改めて、男の子を見る。
背丈は低い。
癖のない黒髪は艶があったはずなのに、今は土と埃で汚れている。日の当たらない場所で育ったせいか、肌は妙に白い。年の頃は十くらいにも見えたが、骨や肩の形を見ると、もう少し上なのかもしれなかった。
もしかしたら、杏寿郎君や義勇と同じくらいかもしれない。
そう思った途端、胸の奥で何かが少しだけ強くなる。
男の子の首には、白い蛇が巻きついていた。
歳のわりに細い身体はこわばり、左右で色の違う目が、こちらをじっと見上げている。怯えはまだ消えていない。
けれど、出てきてくれた。
それだけで、今は十分すぎるのだと思う。
俺は膝をつき、男の子と目線の高さを合わせた。
手は膝の上に置く。刀には触れない。
この子は、俺の言葉よりも、俺の手や足を見ている。
少しでも間違えれば、また穴の奥へ戻ってしまうだろう。
「まずは自己紹介をしようか。俺は宗右衛。鱗滝宗右衛」
声が大きくならないように気をつける。
「君の名前を聞いてもいい?」
男の子は答えなかった。
唇がかすかに動いた気がしたが、声にはならない。口元の傷が痛むのかもしれない。
白蛇が、男の子の首元で小さく動いた。
その動きに、男の子の色がわずかに揺れる。
恐怖と戸惑いの中に、細い金色が見えた。
「その子にも、名前はあるのかな」
問いかける先を、少しだけ変えてみる。
男の子は白蛇を見た。
それから、ひどく小さな声で言った。
「……鏑丸」
「鏑丸」
繰り返すと、名前を呼ばれたことが分かったのか、白蛇がこちらを見る。
白い生き物は神の使いだという話を、どこかで聞いたことがある。
今の俺には、本当にそうなのかもしれないと思えるほど、その蛇は賢く見えた。
「いい名前だね。さっきは、鏑丸が俺を君のところまで案内してくれたんだ」
男の子の目が、戸惑うように揺れる。
さっきより、ほんの少しだけ息が浅くなくなった気がした。
「君は?」
俺はもう一度、ゆっくり尋ねる。
「君の名前はなんていうの」
沈黙が落ちる。
地下の湿った空気の中で、壁の燭台の火が小さく揺れていた。
やがて、男の子が言った。
「……伊黒」
声はかすれていた。
「伊黒、小芭内」
「小芭内君」
呼ぶと、肩が小さく震えた。
名前を呼ばれることに慣れていないのかもしれない。
あるいは、その名を呼ぶ人たちが、これまでこの子にとって安全ではなかったのかもしれない。
「教えてくれてありがとう」
そう言うと、小芭内君の口元に、少しだけ力が入った。
俺は横穴を見る。
「ここに隠れていたのは、蛇神から逃げていたから?」
小芭内君の色が沈む。
恐怖が濃くなり、責めるような色の帯が、自分自身へ絡みつく。
「答えにくかったら、答えなくていいからね」
すぐに言い足す。
小芭内君は、首元の鏑丸に指を添えた。
細い指だった。柔らかそうな子どもの指なのに、指先はぼろぼろになっている。
座敷牢の隅を、何かで削った跡を思い出す。
「……逃げた」
小芭内君が言う。
「あれが……来るから」
「あれ?」
「蛇神様」
その名を口にするとき、視線がわずかに揺れた。
「夜になると、天井を這う音が、して」
声は途切れ途切れだった。
「ずっと。毎晩。大きくなるまで待つんだって」
俺は何も言わずに聞いた。
この子が、今、自分の口で話そうとしている。
それを途中で塞ぎたくなかった。
「食べられたく、なかった」
その言葉のあと、小芭内君の色が一気に暗くなる。
「……そっか」
返せたのは、それだけだった。
怖かったね、と言いかけてやめる。
そんな言葉では、とても届かない気がした。
この子が閉じ込められていた時間に触れるには、俺の言葉は軽すぎる。
「教えてくれてありがとう」
代わりにそう言った。
小芭内君は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「小芭内君は、これからどうしたい?」
そう聞くと、分からないという顔をした。
当然だと思った。
この子にとって、これからなど考えられるものではなかったのだろう。
櫛那姉ちゃんから聞いた、鱗滝さんのいつかの言葉を借りてみたけれど、うまく使えなかった。
少しだけ落ち込んでから、息を吐く。
「小芭内君がよければ、俺と一緒に屋敷の外に出よう。鬼はもういないはずだけれど、屋敷の中は危ないから」
小芭内君は動かなかった。
信じきれないのだろう。
その気持ちは、よく分かる。
だから、手は伸ばさず、少しだけ身を引いた。
「歩ける?」
少し迷ってから、小さく頷く。
歩き出そうとして、足元がふらついた。
咄嗟に手を伸ばし、身体を受け止める。
びくりと、腕の中で身体がこわばった。
「吃驚させたね。急に触らないように気を付けるよ」
そう言って、すぐに下ろす。
小芭内君は鏑丸を抱くようにして、ゆっくりと立ち上がった。
どうにも足元が覚束ない。
長く閉じ込められていたせいなのか。
逃げるために、力を使い果たしたせいなのか。
穴の中で足がしびれているだけかもしれない。
それでも、自分で歩こうとしていた。
俺は少しだけ前を歩く。
「こっちだよ」
背後から、足音がついてくる。
羽織の端に、細い指がかかった。
掴んでいる、というほどではない。
いつでも離せるように。
けれど、見失わないように。
ほんの少しだけ、羽織に触れている。
俺は気づかないふりをした。
地下の廊下を戻る。
座敷牢の前を通る時、背後の足が止まった。
ひっくり返った膳。
踏まれた菓子。
削られた牢の隅。
小芭内君はそれらをじっと見ていた。
外から見る座敷牢に、何を思っているのか。
色だけでは、すべて分からない。
濁った色の中に、遠い場所を見るような青が混じっていた。
「行こうか」
声をかけると、小さく頷いた。
階段を上がる。
その先に何があるのか、俺は知っている。
血の匂い。
壊れた廊下。
倒れた人たち。
この子に見せていいものではない。
「小芭内君」
階段の途中で足を止めた。
「この先は、見ない方がいい」
小芭内君がこちらを見る。
「蛇神様が暴れたから、屋敷の中がひどいことになっているんだ」
なるべく声を平らにする。
「だから、見ない方がいい」
返事はなかった。
けれど、その目には、もう何かを悟っているような力があった。
羽織の端を掴む指に、少しだけ力がこもる。
俺はそれ以上、止められなかった。
目を塞ぐことはできる。
抱えて走ることもできる。
けれど、それがこの子のためになるのか、分からなかった。
迷ったまま、歩き出す。
廊下へ出た瞬間、背後で息が詰まる音がした。
床に残る血の筋。
屋敷のあちこちに倒れた人影。
裂けた襖。
折れた柱。
人の手による乱れと、鬼が暴れた跡が混ざり合っている。
小芭内君は、それを見ていた。
見ない方がいいと言ったのに、見てしまっていた。
その色が、大きく震える。
いくつもの色が揺れて、どれも黒く濁っていた。
小さな身体の中で、いろいろな感情が渦を巻いている。
「君のせいじゃないよ」
思わず言った。
返事はない。
聞こえているのかも分からない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「これは、君のせいじゃない」
羽織を掴む指が、さらに強くなる。
廊下の角を曲がったところで、槇寿郎さんの姿を見つけた。
倒れた襖の向こうから出てきたところだった。
背筋はいつもと変わらず伸びている。
けれど、その周りの色は、いつもの炎のような色だけではなかった。
赤と橙に混じって、昨日見た滅紫の空を思わせる暗い色が沈んでいる。
後悔なのか。
嫌悪なのか。
槇寿郎さんの心を曇らせる理由は、俺には分からなかった。
「遅かったな」
槇寿郎さんが、ちらりと小芭内君を見てから言う。
責める声ではない。
けれど、槇寿郎さんは立っているだけで圧がある。
背後の身体がこわばるのを感じた。
俺は半歩だけ身体をずらし、小芭内君の前に立つ。
「地下に座敷牢がありました。そこから逃げた子を見つけました。この子が、蛇鬼の言っていた、例の子だと思います」
「……そうか」
槇寿郎さんの目が、改めて小芭内君へ向く。
小芭内君は俺の後ろに隠れるようにして、顔を伏せた。
「名は」
「伊黒小芭内君です。あまり喋るのが得意ではないようです」
槇寿郎さんは短く頷いた。
「こちらでも生存者をもう一人見つけた。この子と同じくらいの年の娘だ」
「生きている人が、いたんですね……。良かった」
「ああ」
そこで、槇寿郎さんは一度言葉を切った。
「それから……」
続きかけた口が、閉じられる。
わずかに息を吐いた。
「いや、その子の前で話すことではないな」
声に、硬いものが混じっている。
何かを見つけたのだろう。
けれど、今聞くことではない。
「外へ出るぞ。屋敷の中に長くいるべきではない」
「はい」
俺は小芭内君へ振り返る。
「もう少しだけ歩ける?」
小さく頷く。
屋敷の外へ向かう道は、来た時よりも長く感じた。
血の匂いを、海から吹き込む湿った空気がさらっていく。
屋敷の外から差し込む朝の光が、廊下の血を照らしていた。
本来なら心地よいはずの朝の景色なのに、その明るさがかえって嫌だった。
何より、この子が外に出て初めて見る景色がこんなものだということが、どうにも落ち着かなかった。
小芭内君はずっと、俺の羽織を掴んでいる。
鏑丸はその首元で、少しだけきつく巻きついているように見えた。
玄関の近くまで戻ると、先遣隊の二人と、生存者の女たちがいた。
最初に助けた女は、壁にもたれて座っている。
顔色は悪いが、少しずつ呼吸は落ち着いているようだった。
その隣に、槇寿郎さんが話していたもう一人の少女がいる。
年は、小芭内君とそう変わらないだろうか。
髪は乱れ、着物も汚れている。
けれど、大きな怪我はないように見える。
目元が小芭内君によく似ていた。
兄弟だろうかと思う。
その少女が、小芭内君を見た。
その瞬間。
色が変わった。
お互いに生きていたことへの安堵。
再会の喜び。
そんな色が見えるはずだと、当たり前のように思っていた自分を殴りたくなる。
小芭内君が逃げたことで、この惨劇が起きた。
そのことを、この場で俺だけは分かっていたはずなのに。
少女から、赤黒い怒りが弾けるように噴き出した。
疑いようのない敵意が、小芭内君へ向く。
同時に、俺の背後で、この子の色が潰れた。
赤黒く濁った、強い恐怖。
「お前!!」
少女が叫び、こちらへ駆け寄ってくる。
考えるより先に、身体が動いていた。
刀は使うな。
槇寿郎さんの言葉が、頭の隅を掠める。
理性が止めるより先に、拳を握っていた。
少女が小芭内君へ届く前に、俺は懐へ踏み込み、鳩尾へ拳を入れる。
「ぐっ……」
少女の身体が折れた。
息を吐くことも、吸うこともできなくなったように、その場に膝をつく。
両手が砂利を掴む。
次の瞬間、胃の中のものを吐いた。
場の空気が凍った。
「おまっ……お前、いや、あんた様、何をやっていらっしゃるんですか!?」
先遣隊の一人が、悲鳴のような声を上げる。
もう一人の女が、慌てて少女へ駆け寄った。
「ヒロ! 大丈夫かい!」
ヒロ。
それが、この少女の名らしい。
最初に助けた女が、顔を青ざめさせてこちらを見る。
「あ、あんた……なんで……」
その声には、恐怖と戸惑いがあった。
戸惑っているのは、俺も同じだった。
俺は一体、何をした。
小芭内君の前に立ったまま、拳を下ろす。
拳に、感触が残っていた。
人を殴った感触。
鬼ではない。
剣士でもない。
ただの、人間の子どもに。
俺は今、何をした?
胸の奥が、遅れてざわつく。
もっと穏便に止める方法はあったはずだ。
腕を取ることもできた。
間に入るだけでもよかった。
声で止めることだって、できたかもしれない。
なのに、俺は拳を入れた。
俺はなにをやっている。
「宗右衛」
槇寿郎さんの声がした。
低い声だった。
顔を上げると、槇寿郎さんもこちらを見ていた。
その目には、怒りよりも先に戸惑いがある。
なぜそんなことをした。
そう問われている気がした。
「この子は、小芭内君に対して敵意がありました」
自分の声が、思ったより冷静に聞こえた。
「なので、近づけてはいけないと判断しました」
言ってから、その言葉が言い訳のようだと思った。
いや、よう、ではない。
言い訳のしようもないほど、ただの言い訳だった。
先遣隊の二人は言葉を失っている。
背後で、羽織を掴む手に力がこもった。
槇寿郎さんの目の奥が、一瞬だけ揺れる。
うずくまるヒロ。
俺の後ろで震える小芭内君。
槇寿郎さんは二人を見て、ゆっくり息を吐いた。
「……この子を、伊黒家の者と会わせるべきではなかったな」
声が低い。
それから、槇寿郎さんは小芭内君へ頭を下げた。
「すまない。俺の判断がうかつだった」
小芭内君は何も言わない。
けれど、俺たちが守ろうとしていることだけは伝わったのか、肩の力が少し抜けた。
それでも、俺の後ろに隠れたまま、鏑丸を抱くようにしている。
槇寿郎さんの目は、すぐに俺へ戻った。
「だが宗右衛。民間人に手を上げるな」
「……はい、申し訳ありません」
「鬼殺隊は公の組織ではない。俺たちは帯刀しているだけで、世間から見れば十分に怪しいのだ。民間人に手を上げれば、お前が捕まることはもちろん、一人の問題では済まん。隊にも、産屋敷様にも迷惑がかかる」
「はい」
槇寿郎さんが、何かを振り払うように頭を掻いた。
「だが今回はここが島で、今は他に裁く者もいない。事情があるのも理解した。今回の件は俺が預からせてもらう。お前たちもそれでいいか?」
水を向けられた先遣隊の二人は、お互いに顔を見合わせる。
ややあって、頷いた。
槇寿郎さんがわずかに頭を下げる。
それから、こちらに向き直った。
声がさらに低くなる。
「だが、次はないと思え」
「……はい」
俺は頭を下げた。
叱られている。
叱られながら、拳を入れた瞬間の自分を思い返して、胸の奥が冷える。
小芭内君に向けられた敵意を見た時、一瞬、我を忘れた。
もしかしたら、あのとき振るったのは拳ではなかったかもしれない。
それを、自分だけが分かっていた。
裏長屋の寒さが、ふと頭をよぎる。
冬の朝。
冷えた板の間。
誰にも見つけてもらえず、小さく丸まったまま冷たくなっていた子どもたちの姿。
違う。
小芭内君は俺ではない。
生まれも違う。
育った場所も違う。
閉じ込められていた場所も違う。
それなのに、あの横穴の中で震えていた目を思い出すと、胸の奥がざわつく。
俺は一体、握った拳で何を守ろうとしたのだろう。
「宗右衛」
槇寿郎さんの声で、我に返った。
「はい」
「民間人に手を出したのは決して褒められんが、お前がいてくれてよかった。ただ、まあ、なんだ。お前はその子を連れて宿に戻って、謹慎していろ」
「はい……」
頷くことしかできなかった。
背後で、小芭内君がまだ羽織を掴んでいる。
細い指。
震える手。
俺よりも、この子の方がずっと不安なはずだ。
守ることができた。
今は、そのことを忘れてはいけない。
俺は小芭内君を見ながら、拳の力を抜くように、ゆっくりと息を吐いた。
「それじゃあ、行こうか」
声が震えないように、にこやかに声をかけた。