだ朝の淡い光の中だ。
廊下へ出ると、遠くの方から食器の触れ合う音と、火の気配がした。
昨日と同じだ。
瑠火さんに手伝いを断られたのを思い出しながらも、足は自然とそちらへ向いていた。
厨へ近づくと、火の香りがふわりと流れてくる。
その匂いだけで、胸の奥のどこかが少しやわらぐような気がした。
「……おはようございます」
声をかけると、瑠火さんが振り返った。
「あら、おはようございます、宗右衛さん」
それから俺の顔を見て、わずかに目を細めた。
「今日も早いのですね……と言いたいところですが」
視線が、俺の足の先から頭までをなぞる。
俺は思わず居住まいを正した。
「痛みますか?」
「え」
「昨日、杏寿郎たちと鍛錬をなさっていたでしょう。あの子と一緒に鍛錬をした方で、翌朝すぐに起きてこられた方は、あまり多くなかったものですから」
穏やかな言い方だったが、どこか面白がっているようでもある。
俺は少しだけ苦笑した。
「……痛くないと言ったら嘘になります」
「やはり」
「でも、起きられないほどじゃありません。鍛えてますから」
そう返すと、瑠火さんはほんの少しだけ笑った。
「それは頼もしいですね」
その言い方に、からかわれているわけではない温かさがあった。
俺は厨の中へ一歩入る。
「何か手伝えることはありますか」
「お客様にそんなことはさせられません」
「でも、昨日も手伝わせてもらいましたし」
「昨日は、宗右衛さんがあまりに真剣なお顔をなさるから」
「今日も同じ顔だと思います」
言うと、瑠火さんが諦めたように静かに笑う。
「本当に、生真面目な方なのですね」
「なにかしてないと落ち着かないだけです」
すると瑠火さんは、少しだけ真面目な目になった。
「そういう方なのだろうと思っていました」
瑠火さんの穏やかな視線に、何故だか心臓がわずかに跳ねる。
その言葉の意味を考える間もなく、瑠火さんはやわらかく続けた。
「では、そこまで仰るなら、お手伝いをお願いしてもよろしいでしょうか」
「はい」
俺は器棚へ向かった。
棚の木の匂い、火の匂い、味噌の匂い。生活の匂いが、ここにはある。
煉獄家の鍛錬は厳しい。杏寿郎は眩しいくらい真っ直ぐで、槇寿郎さんは鬼狩りの剣士そのものみたいな人だ。
けれど、こうして朝の支度の音がして、湯気が立って、人の声が静かに交わると、そこへ日常が戻ってくる。
その温かさに触れていると、胸の奥に何とも言えない柔らかな気持ちが生まれた。
母親の記憶なんて、ほとんどない。
けれど、もしもっと長く母と過ごせていたなら、こういう朝があったのかもしれないと、自分でも気づかぬうちに、そんなものへ憧れていたのだろうかと思う。
器を並べながら、ふと瑠火さんの横顔を見る。
静かで、穏やかで、やはりどこか芯が強い。
そのまましばらく無言で手を動かしていると、瑠火さんがぽつりと言った。
「宗右衛さんは、よく周りをご覧になるのですね」
瑠火さんの言葉に、胸が小さくざわついた。
これは言葉そのものの鋭さではない。
瑠火さんにはなにか、心の柔らかい部分にスルリと入り込むような怖さがある。
そういうあたたかさに、どうにも慣れない。
「そう、ですか?」
「ええ。昨日も今日も、あの子たちのことや、この家のことを、ちゃんと見ていらっしゃる」
それは褒め言葉のようでいて、少し違う響きもあった。
俺が何かを抱えていることを、ぼんやりと掴まれているような。
けれど、無理に暴こうとはしない。
そういう距離感をとってくれている。
「……見るのは癖みたいなものです」
「そういう癖を持つ方は、たいていご自分のことには鈍いものです」
思わず手が止まりそうになる。
それは鱗滝さんにも、何度も言われた言葉だ。
瑠火さんは味噌汁をよそいながら、それ以上追及することはしない。
だが、自分が他の隊士たちとは少し違う立ち位置にいることは、既に見抜かれているのだろうと思った。
この家は、きっと俺のような子たちを何人も見てきたのだろう。
だからなのか、俺が他の隊士たちとは少し違うところにいることも、薄々気づかれているのかもしれない。
その時、廊下の向こうから声が響いた。
「母上! おはようございます!」
杏寿郎だ。
続いて、少し遅れて千寿郎が顔を出す。
「お、おはようございます……」
「おはようございます、二人とも」
瑠火さんが応じる。
杏寿郎は今日も朝から眩しいほど元気だった。千寿郎はまだ少し眠そうだが、今日も木刀を胸に抱えている。
それぞれが支度を終わらせ朝食の席に着くと、昨日と同じく槇寿郎さんの姿はない。
「父上は夕刻までには戻られるはずです!」
杏寿郎が言う。
当然のような顔だった。
俺はその言葉を聞きながら、炊き立ての白米を口へ運ぶ。
温かい。けれど、その温かさの中に、どこかひやりとするものが混じる。
この家では、鬼狩りが生活から切り離されていない。
父が鬼を斬りに出て、その間、残る者は食事をし、鍛錬をし、家を整える。
鱗滝さんの家でもそれは同じだったはずなのに、煉獄家のその自然さが自分には少し眩しかった。
朝食を終えると、昨日と同じように庭へ出た。
立つ。
息を吸う。
立ちながら、滝行をしたときのことを思い出す。
あの重たく、冷たい水を体で受け止めるとき、鱗滝さんはどんな姿勢だったろうか?
あの時の経験が、言葉が、今になってさらに重みを増していく。
次は立ち方を意識しながら、運足の訓練。
踏み込む。
腰を落とし、動きながら足裏で地を掴み、呼吸を崩さない。
杏寿郎は今日も真っ直ぐに刀を振る。
千寿郎もその横で、懸命に兄の真似をしている。
陽が高くなり、少し休憩を入れた頃。
鍛錬の汗が引ききらぬまま縁側でぼんやりしていると、瑠火さんがお茶とお菓子を持ってきてくれた。
「お疲れでしょう。どうぞ」
三人それぞれの前に湯呑みが置かれる。
湯気の向こうの瑠火さんの仕草はやわらかい。
千寿郎の横顔をちらりと見ると、色とりどりの菓子に目を輝かせている。
俺がいるからお菓子が出たのだろうかと心の中で思いながら、その無邪気な様子に俺も思わず力が抜け、湯呑みを両手で包んだ。
静かなお茶の時間が過ぎる。
名前も知らない菓子の素朴な甘さが口に広がるうち、どこからか小鳥の声が聞こえた。
杏寿郎が、ふと千寿郎に視線を止める。
「千寿郎、軸がぶれているぞ」
そう言って千寿郎の肩をぽんと叩き、自分の隣に立たせる。
そのまま二人は庭の奥へ移動して、杏寿郎は千寿郎の立ち方を直し始めた。
その様子を眺めていると、瑠火さんが俺の隣に腰を下ろした。
ドキリとして横目で瑠火さんをみると、視線はまっすぐに杏寿郎と千寿郎に伸びている。
(な、なにか声を掛けた方がいいのかな……?)
しばらく迷いながらも、結局はなにも言い出せないまま、二人で子どもたちを見守る。
ふいに瑠火さんが柔らかな声で問いかけてきた。
「宗右衛さんから見て、あの子たちはどのように映りますか」
口調は優しげだったが、それはただの世間話というには、少し重い声色に感じられた。
俺は湯飲みを持つ手を少しだけ見下ろして、返す言葉を探す。
「そうですね……。
杏寿郎は……すごいと思います」
そう口にすると、言葉は思ったより素直に出てきた。
「もう今の時点で、最終選別を越えるだけの力は十分あるように見えます。それに、越えるだけじゃなくて、それ以上に。まだまだ強くなるだろうって感じます」
安定した太刀筋。
踏み込みの丁寧さ。
打ち込みの迷いのなさ。
まだ身体は育ちきっていないのに、それでも剣士としての完成度はとても高いように思えた。
「ああいうのは、才能あるんだと思います」
言ってから、少し気恥ずかしくなって視線を外す。
それから、千寿郎の方を見た。
「千寿郎くんは、まだ小さいから今の段階では何とも言えません。でも、よく見ています。
よく見て、よく真似て、必死についていこうとしている。そういうのは、大事だと思います」
杏寿郎ほどはっきりした才気はまだ感じていない。
けれど、それが今見えていないだけかもしれないし、才の無さは俺も人のことは言えないので、言葉にはしない。
瑠火さんは、静かに頷いた。
「そうですか。ありがとうございます。
私は刀を握ったこともありませんので、宗右衛さんのような方からお話を聞けて良かったです」
それから少しだけ間を置いて、俺を見た。
「宗右衛さんは、あの子たちの強さだけでなく、その先まで見てくださるのですね」
その言葉が、妙に胸に残った。
お茶請けの菓子にそっと手を伸ばした瑠火さんは、庭で必死に足を直す千寿郎の様子を目で追いながら、何気なく俺に言葉を向ける。
その声には、わずかな労りと励ましが紛れていた。
それが、不思議と嫌ではなかった。
―――
午後の鍛錬に戻る。
打ち込みを重ね、木刀を振り、汗を流す。
千寿郎が少し離れたところで形を繰り返している間、杏寿郎と向かい合う時間があった。
木刀を下ろした拍子に、俺はふと訊いていた。
「杏寿郎は、どうしてそこまで頑張れるんだ」
杏寿郎がきょとんとする。
「どうして、とは?」
「あ、いや、杏寿郎はまだ鬼と出会ったこともないだろ?
なのに、朝から晩まで鍛錬して、それが当たり前みたいに見えるから」
言ってから、自分でも少しだけ驚いた。
問いかけたのは杏寿郎に対してなのに、それは自分自身にも向いている気がしたからだ。
櫛那も、錆兎も、義勇も、きっと鱗滝さんも、鬼に大切な何かを奪われた人だ。
だから、鬼に立ち向かう。
でも、俺や杏寿郎は違う。
鬼に大切なものを奪われたわけではないまま、鬼に立ち向かう訓練をしている。
その問いは俺自身の迷いを、杏寿郎に投げかけているかのようだった。
杏寿郎は木刀の先を静かに下ろした。
ほんの少しだけ、考えるように目を細める。
「……父上のように立てるだろうかと、時々思うのです」
その言葉に、俺は知らず息を呑む。
杏寿郎は続ける。
「もし今、目の前で鬼に襲われる人がいたならば、たとえ勝てぬと分かっていても、俺は立ち向かわねばならないと思っています」
その声音は、強がりではなかった。
自分に言い聞かせるようでもあり、既にそう決めているようでもある。
「その人たちより先に傷つかねば、剣を持つ意味がなくなってしまう気がするのです。煉獄の名を継ぐ者なら、そこで迷ってはならない」
言い切ったあと、杏寿郎は少しだけ照れたように笑った。
「俺はその時に、一人でも多くの人を救うために鍛錬を続けているのだと思います」
父上や母上の前では、あまり口にすることではありませんが、と恥ずかしそうに頬を掻く杏寿郎に、俺はうまく言葉を返せなかった。
杏寿郎には何も迷いなんかないのかもしれないと、どこかで思っていた。
いや、そうであってほしかったのかもしれない。
杏寿郎が迷いなく突き進んでくれていたのなら、そういうものなんだと自分自身の悩みにも諦めがついたのかもしれない。
けれど実際は違った。
杏寿郎はまだ十一の少年で、それでも自分の生き方を、自分の言葉で考えていた。
俺なんかより、ずっと立派に。
これほどに才あふれる子でも、いや杏寿郎だからこそ、自分が父のようになれるのか、自分は剣士としての責務に足るのかを、自分なりに測っている。
それを見せつけられると、胸の奥に沈んでいた何かが、ひどく居心地の悪い形で揺れた。
「……なれると思うよ」
ようやく出た言葉は、それだった。
「槇寿郎さんみたいに、かどうかは分からない。でも、杏寿郎は杏寿郎として、強い剣士になれる人だと思う」
杏寿郎の目がぱっと開く。
「本当ですか!」
「うん。少なくとも、俺にはそう見える」
それは本心だった。
そして同時に、その眩しさが胸のどこかを静かに刺した。
俺はどうだろう。
鬼に襲われる誰かを前にした時、同じように当然の責務として前へ出られるだろうか。
……多分、出る。
けれどそれは、杏寿郎のような迷いのなさとは違う。
その時ようやく、自分に足りないものの輪郭が、ぼんやりと掴めた気がした。
俺には、鬼を斬る責任感がない。
鬼がいるから斬る。
襲われれば応じる。
鬼殺隊士として、戦えてしまう。
だが、その奥にあるべき芯が、自分にはまだない。
そのことだけが、静かに胸へ沈んでいった。
夕方、日が傾き始めた頃。
門の方から気配がした。
「父上です!」
杏寿郎が顔を上げる。
槇寿郎さんは、本当に何でもないことのように帰ってきた。
派手な傷も、息の乱れもない。
土埃をまとってはいるが、それだけだ。
まるでちょっとそこまで出ていた人みたいな顔で、炎柱が屋敷へ戻ってくる。
その自然さが、かえって恐ろしかった。
槇寿郎さんは俺たちを一目見た。
その視線が、木刀を持つ俺の足元、肩、頭の天をなぞるように走る。
「……杏寿郎」
「はい!」
「ちゃんと見たようだな」
短い言葉だった。
けれど杏寿郎の顔が、ぱっと明るくなる。
「はい!」
続いて、槇寿郎さんの目が千寿郎へ向く。
「千寿郎、お前も兄の足を見ていたな。
随分よくなった」
千寿郎が、驚いたように目を丸くした。
「は、はい……!」
それからようやく、槇寿郎さんはもう一度俺を見た。
「立ち方が一昨日よりマシになったな」
それだけ言って、愉快そうに鼻を鳴らす。
褒められたのかどうかも分からない。
けれど、胸の奥が少し熱くなった。
それ以上に強く残ったのは、別の感覚だった。
この家では、強さそのものだけじゃない。
教えることも、受け継ぐことも、ちゃんと価値として扱われている。
父が子を見る。
兄が弟を導く。
母が家を保つ。
そうして煉獄家は、鬼狩りの在り方そのものを継いできたのだ。
その輪の中に、自分はほんの少しだけ混ぜてもらっている。
そう思うと、うれしいような、居心地が悪いような、妙な気持ちになった。
日が沈みかけた庭で、杏寿郎は胸を張るように木刀を振る。
千寿郎は木刀をぎゅっと握りしめ、瑠火さんは縁側の奥で静かにこちらを見ている。
俺はふと、自分の足元を見た。
昨日より少しだけ、地に足がついている気がする。
けれど胸の奥の燻りは、まだそのままだった。
煉獄家の火は、あたたかい。
あたたかいのに、真っ直ぐすぎて、時々目を細めたくなるほど眩しかった。
チャットGPTの画像生成が良くなりましたと聞いて、立ち絵訂正できるかなと思ってやってみたらかなり良くなりましので、トップの立ち絵変更しました