休みに入る前は「連休だやったー!」という気持ちだったのに、いざ休みに入るとやるべきことがいっぱいあって、別に休んだ気もしない結果になりつつあります。
明後日には仕事があるとか本気で言ってる????
私は明日はゆっくり休むんだ……!
何もしない日にするんだ……!
翌朝、庭に立った時に思い浮かべるのは、昨日見た槇寿郎さんの意識の広さ。
人々を守るための心構えの在り方を、そのまま表したような燃えるような色が瞼の裏に焼き付いている。
俺は何故、鬼と戦うのか。
槇寿郎さんの問いは、夜が明けても消えなかった。
眠っている間に薄れることもなく、朝の冷たい空気の中で、むしろ迷いの輪郭だけがはっきりしている。
けれど、不思議と足は軽い。
答えは出ない。
それでも、俺はできないままで立てばいい。
そう決めた。
俺は庭の土を踏みしめ、炎の立ち方で構えた。
足はやや広く、重心は腹の底へ落とす。
水の呼吸で立つ時よりも、身体の芯が強く地面へ沈む。
足裏から腰、背、肩までを一本の杭のように通す感覚だった。
最初は窮屈に感じたその立ち方も、数日続けるうちに少しずつ身体に馴染んできている。
槇寿郎さんは、特に何も言わなかった。
庭に立ち、腕を組んでこちらを見るだけだ。
昨日のように心構えを問うこともない。
褒めることもない。
直すべきところがあれば短く言い、それ以外は黙っている。
その沈黙に、初めは少し落ち着かなかった。
だが、しばらくして鱗滝さんもそうだったと思い出す。
鱗滝さんも、本当に駄目な時は叱ってくれた。
危うい時は、必ず止めてくれた。
何も言わない時は、自分で考えろという時だった。
槇寿郎さんも同じなのだろう。
何も言われないということは、少なくとも今は何かを掴むために自分で足掻かなくてはならないのだろう。
そう思うと、わずかに呼吸が落ち着いた。
午前は、立つことと運足に費やされた。
昨日よりもひとつひとつの動きを丁寧にするように。
踏み込む。
止まる。
戻る。
木刀を振る前に、足を動かす。
足を動かす前に、身体の芯を確かめる。
炎の呼吸は、一刀に重さを乗せる。
そのためには、まず身体が逃げてはいけないのだと、少しずつ分かってきた。
昼を挟んで、午後には杏寿郎との立ち合いに入った。
「宗右衛さん! よろしくお願いします!」
「ああ。よろしく」
向かい合って木刀を構える。
杏寿郎は相変わらず、真っ直ぐだった。
今なら、杏寿郎の構えがこれほど真っ直ぐに感じる理由が分かる。
身体は俺より一回り小さい。
まだ背も伸びきっていない。
けれど、年齢や体格とはまるで釣り合わない、構えた瞬間にこちらへ向かってくる圧。
燃えるような意思。
父に追いつこうとする志。
人々を守るための使命感。
折れない芯。
煉獄家の心構え。
見るたびに、胸の奥が小さく痛む。
だが、その痛みから決して目を逸らさない。
見ないふりはしない。
足りないままの心構えで、向き合う。
「いきます!」
杏寿郎が踏み込んだ。
打ち込みは速い。
昨日よりも更に重い。
木刀同士がぶつかった瞬間、腕に痺れが走る。
俺はそれを受け、半歩ずらし、反撃へ移ろうとした。
だが、その時、妙な違和感があった。
体が、先に出すぎる。
踏み込みは強い。
受けも以前より崩れにくくなったはずだ。
けれど、次の動きへの繋ぎが、"ズレて"いる。
以前なら、受けた力を逃がして、そのまま次の攻めに繋げたはずだ。
相手の動きに合わせ、呼吸を少しずつ変えながら、意識の隙を突くように立ち回れていた。
今は違う。
一つ一つの動きは重くなっている。
けれど、その重さが次の動きを邪魔している。
型が、流れない。
「っ!!」
杏寿郎の二撃目を受ける。
次へ移る。
遅れる。
間に合わないわけではない。
形が崩れているわけでもない。
だが、どこか冴えない。
自分でも分かるほど、太刀筋が読みやすくなっている。
「宗右衛さん?」
何合か打ち合ったあと、杏寿郎が首を傾げて剣先を下げる。
「どうした?」
「今日の宗右衛さんは、打ち込みが強いです!」
「それは……ありがとう、でいいのかな?」
「はい! ですが」
杏寿郎は言葉を探すように、木刀を握り直した。
「昨日よりも、打ち合いやすいです! 」
杏寿郎の声にも、表情にも、悪意など一切ない。
ただ、感じる疑問をそのまま口にしただけなのだろう。
だからこそ、胸に刺さった。
「打ち合いやすい……」
「はい! 以前の宗右衛さんは、もっと、どこへ動くか分からない感じがありました! 打ち込んだと思ったら、もう別のところにいるような!」
杏寿郎は身振りを交えて説明しようとする。
「今は一振り一振りは強くなりましたが、読みにくさのようなものがないように感じます!」
胸の奥がすうっと冷えるのを感じた。
自分でも感じていた違和感を、杏寿郎が言葉にする。
いや、言葉にされてしまった。
俺は炎の立ち方をすることで、一振りに重さを込められるようになった。
けれど、水で培った刀の流れが滞ってしまう。
それは、俺が積み上げてきた戦い方の一部を失っているということではないのか。
「槇寿郎さん」
立ち合いを一度止め、庭の端で見ていた槇寿郎さんへ向き直る。
「今の俺は、以前より動きが悪くなっていますか」
槇寿郎さんは、こちらを見て、にやりと笑った。
「そりゃあそうだろう」
あまりにもあっさりした言い方だった。
「……そ、そうなんですか」
「炎の足で、水の戦い方をしようとしているんだからな」
俺は言葉に詰まる。
槇寿郎さんは木刀の先で、庭の中央を指した。
「水の型を振ってみろ」
「今、ですか」
「そうだ。好きな型でいい」
促されるまま、俺は木刀を構える。
なんだか久しぶりに、水の呼吸の型を振るような気がする。
水の呼吸、壱ノ型。水面斬り。
何度も繰り返した型だ。
狭霧山で身体に叩き込まれた、最も基本の一太刀。
できないはずがない。
そう思って、踏み込んだ。
だが、振り抜いた瞬間に分かった。
違う。
刃は通っている。鬼の頸は間違いなく斬れるだろう。
型としての形も、大きく崩れてはいない。
けれど、振ってみて分かった。
これは『水面斬り』ではない。
具体的に何とは言えないが、これは水の型として成立していない。
足が地面を掴みすぎている。
腰が沈みすぎている。
刃へ乗った重さが、動きの終わりを作ってしまう。
本来なら、その一太刀の終わりから次の動きへ流れていくはずだった。
今は、そこで流れが止まる。
水が流れていない。
「……もう一度」
自分に言い聞かせるように呟いて、幾つかの型を振る。
やはり同じだった。
ひとつひとつの型を振る分には問題ない。
それどころか、以前よりも遥かに重い振りになっているのは間違いない。
だが、そのまま次の型へ繋ごうとすると、足元が詰まる。
流れを作ろうとすれば、今度は炎の立ち方で得た重さが抜ける。
どちらにもなりきれない。
俺は、思わず木刀を下ろした。
槇寿郎さんが、面白そうに鼻を鳴らす。
「どうだ。水が振れんだろう」
「……分かっていたんですか」
「俺が何人の剣士を見てきたと思っている」
なんでもないことのように言われる。
「水は途切れず流れるための呼吸だ。だからこそ、炎の呼吸とは立ち方からして違う」
「では、どうすれば」
思わず問い返した。
槇寿郎さんは、またニヤリと笑う。
「それは自分で考えろ」
「……」
「お前は、炎の呼吸を学びにここへ来たんだろう?
なら、俺の仕事はそこまでだ」
どこか揶揄うような口振りに、言い返そうと口を開いて、返す言葉がなかった。
炎を学びたいと言った。
他の呼吸を知ることで、自分の強さに繋げたいと思った。
そして、炎の呼吸を今確かに教えて貰っている。
分かっている。
分かっているが、目の前にできた壁は、思っていたよりずっと高いように思えた。
槇寿郎さんはそれ以上何も言わず、杏寿郎と千寿郎に次の指示を出した。
俺は木刀を握ったまま、庭の土を見下ろす。
炎の立ち方は、少しずつ身についている。
心構えも、自分なりに立とうとしている。
それなのに、水の型が振れない。
自分の中で、何かが噛み合わなくなっている。
その違和感だけが、夕方までずっと、足の裏に残り続けていた。
―――
翌日になっても、身体に残る違和感は消えなかった。
炎の立ち方は、確かに強い。
重心を腹の底に落とし、足裏で地面を掴み、身体の芯から刃へ力を通す。
その感覚を覚えてから、打ち込みの重さは明らかに変わった。
実際、杏寿郎との立ち合いでも、受けの安定感は増している。
真正面から打ち合った時に、驚くほど身体が逃げない。
けれど、水の型が振れない。
水の呼吸は、身体が次へ次へと移っていく。
一太刀の終わりが、そのまま次の起こりになる。
受けたものを流し、流した上で斬る。
それなのに今の俺は、一太刀ごとに身体が止まってしまっている。
強くなった。
けれど、重くなった。
そんな感覚があった。
午後の鍛錬がひと段落したところで、俺は隣で木刀を下ろしていた杏寿郎に声をかけた。
「杏寿郎君」
「はい!」
「杏寿郎君は、水の呼吸を振ったことはあるか?」
「ありません!」
あまりに迷いのない返答で、思わず少し笑ってしまう。
「そうだよな」
「炎の呼吸以外は、父上から教わっておりません!」
「だろうね」
炎柱の家で、炎柱の継子として育っているのだ。
水の呼吸を習ったことがある方が不思議だろう。
けれど、だからこそ聞いてみたかった。
「俺が水の型を振れなくなっていたのは、知ってたの?」
「いいえ!
「宗右衛さんは日に日に強く振れるようになっていましたので、そのようなことになるとは思ってもいませんでした!」
「強くはなっていたんだな」
「はい! ですが、立ち会うたびに、技の冴えが無くなってきているとは思っていました!」
容赦がない。
いや、容赦がないというより、ただ正直なのだ。
俺は苦笑しながら、木刀の柄を握り直した。
「俺もそう感じた。炎の立ち方をすると、一振りの威力は上がる。
炎の型をなぞれば、水の型で振るよりも、もっと重く振れる」
「間違いないでしょうね!」
「でも、それが俺の身体に合っているかというと……正直、まだ分からない」
言いながら、自分の足元を見る。
水で立つ時の自然さ。
炎で立つ時の重さ。
どちらにも確かな利点がある。
けれど、今の俺には、その二つがどうしても上手くかみ合わない。
「でも、炎から得られるものは多いと思う。
間違いなく、俺はここに来る前より強くなれる気がする」
「それは良いことです!」
「ああ。そうなんだけどな」
俺は少し息を吐いた。
「俺の戦い方に合っているのは、多分、水なんだ」
口にしてみると、少しだけ心が落ち着いた。
水の呼吸に才がないことは分かっている。
錆兎や義勇のようには振れない。
俺の水には、鱗滝さんが教えた水の呼吸としての美しさも冴えも、きっと足りない。
それでも、俺が生き延びるために積み上げてきたものは、水の上にある。
受ける。
流す。
相手の意識の隙に差し込む。
炎の型のように一刀で断ち切るよりは、水のように相手の動きに入り込む方が、俺には合っている。
「問題は、炎の力強さを混ぜようとすると、水の型が死ぬことなんだ」
「ふむ」
杏寿郎は真剣な顔で腕を組んだ。
「難しいですね!」
「難しいな」
「俺には分かりません!」
「だろうなぁ」
あまりにも堂々と言うものだから、今度こそ笑ってしまった。
杏寿郎は眉を下げるでもなく、胸を張ったまま続ける。
「ですが、宗右衛さんが困っていることは分かりました!」
「それはありがたい」
「何か手伝えることはありますか!」
真っ直ぐな目だった。
その目を見て、ふと考える。
炎側から分からないのなら、逆を見ればいいのではないか。
俺が炎の立ち方で水を振ろうとして詰まるのなら。
炎しか知らない杏寿郎が、水の基礎を振ればどうなるのか。
炎の使い手が、水をどう受け取るのか。
それを見れば、俺がどこで詰まっているのか、何か掴めるのではないか。
「……杏寿郎君」
「はい!」
「水の呼吸を、少し習ってみる気はない?」
杏寿郎の目が、ぱっと明るくなった。
「水の呼吸をですか!」
「ああ。もちろん、俺は人に教えられるほど水の呼吸が分かってるわけじゃないから、俺が分かる範囲で、基礎の部分だけだけど」
「ぜひお願いします!」
即答だった。
少し離れたところで木刀を振っていた千寿郎が、こちらをちらりと見る。
杏寿郎はそれに気づくと、当然のように声をかけた。
「千寿郎! お前も一緒にやろう!」
「えっ、ぼ、僕もですか?」
「うむ! 宗右衛さんが水の呼吸を教えてくださるそうだ!」
千寿郎は慌てたように木刀を抱え直す。
「で、でも僕、まだ炎の型もちゃんと……」
「大丈夫だ。型というより、身体の使い方を見るだけだから」
俺がそう言うと、千寿郎は少しだけほっとしたように頷いた。
「は、はい。お願いします」
そこで、庭の端から低い声が飛んできた。
「何を楽しそうに話してるんだ?」
振り返ると、槇寿郎さんが腕を組んだままこちらを見ていた。
言われて初めて、自分が先走ったことに気づく。
杏寿郎君に水を振ってもらえば、何か分かるかもしれない。
そう思った瞬間、俺はもう話を進めてしまっていた。
けれど、本来ならまず槇寿郎さんに相談すべきだった。
「……すみません。順番を間違えました」
思わず頭を下げると、槇寿郎さんは鼻を鳴らした。
「構わん構わん、俺は気にせん。
だが気にするやつもいるからな、気を付けろ」
怒っている声ではなかった。
だが、軽く流してよい声でもなかった。
「それで、どうした。
俺にも話してみろ」
「杏寿郎君と千寿郎君に、水の呼吸の基礎を少し教えてみても構いませんか?」
「ほう」
槇寿郎さんの眉が、ほんのわずかに動いた。
「理由は?」
「俺が炎の立ち方で水を振れない理由を考えるためです」
言葉にしながら、頭の中を整理する。
「俺が炎を学んで水を振れなくなったのなら、炎の使い手が水を振ると何が起きるのかを見れば、違いが分かるかもしれないと考えました」
槇寿郎さんは、少し意外そうな顔をした。
それから、しばらく顎に手を当てて考え込む。
「なるほど」
呟くように口を開くと、口元をにやりと歪める。
「面白いことを思いつく奴だな」
「……許可をいただける、ということでしょうか」
「ああ。やってみろ」
あっさりと許可が出たので、俺は少し拍子抜けする。
「いいんですか?」
「なぜ悪い。水を知れば、炎もまた見え方が変わる。
お前が刺激を受けたように、杏寿郎にも千寿郎にも損はあるまい」
槇寿郎さんは杏寿郎へ目を向けた。
「杏寿郎」
「はい!」
「宗右衛のように水に引きずられるな。だが、水から学べるものは学べ」
「承知しました!」
「千寿郎」
「は、はい!」
「分からなくてもいい。よく見ておけ」
「はい!」
それから槇寿郎さんは俺を見た。
「宗右衛」
「はい」
「二人に教える時には、まずお前が水の何を教える気なのかを、必ず先に言葉にしろ」
その言葉に、胸の奥が小さく詰まった。
「お前が何かを掴むために、杏寿郎と千寿郎を使う。それ自体は構わん。
鍛錬とはそういうものだ。互いに使い、使われ、そこから学ぶ」
槇寿郎さんの目が、まっすぐこちらを見る。
「だが、使う以上は、お前も何かを置いていけ。
ただ見て終わるな。ただ借りて終わるな」
その言葉は、思っていたよりも重かった。
俺はまだ駆け出しの隊士だ。
炎柱の家に何かを置いていけるほどの剣士ではない。
そう思った瞬間、槇寿郎さんの口元がわずかに上がる。
「何も大層なものを残せと言っているわけじゃない。お前が水をどう見ているか。お前が鱗滝殿から何を教わったのか。それを二人に分かる形で出せ」
逃げ道を塞ぐようでいて、同時に道を示す言い方だった。
「……はい」
「人に教えようとすれば、自分が何を分かっていないかも分かるもんだ」
槇寿郎さんは、どこか楽しそうだった。
「やってみろ」
そう言われて、俺は改めて杏寿郎と千寿郎に向き直った。
水を教える。
その言葉が、思っていたより重く感じた。
俺は錆兎のように剣の才があるわけではない。
義勇のような、水の呼吸に愛された剣士でもない。
それでも、鱗滝さんから教わったものがある。
狭霧山で何度も転びながら、身体に刻んだものがある。
それを、自分の言葉で取り出さなければならない。
できるかどうかは分からない。
けれど、考えるだけでは足りないのだろう。
振る。
見る。
教える。
その中で、掴むしかない。
「じゃあ、まずは、立つところから始めてみよう」
「はい!」
「はい!」
杏寿郎と千寿郎の返事が重なる。
片方は腹の底から響くように大きく。
もう片方は少し遅れて、けれど精一杯に。
俺は二人の前に立ち、水の呼吸の立ち方を取った。
自然体で立つとは言うが、その自然体とは何か。
それを言葉にしなければならない。
流れを止めないように。
どこへでも移れるように備える。
受けても、攻めても、次へ繋げられるように。
重すぎず、軽すぎず。
俺は息を整えながら、ゆっくりと口を開いた。
「水は、止まらないことから始まる」
言ってから、自分でも少し驚いた。
水の呼吸を、そんなふうに考えたことはなかった。
けれど、口にしてみると、それは確かに、自分が狭霧山で教わってきたものの一端だった。
杏寿郎は真剣な顔で頷く。
「止まらなければよいのですね!」
「ただ止まらないというよりは、水は次の動作へ繋ぐことを大事にする。受けても、避けても、斬っても、そこで終わらせない」
俺は水の立ち方を取りながら、足を半歩動かす。
「足で地面を掴まない。腰を沈めすぎない。水の型は身体ごと振るようなものも多いから」
言いながら、自分の昨日の動きを思い出す。
炎の立ち方で踏み込んだ時、俺の刃は確かに重くなった。
だが、その重さが流れを止めた。
水に必要なのは、重さではない。
軽さだけでもない。
次に移るための、余白。
「まずは、力を抜いて立つ。けど、抜きすぎても駄目だ。どこから押されても、次の場所へ移れるようにしておく」
「むむ」
杏寿郎が眉間に皺を寄せる。
「力を抜くが、抜きすぎない!」
「そう」
「難しいですね!」
「俺も今、言いながら難しいことを言っていると思ってる」
思わずそう返すと、杏寿郎は大きく頷いた。
自分で言葉にしようとしてみて、初めて意識する。
炎の立ち方が、いかに安定しているか。
千寿郎は隣で、恐る恐る足を動かしている。
腰の置き場所が分からないのか、重心が不安定になっている。
ただ、こちらの言葉をひとつひとつ拾おうとしているのは分かった。
「千寿郎君は、もう少し力を抜いてみよう。うん、そのくらい。
腰を立てようとしなくていい」
「は、はい」
炎と比べた時の、水の立ち方の不安定さを実感する。
安定させない、固まらせ切らない。
けれど、崩しすぎてもいけない。
丁度いい不安定さ、これが水の呼吸の基礎なのかもしれない。
そう考えて振り返る。
「杏寿郎君は……」
言いかけて、少し止まる。
杏寿郎から、なにか見慣れた気配がする。
いや、水の立ち方として正しいわけではない。
どう見ても炎の芯が残っている。
腹の底に落ちる重心、地面を捉える足、身体の中心に軸が通っている構え。
けれど、何故か水の立ち方になっている気がする。
「杏寿郎君」
「はい!」
「一度、そのまま動いてみてくれるか。俺の動きを真似する形でいい」
「承知しました!」
俺はゆっくりと足を動かす。
前へ半歩。
受けるように身体をずらし、そのまま斜めへ流れる。
流れた先で振るのは、壱ノ型・水面斬り。
俺があの日、炎の立ち方では水として振れなかった型だ。
杏寿郎がそれを追う。
最初の踏み込みから、足音が重かった。
やはり炎だ。
地面を踏む力が強い。
水のように流すには、身体が真っ直ぐすぎる。
そう思った。
次の瞬間、杏寿郎の身体が動いた。
「……え」
思わず声が漏れた。
重い。
それは間違いない。
杏寿郎の足は、炎のままだ。
身体の芯も、崩れていない。
一刀へ力を乗せるための構えは、少しも消えていない。
なのに、流れている。
地面に据えた芯を残したまま、その芯ごと移動している。
水のように重心を移し替えているのではない。
重心を作る芯を保ったまま、一本の柱のように滑っている。
そんな動きができるのか。
俺は、目の前で起きたことを理解しようとして、息を忘れた。
「宗右衛さん?」
杏寿郎が動きを止める。
「今の動きでよろしいのでしょうか!」
「……次は、弐ノ型を見せるから、真似してみてくれ」
「はい!」
杏寿郎は疑いもせず、俺が見せた水車の動きをなぞるように動く。
身体ごと縦に回す動きを、今度は目を逸らさずに見る。
やはりそうだ。
水のように流れている。
だが、これは水ではない。
炎の重さが消えていない。
普通なら、流れを残そうとすれば重さが抜ける。
重さを保とうとすれば、流れが止まる。
俺はそこに詰まっている。
だが杏寿郎は、芯を保ったままに流れた。
身体の中心を失わず、その中心ごと次の位置へ運んでいる。
それは、俺が炎の立ち方で水を振ろうとしてできなかったことだった。
「……すごいな」
口から、ぽつりと声が落ちた。
「そうでしょうか!?」
「うん。すごい」
嘘ではなかった。
心からそう思った。
同時に、胸の奥に暗いものが沈む。
俺が悩んで、詰まって、ようやく輪郭を掴みかけたものを、杏寿郎は試しに振っただけで、身体のどこかで掴んでしまった。
水を知らないはずなのに。
炎しか知らないはずなのに。
それでも、才ある身体は、理屈の前に答えを出す。
羨ましい。
その言葉が、胸の底に浮いた。
悔しい。
次に、そう思った。
みっともない感情だと思う。
年下の少年に対して抱くには、あまりにも情けない。
だが、その感情は消えない。
だから、見ろ。
槇寿郎さんの言葉が、胸の奥で響く。
俺は今、杏寿郎君が羨ましいのだ。
そう認めると、胸は痛んだ。
けれど、目を逸らすよりは少しだけましな気がした。
「宗右衛さん?」
「いや、大丈夫」
俺は息を整え、隣でぽかんとしている千寿郎君を見る。
「すまない、つい杏寿郎の動きに見とれてしまった。続きを話そう」
「はい!」
杏寿郎と千寿郎が頷く。
俺はその動きを、今度は感情ごと飲み込みながら見た。
水と炎の違い。
それが、ようやく少し見えてきた。
水は、重心を移す。
身体ごと流れ、刀に重心を寄せることで、受けにも攻めにも流れを作る。
炎は、重心を芯に置く。
崩れない身体の中心から、一刀に重さを乗せる。
だから俺は混ぜられない。
炎の芯を持てば、水の重心移動が死ぬ。
水の流れを取れば、炎の重さが抜ける。
だが杏寿郎は、芯を保ったまま、芯ごと流れに乗せている。
それは水と炎を混ぜたというより、杏寿郎の炎の呼吸の完成度が高すぎるからこそ、炎の呼吸の一部に水の動きを飲み込んでいるように見えた。
水の才に乏しい俺には、できない。
そう思った。
だが、同時に分かった。
俺がやるべきことは、杏寿郎と同じことではない。
炎になることではない。
水のまま、炎から何を借りるかを見極めることだ。
(……少し、分かった気がする)
杏寿郎は、自分がどれほど異様なことをしたのか、まるで分かっていない顔で笑っている。
まぶしい。
やはり、少し痛い。
それでも、今は見ていられる。
「千寿郎君」
「は、はい!」
「次は千寿郎君も一緒に、ゆっくりやってみよう」
「はい!」
千寿郎は少し緊張した顔で頷く。
その手はまだ小さく、木刀に振り回されている。
杏寿郎のように一度で掴むことはできないだろう。
けれど、その目は真剣だった。
俺は二人の前に立ち、もう一度水の動きを示す。
教えることで、自分が何を見ているのかを知る。
槇寿郎さんの言葉の意味が、胸の痛みの分だけは、分かった気がした。