目を覚ました時、最初に感じたのは、身体の重さだった。
昨日と一昨日と船を漕ぎ続けたことで、腕が重い。
身体を起こして肩を回すと、今までともまた違う部分が痛む。
背中の奥に熱が溜まっている。
腰や腿も、ふくらはぎも、身体のどこもかしこも疲労がたまっている。
全集中の呼吸・常中を身に着けてから、ここまでの疲労を感じるのは初めてのような気がする。
疲労を回復するため、普段よりもさらに意識して呼吸を深くする。
昨日、一昨日と、どれだけ櫂を漕いだのかと思い出そうとして、すぐにやめた。
思い出すと、気持ちが悪くなりそうだったし、今から帰りのことを考えて嫌な気持ちになった。
ゆっくり息を吐いて、立ち上がる。
宿の部屋は薄暗い。
障子の向こうから、島の朝の気配を感じる。
遠くで聞きなれない声の鳥が鳴いている。
遠くに人の声もある。
寝起きだからか、潮の匂いが昨日よりも鮮明に感じられた。
槇寿郎さんの姿は、もう部屋になかった。
起こされなかったのだから問題はないとは思うけれど、心持ち急ぐようにして布団を畳み、身支度を整える。
実際に動くと、身体の軋みがすごい。
そういえば、昨日は疲れすぎていて柔軟をしなかったなと少し後悔する。
「……海は、もうしばらくいいな」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、部屋を出る。
廊下を進むと、宿の奥の一室から低い声が聞こえた。
槇寿郎さんだ。
「……島民に被害を出すことは本意ではない。たとえ伊黒家が鬼と繋がっているとしても、島の者がどこまで知っているか分からん」
「はい」
「ただ、こちらの動きは気取られている以上、黙っていても向こうも動くだろう」
声の調子は、煉獄家で聞くものよりもずっと低い。
障子の向こうでは、すでに先遣隊の二人と話をしているらしい。
俺が戸口で足を止めると、槇寿郎さんがこちらを見た。
「起きたか」
「はい」
「なら、まずは飯を食うか。早めに用意してもらっている」
「……はい」
そう言われて、少しだけ拍子抜けする。
任務の話を先にするべきではないかとも思ったが、身体に残る重さを思えば、槇寿郎さんの判断は正しいのだろう。
鬼と戦う身である以上、身体は万全の状態である方が良いに決まっている。
朝餉は、思っていたよりもしっかりと出た。
島で育てているはずもないだろう白米。
味噌汁とおかずに刺身。
白菜の漬物と、島で取れたらしい菜物。
空腹感は感じていなかったが、匂いを嗅ぐと空腹だったことを思い出したように腹が鳴る。
船の上では、緊張のせいか食べる余裕がほとんどなかった。
身体は、思っていた以上に消耗していたらしい。
槇寿郎さんは、当然のように俺よりも多く食べていた。
飯を終える頃には、ようやく身体の奥に少し熱が戻ってきた。
食後、改めて状況の確認が行われた。
槇寿郎さんは、膝の上に手を置き、先遣隊の話を聞いている。
「伊黒家の屋敷内に鬼がいるので間違いないだろうな」
その言葉に、先遣隊の二人が顔を強張らせる。
「では……」
「だが、昼に正面から乗り込むだけでは足りん」
槇寿郎さんは続けた。
「伊黒家と島の者の繋がりが見えん。鬼がいるなら斬る。それは間違いないが、人間がどこまで関わっているのか分からんまま踏み込めば、余計な被害が出るだろう」
島という場所は狭い。
そのうえ、島独自の規律が根ざしている。
本州の町なら、人を逃がす道もあるだろうし、応援を呼ぶこともできる。
けれど、ここは海に囲まれている。
鬼が出るだけなら、斬ればいい。
だが、島民が伊黒家を庇いたてている今の状況は、そんな単純な話ではない。
伊黒家の人々が、鬼を守るようなことをするのならさらに話は変わるだろう。
一般の人に刃を向けるわけにはいかない。
かと言って、鬼を逃がすわけにもいかない。
思ったよりも、ずっと厄介な任務だ。
「まずは、調べるしかないか」
槇寿郎さんが言う。
「伊黒家の出入り、島民から聞き取り、蛇神様とやらの扱い。分かる範囲で拾おう。その上でどうしても突入するなら、昼になるだろうな」
先遣隊の一人が頷く。
「ただ、普通に聞いて回るのは難しいかと」
「島民の口が堅いのだったな」
「はい。こちらのことはかなり警戒されているようです。すでに私たち二人では、顔を見せるだけで島民が口を閉ざすような状況になっています」
「情報が回っているか」
「おそらく」
槇寿郎さんの眉間に、わずかに皺が寄る。
島民たちに伊黒家のことを聞くのは難しい。
正攻法では、まず口が開かない。
「手分けして情報を集めますか?」
俺が言うと、槇寿郎さんはこちらを見た。
「どのように分ける」
「はい。まず先遣隊のお二人には、伊黒家の周辺の人や物の出入りを見てもらいます。屋敷の造りはお二人の方が分かると思いますし、面が割れているからこそ、見張りをしているという圧力はかかるのではないでしょうか?」
「では、俺とお前は」
「町を回りましょう」
槇寿郎さんの目が細くなる。
「俺たちの情報がまだ回っていないと見てのことなのは分かるが……お前、まさか一人で回る気か?」
「え、あ、はい。そのつもりです」
槇寿郎さんは、どこか胡乱げな表情をした。
「危ないことはしませんよ?」
「……お前の危ないことというのは当てにならんな」
それは、少し心外だった。
煉獄家でそんな疑われるようなことをした記憶はないのだが……。
だが、何か言い返す前に、槇寿郎さんが息を吐く。
「何があるか分からんのだ、俺と一緒に回れ」
そうして始めた調査は、思った以上に難航した。
先遣隊の二人は伊黒家の周辺へ向かった。
俺と槇寿郎さんは、宿から町へ出る。
槇寿郎さんは、島民に普通に話を聞こうとした。
「蛇神様というものの話を聞きたいのだが」
宿の前で掃除をしていた女にそう尋ねると、女の顔から表情が消えた。
「余所の者に話すことなんてないよ」
それだけ言って、女は背を向けた。
次に、荷を運ぶ若い男に声をかける。
「伊黒家について聞きたいのだが」
その瞬間、男の色が硬くなる。
「俺は何も知らねえよ」
色を見なくても分かる。嘘だ。
けれど、それ以上は何も聞けるわけもない。
別の店先でも同じだった。
伊黒家。
蛇神様。
それらの言葉を出すだけで、戸が閉じる。
恐れ。
警戒。
嫌悪。
敵対心。
どうやら、昨夜先遣隊が言っていた通りだった。
島の者たちは、伊黒家のことを知らないのではない。
知っているからこそ、話さない。
正面から聞けば、口は閉じる。
「槇寿郎さん」
「……なんだ」
「俺一人で聞き込みをしても良いでしょうか?」
「どうするつもりだ?」
「聞き込みのやり方を変えようと思います。俺だけなら、子供と思って油断して話を聞けるかもしれません」
槇寿郎さんはすぐには答えなかった。
俺を見る目が鬼殺隊士を見るものと、子どもを見るものの間で揺れているように見えた。
槇寿郎さんは額に手を当ててしばらく悩むと、顔を上げた。
「……人と揉めるな。異常を感じたら逃げろ。何かあれば烏を飛ばせ」
「はい」
「それから」
槇寿郎さんは、一拍置いてから言った。
「踏み込みすぎるな」
「……はい」
その言葉に、少しだけ引っかかる。
昨日、港で女たちに声をかけられた時の、槇寿郎さんの苦い顔が頭をよぎる。
この島には、槇寿郎さんが俺に見せたくないと思っているものがあるのだろう。
けれど、俺も鬼殺隊の剣士なのだ。
俺一人が槇寿郎さんに守られては、ここに来た意味がなくなってしまう。
俺は一度宿に戻ると目立つ荷物を置いて、着替えると一人で港へ向かう。
船から降ろされた荷の整理をしている男たちがいる。
宿の裏では、洗い物をしている女中が二人。
厨に水を運んでいる女中が二人。
少し離れたところでは、魚を干す準備をしている女中がいた。
男たちよりも、女たちの方が話す。
裏長屋での経験で、それは何となく分かっている。
俺は、宿の裏へ向かう。
水桶を運んでいた女中が、こちらを見て少しだけ目を丸くした。
「あら、随分若いお客さんじゃないか。入り口はこっちじゃないよ」
「おはようございます」
出来るだけにこやかに、警戒心を抱かせないように微笑む。
「こんなところでどうしたの」
「少し、手伝えることがあればと思いまして」
女中たちは顔を見合わせた。
警戒の色。
それから、少しの面白がるような黄色。
「店の準備を客に手伝わせる宿なんて、聞いたことないよ」
「実は、父にこの島に連れて来られたのですが、肝心の父は遊びに行くと言ったきり昨日の夜から帰ってこなくて……」
女中たちから「あぁ」と同意とも納得ともとれるような声がもれる。
女中たちの警戒が緩むのを感じながら、話を続ける。
「それで、朝から手持ち無沙汰になってしまったので、何かお手伝いでもさせていただければと歩いていたら、綺麗なお姉さんたちが疲れた顔をしていたので、つい」
「なんだい、随分と口の上手い子だね」
女中の一人が笑った。
笑いながらも、手にした桶は重そうだった。
「持ちます」
「ああ? いいよ」
「大丈夫です」
俺は桶を受け取る。
水は重い。
けれど、鱗滝さんのところの桶と比べれば随分軽い。
止められるのも聞かずに、そのまま井戸から厨房まで水を運ぶ。
勝手口の横に積まれた薪を、置き場に寄せる。
使用済みの食器が積み上がっていたので、洗い物を手伝う。
そうしているうちに、女中たちの警戒心が少しずつ緩んでいった。
旅の途中の、何処かの商家の丁稚のような子。
進んで店の手伝いをする変わった子。
そのくらいの入り方でいい。
人は、質問されるとき少なからず警戒する。
けれど、手を動かしながら話す言葉は、どこかで緩む。
「そういえば昨日、蛇神様という言葉を聞いたんですけど」
俺は、水桶を運びながら、何でもないように言った。
女中たちの手が、一瞬止まる。
あとは、どう話が転がるかを見守る。
「余所の人に話すもんじゃないよ」
年かさの女中が言う。
けれど、若い方の女中の口が動く。
「蛇神様はね、八丈島を守ってくださる神様だよ」
「あんた、およしよ」
「こんな子に話すぐらいいいじゃないか」
若い女中は、少し拗ねるように言った。
「父さまが島の人と話してて……なんだったかな。悪いことをすると蛇神様に祟られるから、島で悪いことするなよ、みたいなことを言われてたので、少し気になっちゃって」
年かさの女中が呆れたようにため息をつく。
「近頃の子はすぐ蛇神様の名前を出すんだから……罰当たりったらないよ」
この人は信心深く、警戒心が強い。
それなら、否定したくなるような言葉を投げる方がいいかと頭の中で算段を付ける。
「蛇神様は、名前を呼んではいけないような悪い神様なんですか?」
「コラッ! 滅多なこというもんじゃないよ!」
大きな声を出したことで、周りの女中たちの視線が集まる。
年かさの女中は怒鳴ってしまった手前でか、ばつが悪そうな顔をして話を続ける。
「蛇神様はね、この八丈島を守ってくれている守り神さ。悪いことをした人には祟りがある。特に島を苦しめる奴には怖い神様だってだけさ」
「祟り、ですか」
「そうそう。だから私達にとってはとってもいい神様ってこと。それと、向こうの丘の上に立派なお屋敷があるでしょ? 伊黒様が蛇神様を祀っておられるんですって」
伊黒。
向こうから、その名が出た。
祟りについても聞きたいが、話が露骨になってはいけない。
ただ、首を傾げる。
「祀っているということは、神社のようなところですか? お参りとかした方が良いのでしょうか」
年かさの女中が、こちらを鋭く見た。
しまった、少し踏み込みすぎたか。
そう思った時、別の女の声が後ろから飛んできた。
「伊黒のとこには近付いちゃダメだよ」
振り向くと、魚を干していた女中がこちらを見ていた。
年は分からない。
若くも見えるが、顔には深い皺があり、目つきは妙に鋭い。
「あいつらは、島に世話になっておいて、貢ぎ物だけをかっ攫ってくような悪党さ」
魚を干していた女中が悪態をつくと、周りの女中たちの雰囲気が変わる。
「やめな」
年かさの女中が低く言う。
空気が、すっと冷えた。
俺はそれ以上、伊黒家のことを聞かなかった。
聞けば、今度こそここで話をできなくなる。
そう思った。
だから、わざと困ったように眉を下げる。
「すみません。変なことを聞きました」
「ほんとだよ。余所の子が島のことに首を突っ込むもんじゃないよ」
年かさの女中は、まだこちらを警戒している。
けれど、完全に突き放したわけではなかった。
若い女中が、少し気まずそうに笑う。
「でも、よく手伝ってくれる子だね。助かったよ」
「いえ。こちらこそ、話し相手になっていただけて嬉しいです」
「お父さんが帰ってきたら、今度は店の方にも来ておくれよ。ちゃんと客としてさ」
「父が帰ってきたら、素敵なお姉さんたちがいるお店だから金子をたくさん持って来るように言ってみます」
にこやかな顔で嘘を口にして、ほんの少しだけ胸の奥がざらつく。
嘘は苦手ではない。
けれど鱗滝さんと過ごした時間のおかげで、こういう嘘をつくと腹の底に残る。
その後もしばらく、俺は何事もなかったように雑談をしながら手伝いを続けた。
そうして邪魔にならないところで、礼を告げて店から手を引いた。
魚を干していた女中は、あれ以降こちらに近づかなかった。
けれど、彼女の色はずっと落ち着かないままだった。
怒りや悲しみを抱えた、くすんだ紫。
かけがえのない誰かを失ったときに見える、桔梗の色。
一軒目でこれほど色の濃い人に当たるとは思わなかった。
最初は何軒か回って口の軽い人を探すつもりだったが、伊黒家に恨みを抱えているのであろう彼女の話は、今の目的により合致しているように思えた。
俺は宿の裏を離れ、人気のない路地へ入った。
頭上の屋根に、鎹烏が一羽とまっている。
「さっきの、魚を干していた人を見ていてくれないか」
小さく声をかける。
烏が首を傾げる。
「一人になったら、知らせてほしい」
「承知」
低く鳴いて、烏は屋根の上を跳ねるように移動した。
俺は町の中を少し歩きながら、待つことにする。
他の店も回るつもりではあったが、一軒目で当たりを引いたのなら、無理に広げる必要はないだろう。
情報は多ければいいというものでもないし、余計に動けばそれだけ目立ってしまう。
しばらくして、烏が短く鳴いた。
魚を干していた女が、一人になったのだ。
俺は足を向ける。
魚を買い付けに行くのか、女は港の方へ歩いていた。
背中は小さい。
俺は少し遠回りをして、荷を抱えて戻ってくる女と、曲がり角で偶然出会うように歩調を合わせる。
「あれ、お姉さん?」
声をかけると、女は驚いたようにこちらを見た。
「ああ、なんだ、さっきの子じゃないか」
「先ほどは、ありがとうございました。ところで、お荷物重そうですね」
「いいよ。これくらい」
「持ちます」
「仕事でやってるんだ、そんなことさせられるかい」
「それを言うなら、さっきも手伝いましたし。俺はお姉さんとお話しできるだけで楽しいので、それをお駄賃の代わりにさせてください」
俺が笑うと、女はしばらく睨むようにこちらを見た。
その色には警戒があるが、それだけではない。
「……変な子だね」
「よく言われます」
「言われるんだ」
女は少しだけ笑った。
その隙に、俺は荷の一つを受け取る。
魚の匂いが強い。
やはり魚の買い付けに出ていたようだった。
しばらく、雑談を交わしながら二人で歩いた。
「さっきの伊黒家の話ですが」
「聞くなと言われただろう」
「言われました」
「なら聞くな」
「でも、気になってしまって。お姉さんが、すごく、悲しそうにされていたので」
女の足が止まる。
意識の色が、ざわりと揺れる。
「……なんだい、それ」
「すみません。そう見えただけです」
「子どもが知ったような口をきくんじゃないよ」
声は厳しかった。
だが、これは俺への怒りではない。
彼女の怒りを乗せた赤い帯が、どこにも向かう先がないように揺れると、次第に自身に絡みついていく。
「知らないから、聞いているんです」
「知らなくていいこともある」
「それでも、俺たちは伊黒家へ行きます」
女の目が変わった。
強い警戒と、何かを探るような視線。
商家の丁稚を見る目ではなくなる。
「あんた、何者だい」
俺は少し迷った。
ここで嘘をつくことも出来る。
けれど、彼女の目を見て、正直に伝える方が良いと判断する。
「人を喰らう鬼を、斬る者です」
女の顔から、血の気が引いた。
女の口が何を言おうか迷うように、何度も形を変える。
「……今さら」
女が、やっと絞り出すように掠れた声で言った。
「今さら来たって、何になるんだい……」
その言葉には、恨みがこもっていた。
ただ、その恨みも、俺に向けられたものではない。
今ここにいる俺へ向かって、こぼれたものだ。
「貢ぎ物とはなんですか? あなたは、伊黒家に何を取られたんですか」
問うと、女は唇を噛んだ。
しばらく、何も言わなかった。
風が吹く。
潮と魚の匂いが混じる。
やがて、女は荷を抱えたまま、低く言った。
「三月前だよ」
その声は、ひどく乾いていた。
「産んだ子を、持って行かれた」
胸の奥が、冷たくなる。
「子供を、伊黒に?」
「伊黒の女たちが来た。蛇神様への貢ぎ物だって。島が守られるためだって。あの子は、最初からそういうものだったんだって」
女の色が、黒く濁る。
怒りよりも深い。
悲しみよりも重い。
自分を責める色が、底の方に沈んでいる。
「抵抗は……」
言いかけて、止まる。
聞くまでもない。
女は笑った。
笑ったのに、色は少しも明るくならなかった。
「できなかった……わが身可愛さに、光栄だなんて言って、じ、自分の子を……」
何も言えなかった。
「この島で生きるには、伊黒に逆らっちゃいけない。蛇神様に背いてはいけない。そう教えられてきた。あたしも、ずっとそう思ってた」
女の手が震える。
「あ、あの子、伊黒に連れていかれるとき、あたしの指を握ったんだ。離さなくて、無理やり離したら、泣きだして、泣いてるあの子を持って行かれて、皆は、それでも蛇神様に選ばれて運が良いなんて言われて……あたし、その時に分からなくなったんだ……」
俺は荷を持つ手に力が入るのを感じた。
赤子を捧げ物として島民から集める伊黒という家。
その伊黒家が祀る蛇神。
俺の中で、言葉が繋がっていく。
「消えた商家の者たちは」
「あいつらは、伊黒にとっても邪魔だったんだ」
女は内心の怒りのまま、吐き捨てるように言った。
「あいつらも、ろくでもない男たちだった。島の女を物みたいに見て、支援を止めるだの、食い物を絞るだの、伊黒は怖くないだのと言って、あちこちで好き放題やってたそうだよ」
「だから、蛇神様が祟る」
「そうさ。そう言われてる」
女は俺を見る。
「島を守るんだよ、蛇神様は。悪い男からも、外から来る乱暴者からも。けど、その代わりに持っていくのさ」
代わり。
ひどく簡単な言葉だった。
何かを守るために、何かを差し出す。
島の者たちは、それを仕組みとして受け入れている。
「……その蛇神様は、我々が鬼と呼ぶモノです」
俺が言うと、女は目を伏せた。
「そうなんだろうね」
「知っていたんですか」
「そんなものは知らないよ」
すぐに返ってきた言葉には嘘はない。
「知りたくなかったんだ」
女はそう言った。
「あの子が行った先が、神様のところだと思っていれば、少しは楽だっただけさ……」
「……すみません」
「謝るのは、あんたじゃない」
女は荷を持ち直した。
「鬼を斬るんだって言ったね」
「はい」
「なら、斬っておくれ」
声は震えていなかった。
その代わり、色がひどく静かだった。
「神様でも鬼でもいいさ。もう、あんなものはいらない」
女の周りに静かに、黒い色が揺れている。
「……お話を聞かせてくれてありがとうございました。……俺が、俺たちが必ずお子さんの仇をとります」
俺は、深く頭を下げた。
そう伝えると魚を干していた女は、小さく口元を歪めると店に向かって歩き出す。
そうして次の言葉を重ねることのないまま店の近くまで荷を運ぶと、女は裏口へ消えていった。
俺は女の背中を見送って槇寿郎さんのところへ戻る道中、自分が言った言葉に胸の奥が重くなる。
俺は、怒るべきだったのだろうか。
赤子を差し出すなど許せないと。
鬼に命を食わせて島を守るなど、あってはならないと。
それは、正しいだろう。
間違いなく正しい考えだと思う。
けれど、俺の中に真っ先に湧いたのは、怒りではなかった。
驚きだった。
鬼と人間が、共に生きている。
いや、実態は決して共に生きているなどという綺麗なものではない。
鬼が島民を利用しているのか。
島民が鬼を利用しているのか。
まだ何も分からないけれど。
だが、確かにここには、鬼と人間が互いを必要としている形があるのだ。
鬼と友達になりたいと言った自分を思い出す。
目の前にあるのは、その願いの腐った形なのかもしれない。
人を家畜の様に扱い、赤子を喰らう鬼。
醜悪な鬼だ。
必ず斬らなければならない。
そこに迷いはなかった。
それでも、俺は思ってしまった。
その鬼と、話してみたい。
何を思って、どうしてこの形になったのか。
この島を守っているつもりなのか。
ただ餌場としているだけなのか。
それとも、その両方なのか。
聞いてみたい。
そう思ってしまう自分が、やはりどこかおかしかった。
日差しは明るい。
潮の匂いがする。
潮風が吹き抜ける。
潮騒の音に混じって、遠くで海鳥の鳴く声がする。
それなのに、足元だけが暗い場所へ沈んでいくようだった。
宿へ戻る頃には、槇寿郎さんたちも戻っていた。
先遣隊の二人は、疲れた顔をしている。
「駄目です。伊黒家の周辺を見張りましたが、出入りは女ばかりのようです。荷も入っていますが、何を運び込んでいるかまでは分かりませんでした」
「俺の方も、報告できるような情報は聞けなかったな」
俺が部屋に入ると、その視線がこちらへ向く。
「宗右衛」
「はい」
「何か聞けたか」
俺は一度、息を吸った。
「一部推察も込みになりますが」
「構わん」
「まず島民の大部分にとって蛇神様は、島を守るものとして扱われています。伊黒家は、その蛇神様に仕える家だとされているそうです」
槇寿郎さんの目が細くなる。
「続けろ」
「消えた商家の方々は、島か伊黒家に対して、かなり無茶な要求をしていたようです。支援を止める、食料を絞る、もっと融通を利かせるように、といった話もあったようです。そういったことを蛇神様は祟るのだとして、島民の人々は商家の失踪が起こって当然のものとしているようです」
先遣隊の二人が顔を見合わせる。
「それは、どこで」
「宿で働いていた方々に聞きました」
槇寿郎さんの顔が、少しだけ険しくなる。
「……器用な真似をする」
何故か褒められたようには聞こえなかった。
俺は続ける。
「それから、そうして守ってもらう代わりに、蛇神様に貢ぎ物をしなくてはならないそうです」
部屋の空気が変わった。
「何を、捧げている」
槇寿郎さんの声が低くなる。
俺は、魚を干していた女の顔を思い出した。
乾いた声。
黒く濁った色。
三月前、産んだ子を持って行かれた、と言った顔。
「赤子です」
その瞬間、先遣隊の一人が息を呑んだ。
もう一人の顔から、血の気が引く。
槇寿郎さんは、しばらく何も言わなかった。
ただ、その周りの色が、ほんのわずかに揺れた。
赤と橙。
いつもの炎のような色。
その奥に、焦げたような黒が滲む。
鬼へ向ける怒りとは、少し違う。
もっと冷たく、重い色だった。
「……ろくでもない」
槇寿郎さんが低く吐き捨てた。
その声には、鬼へ向ける怒りだけではないものが混じっていた。
先遣隊の一人が震える声で言う。
「赤子を、鬼に……?」
「蛇神様への貢ぎ物として、おそらくは定期的に赤子を捧げさせているようです」
「そんなもの、許されるはずが……」
その声には、強い嫌悪があった。
もう一人の隊士も、顔を歪めている。
槇寿郎さんも同じだ。
怒り。
嫌悪。
それから、人間側に向けられた深い失望、だろうか。
俺には、その感情が見えている。
けれど俺の胸には、どうにもそれと同じものがないように思えてしまう。
赤子を差し出すなど、正しいはずがない。
赤子を喰らう鬼を、斬らなければならない。
そこに迷いはない。
それでも俺は、島の仕組みに対して、彼らと同じようには怒れなかった。
島を守るために、赤子の捧げ物をする。
その言葉の意味を、俺はどこかで理解してしまっている。
理解できてしまう自分が、自分でも気持ちが悪い。
鱗滝さんに育てられた俺は、そんな悲しみを生む鬼を許してはならないと叫んでいる。
でも、裏長屋で過ごしていた俺は、島民たちの心に理解を示してしまうのだ。
親から「要らない」と突き付けられた子供たちが、冬の寒さで死ぬことも、食べるものもなく飢えて死ぬことも、誰かの不機嫌で死ぬことも、俺にとっては当たり前のことだったのだから。
鬼が居なくても、人は死ぬ。
そして、今日を生きるために、正しくない事をしなくてはならない苦しみも、分かってしまうから。
「伊黒家と鬼は間違いなく繋がっている」
槇寿郎さんが言った。
「蛇神様とやらは赤子を喰らう鬼だ。伊黒家はそれを祀るか、飼うかは知らんが、利用している。島の者たちも、知らぬ存ぜぬでは済まん」
誰も反論しなかった。
確証はない。
けれど、部屋にいる誰もが、それが外れていないと感じていた。
「今夜は動かん」
槇寿郎さんは続ける。
「夜に鬼の根城へ入る理由はない。明日の昼、伊黒家に入る」
「何処から入りますか?」
先遣隊の一人が問う。
「何処からでも構わん。鬼が斬れればな」
槇寿郎さんの声は短い。
「人が邪魔をするなら、殺さんように退けるが、場合によっては怪我をさせるかもしれん」
そして、俺を見る。
「宗右衛」
「はい」
「俺から離れるな」
「……はい」
「お前は鬼だけを見ていろ」
その言葉に、胸の奥がわずかに沈む。
鬼だけを見る。
それができれば、どれほど楽だろう。
俺には、人の色も見えてしまうのに。
鬼の色も、人の色も。
怯えも、怒りも、嘘も、諦めも、虚しさも。
それでも、頷くしかなかった。
「はい」
返事をしながら、俺は昨日見た伊黒家の屋敷を思い浮かべる。
滅紫の空を黒く染めるように滲んでいた、夜の闇と混じるような鬼の気配。
俺は、明日、その鬼を斬るために門をくぐる。