鱗滝の養子   作:松雪草

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35話

 支度をしろ、と言われてから、そう時間はかからなかった。

 

 旅支度と言っても、鬼殺隊士の荷はそう多くない。

 日輪刀。

 羽織。

 替えの着物。

 最低限の手当ての道具。

 棒手裏剣や鎖分銅などの武器を少々。

 

 あとは鱗滝さんから持たされた細々としたものを確かめるだけだ。

 

 槇寿郎さんは、任務の詳しい話をその場ではしなかった。

 

「走るぞ」

 

 そう言われて、俺は頷くしかない。

 

 煉獄家を出る時、庭にいた杏寿郎君が大きな声で見送ってくれた。

 

「父上! 宗右衛さん! ご武運を!」

 

 千寿郎君も、その隣で小さく頭を下げる。

 

「お気をつけて……!」

 

 瑠火さんは玄関先で、静かに俺を見ていた。

 

「いってらっしゃいませ」

 

 穏やかな声だった。

 

 けれど、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ締まる。

 

 いってらっしゃい。

 

 その言葉は、帰ってくることを前提にした言葉だ。

 

「……行ってきます」

 

 頭を下げると、瑠火さんはほんの少しだけ微笑んだ。

 

 それ以上、言葉を交わす時間はなかった。

 

 槇寿郎さんは瑠火さんたちに軽く返事をして、すでに門の外へ出ている。

 俺は荷を背負い直し、その背を追った。

 

 そこから先は、ほとんど走り通しだった。

 

 街道を抜け、町を抜け、人の流れが少しずつ変わっていく。

 町の匂いは薄れ、やがて風の中に塩の匂いが混じり始めた。

 

 港町に着いた頃には、額に汗が滲んでいた。

 

 そこには、隠が一人待っていた。

 

 黒い装束の向こうから、こちらを見るなり、深く頭を下げる。

 

「炎柱様。お待ちしておりました」

 

「状況は」

 

「はい。これから八丈島へ向かっていただきます」

 

 八丈島。

 

 聞き覚えのない名だった。

 

 島、というからには海に出るのだろうか。

 それくらいのことしか、俺には分からない。

 

 隠は、こちらの反応を見たのか、すぐに続けた。

 

「八丈島までは、こちらで船を手配しております。ただ、途中の島を経由しながら向かうことになりますので、風待ちも含めれば十日から二十日は見ていただくことに……」

 

「遅いな」

 

 槇寿郎さんが、即座に言った。

 

 隠の言葉が止まる。

 

「し、しかし、海路ですので」

 

「そんなに待っていられるか。二人が乗れる手漕ぎ船でいい」

 

 隠が固まった。

 

 俺も固まった。

 

 今、何と言ったのだろう。

 

「手漕ぎ船、ですか」

 

 隠が確認するように言う。

 

「ああ」

 

「八丈島まで、ですか……?」

 

「ああ」

 

「炎柱様、それは……」

 

 隠の声が、わずかに揺れた。

 

 俺も同じ気持ちだった。

 

 船で十日から二十日かかると言われた場所へ、二人乗りの手漕ぎ船で行く。

 

 何かがおかしい。

 

 だが槇寿郎さんは、むしろ良い笑顔を浮かべた。

 

「なぁに、烏が居れば道には迷わん。二人で漕げば二日もあれば足りるだろう」

 

 それは、そんな言葉で済ませていい旅路なのだろうか。

 とは思うが、八丈島という島の名前すら初めて聞いた俺には、槇寿郎さんの言葉を信じるしかない。

 

 頭上で鎹烏が、一声鳴いた。

 

「道案内! 任せろ! 責任重大!」

 

 烏はやる気らしい。

 

 俺は隠を見る。

 

 隠は俺を見る。

 

 互いに、どうにかならないかという目をした。

 

 そのまま翌日を迎えて―――

 

 どうにもならなかった。

 

 結局、用意されたのは槇寿郎さんの言葉通りの、二人が乗れる手漕ぎ船だった。

 

 初めて乗る船に、最初だけは少し気持ちが浮き立った。

 

 海に来たこと自体が初めてで、見渡す先に遮るものが何もない景色というのは、あまりにも新鮮だった。

 

 港を離れると、揺れる水面が光を返している。

 沖へ出るほどに、町の音が遠のき、波の音だけが耳に残った。

 空は広く、海はもっと広い。

 

 陸から見る海とは、まるで違う。

 

 どこまでも続く水の上に、自分たちの乗った小さな船だけがぽつんと浮かんでいる。

 

 少しだけ、すごいと思った。

 

 思ったのは、本当に最初だけだった。

 

「そら、漕いでみろ」

 

「はい」

 

 槇寿郎さんの短い指示に従い、櫂を握る。

 

 水を掴む。

 引く。

 戻す。

 また水を掴む。

 

 最初は、いつもの鍛錬の延長のように思えた。

 

 だが、それはすぐに間違いだと分かった。

 

 速く漕ぐために必要なのは、腕だけではない。

 肩。

 背中。

 腰。

 腹。

 足。

 

 櫂を漕ぐという動きは、ほとんど全身を使う。

 

 しかも、何より恐ろしいのは終わりが見えないこと。

 

 進む先は海。

 横を見ても海。

 視線を上げればさっきまでいた陸が少しずつ遠ざかっている。

 

 漕ぐうちに、陸は見えなくなった。

 

 その時初めて、背筋が冷えた。

 

 鬼と戦う怖さとは違う。

 

 ここでは、刀を振っても何も斬れない。

 呼吸を整えても、海は止まらない。

 

 陸にいた時は穏やかに見えた波だが、わずかなうねりで船が傾く。

 そのたびに、足元に地面がないことを理解させられた。

 

 見渡す限りが海になって初めて、今自分がどこにいるのかも分からないことに気が付いた。

 自分の位置を知るすべが太陽しかないというのは、山の中よりもひどい恐怖だった。

 

 この広さの中では、自分の強さなど、ひどく小さなものに思えた。

 

 それでも、漕ぐしかない。

 

 櫂を水に入れる。

 引く。

 戻す。

 

 何度も、何度も繰り返す。

 

 汗が額から落ちる。

 手のひらが擦れる。

 肩が熱を持つ。

 

 焦りと恐怖で、どれほど時間が経ったのか分からなくなった頃、槇寿郎さんが言った。

 

「そろそろ代わるか」

 

「……はい」

 

 俺は櫂を握ったまま、一瞬だけ返事が遅れた。

 

 代わる。

 

 つまり、今度は槇寿郎さんが漕ぐということだ。

 

 席を譲り、息を整えようとした、その直後だった。

 

 船が、ぐん、と前へ出た。

 

「……」

 

 思わず無言になる。

 

 同じ船だ。

 同じ櫂だ。

 同じ海だ。

 

 それなのに、進む速さがまるで違う。

 

 体感では、倍ほど速い。

 

 槇寿郎さんは涼しい顔で櫂を操っている。

 汗ひとつかいていない、というわけではないが。

 

 漕ぎながら、空を見ている。

 波を見ている。

 烏の声に耳を傾け、風向きまで確かめている。

 

 柱は、海でも柱なのだと、俺は膝の上で拳を握った。

 

 悔しいというより、もはや少し怖かった。

 

 明け方に港を出て、夕暮れ頃、ようやく島影が見えた。

 

「三宅島だ」

 

 槇寿郎さんが言った。

 

「八丈島ではないのですか?」

 

「あそこまで一日で行くのはさすがに難しいからな。一度この島を経由するんだ」

 

 島に近づき、船が揺れを弱める。

 

 その瞬間だった。

 

 胃の奥が、ぐらりと傾いた。

 

「……っ」

 

 漕いでいる間は、気づかなかった。

 いや、気にする暇がなかった不調。

 疲労と必死さで、身体の感覚が後回しになっていた。

 

 陸が近づき、身体の力が抜けた途端、船の揺れが頭の中に一気に襲ってきた。

 

 腹の底からこみ上げてくるものを海に吐き出す。

 喉の奥が酸っぱい。

 視界が少し揺れる。

 

「おい、どうした」

 

「……分かりません、急に、気持ちが悪くなって」

 

「船酔いか」

 

「た、たぶん……」

 

 槇寿郎さんは、少しだけ口元を歪めた。

 

「明日も同じだぞ。慣れるといいな」

 

 その言葉で、別の意味で気持ちが悪くなった。

 

 明日も同じ。

 

 そして、おそらく帰りも同じ。

 

 その事実に気づいた瞬間、俺は海よりも深い絶望を覚えた。

 

 翌日も、ほとんど同じだった。

 

 漕ぐ。

 揺れる。

 汗をかく。

 陸が見えなくなる。

 波の音だけが残る。

 槇寿郎さんに交代すると、船が信じがたい速さで進む。

 

 烏たちは空から道を示し、時折、こちらを励ますように鳴いた。

 

 励ましなのか、急かしなのかは分からないが。

 

 そうして、二日目の夕方。

 

 ようやく八丈島へ着いた。

 

 本州から十日も二十日もかかると聞いていた島に、たった二日で。

 

 湧き上がってくる達成感や安心感で、俺は思わず涙を流した。

 

 八丈島は、思っていたよりもずっと町だった。

 

 船で十日もかかる島と聞いて、俺はもっと寂れた場所を想像していた。

 

 流される者が辿り着くような、荒れた海辺。

 少ない家。

 痩せた土地。

 潮風に削られた、人の気配の薄い場所。

 

 けれど実際には、港には人がいる。

 荷を運ぶ者がいる。

 店もある。

 宿もある。

 道行く人の着物の色も、想像していたよりずっと華やかだった。

 

「……意外と、人が多いんですね」

 

「ああ」

 

 槇寿郎さんの声は短い。

 

 俺は港の周囲を見渡した。

 

 夕暮れ時だというのに、道にはまだいくつもの人影があった。

 

 そして、女が多い。

 

 それだけなら、別におかしなことではないのかもしれない。

 

 だが、どうにも目についた。

 

 店先に立つ女。

 宿の前で笑う女。

 道端でこちらを見る女。

 遠巻きに、けれど値踏みするように視線を向けてくる女。

 

 笑っている。

 

 だが、識彩に見える色の端が、妙に粘ついているように見える。

 

 商いのために整えられた天色。

 値踏みするような杏色。

 諦めの混じった深緑色。

 その奥に、黒ずんだ赤。

 

 どこかで見たことのある色だった。

 

 裏長屋の通りの女たち。

 遊女や、陰間。

 

 そういう人たちの色に、少し似ている。

 

 ただ、完全に同じでもない。

 

 この島の女たちは、あそこの人たちよりも明るい色をしている。

 

 だというのに、もっと別の何かを隠しているように見えた。

 

 海で火照った身体に、風が触れる。

 

 暑さに耐えかねて緩めていた襟元がはためく。

 髪にも海水が残っていて、額から水が滴っている。

 

 隣の槇寿郎さんは、さすがに疲れを見せてはいるが、背筋は伸びたままだ。

 身なりも乱れていない。

 見ただけで、ただ者ではないと分かる。

 

 そんな二人が、声をかけられないわけがなかった。

 

「お二人とも、ずいぶんお疲れでしょう」

 

 柔らかな声がした。

 

 振り向くと、女が二人、こちらへ近づいてきていた。

 

「良い宿を知っています。湯もありますよ」

 

「そちらの若い方も、ずいぶんお疲れのようですし」

 

 俺は一瞬、何と返すべきか迷った。

 

 言葉は丁寧で、甘えるような響き。

 けれど、それがただの親切で掛けられる言葉ではないことを知っている。

 

 商いの色。

 値踏みの色。

 それから、こちらの出方を測る警戒が見えた。

 

 槇寿郎さんが、女たちの前へ半歩出た。

 

「必要ない」

 

 威嚇するような、低い声だった。

 

 女たちの肩が、びくりと震える。

 

「でも、旦那様。この島は初めてでしょう? 何かと不便も……」

 

「必要ないと言った」

 

 槇寿郎さんの声に、ほんのわずか圧が乗った。

 

 女たちは笑顔を崩さないまま、一歩退いた。

 けれど、色には怯えが混じっている。

 

 そのまま頭を下げて、足早に離れていった。

 

 俺はその背中を見送ってから、小さく息を吐いた。

 

「そんな大人げない対応をしなくても……」

 

「…………お前のために追い返してやっているんだ」

 

 槇寿郎さんが、気まずそうに横目でこちらを見る。

 

「彼女たちが何のために声を掛けてきているのかぐらい、分かってますよ」

 

 言ってから、少しだけ顔が熱くなる。

 

 俺たちが何の声掛けをされていたのか、まったく分からないわけではない。

 

 裏長屋にいれば、そういうものを知らずに育つ方が難しいのだから。

 

「でも、向こうも商売でやっているんですから。わざわざ怖がらせる必要はないじゃないですか」

 

「…………ませたガキめ」

 

 槇寿郎さんが、苦々しく言った。

 

 俺もそれ以上は言い返せなかった。

 

 自分でも、少し耳が熱くなっているのが分かっていたからだ。

 

 ただ、槇寿郎さんの表情は笑っていなかった。

 

 むしろ、どこか苦い。

 

「……こんな島だと知っていれば、お前は連れてこなかったんだがな」

 

 ぽつりと落ちた言葉に、俺は黙る。

 

 こんな島、というのが何か、今あった出来事以上の意味があるような気がした。

 

 けれど、槇寿郎さんの表情を見ると、その意味を深く聞く気にはなれなかった。

 

―――

 

 先遣隊との合流は、港から少し離れた宿で行われた。

 

 表向きは商人が泊まる小さな宿らしい。

 だが、奥の一室に通されると、そこには鬼殺隊士らしき二人がいた。

 

 一人は頭に包帯を巻いている。

 もう一人は、ずいぶんと顔色が悪い。

 

 槇寿郎さんが入ると、二人はすぐに頭を下げた。

 

「炎柱様、ご足労を」

 

「いらん、状況を話せ」

 

 槇寿郎さんは座るなり、余計な挨拶を省く。

 

 隊士の一人が頷く。

 

「伊黒家に出入りしていた商家から、人が消えました」

 

 伊黒家。

 

 その名を告げる瞬間、部屋の空気が少し重くなった。

 

「その商家は、八丈島の外から人と物を運び入れていたようです。表向きは普通の商いですが、随分と手厚く島に支援をしており、伊黒家とはかなり深く関わっているようです」

 

「消えたのは何人だ」

 

「確認できているだけで三人。ただ、島の者たちは口が重く、実際にはもっといる可能性があります」

 

 もう一人の隊士が続ける。

 

「調査に向かった者も戻っていません」

 

 俺は息を呑んだ。

 

「隊士の方ですか」

 

「あ、ああ。先に派遣されて来ていた剣士が二人いたんだ。

 鬼がいるのは間違いないだろうから、調査の為にと出かけて行って、それきり……」

 

 槇寿郎さんの顔が、わずかに険しくなる。

 

「それはいつだ」

 

「五日前です」

 

 五日。

 

 鬼が関わっているのなら、生存は見込めないだろう日数だ。

 

 誰も、それを口にはしなかった。

 

 ただ、部屋の中に沈黙が落ちる。

 

「伊黒家の周辺に、鬼の気配はあります」

 

 隊士は続けた。

 

「ただ、妙なのです。島の者たちは伊黒家を恐れているようにも見えますが、同時に敬っているようにも見える」

 

「敬う?」

 

「はい。島の者たちに伊黒家のことを尋ねると、誰もが口を閉ざします。

 それは鬼がいて、島民たちが恐れているだけなら、まだ分かります。

 けれど、島民たちにとってはそれだけではないようなのです。

 こいつの頭の怪我も、伊黒家を探っていた時に負わされたものです。

 『伊黒への不義理は蛇神様に祟られる』と、島民にそう言われながら殴られたそうで」

 

 槇寿郎さんは黙って聞いている。

 

 俺は、港で見た女たちの色を思い出していた。

 

 そうした場所で生きる人の、特有の色。

 頭の中で静かにそろばんを弾く天色。

 初めての客に抱く、期待と警戒が混ざる杏色。

 自分を売ることへの疲れが滲む深緑色。

 

 けれど、それだけではなかった。

 

 あの色の奥には、何かを隠しているような黒ずんだ赤があった。

 

 鬼だけではない。

 

 この島は、何かを隠している。

 

「伊黒家は、どこにある」

 

「町外れの高台です。島の中で、最も大きな屋敷です」

 

「案内しろ」

 

 槇寿郎さんが立ち上がる。

 

 隊士が一瞬ためらった。

 

「今からですか」

 

「日が落ちる前に、外から見るだけだ」

 

 そう言う声に、迷いはなかった。

 

 俺も立ち上がる。

 

 船を漕いだ疲労が、まだ身体に残っている。

 だが、そんなことを言っていられる空気ではなかった。

 

 宿を出ると、夕暮れの風が吹いていた。

 

 潮の匂い。

 湿った土の匂い。

 どこか甘い、花のような匂い。

 

 島の町は、夕暮れの光の中で妙に美しく見えた。

 

 その美しさが、少し気味悪い。

 

 道を歩く間も、女たちの視線を感じる。

 

 誰も近づいては来ない。

 だが、見ている。

 

 槇寿郎さんの圧を感じ取っているのか、声をかける者はいなかった。

 

 町を抜け、少し高い場所へ向かう。

 

 やがて、伊黒家の屋敷が見えた。

 

 海を見下ろす高台に、立派な塀が続いている。

 

 島の中では、明らかに大きすぎる屋敷だった。

 

 白い塀。

 重そうな門。

 手入れされた庭木。

 

 けれど、そこに煉獄家に感じたような威風は感じなかった。

 

 鬼の発する黒ずんだ色が、僅かに日が残る滅紫の空を、黒く染めているかのように見えた。

 

 俺は息を呑む。

 

 三日前、鬼と友達になりたいなどと言った自分を、少しだけ殴りたくなった。

 

 槇寿郎さんが、日輪刀の柄に手をかける。

 

「今夜は戻るぞ」

 

 屋敷の奥で、蛇のような気配が身じろぎした。

 

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