朝は、やはり烏の声から始まる。
梁の上で二声。
少し間を置いて、一声。
それが合図だと分かっているのに、布団の中で一拍だけ粘ってしまう。
その一拍を見逃してくれるほど、あの烏は甘くない。
「カァッ」
今日はやけに近い。
そう思って目を開けると、本当に顔の真上にいた。
真っ黒な目が、こちらを覗き込んでいる。
「起きてる。起きてるって」
慌てて身を起こすと、烏は用が済んだとばかりに梁へ戻った。
囲炉裏の傍から、鱗滝さんの声が落ちてくる。
「宗右衛。今日は二人で沢へ行け。桶は一つで足りる」
「二人で……?」
寝ぼけた頭で復唱してから、昨夜来た子のことを思い出した。
細い体。
濡れた髪。
櫛に絡みついていた、暗い桔梗のような色。
隣の部屋で眠っているはずだ。
「山を歩かせる前に、身体を慣らす。お前が先に立て。足を見てやれ」
「……わかりました」
足を見てやれ、というのは、転ぶ前に気づけという意味だ。
この一年で、鱗滝さんのそういう言い回しにも、だいぶ慣れてきた。
隣の部屋の襖を、そっと開ける。
昨日来た子は、布団の端で小さく丸まっていた。
声をかけようとして、少し迷う。
そういえば、名前を知らない。
知らない子を起こす時、何と呼べばいいのだろう。
「……起きられそう?」
結局、一番無難そうな言い方になった。
布団がびくりと揺れる。
女の子が顔を上げた。
寝起きで、まだ目がこちらに追いついていない。
焦点が合うまで、少し時間がかかった。
「……おはようございます」
髪は寝癖で跳ねている。
目元は、昨日泣いた名残で赤い。
それでも、きちんと膝を揃えて正座しようとする。
ちゃんとしている子だ、と思った。
裏長屋にいた子たちは、寝起きに正座なんてしない。
起きたくなければ丸まるし、怖ければ泣くし、腹が減っていれば椀を探す。
この子は、それより先に礼を整える。
「沢まで一緒に行くんだって。桶は俺が持つから、歩くのだけ頑張って」
「……はい」
小さく返事があった瞬間、その子の周りに色が走った。
濃い墨を、水で薄めず引きずったような影。
ところどころに、暗い赤が混じっている。
喉元には、濁った緑が絡まっていた。
それでも、その上に、くすんだ紫の細い帯が揺れている。
桔梗の花に似た色。
その色を、俺は知っていた。
政吉が、よく纏っていた色だ。
裏長屋で、帳面を睨む時。
酒をあおりながら、誰にも聞こえない声で「ハル」と呼ぶ時。
俺を見て、怒りとも後悔ともつかない目を向ける時。
政吉の周りにまとわりついていたのが、これに近い色だった。
花売りの婆さんが持っていた桔梗の束を見た時に、ああ、政吉の色だ、と思ったのを覚えている。
悲しいだけではない。
怒っているだけでもない。
けれど、どこにも置けないものが、胸の奥に残っている色。
その子は、それを抱えていた。
「気をつけて行け」
背中に声がかかる。
「はい」
俺は返事をして、女の子についてくるよう手で示し、戸を開けた。
朝の山の空気は冷たい。
頬に触れた瞬間、眠気がすっと薄くなる。
沢までは、もう歩き慣れた道だ。
家を少し下り、細い石段を越える。
苔のついた倒木を跨ぐ。
根の張った斜面を斜めに降りる。
初めてこの道を歩いた時は、鱗滝さんが何度も注意してくれた。
ここは滑る。
そこは石が動く。
その根は踏むな。
濡れた落ち葉の下を信用するな。
今では、足が勝手に避ける。
問題は、後ろを歩く子の方だった。
「そこ、根っこが出てる。右から回った方がいい」
「は、はい」
女の子の歩幅はぎこちない。
足元を見ているのに、たまに石につま先を取られる。
体が揺れるたび、周りの緑が黄色く濁っていく。
怖がっている。
焦ってもいる。
でも、泣き言は言わなかった。
声をかけるたびに、小さく「ありがとうございます」と返してくる。
律儀だ。
こんな山道でまで律儀でいるのは、少し大変そうだった。
沢に近づく頃には、女の子の息はかなり上がっていた。
「あと少し。ここから石場まで下りる。ぬかるんでるところがあるから、俺の足跡を踏んで。外れると滑る」
「はい……」
「水は冷たいから、最初は手だけにした方がいいよ」
「え……はい」
女の子は、おそるおそる水へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、すぐに手を引っ込める。
「冷た……」
「すぐ慣れるよ。夏の終わりだから、まだまし。冬はもっとひどい」
俺は顔を洗ってから、桶を水で満たした。
水は冷たい。
でも、この冷たさが朝の体を起こしてくれる。
顔を上げると、女の子がこちらを見ていた。
少し驚いたような、呆れたような顔だ。
それから、ほんの少しだけ、口元がゆるんだ。
その笑顔の縁に、薄い金が灯る。
小さな灯りだった。
すぐに桔梗の下へ沈んで、見えなくなる。
でも、確かにあった。
俺は、見なかったふりをして桶を担ぎ直した。
「帰りは登りだから、さっきより気をつけて」
「はい。……宗右衛さんは、これを毎日なさっているんですね」
「うん。ここじゃ、これが普通」
普通。
口から、あっさり出た。
裏長屋の普通とは、何もかも違う。
でも今の俺にとっては、水を汲み、薪を割り、烏に起こされることが普通になっている。
そう思うと、不思議だった。
「……すごいです」
女の子が小さく言った。
その言葉の周りに、ほんの少し青が増える。
息を整えようとしている色だった。
俺は歩幅を少しだけ落として、家までの坂を登った。
―――
朝飯を終えると、鱗滝さんがその子を見た。
「櫛那。外に出ろ」
そこで初めて、名前を聞いた。
「……くしな?」
思わず復唱すると、女の子がこちらを見る。
「はい。櫛那です」
櫛那。
声に出すと、名前とその子の姿が、ぴたりと合うような感じがした。
背筋がしゃんとしていて、礼儀正しい。
それでいて、どこか風に揺れる稲の穂みたいに頼りない。
折れそうには見えるのに、根元は簡単には抜けなさそうでもある。
「宗右衛も来い。見ていろ」
「はい」
外に出ると、山の空気は少し湿っていた。
昨日の雨雲がまだ山の上に残っている。
日差しは薄く、地面もやわらかい。
鱗滝さんは櫛那の前に立ち、短く言った。
「今日は山の歩き方を教える。宗右衛、お前が前を歩け。櫛那、前を見るな」
「え?」
櫛那が困ったようにこちらを見る。
俺も、最初の時はこういう言い方は分からなかった。
鱗滝さんの言い方は、ときどき山の方に近すぎる。
「鱗滝さん、俺に言う時と同じだと、たぶん分かりません」
思わず言うと、鱗滝さんは一拍置いて、わずかに咳払いをした。
「……ひとまず足元に注意を向けろ。踏む石と根を選べ。目線は一歩先でよい。今日は走らんでいい。ただし、足を止めるな」
「……はい!」
櫛那の返事は、きちんとしていた。
鱗滝さんは先に立たず、櫛那の横に並んで歩き出す。
俺は鱗滝さんに指示されるまま、少し前を歩く。
最初は、ただの山歩きだった。
家の表の細道を抜け、裏手の斜面へ回る。
それだけでも、櫛那にはかなりきついらしい。
肩の上下が早い。
緑が濁り、黄色みを帯びていく。
「息を落とせ。吐いてから吸え。苦しい時ほど吐く方を長くする」
「っ、は、はい……」
「宗右衛」
「はい」
「お前の歩き方は悪くない。だが、人を連れている時は、相手の足を見ろ。自分の足だけで歩くな」
「……はい」
俺は、自分の歩幅を少し縮めた。
櫛那がどの石を選ぶか。
どこで膝が沈むか。
どの瞬間に息が詰まるか。
そういうものを、少しずつ見ようとする。
すると、道が今までと違って見えた。
一人で歩くなら、簡単な道だ。
けれど、誰かを連れて歩くと、同じ道が別の顔をする。
俺には低く見える段差も、櫛那には大きい。
俺には踏める石も、櫛那にはぐらつく。
自分が歩けることと、人を歩かせることは違う。
そのことを、山道が教えてくる。
しばらくすると、指示される道は少しずつおかしくなっていった。
崩れかけの斜面を、何度も往復させられる。
ぬかるみにわざと足を入れ、引き抜く。
細い根の上を、足を滑らせないように進む。
櫛那の足が上がらなくなった瞬間、鱗滝さんが後ろから小石を飛ばした。
こつん、と踵の近くに当たる。
「前ばかり見るなと言った。踵を引き上げろ。根に絡まれる」
「っ……!」
怒鳴り声ではない。
けれど、指摘は冷たい。
そのたび、櫛那の色が揺れた。
緑の中に、少しずつ赤が混じっていく。
悔しさ。
焦り。
それから、負けたくないという気持ち。
頬が赤い。
肩が上下している。
それでも櫛那は、文句を言わなかった。
育ちがいいからなのか。
それとも、泣き言を言う方が悔しいのか。
たぶん、両方だ。
「宗右衛」
「はい」
「お前には何が見える」
急に問われて、櫛那の足元を見る。
「足の置き方、ですかね。滑らない石と、滑る石の違いとか」
「違う。櫛那の首だ。さっきから何度も上がっている」
言われて、慌てて思い返す。
確かに、苦しくなるたびに櫛那の顎が上がっていた。
空気を吸おうとして、空を仰ぐ。
そのたび、足元から目が離れている。
「苦しい時に上を向く癖は、山では死に繋がる。足場を見失うからだ。……櫛那」
「は、はい!」
「今の話を、耳だけでなく骨に聞かせろ。苦しい時ほど、顎を引け」
「……顎を、引く……!」
櫛那は荒い息のまま、顎を引いた。
その姿を見ながら、俺もこっそり自分の顎を引く。
鱗滝さんの言葉は、だいたい他人事では済まない。
その日の稽古は、夕方まで続いた。
俺は途中から、普通に櫛那の世話をすることになった。
泥を落とす。
足がもつれたら起こす。
立ち上がれない時は少し待つ。
それでも無理なら肩を貸す。
最後には、足ががくがくの櫛那を支えながら、薪まで担がされて家に戻った。
家に着く頃には、櫛那の顔は真っ赤で、目だけが妙に強かった。
奥へ運んで布団に座らせると、櫛那は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます、宗右衛さん」
「うん。まず水飲んで。礼はそのあとでいいよ」
そう言うと、櫛那は少しだけ困った顔をした。
礼を後回しにすることに慣れていないのだろう。
俺はその顔に少し笑いそうになりながら、水を渡した。
囲炉裏の方へ戻ってから、思わず鱗滝さんに言う。
「これ、山で暮らすための稽古にしては、ちょっと厳しすぎませんか」
「山は容赦せん。甘い顔を見せる時もあるが、それは山の機嫌がいいだけだ」
「……はい」
正しいのだろう。
でも、それだけではない気がした。
あの歩かせ方は、ただ山で暮らすためだけではない。
何かから逃げるため。
あるいは、何かへ向かうため。
そのどちらかのようだった。
この家は普通ではない。
その印が、胸の中でまた一つ増えた。
―――
数日が、同じように過ぎた。
夜明け前、空がまだ群青色のうちに起こされる。
冷たい沢を渡る。
山道を何度も往復する。
日が暮れたあとには、わざと提灯を消して山を走らされた。
目と足と耳を全部使え。
石も枝も、暗くなったからといって消えるわけではない。
鱗滝さんはそう言う。
俺は、そのほとんどに雑用としてついて行った。
水を運ぶ。
薪を拾う。
櫛那が倒れれば起こす。
足をくじきかければ肩を貸す。
雑用と言われれば、確かに雑用だ。
けれど、それもまた稽古なのだと、もう分かっていた。
誰かを見ること。
誰かの足に合わせること。
倒れる前に気づくこと。
自分一人なら見なくていいものを、見なければいけなくなる。
「宗右衛さん……いつも、ありがとうございます……」
息も絶え絶えの櫛那に言われて、思わず笑ってしまった。
「今は喋らない方がいいよ。息、足りてないから」
「……はい……」
櫛那は素直に黙った。
でもその周りに、悔しそうな赤が少しだけ混じる。
やっぱり、負けず嫌いなのだと思う。
夜。
囲炉裏を囲んで飯を食う。
櫛那は箸を持つ手が震えていた。
熱い汁を口へ運ぶたび、腕がぴくりと揺れる。
「無理に食わなくていい。腹七分でいい。明日も歩く」
鱗滝さんが言う。
「いいえ……食べます」
櫛那はそう答えて、ゆっくり飯を口に運んだ。
時間はかかる。
でも、椀を置かない。
その様子を見ていると、昔の自分を思い出した。
裏長屋で、ようやく掴んだ飯を、誰かに取られる前に飲み込んでいた自分。
けれど、櫛那にはちゃんと、いただきますとごちそうさまがある。
飯を急ぐ理由が、俺とは違う。
櫛那は、奪われる前に食べているのではない。
明日も歩くために、食べようとしている。
それは少し、眩しかった。
飯が終わると、鱗滝さんはいつものように言う。
「湯の焚き口は落としてある。今日は早めに風呂に入って寝ろ。足が重いだろう」
「……はい」
「宗右衛も、足の裏をよく揉んでから寝ろ。明日も歩く」
「分かりました」
櫛那がふらふらと湯場へ消えていく。
その足取りを見送ってから、俺も床に腰を下ろした。
足の裏がじんじんしている。
山道を歩いた疲れは、体の奥に残る。
「……揉めと言われてもなあ」
足を投げ出して、親指の付け根を押してみる。
痛い。
でも、押すと足首の方へじわっと熱が広がる。
何度か繰り返しているうちに、少しずつ眠気が上がってきた。
その時だった。
「宗右衛」
「うわっ」
変な声が出た。
顔を上げると、鱗滝さんがいつの間にか囲炉裏の向こうに座っていた。
面を少し上にずらしている。
火の明かりが、口元だけを照らしていた。
「足は揉んだか」
「いちおう……少しだけ」
「少しでは足りんが、今夜はそれでよい」
そう言って、鱗滝さんは湯呑を一つこちらへ寄越した。
中身は薄い番茶だった。
湯気が鼻をくすぐる。
「眠る前に、少しだけ話しておきたい」
「話、ですか」
こういう前置きがつく時は、だいたい怒られるか、何かを告げられるかのどちらかだ。
けれど、今の声には怒気がない。
俺は湯呑を両手で包んだ。
「お前は、人のことをよく見ている。櫛那の足も、目も。町で見た時からだ」
「……まあ、はい」
裏長屋では、よく見ていなければ殴られる。
誰が酒に酔っているか。
誰の機嫌が悪いか。
誰の懐が今日はあたたかいか。
それを見て動けなければ、仕事は取れなかった。
場合によっては、拳が飛んできた。
「目がいいのは、山でも役に立つ。だが――お前は、見えすぎているようだな」
番茶を啜る音が、一度だけ響く。
俺は、湯呑の中の色を見た。
茶色い水面が、火の明かりを映して揺れている。
いつの頃だったか、『色』が見えることは普通ではないのだと気づいた。
それからは、隠すようにしてきた。
人の色を見て先に動けば、気味悪がられる。
人の心を当てすぎれば、怒られる。
見えないふりをすれば、少し楽になる。
だから、誤魔化す言葉が喉まで出かかった。
でも、飲み込んだ。
鱗滝さんは、俺が何かを見ていることに、とうに気づいている。
「……俺が見てる、色のことですよね」
言ってしまうと、少しだけ楽になった。
鱗滝さんは、小さく頷く。
「政吉のところにいた時から、見えていたか」
「覚えてる限りでは。最初は、みんなの周りに煙みたいなものがあるのが当たり前なんだと思ってました」
言葉にしながら、昔の色を思い出す。
「怒ってる人は赤くて、黙って考えてる人は青くて、子どもが遊んでる時は緑で。
……それを見て動いてるうちに、こうなりました」
自分で言って、少し苦くなる。
人の顔色を見て動く癖は、裏長屋では役に立った。
けれど今は、ときどき、それが人の心を盗み見るように思える。
見ようとしていなくても、見えてしまう。
見えてしまえば、気になる。
勝手に人の内側へ足を入れているようで、胸の奥が重くなる時があった。
鱗滝さんは、しばらく火を見ていた。
「さっき、櫛那を見た時の色はどうだった」
「えっと……朝は、暗い桔梗みたいな色でした。悲しいだけじゃなくて、怒りもあって、でも乱れたくないみたいな」
言いながら、少し言葉を探す。
「沢で少し笑った時は、金色がちょっと出ました。すぐ見えなくなりましたけど」
「金か」
鱗滝さんが短く言った。
「お前の言う金は、誰かを大事に思う色、というところか?」
「……たぶん」
金色は、裏長屋ではほとんど見なかった。
町を歩く母子の間にあった色。
小さい子が、誰かに抱きつく時に見えた色。
政吉がごくたまに、酒の底から滲ませた色。
そして、鱗滝さんの灰の奥にも、薄く沈んでいる色。
だから、たぶんそうなのだと思う。
鱗滝さんは、湯呑を静かに置いた。
「昔な。柱の中に、同じようなものが見える女がいた」
「……柱?」
思わず首を傾げる。
家の柱ではないだろう。
神様を数える時の柱でも、たぶんない。
鱗滝さんは、そこには答えなかった。
「人の心持ちを、色で聞くと言っていた。耳ではなく目で人を聞く、と。その女は、それを識彩と呼んでいた」
「しきさい」
俺は、言葉をそのまま繰り返した。
「心の色を識る彩り、だと」
鱗滝さんの指が、空に字を書く。
識彩。
自分の中で名前のなかったものに、急に部屋ができたような気がした。
今まで、ただ見えてしまうものだった。
煙のようなもの。
帯のようなもの。
人の周りにまとわりつく、避けられない色。
それに名前がつく。
名前がついた途端、それは少しだけ、自分の手の届く場所に下りてきたようだった。
「その女が言うには、心が強く動くと赤が見えるそうだ」
「俺も、そう見えます」
「怒りも、悲しみも、嬉しさも、強く振れれば赤が混ざる。それを読んで、子を守るのが己の役目だと、そう言っていた」
火の粉が、ぱち、と弾けた。
囲炉裏の赤と、頭の中の赤が一瞬重なる。
「宗右衛」
「はい」
「その目は、戦では役に立つ。だが、それだけを見ていると、自分の足を踏み外す」
「……はい」
思い当たることしかなかった。
裏長屋では、人の色ばかり見ていた。
誰かの赤が濃くなると、反射的に身構えた。
青が固まると、何を考えているのか読もうとした。
緑が散ると、その隙を使えないか考えた。
自分がどうしたいかより先に、他人の色で動いていた。
「だから、置き場所を決めろと言った」
鱗滝さんは、俺の額の少し上を指した。
「まず足元に目を置け。次に、自分の胸に。最後に、余裕がある時だけ人の色を見ろ」
「足元、自分の胸、人の色……」
「逆にすると、お前の心が向かう先を見失う」
心が向かう先。
言葉の意味は、まだ全部は分からない。
でも、胸の奥に引っかかった。
「人の感情に触れるというのは、良くも悪くも心を削る。お前は、もうだいぶ削られている」
鱗滝さんの声は静かだった。
「これ以上削ると、お前は自分を嫌うのが癖になる」
どきりとした。
図星だった。
裏長屋にいた頃、俺は自分を好きだと思ったことがほとんどない。
今も、ふとした拍子に、胸の底からどす黒いものが浮かんでくる時がある。
ずるいことをした手。
誰かを見捨てた記憶。
飯を得るために、見ないふりをした顔。
そういうものが、急に全部戻ってくる。
「だから、それは刀と同じだと思え。持ちっぱなしにするな。抜きたい時だけ抜け」
「……できますかね」
正直、不安だった。
色は勝手に見える。
見えれば、気になる。
見ないように目を細めたこともある。
でも、あまりうまくいかなかった。
「できるように稽古する。そのために、櫛那を見ろと言った」
「櫛那を」
「ただ見張るのではない。支えるために見る。見えたものを、どう使うかを覚えろ」
鱗滝さんは、ほんの少し目尻を緩めたように見えた。
「今日はよくやった。櫛那も、お前もな。あれだけ歩いて、まだ人の足を見ていられたなら上出来だ」
「……ありがとうございます」
言われて、胸の奥に小さな熱が灯る。
自分の色は見えない。
けれど、もし見えたなら、さっき櫛那の笑顔の縁に見えた金と、少し似ていたかもしれない。
「覚えておけ」
鱗滝さんは続けた。
「心は、何かをなすための原動力だ。お前の見る色は、誰かが生きようとする証だ」
誰かが生きようとする証。
その言葉に、喉の奥が少し詰まった。
今まで、色は危ないものを避けるための目印だった。
怒鳴られないため。
殴られないため。
飯を取るため。
生き延びるため。
でも鱗滝さんは、それを、生きようとする証だと言った。
「それを見て、どうするかを決めるのは、お前自身だ」
「……はい」
番茶を飲み干すと、急に眠気が押し寄せた。
足の裏はまだじんじんしている。
でも、頭の中は妙に静かだった。
鱗滝さんに促されて、寝所へ向かう。
布団へ入る前に、梁を見上げた。
烏が一度だけこちらを見て、それから目を閉じる。
夜の闇の中で、目を閉じても、色は少しだけ残っていた。
鱗滝さんの周りに漂う薄い灰。
その縁をなぞる、細い金。
識彩。
胸の中で、その言葉をそっとなぞる。
明日の朝も、きっと烏が二声鳴く。
返事は、短く、強く。
それから、足元を見る。
自分の胸を見る。
余裕があれば、人の色を見る。
色に振り回される前に、自分の足を置く場所を決めるために。
そう思いながら、俺は目を閉じた。