それから数日、俺は杏寿郎君と何度も立ち合った。
立ち方を変え、姿勢を変え、重心の置き方を少しずつ変えながら、どこまでなら自分の戦い方を壊さずに炎の理を取り込めるのかを探り続けた。
その間、杏寿郎君もまた変わっていった。
俺が水で受け流せば、次の日にはその流しの一部が杏寿郎君の打ち込みに混じる。
俺が間合いを半歩ずらせば、次の立ち合いではその半歩を見越して踏み込んでくる。
こちらが誘いをかければ、一度目は乗る。
だが二度目には、きちんと踏み止まる。
吸い上げられている。
そんな感覚があった。
俺が任務の中で、何度も冷や汗をかきながら身につけたもの。
鬼の動きを読み、隙を作り、どうにか頸へ刃を届かせるために積み上げてきたもの。
その小さな工夫を、杏寿郎君は鍛錬の中でどんどん拾っていく。
もちろん、まだ俺は杏寿郎君に負けてはいない。
立ち合えば、まだいなせる。
間合いを外すこともできる。
相手の呼吸を読んで、ほんの少しだけ先に動くこともできる。
けれど、それが純粋な剣の冴えによるものではないことも、分かっていた。
俺の方が年上だ。
身体も出来ている。
実際に鬼と戦い、命を賭けた場に立った経験もある。
今の差は、ただそれだけだ。
そう思った時、ふと鱗滝さんの言葉を思い出した。
櫛那だけが藤襲山へ行くと告げられた日のことだ。
あの日、俺は自分も行くものだと思っていた。
櫛那と並べば、頭一つ分違う。
骨も、筋も、まだ足りん。
身体が成らぬ子を試験には送れん。
鬼は、子どもだからといって容赦はせん。
鱗滝さんは、そう言った。
その時も、言葉の意味は分かったつもりでいた。
櫛那より俺の身体が小さいことも、力が足りないことも、自分で分かっていた。
けれど、納得できていたかと言えば、たぶん違う。
置いていかれるような気がした。
櫛那だけが先へ進むように思えた。
だが、杏寿郎君を見ていると、今なら少し分かる。
身体が出来ていないというのは、ただ背が低いとか、力が弱いという話ではない。
これほどの才があっても、杏寿郎君の身体はまだ少年のものだ。
踏み込みの鋭さに、骨と筋が追いつききっていない。
意志は前へ進むのに、身体はまだ、そのすべてを受け止める器になりきっていない。
剣士の身体は、ただ動ければいいわけではない。
呼吸を支える肺。
刃を受けても逃げない体幹。
無理をしても壊れない足腰。
連戦に耐えるだけの粘り強さ。
それらが揃って、初めて命を懸けられる。
鱗滝さんは、俺を遅らせたのではない。
帰れるだけの身体になるまで、待ってくれていたのだ。
そう気づくと、胸の奥が少しだけ熱くなった。
同時に、別の重さも生まれる。
なら今の俺は、その待ってもらった時間に見合うものを持っているのだろうか。
鱗滝さんが用意してくれた道を歩き、炎柱の家でこれだけのものを受け取っている。
それなのに、自分はまだ足元で何かをこね回しているだけのようにも思える。
少しずつでも前には進んでいると、そう信じたい。
けれど、信じようとするほど、焦りは胸の奥で静かに熱を持った。
―――
その日の夕暮れ、厨で片付けを手伝っていると、瑠火さんに声をかけられた。
「宗右衛さん」
「はい」
「今日はこの後、お時間はありますか?」
「はい。ありますけど、なんでしょうか」
なにか粗相でもしてしまったのだろうかと身を固くする。
「少し、お話ししていかれませんか」
瑠火さんが示したのは、厨の隣の小さな部屋だった。
以前にも、そこで白湯をいただいた。
槇寿郎さんの言葉に胸を焼かれた夜、瑠火さんが話を聞いてくれた部屋。
また、見抜かれていたのだろうか。
その感覚は未だに気恥ずかしいが、それでも心の奥が温かくなるのを感じた。
「……はい」
部屋には、既に行燈がひとつ灯っていた。
瑠火さんは白湯を二つ用意し、俺が座るのを待ってから、静かに湯呑みを差し出してくれる。
あの日のように指先に、じんわりと温かさが移る。
白湯をひと口含むと、喉の奥から胸の内側へ、ゆっくりと熱が落ちていった。
「杏寿郎に、驚かれましたか」
その言葉に、思わず顔を上げた。
前にも、そう聞かれた。
初めて煉獄家へ来た日。
門の前で杏寿郎君に迎えられ、その明るさと圧に面食らった俺に、瑠火さんは同じように尋ねた。
あの時は、声の大きさや、炎のような気配に驚いていた。
今は違う。
同じ言葉なのに、胸に落ちる重さがまるで違った。
「……前にも、そう聞かれましたね」
「ええ」
瑠火さんは、ほんの少し微笑んだ。
「けれど、今はまた違って聞こえるのではありませんか」
この人は、いったいどこまで見ているのだろう。
ふと、そんなことを思う。
未来を知っているわけではないはずだ。
けれど、こちらが自分でも見ないようにしているものを、いつの間にか見つけている。
「驚きました」
俺は白湯の水面に視線を落とす。
「最初に会った時より、今の方が驚いていると思います」
「そうですか」
「杏寿郎君は、すごいですね」
言葉にすれば、それは一言ですんでしまった。
だが、その簡単な言葉の奥にあるものは、うまく形にならない。
「見たものを、身体で掴むのが早い。俺が何日も考えていることを、あの子は一度か二度見ただけで、どこかで掴んでしまう」
悔しい、という言葉が喉元まで来て、止まる。
悔しい。
確かにそうだ。
けれど、それは、もう知っていることだ。
俺の周りには、ずっとそういう人たちがいた。
櫛那も。
錆兎も。
義勇も。
きっと杏寿郎君も、いずれ彼らと同じ場所へ行く人なのだろう。
「でも、俺が苦しいのは、たぶんそこじゃないんです」
瑠火さんは静かに聞いている。
「鱗滝さんの弟子として、槇寿郎さんのところへ修行に来ています。たくさんのものを見せてもらって、教えてもらって、杏寿郎君や千寿郎君にも付き合ってもらっている」
言葉にするほど、胸が重くなる。
「それなのに、自分はちゃんと何かを掴めているのか。何かを持ち帰れるのかと思うと……焦ってしまうんです」
「焦っておられるのですね」
「はい」
認めると、少しだけ息が詰まった。
瑠火さんは、湯呑みに視線を落としてから、静かに問いかける。
「宗右衛さんは、どうしてそれほど強くなりたいのですか」
強くなりたい理由。
いくつか、すぐに浮かんだ。
錆兎や義勇に置いていかれたくないから。
杏寿郎君のような者に出会って、自分も前へ進まなければと思ったから。
鱗滝さんに恥をかかせたくないから。
櫛那姉ちゃんに、胸を張れる人間でいたいから。
どれも本当だ。
けれど、その奥にあるものを探していくと、狭霧山を発つ日の記憶が浮かんだ。
最終選別へ向かう朝。
天狗の面。
大きな腕。
思っていたよりもずっと強く抱きしめられた温かさ。
そして、低い声。
必ず帰れ。
あの言葉は、今でも胸の奥に残っている。
「……帰ると、約束した人がいるからです」
口にすると、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「帰りたい場所が、あるからだと思います」
瑠火さんは、静かに頷いた。
「では、どうしてそんなに焦るのでしょう」
その問いには、すぐに答えられなかった。
「焦る理由……」
口の中で繰り返してみて、考える。
言われて初めて、自分が何に急かされているのかを深く考える。
考えて、考えて、考えて、言葉につまる。
だって俺は、心の内に鬼と戦う理由がない。
いま求めている強さだって、もっと強い鬼や人がいるのは当たり前だとしても、普通の鬼と戦うには十分な強さがあるはずだ。
少なくとも、今すぐ焦って強くなろうとする理由は、どこにもないはずだった。
「追いつきたい人がいるからでしょうか」
答えに詰まっていると、瑠火さんが問いかけてくれる。
追いつきたい人がいる。
恥じたくない人がいる。
何も掴めずに帰るわけにはいかない。
それは心の中に確かにある。
けれど、どれも何か、俺の中にある焦りの中心には届かない気がした。
「……分かりません」
ぽつりと声が落ちる。
「聞かれてみると、俺が何に焦っているのか、自分でもうまく説明できません」
瑠火さんは少し考えるように湯呑みに視線を落とし、それから問いの向きを変える。
「では、強くなった宗右衛さんは、何をしたいのですか」
強くなった自分を想像する。
鬼を斬るため。
人を守るため。
任務を果たすため。
そう答えるべきだろうと思った。
けれど、そのどれも、言葉にしようとする前に胸の奥で引っかかった。
もっと早く斬れるようになった自分。
もっと確実に鬼の頸を落とせる自分。
もっと安全に、人を守れる自分。
その先に、俺は何を見ているのか。
考えた瞬間、ひどく馬鹿げた考えが胸の底から浮かび上がってきた。
頭からその考えを振り払おうと下げた視線の先で、湯呑から昇る湯気が行燈の光を受けて朱く揺れる。
蝋燭のように、人に寄り添うための優しい炎の色。
ふと、顔をあげて瑠火さんの目を見る。
煉獄家の誰とも似ていない、優しい瞳。
「……鬼と」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
「鬼と、友達になりたいのかもしれません」
言ってから、自分で息を呑んだ。
何を言っているのだ。
鬼殺隊士が。
鱗滝さんの弟子が。
炎柱の家で、その妻を前にして。
慌てて言葉を継ごうとして、喉が絡まる。
「すみません。今のは……今夜一晩だけの世迷い言として聞いてください」
瑠火さんは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、ひどく長く感じる。
何を言われるだろうか。
叱りの言葉か、呆れの言葉か、はたまた失望の言葉か。
俺は湯呑みを持つ手に力が入るのを感じた。
やがて、瑠火さんは静かに口を開く。
「その願いを、私は笑いません」
思わず顔を上げた。
瑠火さんの表情に、想像していたような軽蔑はなかった。
代わりに、ひどく真剣なまなざしが俺を射抜いた。
「宗右衛さんがそう思うこと自体を、私は悪いことだとは思いません」
その言葉に、胸のつかえが少し緩む。
だが、瑠火さんの声はそこで柔らかいだけでは終わらなかった。
「けれど、宗右衛さん」
「はい」
「鬼に喰われる人の命を、決して見落としてはいけません」
静かな声だった。
それでも、背筋が伸びる。
「鬼と友達になりたいと願うなら、なおさら、斬らねばならぬ鬼を見誤ってはなりません」
その言葉は、優しかった。
けれど、甘くはなかった。
俺はこれから、鬼と友になりたいと思いながら、鬼を斬らねばならないのだと。
その矛盾から、もう目を逸らしてはいけないのだと。
俺は深く息を吸い、ゆっくり吐く。
「……はい。分かっています」
言い切ってから、少しだけ苦く笑う。
「いえ、分かっているつもりです」
瑠火さんは、その言い直しを咎めなかった。
「つもり、でよいのだと思います」
「え?」
「分かりきった顔をしてしまうより、ずっと」
その言葉に、うまく返せなくなる。
俺はしばらく黙って、白湯の湯気を見ていた。
鬼と友達になりたい。
口にしてしまった言葉は、まだ胸の中で落ち着かない。
あまりにも馬鹿げている。
鬼殺隊士としては、あまりにも危うい。
けれど、まったくの嘘ではなかった。
俺は、鬼を憎みきれない。
斬るたびに、その色を見てしまう。
満たされなかったもの、飢えていたもの、怯えていたものを見てしまう。
だから、強くなれば。
もっと強くなれば。
斬る以外の何かができるのではないかと、どこかで思っていたのかもしれない。
俺はそれを誤魔化すように、少し冗談めかして言った。
「……人を食べない鬼がいたら、そうしたいと思います」
瑠火さんは、ほんの少し目を伏せた。
「そのような鬼が、本当にいるのなら」
静かに、否定をしないまま、不思議な言葉で俺を受け入れてくれた。
白湯を口に含む。
喉を通っていく温かさが、胸の奥に残った言葉の形を、少しだけ柔らかくしてくれる。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
「また、変なことを言いました」
「いいえ」
瑠火さんは微笑む。
「変なことを言える相手がいるのは、悪いことではありません」
その言葉に、少しだけ笑ってしまった。
客間へ戻る廊下は、静かだった。
俺は何故、鬼と戦うのか。
それは、まだ分からない。
けれど、強くなった先で何をしたいのか。
その問いには、俺自身が思っていたよりもずっと危うい答えが、胸の奥に眠っていた。
見ないふりは、もうしない。
そう思いながら眠りについた翌朝、槇寿郎さんの私室へ呼ばれた。
部屋へ入る前から、空気が違うのが分かった。
鍛錬の話ではない。
槇寿郎さんの傍らには、日輪刀が置かれている。
「宗右衛」
「はい」
槇寿郎さんは短く告げた。
「鬼を斬りに行く」
息が止まった。
つい昨夜、鬼と友達になりたいかもしれないなどと世迷い言を吐いたばかりのその翌朝に、鬼を斬りに行く。
まるで、誰かにこちらの胸の内を試されているようだった。
「支度しろ。準備が出来次第に出る」
「……はい」
返事をしながら、胸の奥が冷えていくのを感じた。
次に見る炎は、稽古のためのものではない。
鬼を斬るための、本物の炎だ。