「君は何故、鬼と戦うんだ?」
槇寿郎さんの問いは、すぐには答えられなかった。
声そのものは静かだった。怒鳴られたわけでも、責め立てられたわけでもない。
けれど、その一言は、畳の上に置かれた刃のように、俺の前から動かなかった。
何故、鬼と戦うのか。
その問いを、俺は胸の中で繰り返す。
真っ先に浮かんだのは、櫛那の顔だった。
初めて会った日のこと。
強くなりたいと、俺が鬼殺隊を目指すきっかけをくれた人。
山で共に鍛錬した日々。
隣で呼吸を整え、刀を振るう姿。
常中を身につけようと必死になっていた自分に、何気なく並んでくれたあの時間。
それから、藤襲山へ向かった背中を思い出す。
戻らなかったという知らせを受け取った日の無力感は、今でも心の底にある。
あの日、櫛那を追い越すと誓った思いを忘れることはない。
櫛那のために、俺は鬼を斬っているのだろうか。
そう思おうとすれば、思えないこともなかった。
櫛那を、姉ちゃんを、鬼に奪われた。
ならば鬼を憎み、鬼を斬る。
それはきっと、鬼殺隊士として分かりやすい理由だろう。
けれど、胸の奥は静かだった。
櫛那の死が軽かったわけではない。そんなはずはない。
今でも思い出せば胸は痛むし、もし生きていてくれたらと考えることもある。
だが、最終選別で錆兎から手鬼が仇であったと聞いた時、俺の中に湧いたものは、燃えるような怒りではなかった。
悔しさとも、憎しみとも違う。
ただ、終わったのだ、と思ってしまった。
櫛那は最終選別の中でも誰かを救うためにあの山を走り、その命を奪った鬼が斬られた。
それで、何かが静かに閉じた気がした。
それ以上、仇を討つために鬼を斬り続けるという火は、俺の胸には残らなかった。
次に浮かんだのは、天狗の面だった。
狭霧山の冷たい朝。
背に負った薪。
何度も転げ落ちた山道。
肺が焼けるほど走らされた日々。
尊敬すべき、父の背中を思う。
それから、錆兎と義勇。
あいつらの前で、みっともない兄弟子でいたくなかった。
鱗滝さんの弟子として、恥ずべきものになりたくなかった。
櫛那と同じ山で学んだ者として、胸を張れる人間でありたかった。
それは、かなり近いと思った。
俺は鬼殺隊士であることを、嫌だと思っていない。
鱗滝さんの弟子であることも、錆兎と義勇の兄弟子であることも、櫛那と同じ道の上にいることも、恥だと思ったことは一度もない。
むしろ、誇りだった。
だからこそ、俺は鬼を斬る。
そう言えば、きっと嘘ではない。
だが、それは俺が刀を手放さない理由であって、鬼を斬るたびに胸の奥で足がもつれる理由ではなかった。
俺の迷いの底には、まだ届かない。
次に浮かんだのは、北西の町だった。
最初の任務。
皮を渡り歩く鬼。
橋の下に積み上げられた、人の皮の山。
あの時、俺は鬼を斬った。
ひとりの男を助けた。
女将さんは、誰も消えなかった朝を迎えられたのは俺のおかげだと言ってくれた。
それは確かに、嘘ではなかったのだと思う。
けれど、あの夜の川音を思い出すと、先に浮かぶのは助けた一人ではなく、助けられなかった人たちの抜け殻だった。
鬼を斬っても、戻らないものがある。
俺ができるのは、いつも「これ以上」を止めることだけだ。
もう起きてしまったことを、なかったことにはできない。
人を守るため。
その言葉は正しい。正しいのに、俺の胸にはうまく収まらなかった。
守った、と胸を張るには、失われたものが多すぎる。
そして、鬼の色が浮かぶ。
この三ヶ月で、俺は十五体の鬼の討伐に関わった。
人を襲い、喰い、笑った鬼もいた。
命乞いをした鬼もいた。
獣のように暴れる鬼もいた。
斬られる寸前まで、自分が何をしたのか分かっていないような鬼もいた。
悪ではない、などとは言えない。
人を喰ったのだ。殺したのだ。放っておけば、また誰かが死んだ。
だから斬った。
斬らなければならなかった。
けれど、俺の目には、その心の色が見えてしまう。
飢え。
怯え。
諦め。
幼いわがまま。
決して満たされることのない、底の抜けたような灰色。
裏長屋で見た子供たちと、どこか似た色。
何も期待せず、何も信じず、ただ今日の腹を満たすことだけにしがみついていた者の色。
その色を見てしまうたびに、俺は思ってしまった。
この鬼は、殺すしかなかったのだろうか?
そう思うこと自体が、鬼殺隊士として間違っている気がした。
槇寿郎さんは、黙っていた。
俺が沈黙の中で何度も息を詰まらせている間も、何も言わず、ただ待っていた。
「……分かりません」
ようやく出た声は、小さかった。
「鬼を斬らなければならないことは分かっています。人を襲うなら、止めなければならない。それは、分かっています。
けれど……どうして自分が鬼を斬っているのかと聞かれると、胸の中に、はっきりしたものがないんです」
言葉にするほど、情けなかった。
槇寿郎さんは、低く息を吐いた。
「では、剣士を辞めたいのか」
「違います」
思ったより、強い声が出た。
自分でも驚いた。迷うことなく否定していた。
「それは、違います」
もう一度言う。
「俺は、鬼殺隊士でいることが嫌なわけじゃありません。
鱗滝さんの弟子でいることも、錆兎や義勇の兄弟子でいることも、櫛那と同じ道にいることも……嫌だと思ったことはありません」
むしろ、胸を張りたいと思っている。
そう言いかけて、喉の奥で止まる。
胸を張りたい。
だが、張れない。
そのずれが、ずっと苦しかったのだと、ようやく少し分かった気がした。
「なら、君は何に迷っている」
槇寿郎さんの声は静かだった。
その問いは、俺に向けられているはずなのに、なぜか部屋の空気そのものにも落ちていくように聞こえた。
槇寿郎さんの表情は変わらない。
けれど、その一言には、どこか深いところを覗き込むような響きがあった。
「……たぶん」
俺は膝の上で拳を握る。
「俺は、鬼狩りになるということを、分かっていなかったんだと思います」
槇寿郎さんは何も言わない。
「鬼狩りの剣士になれば自分が、もっと、立派なものになれるような気がしていました。
鬼を斬って、人を守って、誰かの役に立てるような。そういう、胸を張れるものに」
言っていて、顔が熱くなる。
幼い。
浅い。
自分でもそう思う。
「でも実際は、そんな綺麗なものじゃなかった。
守れない命があって、斬った鬼の色が胸に残って、責任感だけでも、俺は立っていられなくて……」
言葉が途切れる。
「それを知らないまま、いえ、知ろうともしないままに剣士になった自分が、今になって恥ずかしいんです」
部屋は静かだった。
外の夜気が、障子の向こうに沈んでいる。遠くで火のはぜる音がした。
槇寿郎さんはしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ声を落として問う。
「お前には、守るべきものがないと思っているのか」
胸の奥が、また揺れた。
「ないわけでは……ありません」
鱗滝さん。
錆兎。
義勇。
櫛那。
大事な人はいる。
手放したくないものもある。
けれど。
「でも、俺が守ると言うには、皆、強すぎるんです」
口にしてから、ひどく情けない言葉だと思った。
「鱗滝さんは、俺よりずっと大きい人です。
錆兎も義勇も、才能があって、俺なんかよりずっと真っ直ぐです。
櫛那だって、俺が守る相手だったかと言われると……そうじゃない気がして」
俺は、兄弟子だ。
鱗滝さんに拾われ、育てられ、弟弟子たちより先に修行を始めた。
裏長屋にいた頃から、年下の子らの前では、なんとなく兄貴分のように振る舞ってきた。
だから、手本でありたいと思う。
導ける人間でありたいと思う。
みっともなくありたくないと思う。
けれど、俺の周りにいるのは、俺が守ると言うにはあまりにも強い人たちばかりだ。
導くと言うには、俺は汚すぎる。
守ると言うには、俺は弱すぎる。
守るべきものが胸に広がらない。
それなのに、守る側であろうとしている。
その噛み合わなさを、俺はずっと見ないふりをしていたのかもしれない。
「今日、槇寿郎さんの型を見ました」
自然と口が動いた。
「刀の先に鬼がいて、背中に守るべき人がいました。鬼を斬ることと、人を守ることが、最初から一つになっていた」
あの炎の色を思い出す。
高く、広く伸びる意識。
自分の立つ場所を知っている者の構え。
「俺には、あれがありません」
言葉にすると、胸が少し痛んだ。
「俺の大事なものは、きっともっと狭いんです。手の届く範囲のものばかりで……それさえ、守れると言えるか分からない」
槇寿郎さんは、長い間黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「自分が守ると決めたものに価値があるかどうかを考え始めれば、際限がない」
槇寿郎さんがその言葉を口にした時、周りの色がほんのわずかに揺れた。
炎のように揺らめく赤と橙の奥に、一瞬だけ、炭の底に沈むような暗い色が混じる。
それは怒りとも、悲しみとも違って見えた。
けれど、次の瞬間にはもう、槇寿郎さんの色は元の強い炎へ戻っていた。
「守るべき人々とて、善い者ばかりではない。
弱い者ばかりでもない。
醜い者もいる。
救いようのない者もいる」
炎柱の口から出た言葉とは思えないほど、冷えた響きだった。
思わず顔を上げる。
槇寿郎さんは、俺を見ていた。だが、その目はどこか、俺ではないものも見ているように思えた。
「それでも、守ると決めたなら守る。斬ると決めたなら斬る」
声は静かだった。
けれど、その芯は揺らがない。
「決められぬなら、まず自分が何を見ているのかを見ろ」
「何を、見ているのか……」
「そうだ」
槇寿郎さんは短く頷く。
「お前はよく見ている。
鬼の色も、人の色も、おそらく普通の剣士は気にしないような、余計なものまで見てしまうのだろう」
その言葉に、息が詰まる。
「なら、見えたものから逃げるな。憐れみを覚えるなら、それを見ろ。
憎めぬなら、憎めぬ自分を見ろ。守るべきものが狭いと思うなら、その狭さも見ろ」
責められているわけではない。
けれど、逃げ道はどんどん塞がれていく。
「見た上で、なお剣を持つのか。そこから先は、お前が決めることだ」
俺は何も言えなかった。
答えは出ていない。
出るはずもなかった。
けれど、分かったことはある。
俺は鬼殺隊士を辞めたいわけではない。
鬼を憎みきれないことも、たぶん消えない。
自分の守る範囲が狭いことも、急に変わりはしない。
そして俺は、自分が何を見ているのかを、まだ知らない。
知らないまま、見ないふりをして刀を振っていた。
「……俺は」
声が掠れる。
「まだ、分かりません」
「だろうな」
即答だった。
少しだけ、拍子抜けする。
槇寿郎さんは淡々と続ける。
「一晩で分かるなら苦労はせん」
その言葉には、ほんのわずかに苦みが混じっていた。
誰に向けた苦みなのかは、分からなかった。
「明日も立てれば、それで良い」
「……はい」
「答えが出ぬなら、出ぬまま立て。
鬼狩りは、答えが出るまで止まっていられるほど暇ではないからな」
厳しい言葉だった。
けれど、不思議と突き放された気はしなかった。
「ただし、見ぬふりだけはするな。見ぬふりをしたまま振るう刃は、いずれ必ず鈍る」
俺は深く頭を下げた。
「……はい」
その返事に、どこまで力があったのかは分からない。
それでも、逃げずに返したつもりだった。
部屋を辞して廊下へ出ると、夜気が肌に触れた。
屋敷は静かだった。
遠くから、まだわずかに火の匂いがする。
昼間に見た炎の色が、胸の奥で消えずに揺れていた。
俺は何故、鬼と戦うのか。
答えは出なかった。
ただ、問いだけが胸の奥でこちらを見ている。
その答えが出る日は来るのだろうか、そんな思いを抱えたまま、客間へ戻ろうとした時、廊下の先に小さな灯りが見えた。
「宗右衛さん」
厨の近くの小さな座敷の前を通りがかった時に聞こえた声の主は、瑠火さんだった。
行燈がひとつ灯っている。瑠火さんは湯呑みを二つ置いて、静かにこちらを見ていた。
「少し、お話ししていかれますか」
もしかして、俺を待っていたのだろうか。
ただ、それを聞くのは、何となく野暮な気がした。
「……はい」
座ると、白湯の湯気がゆっくりと立ちのぼっていた。
瑠火さんは余計な言葉を挟まず、ただ湯呑みをこちらへそっと差し出してくれる。
湯気がゆるやかに揺れて、鼻先にほのかな湯の香が届いた。
膝の上で両手を添えて、湯呑みの温かさを確かめる。指先から胸へ、じわじわと熱が沁みていく。
ひと口ふくむと、喉から胃の辺りにかけて、ほんのり温もりが降りていくのを感じた。
急いで飲むのは惜しい気がして、ゆっくり息を吐く。
視線を上げると、瑠火さんが静かにこちらを見ていた。
何かを促すでも、答えを急かすでもなく、ただ待ってくれている。
その横顔の柔らかな輪郭を眺めていると、不思議なくらい胸の奥のざわめきが静かになる。
けれどその安らぎはどこか気恥ずかしくて、ほんの少しだけ戸惑いも混じる。
それでも、瑠火さんの前では、その戸惑いごと受け入れられてしまうような安堵があった。
「槇寿郎さんは、少し言葉が強いでしょう」
俺が一息ついたのを待っていてくれた瑠火さんは、そう言ってほんの少し困ったように微笑む。
「でも、間違ったことは、言われていないと思います」
「ええ。あの人は、あまり間違ったことは言いません」
その言い方が少しおかしかったけれど、笑うほどの余裕はなかった。
「ですが、間違っていない言葉でも、受け取る方には時間が要ることもあるでしょう?」
瑠火さんの少し拗ねるような言い方に、さすがに少しだけ笑ってしまう。
白湯に映る灯りが揺れる。
瑠火さんの横顔の輪郭が灯りに照らされて柔らかく写る。
「正しさとは、とても重いものです」
柔らかな表情とは裏腹に、その言葉には重さがある。
胸の奥が、少し痛む。
「……それでも俺は正しくないと、いけない気がするんです」
「それは、どうしてですか?」
「俺は……鱗滝さんにも、弟弟子達にも自慢してもらえるような、そんな人間でいたいんです」
言葉にして、どうしてか自分で苦しくなる。
櫛那姉ちゃんに胸を張れる人間になろうと、そう約束したのに。
「なのに、俺は鬼を斬る理由も、守るべきものも、ちゃんと持てていない」
こんなことを瑠火さんに言ってしまう自分に、言ってから驚く。
槇寿郎さんにも話さなかったのに、なぜか瑠火さんには弱音がこぼれてしまう。
当の瑠火さんは、俺の言葉をただ静かに聞いていた。
自分の湯呑みを、両手で静かに支えている。
「正しい志を持っている人だけが、立派なのではないと、私は思います」
顔を上げる。
「たとえ、鬼を斬る理由が分からないままでも、守るものが無くても、宗右衛さんが今日まで守ったものは、なかったことにはなりません」
その言葉は、槇寿郎さんの言葉とは違っていた。
冷えた手を包むような、静かな温かさだった。
「……迷いを見ないままに刀を振るえば、鈍ると言われました」
「きっと宗右衛さんに必要な言葉だったのでしょう。
けれど、答えがすぐに見つかる人ばかりではありません。
迷いながら進む人も、思い悩みながら生きる人も、誰かの力になっているものですよ」
その言葉に、皮衣の鬼を斬った時の女将さんの顔が浮かぶ。
『私たちは、それぞれに出来ることを、それぞれにしているだけです』
そう言ってくれた彼女の感謝を、素直に受け取れなかった自分の未熟さを思い出す。
瑠火さんは、手元の湯呑みに視線を落とす。
「それに、答えが出ないことと、見ぬふりをすることは、同じではありません」
その言葉に、息が止まった。
槇寿郎さんとの会話を聞かれていたのだろうか、とさえ疑ってしまうが、そんなことをする人ではないのもよく分かっている。
「宗右衛さんのような方が、迷いながらでも正しくあろうと剣を振るうこと。
それ自体がとても大事なことなのだと、私はそう思いますよ」
優しく微笑んでくれる瑠火さんの顔を見て、胸の奥で、何かが少しだけほどけた気がした。
俺は返す言葉をさがしたが、うまく見つからなかった。
癖のように喉元までこみ上げてきた、自嘲を飲みこむ。
「……ありがとうございます。俺は、また考えすぎてたみたいです」
俺は深く頭を下げた。
「少しだけ、息がしやすくなりました」
瑠火さんは微笑む。
「それなら、よかったです」
白湯を口に含むと、喉から胸へ、ゆっくりと温かさが落ちていった。
客間へ戻る廊下は、さっきよりも少しだけ静かに感じた。
俺は何故、鬼と戦うのか。
答えはまだ出ていない。
けれど、迷いながら立つことと、見えないふりをしたまま立つことは違う。
心構えは、まだできない。
できないままで、立つ。
それが今の俺にできる、いちばん誤魔化しの少ない立ち方なのだと思った。
胸の奥にはまだ、火に炙られたような熱が残っている。
けれどその熱は、先ほどよりも少しだけ、呼吸の邪魔をしなかった。
お恥ずかしながら、ここまで既読の読者様にご報告です。
最初の頃の話は設定を固めずパッションだけで書いてたので、現在の設定が詰め込まれてない部分がありました。
ひとまず、1-7話まで話の大筋は変えないように細かい調整を入れましたので、気が向きましたら目を通してみてください。