翌朝も布団を押しのける瞬間に、膝のあたりにじわりとした鈍い痛みが広がった。
身体をひねればふくらはぎも、肩も、どことも言えない体中がぎしりと軋む。
誰に聞かせるでもなく短く息をついて、布団を畳む。
埃一つない部屋の一角にまとめた自分の荷物に目を向け、身支度を整える。
廊下の空気はまだ冷たかったが、昨日の朝よりは幾分かやわらかい。
屋敷の奥の厨から、ごく微かに食器の触れ合う音が響いてきた。
心のどこかで、音の主を探している。
瑠火さんの笑顔を思うとわずかに心があたたかくなるのを感じながら、足が自然にそちらへ向く。
厨へ近づくにつれて、炭と肉の焼ける匂いがふわりと漂ってくる。
厨を覗くと、瑠火さんが竈に向かっている後ろ姿が目に入った。
背中越しに、安心とはこういうものなのだろうかと、ほんの一瞬だけ微かに思う。
「……おはようございます」
声をかけると、瑠火さんが振り返った。
「おはようございます、宗右衛さん」
穏やかな声だった。
そのまま俺の顔を見て、それから肩や足の運びに視線を落とす。
昨日の柔軟の名残は、隠しているつもりでも完全には隠しきれていないのだろう。
「……今日も早いですね」
そう言って、瑠火さんはどこか諦めたように、けれどやわらかく笑った。
その顔を見ると、また少しだけ胸があたたかくなる。
「瑠火さんほどじゃないですよ」
「ええ、それが私の仕事ですから」
何かを測るような瑠火さんの視線と目が合う。
その顔は少し困ったようでもあり、呆れたようでもある。
むしろ、もう断っても無駄だと分かっている人の顔だった。
けれど、決して棘はなかった。
瑠火さんは竈の火加減を見ながら、少しだけ間を置く。
「……では、お手伝いをお願いしてもよろしいですか?」
申し訳なさはあった。
それでも、こうして手伝わせてもらえる時間が心地よかった。
「こちらの皿を並べていただけますか。あと、槇寿郎さんの椀は隣の少し大きめのものを出してください」
「はい」
棚から皿を取り出しながら、ちらりと瑠火さんの方を見る。
竈の前に立つ横顔は静かで、病の影がまったく見えないわけではない。
けれど、それ以上に、家の朝を整える人の強さがあった。
焼ける肉の匂い。
湯気の向こうで動く細い指先。
食器の触れ合う小さな音。
それらを眺めていると、鬼を斬るための鍛錬とはまるで別の世界に、一瞬だけ足を踏み入れたような心地がした。
「宗右衛さん」
「はい」
「痛むのでしょう。無理はなさらないでくださいね」
そう言いながらも、瑠火さんは手を止めない。
「大丈夫です。これくらい」
「そう仰ると思っていました」
また、あの少し諦めたような笑みが浮かぶ。
どう言っても手伝うのだろうと見抜かれているので、少しだけ気恥ずかしい。
俺は皿を並べながら、小さく息を吐いた。
こうして朝の支度をしていると、胸の奥の固いところが少しずつほどけていく気がする。
湯気がゆるやかに立ちのぼり、味噌汁をかき混ぜる音と椀を並べる音が、朝の光のなかで静かに重なっていく。
それがどうしてこんなに惜しいのか、まだうまく言葉にはできなかった。
その時、廊下の向こうから、よく通る声が響いた。
「母上! おはようございます!」
杏寿郎だ。続いて少し遅れて、千寿郎の小さな声。
「お、おはようございます……!」
「おはようございます、二人とも」
瑠火さんがふわりと応じる。
昨日と同じように、杏寿郎はしゃんと背筋を伸ばし、千寿郎は眠気を少し引きずりながらも木刀を抱えている。そこへ、もう一つ足音が加わった。
「おはよう瑠火、今日の調子はどうだ?」
低い声に、俺は反射的に振り向いた。
槇寿郎さんだ。
そこに以前に感じたような重さはなく、ただの寝起きの父親の顔だった。
初めて屋敷を訪れた夜には、この人に殺されるのかと本気で身構えたはずだ。
それなのに、今目の前にいるのは寝癖もついたままの頭を掻く、どこにでもいるような威厳のない普通のおじさんの顔をしている。
その落差に、ひそかに拍子抜けしてしまう。
その視線が、俺の手元の椀、瑠火さん、そして俺の顔へ順に向く。
「話に聞いていた通り、まじめなやつだな」
思っていたより、声は険しくなかった。むしろ少しだけ呆れ混じりで、面白がっているようにも聞こえる。
「い、いえ……」
「瑠火、無理はするな」
「はい。ですが、今日はだいぶ楽ですよ」
「そうか」
短いやり取りだった。けれど、その一言だけで十分に伝わる気遣いがあった。
朝食の席は、昨日までと少し違って見えた。槇寿郎さんがいるだけで、同じ食卓でも温度が変わる。杏寿郎は相変わらず元気で、千寿郎は少し背筋を伸ばし、瑠火さんは静かに見守っている。
けれど誰も、槇寿郎さんが柱だからと構えることはない。
ここでは槇寿郎さんは柱である前に、父なのだ。
そんな当たり前のことが、俺にはまだ少し不思議だった。
朝食を終えると、そのまま庭へ出る。
午前の鍛錬は、槇寿郎さんが来ても昨日と同じだった。
まずはただ半刻ほど、立つ。
昨日との違いは、見る目が杏寿郎から槇寿郎さんに変わったことくらいだ。
杏寿郎にも言われた指摘を何度か受けながら、俺たちは朝の庭にただ立ち続けた。
槇寿郎さんはしばらく何も言わずに見ていたが、ふいに言った。
「水のわりには立ち方が良い」
褒められたのだろうか。
水のわりには、という部分に引っかかりを覚えながらも、悪く言われたわけではないらしいことは素直に嬉しかった。
そのあとも運足の鍛錬。
踏み込む。打ち込む。戻る。
前に一歩、右に半歩、左に半歩。
炎の立ち方を意識しながら、できるだけ丁寧に身体を動かす。
それでも二日繰り返したことで、どうにか形にはなっていたと思う。
そうして午前の鍛錬が終わる間際に、槇寿郎さんから声を掛けられた。
「宗右衛」
「はい」
「お前は構えとは何だと思っている?」
唐突な問いだった。
木刀を握ったまま、俺は少し考える。
改めて問われると答えづらい。
構え、とは何だろうか。
頭の中で水の構えと炎の構えを並べてみる。
足の置き方。腕の位置。目線。呼吸。そういうものが頭を巡る。
そうして口に出たのは、もっと根本的なこと。
「……基礎、だと思います」
「ほう」
「構えは技の起点です。色んな状況に応じるにしても、まず正しく構えられていなければ始まらないのでは、ないかな、と」
言いながら、自分でも自信がなくなっていく。決して外れてはいないが、「そうではない」という感覚がある。
それでも槇寿郎さんは一度頷いた。
「それも重要だ」
そして自分の胸を、拳でとんと叩く。
「だが、炎の呼吸の構えにおいて最も重要なのはそこではない。炎の呼吸において、構えで最も大事なのは心構えだ、と教える」
その言葉を聞いた時、胸の奥がひやりとした。
「立ち方は立派なもんだ。だが、宗右衛。
お前はまだ心構えができておらんだろう」
俺は何も言えなかった。
立っているだけで、そんなところまで見抜かれるとは思っていなかった。
背筋がぞくりと粟立つ。言い当てられたような気味の悪さと、まだ自分でもよく分からないものを見られた戸惑いが、一度に押し寄せてくる。
槇寿郎さんはそれだけを言って、「さ、飯だ」と家の中に戻っていく。
それで終わりだった。
問いの答えを教えられたわけでも、どう直せばいいのかを示すわけでもない。
ただ、「お前には心構えができていない」とだけ言い置かれて、庭に取り残された。
杏寿郎も千寿郎も、昼餉の支度へ向かうために木刀を片付けている。
二人は何かを言いたげにこちらを見たが、結局何も言わなかった。
俺も木刀を戻し、縁側へ上がる。
足元は確かに地面を踏んでいた。
姿勢も、呼吸も、大きく崩れてはいないはずだ。
けれど胸の内側だけが、どうにもぐらついている。
心構え。
立ち方を初めて意識した時のように、それを意識しようとしてみる。
だが、何を手がかりにすればいいのか分からなかった。
杏寿郎にも千寿郎にも、槇寿郎さんは同じことを言わなかった。
つまり、足りていないのは俺だけなのだ。
昼餉の席でも、その言葉は頭から離れなかった。
瑠火さんの作る飯は温かく、杏寿郎はよく食べ、千寿郎は兄の真似をするように背筋を伸ばしている。
槇寿郎さんは多くを語らない。ただ時折、こちらを見る。
責めるような目ではなかった。
どちらかといえば、なにかを見定めるような、そんな目だ。
その視線に気づくたび、俺は箸を持つ手に余計な力が入るのを感じた。
午後の鍛錬が始まる頃になっても、胸の奥のざらつきは消えなかった。
庭に出ると、槇寿郎さんは木刀ではなく、本身を手にしていた。
「父上、どうされましたか?」
杏寿郎が心底不思議そうな声で問いかける。
「なに、立ち合いの前に、宗右衛に炎の型を見せてやろうと思ってな」
そう言ってから、槇寿郎さんは俺の横を通り過ぎる。
その時、ごく小さな声が耳に落ちた。
「お前の目なら見えるだろう」
思わず顔を上げる。
槇寿郎さんはもう、庭の中央へ歩いていた。
刀が鞘から抜かれる、ほんの一瞬。
その場の空気が、びりりと緊張を孕んだ。
そこには寝起きに見せた父としての顔はなく、ついさっきまで見ていた師としての顔もない。
あの日、俺を試した炎柱としての空気とも、どこか違う。
ただ静かに立っているだけなのに、視界の端に炎が揺れるような気がした。
槇寿郎さんの周囲に満ちる気配が、庭全体を覆い尽くしていく。
目の前に鬼が現れたのなら、きっとこうして立ちはだかるのだろうと、知らず息をひそめてしまう。
これが、本当の炎柱。
鬼を前にした時の、守り手としての気迫。
その強さに、声も出せず圧倒されていた。
刀を正眼に構えた瞬間だった。
識彩に映る帯の色が、ひときわ強く燃えるように揺れた。
赤や橙の色が、ただ激しく揺れるだけではなく、高く、広く伸びていく。
そして、槇寿郎さんが構える刀の先に鬼がいた。
槇寿郎さんの背後には、守るべき人の姿がある。
そのどちらもが、槇寿郎さんが構えただけで、俺の目には確かに見えた。
槇寿郎さんの意識の中では、鬼を斬ることと、人を守ることが最初から一つに繋がっている。
杏寿郎や槇寿郎さんから感じていた、炎のような意識の色。
その理由を、俺はようやく見た気がした。
刀が振り下ろされる。
それは一太刀のはずなのに、識彩にはひどく多くのものが映った。
斬るべきもの。
守るべきもの。
そして、その間に立つ剣士としての自分。
『構えとは心構えのこと』。
その言葉の一端を、確かに見た気がした。
ああ、と胸の内で思う。
これが、杏寿郎や瑠火さんや、煉獄家全体から感じていた、言葉にしづらい芯の正体なのかもしれない。
これが炎の呼吸における当たり前の心構えだというのなら、今の自分がそれを持てるとは到底思えなかった。
その後も槇寿郎さんは、無駄のない動きでいくつかの型を見せてくれた。
踏み込み、斬り上げ、薙ぎ払い、叩き斬る。どれも俺が知る水の呼吸とは根本から異なっていた。
驚いたのは速さや威力だけじゃない。
その刃には、一度として迷いがなかった。
鬼を斬ること、人を守ること。
その二つが、槇寿郎さんの中では最初から分かれていない。
だから、あんなにもまっすぐに刃を振るえるのだろう。
やがて杏寿郎との立ち合いになっても、胸の奥にはあの炎の色だけが残り続けていた。
「宗右衛さん、いきます!」
「ああ」
返事をし、木刀を構え、足を動かす。
身体は言うことをきいているはずだった。だが、妙に杏寿郎の間合いが掴みにくい。
彼の踏み込みも打ち込みも確かに力強くなっているのに、手応えがどこか遠く感じた。
俺はそれを受け流し、反撃もしてみせる。
鍛錬として形は崩れていない、はずだ。
けれど、どうにも身が入らない。自分でもはっきり分かる。
槇寿郎さんの言葉が、胸の奥に引っかかっていた。心構え。それを意識しようとするほど、何も見つからず、胸の内が空いていくようだった。
「宗右衛さん?」
杏寿郎の声に、はっと我に返る。
杏寿郎の握る木刀の先が、肩の手前で止まっている。避けられたはずなのに、間に合わなかった。
「……悪い。もう一度頼む」
「はい!」
杏寿郎は問い詰めることなく、ただ前よりも少し真剣な顔で構え直した。その真っ直ぐさが、また胸を刺した。
午後の鍛錬が終わるころには、身体よりも心の方が、ずっと重く疲れていた。
汗をぬぐいながら庭を見やると、槇寿郎さんが少し離れた場所からこちらを見ている。
ただ俺が何につまずいているのかをじっと測るような視線だった。
その目を避けるようにして、俺は木刀を片付けた。
夕食の席は静かだった。杏寿郎も千寿郎もいつも通りで、瑠火さんは穏やかで、槇寿郎さんは多くを語らない。家の空気の一部として、ちゃんとそこにいる。
俺だけが、朝の言葉と昼の型を胸に引っかけたままだった。
食事も終わりに近づいた頃、槇寿郎さんがふいに俺を見た。
「宗右衛、夕飯のあと時間はあるか」
来い、ではない。来られるかと、そう問われただけだった。
ほんのわずかなことだけど、その聞き方に不思議なやわらかさを感じる。
「はい」
「なら、あとで俺の部屋へ来い。少し話そう」
それだけ言って、槇寿郎さんはまた箸を動かした。
槇寿郎さんの部屋は、思っていたよりも簡素だった。
刀掛けと、文机と、畳まれた羽織。飾りらしい飾りは少ない。けれど、どれも手入れが行き届いていて、持ち主の性分がそのまま出ているようだった。
「座れ」
「失礼します」
向かい合って座ると、槇寿郎さんはすぐには本題に入らなかった。
「不便はないか」
「ありません。皆さんによくしていただいています」
「杏寿郎が騒がしくなかったか?」
「……元気ではあります」
思わず言葉を選ぶと、槇寿郎さんが小さく笑った。
「あれは昔からああだ」
その顔は、柱というより父親のものだった。ほんの一瞬だけ、部屋の空気がやわらぐ。
「小さいころからあまりに元気よく返事をするもんだから、元気がいいと褒めてたら、どんどんデカい声で喋るようになってしまってな」
困ったように僅かに眉を下げたあと、すっと視線が合う。
「親父がな、左近次殿には世話になったと言っていた」
「うろ……ち、父が、ですか」
「ああ。俺から見ても尊敬すべき先達だ。あの人が弟子を寄越したなら、こちらも半端には扱えんのでな」
胸の奥に、少しだけ熱いものが灯る。鱗滝さんのことをそう言われると、誇らしいような、身が引き締まるような気持ちになった。
だが、次の瞬間、槇寿郎さんの声の温度が変わった。
「だからこそ、聞いておかねばならん」
顔を上げる。
「宗右衛。何を迷っている」
息が止まった。
「……迷っているように、見えますか」
「見えるな」
あっさりと言われ、言葉に詰まる。
迷っていない、と言えば嘘になる。
だが、何に迷っているのかを口にするのは、それとは別の怖さがあった。
口にしてしまえば、形になってしまう。
鱗滝さんの弟子として、鬼殺隊の剣士として、そんなものを胸の内に抱えているのだと認めることになる。
それを、目の前の炎柱に聞かせるのかと思うと、喉の奥が固く閉じた。
槇寿郎さんは急かさなかった。
ただ、こちらを見ている。
「俺にも分かる。……瑠火にも、な」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が小さく沈んだ。
「瑠火さんにも……」
「瑠火の奴が気にかけていた。あいつは剣は持たんが、人を見る目は鈍くない」
やはり、気づかれていたのだ。
そう思った途端、逃げ道が一つなくなった気がした。
あの人の静かな目と、朝の厨に立つ後ろ姿が脳裏をよぎる。
責められたわけではない。
問い詰められたわけでもない。
ただ、見てくれていた。
それが、かえって苦しかった。
俺は膝の上で拳を握りしめ、ゆっくりと息を吐いた。
「……鬼を斬る時に」
声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「憐れみを覚えることがあります」
槇寿郎さんは何も言わない。
「斬らなければならないのは分かっています。人を襲うなら、止めなければならない。それは、分かっているんです」
分かっている。
そう何度も自分に言い聞かせてきた。
「でも、俺自身には……鬼を斬る理由がないような気がして」
そこまで口にして、喉が詰まった。
「憎めないんです。いや、憎むべきなのかもしれません。でも、斬ったあとに残るのは、怒りじゃなくて……」
その先が出てこない。
何かが胸の奥にある。けれど、それを掴もうとすると、指の間から逃げていく。
槇寿郎さんは、しばらく静かに間を置いたあと、ゆっくりと口を開いた。
「お前は鬼を憎めんのだな」
否定しようとした。
だが、できなかった。
「……はい」
口にした瞬間、ひどく情けない気持ちになった。
けれど、次の言葉は、槇寿郎さんらしく静かで、重かった。
「なら、それを隠して剣を振るな」
淡々と静かな声で紡がれる。
「憎しみで斬る者もいる。責務で斬る者もいる。怒りで斬る者も、祈りで斬る者もいる」
槇寿郎さんの声は低く、静かだった。
「だが、何で斬るにせよ、自分の迷いを見ぬふりをしたまま振るう刃は鈍る」
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
「では宗右衛」
槇寿郎さんが、まっすぐこちらを見る。
「君は何故、鬼と戦うんだ?」
答えは、なかった。
ただ、胸の奥で見ないふりをしてきたものが、ゆっくりとこちらを向きはじめていた。
29話投稿した後に、感想ありがとうございます、おかげで筆を持つ気力湧きました。
って一言添えなかったことに気づいたアホの話する?
感謝の気持ちはあるのに、直前にGPTさんで画像作ってキャッキャして脳みそからこぼれただけなの。愚かな人類を許して。