鱗滝の養子   作:松雪草

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39話

 宿へ戻るまで、小芭内君はほとんど喋らなかった。

 

 俺の羽織の端を掴んだまま、おぼつかない足取りで少し後ろを歩いている。

 背負うことも提案したけれど、自分で歩くと言うので、歩幅を落として歩いた。

 

 道の端に集まった島の人々が、ちらちらとこちらを見ているのが視界の端に映る。

 

 誰かが何かを囁いていた。

 

『伊黒家が蛇神様に祟られた』

 

 そんな言葉が、風に混じって耳に届く。

 

 俺の羽織を掴む小芭内君の指に、わずかに力がこもった。

 それでも、俺は足を止めなかった。

 

 宿に入ると、女将らしい年配の女がこちらを見て目を見開いた。

 その目は、俺の背後にいる細い子どもと、その首に巻きついた白蛇へ向く。

 

「お客さん、その子は」

 

「少し休ませたいんです。水と手拭いをいただけますか」

 

 女将は何か言いかけたが、俺の着物についた血の跡を見て、すぐに口を閉じた。

 

「……すぐに持ってくるよ」

 

「ありがとうございます」

 

 部屋に戻る。

 

 小芭内君は、入り口で一度立ち止まった。

 

 珍しくもない、八畳の部屋。

 隅には布団が畳まれており、窓にはガラスと障子を組み合わせた雪見障子がある。質素な文机の上には、湯呑みと水差しが置いてあった。

 

 どれも、ごく普通の宿の部屋にあるものだ。

 

 けれど、小芭内君はそれらを初めて見るもののように見回していた。

 あるいは、どう扱えばいいのか分からないもののように、おそるおそるといった様子で見ている。

 

「入って大丈夫だよ」

 

 そう言うと、小さく頷いて、そろそろと畳の上に足を運ぶ。

 

 部屋の奥へは行かず、入口に近い隅へ、鏑丸を抱くようにして小さく座った。

 

 俺は少し離れた文机の隣に座る。

 

「座布団使って」

 

 急に近づきすぎないように気をつけながら座布団を渡すと、小芭内君はそれをじっと見てから、小さく頭を下げた。

 

 やがて女中が水と手拭いを持ってきてくれた。

 

 盆を受け取ると、女中の視線がちらりと小芭内君へ向く。

 その視線に気づいたのか、小芭内君は身を縮めた。

 

「ありがとうございます。あとは大丈夫です」

 

 それ以上見られる前に礼を言うと、女中は軽く頭を下げて出ていった。

 

 障子が閉まる。

 部屋の中に、ようやく静けさが戻った。

 

「水、飲む?」

 

 俺が湯呑みに水を注ぐと、小芭内君は部屋の隅からしばらくそれを見ていた。

 やがて戸惑うように手を伸ばす。

 

 湯呑みを持つ手は細く色白で、女の子のようだった。けれど、傷だらけの指先だけが、あそこで必死に生き延びようとしたことを物語っている。

 

 水を一口含むと、すぐには飲み込まず、確かめるように口の中に留めてから、ゆっくり喉を動かした。

 

「鏑丸も水を飲むかな?」

 

 小芭内君は首元の白蛇を見る。

 

「……飲みます」

 

「じゃあ、小皿に入れるね」

 

 小皿に水を少し入れて置くと、鏑丸はするりと畳の上へ降りた。

 舌を出し、ゆっくりと水に近づく。

 

 それを見て、小芭内君の表情がわずかに緩んだ。

 自分のことを聞かれるより、鏑丸のことを気にされる方が、気が楽なのだろう。

 

「鏑丸とは、いつから一緒なの?」

 

 そう尋ねると、小芭内君は湯呑みを両手で持ったまま、少し考える顔をした。

 

「……分からないです」

 

「そっか」

 

「いつの間にか、いました」

 

「じゃあ、ずっと一緒だったんだ」

 

 小芭内君は、ほんの小さく頷いた。

 

「逃げる時も一緒にいてくれたもんね」

 

「うん。鏑丸が教えてくれたんです。格子を削れば、出られるって」

 

「鏑丸が?」

 

「はい」

 

 にわかには信じがたい話だけれど、小芭内君が心からそう信じているのは、鏑丸を見る目で分かった。

 

 鏑丸は小皿の水を飲み終えると、小芭内君の膝元へ戻ってくる。

 白い身体が、細い足の上で丸まった。

 

「すごく賢いんだね」

 

 そう言うと、小芭内君は初めて、少しだけ目を伏せた。

 照れているのかもしれない。

 

 俺は濡らした手拭いを絞る。

 

「顔、拭いてもいい?」

 

 小芭内君の身体が強ばった。

 

 やっぱり難しいか、と思って手を止める。

 

「自分で拭く?」

 

 手拭いを差し出すと、少し迷ってから受け取った。

 頬についた土を拭う。額の汗を拭う。けれど、口元を拭うときだけ、手が止まった。

 

 包帯の下にある傷を触るのを怖がっているようだった。

 

「口の傷は痛む?」

 

 小芭内君は小さく頷いた。

 

「無理に触らなくていいよ」

 

 そう言うと、手拭いを膝の上に落とした。

 

 外では、人の声がしている。

 遠くから、騒ぎがまだ続いている気配がする。伊黒家の屋敷で何が起きたのか、島の人々も理解し始めているのだろう。

 

 小芭内君は、外の声に怯えるように肩をすくめた。

 

「ここにはもう鬼はいないし、君を傷付けるようなものは近付けさせないから、安心して」

 

 できるだけ静かに言った。

 

 小芭内君は答えなかった。

 代わりに、こちらを見る目の奥が揺れる。

 

 俺の言葉を信じたいけれど、信じきれないのだろう。

 

 無理もない、と思う。

 

 正確な年は分からないが、おそらく十年近く、鬼の生き餌として伊黒家で過ごしてきたのなら、たった一度いなくなったと言われたくらいで、身体が納得するはずもない。

 

 しばらくして、小芭内君の方から口を開いた。

 

「鬼、というのは」

 

「うん」

 

「蛇神様のことですか」

 

 しまった、と心の中だけで思う。

 あの蛇鬼は、まだ彼の中では蛇神様だったのに、気が緩んでつい鬼と呼んでしまった。

 

「……そう。君たちが蛇神様と呼んでいたものを、俺たちは鬼と呼んでいる」

 

「神様じゃ、ないんですか」

 

 俺はすぐには答えられなかった。

 

 嘘はつきたくない。

 けれど、この子が置かれてきた世界を、俺のたった一言で否定していいものなのかも分からなかった。

 

「……少なくとも、俺たちは神様だとは思っていない」

 

「どうして、ですか」

 

「鬼は人を喰うから。人を傷つけるから。だから、俺たちは斬らなければならないものだと思っている」

 

 湯呑みを持つ小芭内君の手に力がこもる。

 

「じゃあ、僕は、鬼に食べられるために、育てられていたんですね」

 

 胸の奥が鈍く痛む。

 

 肯定したくはない。

 けれど、否定してもそれは小芭内君のためにはならない。

 

「そう扱われていたんだと思う」

 

 俺は言った。

 

「でも、それは君がそういうものだという意味じゃない。君は食べられるためのものじゃない」

 

 言葉にすると、それはひどく当たり前のことだった。

 

 だが、この子にとってその言葉は、当たり前ではなかったのだろう。

 小芭内君はすぐには飲み込めないようで、湯呑みの中の水を見つめていた。

 

「宗右衛さんも、鬼を斬る人ですか」

 

「うん、そうだよ」

 

「子どもなのに?」

 

 その言い方があまりにも率直で、少しだけおかしくて息が抜けた。

 

「そうだね。俺もまだ子どもだと思う」

 

「刀を持ってます」

 

「鬼殺隊だからね」

 

「鬼と戦うのに、怖くないんですか」

 

 その問いに、少し考えた。

 

「怖いよ。痛いのも嫌だし、死ぬのも嫌なのに、鬼は強いから」

 

「じゃあ、どうして」

 

 その問いに、いつか槇寿郎さんに問われた言葉が、胸の内側で小さく繰り返される。

 

 なぜ鬼と戦うのか。

 なぜ鬼を斬るのか。

 

 俺はまだ、その答えを持っていない。

 

「……それは、まだ、俺もよく分かんない」

 

 正直に言うと、小芭内君は不思議そうな顔をした。

 

「分からないのに、鬼と戦うんですか……?」

 

「うん」

 

「それって、変じゃないですか……?」

 

「それはね、自分でもそう思う」

 

 小芭内君は困ったような顔をした。

 

 笑ったわけではない。

 けれど、俺を見る瞳に恐れとは違うものが、ほんのわずかに混じる。

 

「でも、少なくとも、君を食べようとした鬼を斬ったことは間違っていないと思ってる」

 

 そう言うと、小芭内君は目を伏せた。

 

「蛇神様がいなくなったら、僕はどうなるんですか」

 

 この子の世界は蛇神を中心に作られていたし、それは、伊黒家を中心に回っていたこの島もそうだ。

 

 だというのに、その肝心要の蛇神は癇癪で伊黒家を滅ぼして、蛇神本人も斬られたとなれば、そのあと自分はどうなるのだろうかというのは、当然の疑問だった。

 

「俺だけでは決められない」

 

 そう言うと、小芭内君の色が少し曇った。

 

「でも、君をあの家に戻すことはないと思う」

 

「戻らなくて、いいんですか」

 

「戻りたい?」

 

 首が、横へ動いた。

 

 そんなことを言って良いのかと迷うように、わずかに。

 けれど、確かに横へ動いた。

 

「なら、戻らなくていいようにする」

 

「宗右衛さんが?」

 

「えっ、いや、俺一人じゃ難しいけど、槇寿郎さんもいるし。鬼殺隊の人たちもいる。なんなら鱗滝さんにも相談もできる」

 

「うろこだき、宗右衛さん? ですよね?」

 

「あ、違う違う、俺の師匠。鱗滝左近次っていう俺を育ててくれた人」

 

「宗右衛さんを、育てた人」

 

「うん」

 

「お父さん、ですか?」

 

「……うん、そうだよ」

 

 小芭内君が不思議そうに首をかしげる。

 

 こんな状況だというのに、自分が鱗滝さんの子供だと言えることが少しだけくすぐったかった。

 

「今はね、鱗滝さんが父親だと思ってる」

 

 小芭内君は、よく分からないという顔をした。

 

「そういえば、小芭内君のご両親は」

 

 言いかけて、止める。

 

 また踏み込みすぎた。

 

 そう思ったのが、たぶん顔に出たのだろう。小芭内君は、こちらを見てから少しだけ首を傾げた。

 

「知らないです。見たことないので」

 

「そっか」

 

「お母さんは、僕を産んだから偉いって言われてたそうですけど。でも、もう居ないって」

 

 本当に何も思っていないのか、声は平らだった。

 

 けれど、それ以上を聞いていいのかは、分からなかった。

 この子の母がどこへ行ったのか。なぜ来なかったのか。伊黒家の中で何があったのか。

 

 知りたいと思うことと、今聞くべきかどうかは別だ。

 

「話してくれてありがとう」

 

 そう言うと、小芭内君は湯呑みを見た。

 

「宗右衛さんは、聞かないんですか」

 

「何を?」

 

「もっと、いろいろ、聞かれるのかと思いました」

 

 俺は少し迷ってから答える。

 

「聞きたいことはあるよ。でも、今すぐ全部聞かなくてもいいと思ってる」

 

「どうして」

 

「小芭内君が疲れているから」

 

「それだけ、ですか」

 

「それだけじゃない。聞かれるのが嫌なこともあるだろうから。

 ……ちょっと考えなしに喋っちゃってるけど」

 

 小芭内君は黙った。

 

 鏑丸が畳の上を少しだけ移動して、小芭内君の膝に頭を乗せる。

 

「……変です」

 

「俺が?」

 

「はい」

 

「よく言われる」

 

 そう言うと、小芭内君は今度こそ、ほんの少しだけ目元を緩めた。

 

 笑った、と言うにはあまりにも小さい。

 けれど、確かにさっきまでよりも柔らかな気配がした。

 

 その表情を見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 

 それから、ふと思い出したように小芭内君が口を開いた。

 

「座敷牢には、いつ頃からいたのか、分からないです。憶えてる限りは、ずっといました」

 

 急に話が戻った。

 

 でも、止めなかった。

 

「外へ出たことは?」

 

 小芭内君は首を横に振る。

 

「蛇神様に、見せる時だけです」

 

「あの座敷へ?」

 

「はい。連れていかれました」

 

 あの地下の豪華な座敷を思い出す。

 

 異国の品と宝飾品が並ぶ、蛇神様をもてなすための部屋。

 窓のない、きらびやかな穴蔵。

 

 神の住まいと呼ばれていた場所が、今は鬼の巣にしか思えなかった。

 

「僕を牢から出すとき女の人たちが笑ってました。かわいいって。大きくなったねって。蛇神様もきっとお喜びになるって」

 

 言葉だけを聞けば、子どもの成長を喜ぶ者たちの声のようだ。

 

 けれど、それを語る小芭内君の表情は少しも和らがない。

 

 それを見て、それはそうだろう、と思う。

 きっと彼女たちの言葉の裏にあるのは、蛇神への供物が順調に育っていることへの喜びだったのだろうから。

 

「それは、怖いね」

 

 小さく頷く。

 

「笑ってても、見ていませんでした」

 

「見てない? 何を?」

 

「……僕を」

 

 その言葉に、胸の奥が静かに暗く沈む。

 

「僕が育たないと、あの人たちは困るから、優しくされていただけでした」

 

 十歳ほどの子どもの言葉としては、あまりに温度がなかった。

 どこか、他人事のようにすら感じられる言葉。

 

 けれど、その裏にはきっとこの子は長い時間をかけて、それを知ったのだろう。

 そう思うと、胸が締め付けられる。

 

 自分がただの鬼の餌だと気づいたのはいつだったのだろう。

 周りの人々の優しさが、家畜を育てているだけの優しさだと気づいた時、何を思ったのだろう。

 あの暗い穴倉の中の、小さな座敷牢だけが自分の居場所だった彼は、どれほどの苦痛の中にいたのだろう。

 

 言葉の端々から伝わる、女たちへの不信感のような、諦めに近いもの。

 

 猫なで声で話しかけてくる女たちの言葉のどれもが、自分に向けられたものではないのだと、そう分かってしまうほどの時間があったのだろう。

 

「食事は、毎日?」

 

「はい。いつも、多かったです。食べたくないって伝えても、意味はありませんでした」

 

 あの部屋に染みついていた、脂の匂いを思い出す。

 

 座敷牢の中に山のように積み上げられていた食事を思い出して、喉の奥にこみ上げてくる嫌なものを飲み込み、静かに息を吐いた。

 

「もしかして、読み書きも教わってた?」

 

「はい、教わってました」

 

「……外のこととかも?」

 

「少し」

 

 小芭内君の目が泳ぐのを見て、「誰に教わったのか」と頭に浮かんでいた疑問を慌てて消す。

 

 話では座敷牢の中だけで暮らしていたはずなのに、言葉遣いは問題なく所作も綺麗なので、つい聞いてしまったが、踏み込みすぎないように気を付けなくてはと改めて自制する。

 

 それを教えてくれた人は、きっと生き残っていないだろうから。

 

 俺も、小芭内君も、しばらく黙った。

 

 鏑丸が膝の上で首を上げる。

 

 俺は、慎重に続ける言葉を選ぶ。

 

「ヒロって呼ばれていた子とは、知り合いだったの?」

 

 小芭内君の肩が、小さく動いた。

 

 色が揺れる。

 

 恐怖にも嫌悪にも見えるけれど、親しみも感じるような、なんとも言えない複雑な色だった。

 

「……そうです。ヒロちゃんは、世話役の人だから」

 

「世話役っていうのは、小芭内君の?」

 

 小さく頷く。

 

「ヒロちゃんと、ヒロちゃんのお母さんと、他に三人の人が、世話役でした」

 

 あの死体の海の中に、彼女の母親の死体がある。

 

 少し考えれば分かる当たり前のことに、ハッとする。

 ヒロから噴き出したあの怒りは、母親の仇へと向けられた怒りだったのではないのかと、今更ながらに気づいた。

 

 もちろん、彼女の母親が死んだのはそもそもが鬼のせいだし、伊黒家が小芭内君を生贄として育てていたことを正当化することはできない。

 だからといって、小芭内君を責めていい理由にはならない。

 

 それでも、あの時思わず握った拳の感触を思い出して、自身に嫌気が差した。

 

 今は自分のことを考える時間ではないと、無理矢理思考を切り替える。

 

「ヒロとは、どうやって知り合ったの?」

 

「いっぱい、話をしました」

 

「どんな話?」

 

「えっと、よく話したのは、お前の世話をするのは面倒くさいって」

 

 思わず言葉が止まった。

 

「早く食べられればいいのにって。お前のせいで、私までここに来ないといけないって。蛇神様のものだからって、偉そうにするなって」

 

「………………そっか」

 

「悪口ばっかりでした。けど」

 

 小芭内君は、そこで初めて言葉を探すように視線を動かした。

 

「僕を見て、しゃべってくれました」

 

「小芭内君を、見て」

 

「はい」

 

 小芭内君は、鏑丸の背を指で撫でる。

 

「大人の人は、僕に言うけど、僕に言ってる感じがしなかったんです」

 

 言葉を選びながら、ぽつぽつと話す。

 

「ヒロは怒りますし、悪口も言います。でも、ヒロだけが僕をみてくれていた、と思います」

 

 ヒロは、優しい子ではなかったのだろう。

 小芭内君を救ってくれたわけでも、助けてくれたわけでもない。

 むしろ、閉じ込められたこの子に、ひどい言葉を何度も投げたのだと思う。

 

 それでも。

 

 あの座敷牢の中で、この子を蛇神様の宝物としてではなく、ただ気に入らない相手として見ていたのは、ヒロだけだったのかもしれない。

 

「俺はさ、ヒロ、ちゃんを殴った」

 

 口にして、舌の奥が少し苦くなる。

 

「小芭内君に近づこうとしてた時に、敵意が見えたから。止めなきゃいけないと思った」

 

 小芭内君が顔を上げた。

 

「でも、もっと違う止め方ができたかもしれない。

 小芭内君に謝ってもしかたないけど、ごめん」

 

 鏑丸の背を撫でる指が止まる。

 

「あの時の宗右衛さん、怖かったです」

 

「……本当に申し訳ございません」

 

「でも、安心も、しました」

 

 責める声ではなかった。

 

 俺は返事に詰まる。

 

 あの瞬間、自分でも自分が怖かった。

 だから、何も言えなかった。

 

「ありがとう」

 

 ようやくそう言うと、小芭内君は少し困ったように目を伏せた。

 

「分からない、ですけど」

 

「うん」

 

「宗右衛さんも怖かったけど、ヒロちゃんも怖かったんです。だから、宗右衛さんが前に立ってくれた時、なんていうか、嬉しかった、です」

 

 そこで言葉が途切れる。

 

 小芭内君の中で、まだ何も整理されていないのだろう。

 

「少しでも、そう思ってくれてるなら、良かった」

 

 自分のしたことは、鬼殺隊として決してやってはいけないことだったけれど。

 

 それでも、助けた人たちのことを忘れない。

 

『宗右衛さんが今日まで守ったものは、なかったことにはなりません』

 

 そう言ってくれた瑠火さんの声が、ふと耳の奥でよみがえった。

 

 小芭内君は、まぶたをゆっくり閉じかけて、また開いた。

 

 緊張が解けてきたのだろう。

 さっきまで張り詰めていた色の帯が、少しずつ輪郭を失っていく。

 

「眠い?」

 

 コクリと小さく頷く。

 

「布団を敷くね」

 

 立ち上がろうとすると、羽織の端が引かれた。

 

 小芭内君が掴んでいた。

 自分でも気づいていないような顔をしている。

 

「ここにいるよ。どこにも行かない」

 

 それでも指は離れない。

 

 仕方なく、手の届く範囲で布団を引き寄せようとした。うまく広げることはできなかったが、畳の上よりはましだろう。

 

「横になる?」

 

 小芭内君は迷っている。

 

 知らない場所で眠ることが怖いのかもしれない。

 

 けれど、やがて限界が来たように、身体が前へ傾いた。

 

 咄嗟に受け止める。

 

 今度は、怯えはなかった。

 

 小芭内君の頭が、俺の膝の上に乗る。

 

「……ここでいいの?」

 

 答えはなかった。

 

 もう半分、眠りに落ちかけている。

 

 鏑丸がするりと動き、俺の足の上で丸くなった。

 

 小さな頭の重さが、膝にある。

 ひどく軽いはずなのに、妙に存在感があった。

 

 呼吸が、少しずつ深くなる。

 

 俺はできるだけ動かないようにする。

 眠っている間だけでも、嫌なことから離れられればいい。

 

 そう思った。

 

 外ではまだ、人の声がしている。

 遠くで戸が開く音。

 廊下を急ぐ足音。

 誰かが低く話す声。

 

 俺は謹慎を言い渡されている。

 

 外へ出て手伝うことはできない。

 

 だから、膝の上で眠る子を起こさないように、自分の手を見た。

 

 痛みはない。

 

 けれど、感触は残っている。

 ヒロを殴った感触。

 

 小芭内君に近づけなかったことは、正しかった。

 

 それは本当だ。

 

 けれど、俺は、あの時、何に怒ったのだろう。

 

 ヒロに迫られる小芭内君に、俺は何を見たのだろう。

 

 何度もそう思う。

 

 生まれも違う。

 育った場所も違う。

 年頃も違う。

 

 それでも、横穴の奥で震えていた目を思い出すと、裏長屋の寒さで震える子たちの目が胸の奥に戻ってくる。

 

 誰にも必要としてもらえなかった子。

 親に助けてもらえなかった子。

 腹を空かせても、熱を出しても、寒さに丸まっても、それが当たり前だとされた、子どもたち。

 

 俺は、あの子たちを見ていた。

 

 いや。

 

 見ていただけだった。

 

 鱗滝さんに拾われた俺は、救われた。

 

 けれど、救われなかった子たちは、そのままだ。

 

 守ろうとしたのは、本当に小芭内君だけだったのだろうか。

 

 俺は、思わず握りかけた手を開く。

 

 ヒロは鬼ではない。

 もちろん、剣士でもない。

 ただの一般人の、ただの子どもだった。

 

 そんな子どもに、俺は、拳を振るった。

 

 小芭内君を守るため。

 

 そうとも、言える。

 

 でも、本当にそれだけだったのか。

 

 膝の上で、小芭内君が小さく身じろぎする。

 

 俺はすぐに息を殺した。

 

 起きてしまうかと思ったが、また静かに寝息を立てる。

 

 鏑丸が、チラリとこちらを見る。

 

 赤い瞳に、俺の顔が小さく映っていた。

 

「……大丈夫だよ」

 

 誰に向けた言葉か分からないまま、小さく呟く。

 

 小芭内君へなのか。

 鏑丸へなのか。

 自分へなのか。

 

 分からない。

 

 ただ、膝の上にある重さだけは確かだった。

 

 俺はその重さを感じながら、もう一度、自分の拳を見た。

 

 守ろうとした手。

 

 傷つけた手。

 

 同じ形をしているその手を、俺はしばらく見つめていた。

 

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