支度をしろ、と言われてから、そう時間はかからなかった。
旅支度と言っても、鬼殺隊士の荷はそう多くない。
日輪刀。
羽織。
替えの着物。
最低限の手当ての道具。
棒手裏剣や鎖分銅などの武器を少々。
あとは鱗滝さんから持たされた細々としたものを確かめるだけだ。
槇寿郎さんは、任務の詳しい話をその場ではしなかった。
「走るぞ」
そう言われて、俺は頷くしかない。
煉獄家を出る時、庭にいた杏寿郎君が大きな声で見送ってくれた。
「父上! 宗右衛さん! ご武運を!」
千寿郎君も、その隣で小さく頭を下げる。
「お気をつけて……!」
瑠火さんは玄関先で、静かに俺を見ていた。
「いってらっしゃいませ」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ締まる。
いってらっしゃい。
その言葉は、帰ってくることを前提にした言葉だ。
「……行ってきます」
頭を下げると、瑠火さんはほんの少しだけ微笑んだ。
それ以上、言葉を交わす時間はなかった。
槇寿郎さんは瑠火さんたちに軽く返事をして、すでに門の外へ出ている。
俺は荷を背負い直し、その背を追った。
そこから先は、ほとんど走り通しだった。
街道を抜け、町を抜け、人の流れが少しずつ変わっていく。
町の匂いは薄れ、やがて風の中に塩の匂いが混じり始めた。
港町に着いた頃には、額に汗が滲んでいた。
そこには、隠が一人待っていた。
黒い装束の向こうから、こちらを見るなり、深く頭を下げる。
「炎柱様。お待ちしておりました」
「状況は」
「はい。これから八丈島へ向かっていただきます」
八丈島。
聞き覚えのない名だった。
島、というからには海に出るのだろうか。
それくらいのことしか、俺には分からない。
隠は、こちらの反応を見たのか、すぐに続けた。
「八丈島までは、こちらで船を手配しております。ただ、途中の島を経由しながら向かうことになりますので、風待ちも含めれば十日から二十日は見ていただくことに……」
「遅いな」
槇寿郎さんが、即座に言った。
隠の言葉が止まる。
「し、しかし、海路ですので」
「そんなに待っていられるか。二人が乗れる手漕ぎ船でいい」
隠が固まった。
俺も固まった。
今、何と言ったのだろう。
「手漕ぎ船、ですか」
隠が確認するように言う。
「ああ」
「八丈島まで、ですか……?」
「ああ」
「炎柱様、それは……」
隠の声が、わずかに揺れた。
俺も同じ気持ちだった。
船で十日から二十日かかると言われた場所へ、二人乗りの手漕ぎ船で行く。
何かがおかしい。
だが槇寿郎さんは、むしろ良い笑顔を浮かべた。
「なぁに、烏が居れば道には迷わん。二人で漕げば二日もあれば足りるだろう」
それは、そんな言葉で済ませていい旅路なのだろうか。
とは思うが、八丈島という島の名前すら初めて聞いた俺には、槇寿郎さんの言葉を信じるしかない。
頭上で鎹烏が、一声鳴いた。
「道案内! 任せろ! 責任重大!」
烏はやる気らしい。
俺は隠を見る。
隠は俺を見る。
互いに、どうにかならないかという目をした。
そのまま翌日を迎えて―――
どうにもならなかった。
結局、用意されたのは槇寿郎さんの言葉通りの、二人が乗れる手漕ぎ船だった。
初めて乗る船に、最初だけは少し気持ちが浮き立った。
海に来たこと自体が初めてで、見渡す先に遮るものが何もない景色というのは、あまりにも新鮮だった。
港を離れると、揺れる水面が光を返している。
沖へ出るほどに、町の音が遠のき、波の音だけが耳に残った。
空は広く、海はもっと広い。
陸から見る海とは、まるで違う。
どこまでも続く水の上に、自分たちの乗った小さな船だけがぽつんと浮かんでいる。
少しだけ、すごいと思った。
思ったのは、本当に最初だけだった。
「そら、漕いでみろ」
「はい」
槇寿郎さんの短い指示に従い、櫂を握る。
水を掴む。
引く。
戻す。
また水を掴む。
最初は、いつもの鍛錬の延長のように思えた。
だが、それはすぐに間違いだと分かった。
速く漕ぐために必要なのは、腕だけではない。
肩。
背中。
腰。
腹。
足。
櫂を漕ぐという動きは、ほとんど全身を使う。
しかも、何より恐ろしいのは終わりが見えないこと。
進む先は海。
横を見ても海。
視線を上げればさっきまでいた陸が少しずつ遠ざかっている。
漕ぐうちに、陸は見えなくなった。
その時初めて、背筋が冷えた。
鬼と戦う怖さとは違う。
ここでは、刀を振っても何も斬れない。
呼吸を整えても、海は止まらない。
陸にいた時は穏やかに見えた波だが、わずかなうねりで船が傾く。
そのたびに、足元に地面がないことを理解させられた。
見渡す限りが海になって初めて、今自分がどこにいるのかも分からないことに気が付いた。
自分の位置を知るすべが太陽しかないというのは、山の中よりもひどい恐怖だった。
この広さの中では、自分の強さなど、ひどく小さなものに思えた。
それでも、漕ぐしかない。
櫂を水に入れる。
引く。
戻す。
何度も、何度も繰り返す。
汗が額から落ちる。
手のひらが擦れる。
肩が熱を持つ。
焦りと恐怖で、どれほど時間が経ったのか分からなくなった頃、槇寿郎さんが言った。
「そろそろ代わるか」
「……はい」
俺は櫂を握ったまま、一瞬だけ返事が遅れた。
代わる。
つまり、今度は槇寿郎さんが漕ぐということだ。
席を譲り、息を整えようとした、その直後だった。
船が、ぐん、と前へ出た。
「……」
思わず無言になる。
同じ船だ。
同じ櫂だ。
同じ海だ。
それなのに、進む速さがまるで違う。
体感では、倍ほど速い。
槇寿郎さんは涼しい顔で櫂を操っている。
汗ひとつかいていない、というわけではないが。
漕ぎながら、空を見ている。
波を見ている。
烏の声に耳を傾け、風向きまで確かめている。
柱は、海でも柱なのだと、俺は膝の上で拳を握った。
悔しいというより、もはや少し怖かった。
明け方に港を出て、夕暮れ頃、ようやく島影が見えた。
「三宅島だ」
槇寿郎さんが言った。
「八丈島ではないのですか?」
「あそこまで一日で行くのはさすがに難しいからな。一度この島を経由するんだ」
島に近づき、船が揺れを弱める。
その瞬間だった。
胃の奥が、ぐらりと傾いた。
「……っ」
漕いでいる間は、気づかなかった。
いや、気にする暇がなかった不調。
疲労と必死さで、身体の感覚が後回しになっていた。
陸が近づき、身体の力が抜けた途端、船の揺れが頭の中に一気に襲ってきた。
腹の底からこみ上げてくるものを海に吐き出す。
喉の奥が酸っぱい。
視界が少し揺れる。
「おい、どうした」
「……分かりません、急に、気持ちが悪くなって」
「船酔いか」
「た、たぶん……」
槇寿郎さんは、少しだけ口元を歪めた。
「明日も同じだぞ。慣れるといいな」
その言葉で、別の意味で気持ちが悪くなった。
明日も同じ。
そして、おそらく帰りも同じ。
その事実に気づいた瞬間、俺は海よりも深い絶望を覚えた。
翌日も、ほとんど同じだった。
漕ぐ。
揺れる。
汗をかく。
陸が見えなくなる。
波の音だけが残る。
槇寿郎さんに交代すると、船が信じがたい速さで進む。
烏たちは空から道を示し、時折、こちらを励ますように鳴いた。
励ましなのか、急かしなのかは分からないが。
そうして、二日目の夕方。
ようやく八丈島へ着いた。
本州から十日も二十日もかかると聞いていた島に、たった二日で。
湧き上がってくる達成感や安心感で、俺は思わず涙を流した。
八丈島は、思っていたよりもずっと町だった。
船で十日もかかる島と聞いて、俺はもっと寂れた場所を想像していた。
流される者が辿り着くような、荒れた海辺。
少ない家。
痩せた土地。
潮風に削られた、人の気配の薄い場所。
けれど実際には、港には人がいる。
荷を運ぶ者がいる。
店もある。
宿もある。
道行く人の着物の色も、想像していたよりずっと華やかだった。
「……意外と、人が多いんですね」
「ああ」
槇寿郎さんの声は短い。
俺は港の周囲を見渡した。
夕暮れ時だというのに、道にはまだいくつもの人影があった。
そして、女が多い。
それだけなら、別におかしなことではないのかもしれない。
だが、どうにも目についた。
店先に立つ女。
宿の前で笑う女。
道端でこちらを見る女。
遠巻きに、けれど値踏みするように視線を向けてくる女。
笑っている。
だが、識彩に見える色の端が、妙に粘ついているように見える。
商いのために整えられた天色。
値踏みするような杏色。
諦めの混じった深緑色。
その奥に、黒ずんだ赤。
どこかで見たことのある色だった。
裏長屋の通りの女たち。
遊女や、陰間。
そういう人たちの色に、少し似ている。
ただ、完全に同じでもない。
この島の女たちは、あそこの人たちよりも明るい色をしている。
だというのに、もっと別の何かを隠しているように見えた。
海で火照った身体に、風が触れる。
暑さに耐えかねて緩めていた襟元がはためく。
髪にも海水が残っていて、額から水が滴っている。
隣の槇寿郎さんは、さすがに疲れを見せてはいるが、背筋は伸びたままだ。
身なりも乱れていない。
見ただけで、ただ者ではないと分かる。
そんな二人が、声をかけられないわけがなかった。
「お二人とも、ずいぶんお疲れでしょう」
柔らかな声がした。
振り向くと、女が二人、こちらへ近づいてきていた。
「良い宿を知っています。湯もありますよ」
「そちらの若い方も、ずいぶんお疲れのようですし」
俺は一瞬、何と返すべきか迷った。
言葉は丁寧で、甘えるような響き。
けれど、それがただの親切で掛けられる言葉ではないことを知っている。
商いの色。
値踏みの色。
それから、こちらの出方を測る警戒が見えた。
槇寿郎さんが、女たちの前へ半歩出た。
「必要ない」
威嚇するような、低い声だった。
女たちの肩が、びくりと震える。
「でも、旦那様。この島は初めてでしょう? 何かと不便も……」
「必要ないと言った」
槇寿郎さんの声に、ほんのわずか圧が乗った。
女たちは笑顔を崩さないまま、一歩退いた。
けれど、色には怯えが混じっている。
そのまま頭を下げて、足早に離れていった。
俺はその背中を見送ってから、小さく息を吐いた。
「そんな大人げない対応をしなくても……」
「…………お前のために追い返してやっているんだ」
槇寿郎さんが、気まずそうに横目でこちらを見る。
「彼女たちが何のために声を掛けてきているのかぐらい、分かってますよ」
言ってから、少しだけ顔が熱くなる。
俺たちが何の声掛けをされていたのか、まったく分からないわけではない。
裏長屋にいれば、そういうものを知らずに育つ方が難しいのだから。
「でも、向こうも商売でやっているんですから。わざわざ怖がらせる必要はないじゃないですか」
「…………ませたガキめ」
槇寿郎さんが、苦々しく言った。
俺もそれ以上は言い返せなかった。
自分でも、少し耳が熱くなっているのが分かっていたからだ。
ただ、槇寿郎さんの表情は笑っていなかった。
むしろ、どこか苦い。
「……こんな島だと知っていれば、お前は連れてこなかったんだがな」
ぽつりと落ちた言葉に、俺は黙る。
こんな島、というのが何か、今あった出来事以上の意味があるような気がした。
けれど、槇寿郎さんの表情を見ると、その意味を深く聞く気にはなれなかった。
―――
先遣隊との合流は、港から少し離れた宿で行われた。
表向きは商人が泊まる小さな宿らしい。
だが、奥の一室に通されると、そこには鬼殺隊士らしき二人がいた。
一人は頭に包帯を巻いている。
もう一人は、ずいぶんと顔色が悪い。
槇寿郎さんが入ると、二人はすぐに頭を下げた。
「炎柱様、ご足労を」
「いらん、状況を話せ」
槇寿郎さんは座るなり、余計な挨拶を省く。
隊士の一人が頷く。
「伊黒家に出入りしていた商家から、人が消えました」
伊黒家。
その名を告げる瞬間、部屋の空気が少し重くなった。
「その商家は、八丈島の外から人と物を運び入れていたようです。表向きは普通の商いですが、随分と手厚く島に支援をしており、伊黒家とはかなり深く関わっているようです」
「消えたのは何人だ」
「確認できているだけで三人。ただ、島の者たちは口が重く、実際にはもっといる可能性があります」
もう一人の隊士が続ける。
「調査に向かった者も戻っていません」
俺は息を呑んだ。
「隊士の方ですか」
「あ、ああ。先に派遣されて来ていた剣士が二人いたんだ。
鬼がいるのは間違いないだろうから、調査の為にと出かけて行って、それきり……」
槇寿郎さんの顔が、わずかに険しくなる。
「それはいつだ」
「五日前です」
五日。
鬼が関わっているのなら、生存は見込めないだろう日数だ。
誰も、それを口にはしなかった。
ただ、部屋の中に沈黙が落ちる。
「伊黒家の周辺に、鬼の気配はあります」
隊士は続けた。
「ただ、妙なのです。島の者たちは伊黒家を恐れているようにも見えますが、同時に敬っているようにも見える」
「敬う?」
「はい。島の者たちに伊黒家のことを尋ねると、誰もが口を閉ざします。
それは鬼がいて、島民たちが恐れているだけなら、まだ分かります。
けれど、島民たちにとってはそれだけではないようなのです。
こいつの頭の怪我も、伊黒家を探っていた時に負わされたものです。
『伊黒への不義理は蛇神様に祟られる』と、島民にそう言われながら殴られたそうで」
槇寿郎さんは黙って聞いている。
俺は、港で見た女たちの色を思い出していた。
そうした場所で生きる人の、特有の色。
頭の中で静かにそろばんを弾く天色。
初めての客に抱く、期待と警戒が混ざる杏色。
自分を売ることへの疲れが滲む深緑色。
けれど、それだけではなかった。
あの色の奥には、何かを隠しているような黒ずんだ赤があった。
鬼だけではない。
この島は、何かを隠している。
「伊黒家は、どこにある」
「町外れの高台です。島の中で、最も大きな屋敷です」
「案内しろ」
槇寿郎さんが立ち上がる。
隊士が一瞬ためらった。
「今からですか」
「日が落ちる前に、外から見るだけだ」
そう言う声に、迷いはなかった。
俺も立ち上がる。
船を漕いだ疲労が、まだ身体に残っている。
だが、そんなことを言っていられる空気ではなかった。
宿を出ると、夕暮れの風が吹いていた。
潮の匂い。
湿った土の匂い。
どこか甘い、花のような匂い。
島の町は、夕暮れの光の中で妙に美しく見えた。
その美しさが、少し気味悪い。
道を歩く間も、女たちの視線を感じる。
誰も近づいては来ない。
だが、見ている。
槇寿郎さんの圧を感じ取っているのか、声をかける者はいなかった。
町を抜け、少し高い場所へ向かう。
やがて、伊黒家の屋敷が見えた。
海を見下ろす高台に、立派な塀が続いている。
島の中では、明らかに大きすぎる屋敷だった。
白い塀。
重そうな門。
手入れされた庭木。
けれど、そこに煉獄家に感じたような威風は感じなかった。
鬼の発する黒ずんだ色が、僅かに日が残る滅紫の空を、黒く染めているかのように見えた。
俺は息を呑む。
三日前、鬼と友達になりたいなどと言った自分を、少しだけ殴りたくなった。
槇寿郎さんが、日輪刀の柄に手をかける。
「今夜は戻るぞ」
屋敷の奥で、蛇のような気配が身じろぎした。