鱗滝の養子   作:松雪草

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38話

 改めて、男の子を見る。

 

 背丈は低い。

 癖のない黒髪は艶があったはずなのに、今は土と埃で汚れている。日の当たらない場所で育ったせいか、肌は妙に白い。年の頃は十くらいにも見えたが、骨や肩の形を見ると、もう少し上なのかもしれなかった。

 

 もしかしたら、杏寿郎君や義勇と同じくらいかもしれない。

 

 そう思った途端、胸の奥で何かが少しだけ強くなる。

 

 男の子の首には、白い蛇が巻きついていた。

 歳のわりに細い身体はこわばり、左右で色の違う目が、こちらをじっと見上げている。怯えはまだ消えていない。

 

 けれど、出てきてくれた。

 

 それだけで、今は十分すぎるのだと思う。

 

 俺は膝をつき、男の子と目線の高さを合わせた。

 手は膝の上に置く。刀には触れない。

 

 この子は、俺の言葉よりも、俺の手や足を見ている。

 少しでも間違えれば、また穴の奥へ戻ってしまうだろう。

 

「まずは自己紹介をしようか。俺は宗右衛。鱗滝宗右衛」

 

 声が大きくならないように気をつける。

 

「君の名前を聞いてもいい?」

 

 男の子は答えなかった。

 

 唇がかすかに動いた気がしたが、声にはならない。口元の傷が痛むのかもしれない。

 

 白蛇が、男の子の首元で小さく動いた。

 

 その動きに、男の子の色がわずかに揺れる。

 恐怖と戸惑いの中に、細い金色が見えた。

 

「その子にも、名前はあるのかな」

 

 問いかける先を、少しだけ変えてみる。

 

 男の子は白蛇を見た。

 

 それから、ひどく小さな声で言った。

 

「……鏑丸」

 

「鏑丸」

 

 繰り返すと、名前を呼ばれたことが分かったのか、白蛇がこちらを見る。

 

 白い生き物は神の使いだという話を、どこかで聞いたことがある。

 今の俺には、本当にそうなのかもしれないと思えるほど、その蛇は賢く見えた。

 

「いい名前だね。さっきは、鏑丸が俺を君のところまで案内してくれたんだ」

 

 男の子の目が、戸惑うように揺れる。

 

 さっきより、ほんの少しだけ息が浅くなくなった気がした。

 

「君は?」

 

 俺はもう一度、ゆっくり尋ねる。

 

「君の名前はなんていうの」

 

 沈黙が落ちる。

 

 地下の湿った空気の中で、壁の燭台の火が小さく揺れていた。

 

 やがて、男の子が言った。

 

「……伊黒」

 

 声はかすれていた。

 

「伊黒、小芭内」

 

「小芭内君」

 

 呼ぶと、肩が小さく震えた。

 

 名前を呼ばれることに慣れていないのかもしれない。

 あるいは、その名を呼ぶ人たちが、これまでこの子にとって安全ではなかったのかもしれない。

 

「教えてくれてありがとう」

 

 そう言うと、小芭内君の口元に、少しだけ力が入った。

 

 俺は横穴を見る。

 

「ここに隠れていたのは、蛇神から逃げていたから?」

 

 小芭内君の色が沈む。

 

 恐怖が濃くなり、責めるような色の帯が、自分自身へ絡みつく。

 

「答えにくかったら、答えなくていいからね」

 

 すぐに言い足す。

 

 小芭内君は、首元の鏑丸に指を添えた。

 細い指だった。柔らかそうな子どもの指なのに、指先はぼろぼろになっている。

 

 座敷牢の隅を、何かで削った跡を思い出す。

 

「……逃げた」

 

 小芭内君が言う。

 

「あれが……来るから」

 

「あれ?」

 

「蛇神様」

 

 その名を口にするとき、視線がわずかに揺れた。

 

「夜になると、天井を這う音が、して」

 

 声は途切れ途切れだった。

 

「ずっと。毎晩。大きくなるまで待つんだって」

 

 俺は何も言わずに聞いた。

 

 この子が、今、自分の口で話そうとしている。

 それを途中で塞ぎたくなかった。

 

「食べられたく、なかった」

 

 その言葉のあと、小芭内君の色が一気に暗くなる。

 

「……そっか」

 

 返せたのは、それだけだった。

 

 怖かったね、と言いかけてやめる。

 そんな言葉では、とても届かない気がした。

 

 この子が閉じ込められていた時間に触れるには、俺の言葉は軽すぎる。

 

「教えてくれてありがとう」

 

 代わりにそう言った。

 

 小芭内君は、ほんの少しだけ目を伏せた。

 

「小芭内君は、これからどうしたい?」

 

 そう聞くと、分からないという顔をした。

 

 当然だと思った。

 

 この子にとって、これからなど考えられるものではなかったのだろう。

 櫛那姉ちゃんから聞いた、鱗滝さんのいつかの言葉を借りてみたけれど、うまく使えなかった。

 

 少しだけ落ち込んでから、息を吐く。

 

「小芭内君がよければ、俺と一緒に屋敷の外に出よう。鬼はもういないはずだけれど、屋敷の中は危ないから」

 

 小芭内君は動かなかった。

 

 信じきれないのだろう。

 その気持ちは、よく分かる。

 

 だから、手は伸ばさず、少しだけ身を引いた。

 

「歩ける?」

 

 少し迷ってから、小さく頷く。

 

 歩き出そうとして、足元がふらついた。

 

 咄嗟に手を伸ばし、身体を受け止める。

 

 びくりと、腕の中で身体がこわばった。

 

「吃驚させたね。急に触らないように気を付けるよ」

 

 そう言って、すぐに下ろす。

 

 小芭内君は鏑丸を抱くようにして、ゆっくりと立ち上がった。

 どうにも足元が覚束ない。

 

 長く閉じ込められていたせいなのか。

 逃げるために、力を使い果たしたせいなのか。

 穴の中で足がしびれているだけかもしれない。

 

 それでも、自分で歩こうとしていた。

 

 俺は少しだけ前を歩く。

 

「こっちだよ」

 

 背後から、足音がついてくる。

 

 羽織の端に、細い指がかかった。

 

 掴んでいる、というほどではない。

 いつでも離せるように。

 けれど、見失わないように。

 

 ほんの少しだけ、羽織に触れている。

 

 俺は気づかないふりをした。

 

 地下の廊下を戻る。

 

 座敷牢の前を通る時、背後の足が止まった。

 

 ひっくり返った膳。

 踏まれた菓子。

 削られた牢の隅。

 

 小芭内君はそれらをじっと見ていた。

 

 外から見る座敷牢に、何を思っているのか。

 色だけでは、すべて分からない。

 

 濁った色の中に、遠い場所を見るような青が混じっていた。

 

「行こうか」

 

 声をかけると、小さく頷いた。

 

 階段を上がる。

 

 その先に何があるのか、俺は知っている。

 

 血の匂い。

 壊れた廊下。

 倒れた人たち。

 

 この子に見せていいものではない。

 

「小芭内君」

 

 階段の途中で足を止めた。

 

「この先は、見ない方がいい」

 

 小芭内君がこちらを見る。

 

「蛇神様が暴れたから、屋敷の中がひどいことになっているんだ」

 

 なるべく声を平らにする。

 

「だから、見ない方がいい」

 

 返事はなかった。

 

 けれど、その目には、もう何かを悟っているような力があった。

 

 羽織の端を掴む指に、少しだけ力がこもる。

 

 俺はそれ以上、止められなかった。

 

 目を塞ぐことはできる。

 抱えて走ることもできる。

 

 けれど、それがこの子のためになるのか、分からなかった。

 

 迷ったまま、歩き出す。

 

 廊下へ出た瞬間、背後で息が詰まる音がした。

 

 床に残る血の筋。

 屋敷のあちこちに倒れた人影。

 裂けた襖。

 折れた柱。

 人の手による乱れと、鬼が暴れた跡が混ざり合っている。

 

 小芭内君は、それを見ていた。

 

 見ない方がいいと言ったのに、見てしまっていた。

 

 その色が、大きく震える。

 いくつもの色が揺れて、どれも黒く濁っていた。

 

 小さな身体の中で、いろいろな感情が渦を巻いている。

 

「君のせいじゃないよ」

 

 思わず言った。

 

 返事はない。

 

 聞こえているのかも分からない。

 

 それでも、言わずにはいられなかった。

 

「これは、君のせいじゃない」

 

 羽織を掴む指が、さらに強くなる。

 

 廊下の角を曲がったところで、槇寿郎さんの姿を見つけた。

 

 倒れた襖の向こうから出てきたところだった。

 背筋はいつもと変わらず伸びている。

 

 けれど、その周りの色は、いつもの炎のような色だけではなかった。

 

 赤と橙に混じって、昨日見た滅紫の空を思わせる暗い色が沈んでいる。

 

 後悔なのか。

 嫌悪なのか。

 

 槇寿郎さんの心を曇らせる理由は、俺には分からなかった。

 

「遅かったな」

 

 槇寿郎さんが、ちらりと小芭内君を見てから言う。

 

 責める声ではない。

 けれど、槇寿郎さんは立っているだけで圧がある。

 

 背後の身体がこわばるのを感じた。

 

 俺は半歩だけ身体をずらし、小芭内君の前に立つ。

 

「地下に座敷牢がありました。そこから逃げた子を見つけました。この子が、蛇鬼の言っていた、例の子だと思います」

 

「……そうか」

 

 槇寿郎さんの目が、改めて小芭内君へ向く。

 

 小芭内君は俺の後ろに隠れるようにして、顔を伏せた。

 

「名は」

 

「伊黒小芭内君です。あまり喋るのが得意ではないようです」

 

 槇寿郎さんは短く頷いた。

 

「こちらでも生存者をもう一人見つけた。この子と同じくらいの年の娘だ」

 

「生きている人が、いたんですね……。良かった」

 

「ああ」

 

 そこで、槇寿郎さんは一度言葉を切った。

 

「それから……」

 

 続きかけた口が、閉じられる。

 

 わずかに息を吐いた。

 

「いや、その子の前で話すことではないな」

 

 声に、硬いものが混じっている。

 

 何かを見つけたのだろう。

 けれど、今聞くことではない。

 

「外へ出るぞ。屋敷の中に長くいるべきではない」

 

「はい」

 

 俺は小芭内君へ振り返る。

 

「もう少しだけ歩ける?」

 

 小さく頷く。

 

 屋敷の外へ向かう道は、来た時よりも長く感じた。

 

 血の匂いを、海から吹き込む湿った空気がさらっていく。

 屋敷の外から差し込む朝の光が、廊下の血を照らしていた。

 

 本来なら心地よいはずの朝の景色なのに、その明るさがかえって嫌だった。

 

 何より、この子が外に出て初めて見る景色がこんなものだということが、どうにも落ち着かなかった。

 

 小芭内君はずっと、俺の羽織を掴んでいる。

 鏑丸はその首元で、少しだけきつく巻きついているように見えた。

 

 玄関の近くまで戻ると、先遣隊の二人と、生存者の女たちがいた。

 

 最初に助けた女は、壁にもたれて座っている。

 顔色は悪いが、少しずつ呼吸は落ち着いているようだった。

 

 その隣に、槇寿郎さんが話していたもう一人の少女がいる。

 

 年は、小芭内君とそう変わらないだろうか。

 

 髪は乱れ、着物も汚れている。

 けれど、大きな怪我はないように見える。

 

 目元が小芭内君によく似ていた。

 

 兄弟だろうかと思う。

 

 その少女が、小芭内君を見た。

 

 その瞬間。

 

 色が変わった。

 

 お互いに生きていたことへの安堵。

 再会の喜び。

 

 そんな色が見えるはずだと、当たり前のように思っていた自分を殴りたくなる。

 

 小芭内君が逃げたことで、この惨劇が起きた。

 そのことを、この場で俺だけは分かっていたはずなのに。

 

 少女から、赤黒い怒りが弾けるように噴き出した。

 

 疑いようのない敵意が、小芭内君へ向く。

 

 同時に、俺の背後で、この子の色が潰れた。

 

 赤黒く濁った、強い恐怖。

 

「お前!!」

 

 少女が叫び、こちらへ駆け寄ってくる。

 

 考えるより先に、身体が動いていた。

 

 刀は使うな。

 

 槇寿郎さんの言葉が、頭の隅を掠める。

 

 理性が止めるより先に、拳を握っていた。

 

 少女が小芭内君へ届く前に、俺は懐へ踏み込み、鳩尾へ拳を入れる。

 

「ぐっ……」

 

 少女の身体が折れた。

 

 息を吐くことも、吸うこともできなくなったように、その場に膝をつく。

 両手が砂利を掴む。

 次の瞬間、胃の中のものを吐いた。

 

 場の空気が凍った。

 

「おまっ……お前、いや、あんた様、何をやっていらっしゃるんですか!?」

 

 先遣隊の一人が、悲鳴のような声を上げる。

 

 もう一人の女が、慌てて少女へ駆け寄った。

 

「ヒロ! 大丈夫かい!」

 

 ヒロ。

 

 それが、この少女の名らしい。

 

 最初に助けた女が、顔を青ざめさせてこちらを見る。

 

「あ、あんた……なんで……」

 

 その声には、恐怖と戸惑いがあった。

 

 戸惑っているのは、俺も同じだった。

 

 俺は一体、何をした。

 

 小芭内君の前に立ったまま、拳を下ろす。

 

 拳に、感触が残っていた。

 

 人を殴った感触。

 

 鬼ではない。

 剣士でもない。

 ただの、人間の子どもに。

 

 俺は今、何をした?

 

 胸の奥が、遅れてざわつく。

 

 もっと穏便に止める方法はあったはずだ。

 

 腕を取ることもできた。

 間に入るだけでもよかった。

 声で止めることだって、できたかもしれない。

 

 なのに、俺は拳を入れた。

 

 俺はなにをやっている。

 

「宗右衛」

 

 槇寿郎さんの声がした。

 

 低い声だった。

 

 顔を上げると、槇寿郎さんもこちらを見ていた。

 

 その目には、怒りよりも先に戸惑いがある。

 

 なぜそんなことをした。

 

 そう問われている気がした。

 

「この子は、小芭内君に対して敵意がありました」

 

 自分の声が、思ったより冷静に聞こえた。

 

「なので、近づけてはいけないと判断しました」

 

 言ってから、その言葉が言い訳のようだと思った。

 

 いや、よう、ではない。

 

 言い訳のしようもないほど、ただの言い訳だった。

 

 先遣隊の二人は言葉を失っている。

 

 背後で、羽織を掴む手に力がこもった。

 

 槇寿郎さんの目の奥が、一瞬だけ揺れる。

 

 うずくまるヒロ。

 俺の後ろで震える小芭内君。

 

 槇寿郎さんは二人を見て、ゆっくり息を吐いた。

 

「……この子を、伊黒家の者と会わせるべきではなかったな」

 

 声が低い。

 

 それから、槇寿郎さんは小芭内君へ頭を下げた。

 

「すまない。俺の判断がうかつだった」

 

 小芭内君は何も言わない。

 

 けれど、俺たちが守ろうとしていることだけは伝わったのか、肩の力が少し抜けた。

 それでも、俺の後ろに隠れたまま、鏑丸を抱くようにしている。

 

 槇寿郎さんの目は、すぐに俺へ戻った。

 

「だが宗右衛。民間人に手を上げるな」

 

「……はい、申し訳ありません」

 

「鬼殺隊は公の組織ではない。俺たちは帯刀しているだけで、世間から見れば十分に怪しいのだ。民間人に手を上げれば、お前が捕まることはもちろん、一人の問題では済まん。隊にも、産屋敷様にも迷惑がかかる」

 

「はい」

 

 槇寿郎さんが、何かを振り払うように頭を掻いた。

 

「だが今回はここが島で、今は他に裁く者もいない。事情があるのも理解した。今回の件は俺が預からせてもらう。お前たちもそれでいいか?」

 

 水を向けられた先遣隊の二人は、お互いに顔を見合わせる。

 

 ややあって、頷いた。

 

 槇寿郎さんがわずかに頭を下げる。

 それから、こちらに向き直った。

 

 声がさらに低くなる。

 

「だが、次はないと思え」

 

「……はい」

 

 俺は頭を下げた。

 

 叱られている。

 

 叱られながら、拳を入れた瞬間の自分を思い返して、胸の奥が冷える。

 

 小芭内君に向けられた敵意を見た時、一瞬、我を忘れた。

 

 もしかしたら、あのとき振るったのは拳ではなかったかもしれない。

 

 それを、自分だけが分かっていた。

 

 裏長屋の寒さが、ふと頭をよぎる。

 

 冬の朝。

 冷えた板の間。

 誰にも見つけてもらえず、小さく丸まったまま冷たくなっていた子どもたちの姿。

 

 違う。

 

 小芭内君は俺ではない。

 

 生まれも違う。

 育った場所も違う。

 閉じ込められていた場所も違う。

 

 それなのに、あの横穴の中で震えていた目を思い出すと、胸の奥がざわつく。

 

 俺は一体、握った拳で何を守ろうとしたのだろう。

 

「宗右衛」

 

 槇寿郎さんの声で、我に返った。

 

「はい」

 

「民間人に手を出したのは決して褒められんが、お前がいてくれてよかった。ただ、まあ、なんだ。お前はその子を連れて宿に戻って、謹慎していろ」

 

「はい……」

 

 頷くことしかできなかった。

 

 背後で、小芭内君がまだ羽織を掴んでいる。

 

 細い指。

 震える手。

 

 俺よりも、この子の方がずっと不安なはずだ。

 

 守ることができた。

 今は、そのことを忘れてはいけない。

 

 俺は小芭内君を見ながら、拳の力を抜くように、ゆっくりと息を吐いた。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 声が震えないように、にこやかに声をかけた。

 

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