鱗滝の養子   作:松雪草

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4話

 櫛那が来て、何日か経った。

 

 朝は烏の声で起きる。

 昼は山に行く。

 夜は囲炉裏を囲む。

 

 やること自体は、前と大きく変わらない。

 

 水を汲む。

 薪を割る。

 山道を歩く。

 飯を食べる。

 足を揉んで、眠る。

 

 ただ、同じ道をもう一人が歩いているだけで、山の音の聞こえ方が少し違った。

 

 後ろから、草を踏む音がする。

 息を吸い込む音がする。

 石に足を取られて、短く息が詰まる音がする。

 

 それがあるだけで、いつもの道が少し広くなる。

 

 その日も、朝からみっちりだった。

 

 夜明け前に烏が鳴く。

 沢まで一往復する。

 そのまま裏手の斜面を登らされ、転びそうな道を何度も歩かされる。

 

 櫛那は途中で三度、膝から崩れそうになった。

 

 そのたびに、鱗滝さんが淡々と直す。

 

「骨で立て」

 

「顎を引け」

 

「足を置く前に、次の足を探せ」

 

 言葉は短い。

 でも、どれもが逃げを許さない強い響きがある。

 

 俺はその横で、薪を担ぎ、水を運び、ついでに櫛那を引き上げる役だった。

 

 雑用と言えば、雑用だ。

 

 けれど、自分がもうそれなりに知っている側として動けていることが、少しだけ誇らしかった。

 

 前は全部、鱗滝さんに言われる側だった。

 今は、少しだけ先に見て、少しだけ先に動ける。

 

 それだけで、足の疲れ方が違う気がした。

 

 日が傾き始めた頃、ようやく鱗滝さんが言った。

 

「今日の分は終いだ」

 

 櫛那の肩が、目に見えて落ちる。

 

 けれど、鱗滝さんはすぐに続けた。

 

「櫛那、もう一息だ。足を止めるな。家につくまでが稽古だ」

 

「……はい」

 

 返事は掠れていた。

 

 それでも、出ている。

 

 膝も笑っているはずだ。

 足の裏も痛いだろう。

 

 それでも、櫛那は歩く。

 

 山の向こうの空は、夕焼けで赤くなり始めていた。

 けれど頭上にはもう紫が混じっている。

 

 日暮れの手前の、昼でも夜でもない色だった。

 

 帰り道は朝と同じはずなのに、光が違うと別の山のように見える。

 木々の影が長く伸び、斜面の凹凸が増えたように感じる。

 

 俺は先に立って、足場を選びながら下った。

 

 後ろからは、荒い息と、草を踏む音。

 

「……宗右衛さん」

 

 突然名前を呼ばれて、振り返る。

 

 櫛那は、汗で張りついた前髪を片手で押さえながら、少しだけ顔を上げていた。

 

 息は上がっている。

 でも、目ははっきりしていた。

 

「どうした。足、つった?」

 

「いえ……あの」

 

 言い淀んでから、櫛那はぽつりと言った。

 

「宗右衛さんは、どうして……ここにいるんですか」

 

 予想していなかった問いだった。

 

 ここにいる理由。

 

 一言で言うなら、町で桃を盗ろうとして、天狗に捕まったからだ。

 

 でも、それを夕焼けの山道で、そのまま言うのはどうなのだろう。

 

 少し考えた。

 

 結局、ほとんどそのまま言うことにした。

 

「昔、町で悪いことをしてたら、天狗に掴まれて、そのまま山まで連れてこられました」

 

 櫛那は一瞬、目を丸くした。

 

 それから、困ったように眉を下げる。

 

「悪いこと、ですか」

 

「八百屋の桃を、袖に入れようとした」

 

「それは、悪いことです」

 

 きっぱり言われた。

 

 俺は肩をすくめるしかない。

 

「うん。悪いことだった」

 

 今なら、そう言える。

 

 でも、あの時の俺は、腹の音の方が大きかった。

 悪いことだと分かっていても、手を伸ばした。

 

 そのことは、なくならない。

 

 櫛那の周りの色が、少しだけ変わった。

 

 足元には、くたびれた苔のような色がまだ貼りついている。

 けれど、そこに薄い白が混じった。

 

 笑いながら言う「悪いことです」は、本気で怒っているわけではないらしい。

 

「櫛那は?」

 

 俺は、少しだけ間を置いて聞いた。

 

「どうしてここに?」

 

 櫛那の足が、一瞬止まりかける。

 

「止まらないで」

 

 慌てて声をかけると、櫛那は「あっ」と小さく言って、また歩き出した。

 

 けれど、歩幅はさっきより小さい。

 慎重になっている。

 

「……すみません。自分が聞かれると思っていませんでした」

 

「無理に話さなくていいよ」

 

 本当にそう思って言った。

 

 櫛那が来た時の、桔梗の色を思い出す。

 疲れている時に昔の話を思い返すのは、しんどいだろう。

 自分なら、たぶん嫌だ。

 

 けれど櫛那は、小さく首を振った。

 

「宗右衛さんには、話しておきたいです」

 

 その横顔の縁に、赤と青が混ざって、薄い紫が立つ。

 

 町の葬式で見る喪服の袖の周りで揺れていた色に似ていた。

 

「私の家は、山のふもとの村にありました」

 

 櫛那は前を見たまま話し始めた。

 

「父と母と、弟がひとり。弟はまだ、小さかったです」

 

「……うん」

 

 夕焼けの朱。

 空の紫。

 櫛那の周りに揺れる色。

 

 それらが少しずつ重なって、山の空気に溶けていく。

 

「あの晩、戸を叩く音がして。父が、戸口を開けました。

 最初は、ただの人だと思ったんです。声も、姿も」

 

 そこまで言って、櫛那は唇を噛んだ。

 

 指先が、着物の襟元をぎゅっと握る。

 

「でも、すぐに変な匂いがして」

 

 櫛那の声が、少し細くなる。

 

「鉄みたいな、ぬるい匂いで。床を、何かが引きずる音がして……母が、私を押し入れに押し込んで」

 

 話しながら、櫛那の色が変わっていく。

 

 紫の下から沈んだ赤が滲む。

 喉元には、濁った紫が絡みつく。

 

「押し入れの隙間から、少しだけ外が見えて……人の形をした何かが、母と弟を……」

 

 言葉がそこで千切れた。

 

 それが何だったのか、俺にはまだ分からない。

 けれど、それが櫛那の家族を奪ったのだということだけは分かった。

 

 沢の音が遠くなる。

 鳥の声も、葉擦れも、少し離れたところへ行ってしまったように感じた。

 

「声が、聞こえなくなって。頭の中が真っ白になって、そこから先は、ただ泣いていたことしか覚えていません」

 

「……」

 

 何か言わなければいけない気がした。

 

 でも、言葉が出ない。

 

 つらかったな。

 怖かったな。

 

 たぶん、そういうことを言う場面なのだろう。

 

 けれど、口に出した途端、全部薄くなりそうだった。

 

 俺は、ただ歩幅を少しだけ落とした。

 

 櫛那が話しながらでも歩けるように。

 

「どれくらい泣いていたのか分かりません。急に押し入れが開いて、鬼みたいな顔の人がいて……」

 

「鬼みたいな顔?」

 

 思わず聞き返す。

 

 櫛那は、ほんの少し目を丸くした。

 

「はい。額に大きな傷があって、目つきが鋭くて。

 でも、後ろに立っていた人の方が怖かったです。天狗の面を着けてらしたので」

 

「ああ……」

 

 額に傷のある目つきの悪い人は分からないが、赤い天狗面の方は嫌でも分かる。

 

 血の匂いが残る家で、押し入れを開けた先にあの面があったなら。

 それは、怖かっただろう。

 

「その人たちが、外に倒れていた黒い何かを見ていました。

 あれが何だったのかは、その時は分かりませんでした。ただ、父も母も弟も、動かないのだけは分かって」

 

 また、言葉が途切れる。

 

 日が山の端へ近づく。

 影が伸びて、櫛那の影と、俺の影と、木の影が道の上で重なった。

 

「それから、どこかの屋敷に連れて行かれました。畳の上に座らされて、たくさんの人がいて、いろんなことを聞かれました」

 

 櫛那の声は、そこだけ少し平らだった。

 

 疲れすぎると、人は感情の上に布をかぶせる。

 そういう声だった。

 

「その時は、ただ泣いて、震えて、分かりませんとしか言えませんでした。

 でも、一人だけ、面をした男の人が……黙って、私の前に座ってくれて」

 

「……鱗滝さん?」

 

「はい」

 

 その瞬間、櫛那の色がほんの少し和らいだ。

 

 紫の縁が薄くなり、目元のあたりに柔らかい青が差す。

 

「帰るところはあるか、とか、何度か同じようなことを聞かれたあとで、これからどうしたいかとだけ聞かれました」

 

 櫛那は、一つ息を呑んだ。

 

「その時、頭の中がぐちゃぐちゃで……それでも、ひとつだけ、はっきりしていたことがあって」

 

「はっきりしてたこと?」

 

「強くなりたい、って」

 

 その言葉の縁に、紅が混じった。

 

 さっきまでの錆びたような赤とは違う。

 真っ直ぐ前へ伸びていく色だった。

 

「父と母と弟を殺した鬼を、殺せるくらい。もう二度と、目の前でああいうことをされないくらい。そうなりたい、って言いました」

 

「……」

 

「そうしたら、その面の人が、ここへ来いって。それで、気づいたらこの山にいて、ここで強くなれと言われたんです」

 

 そこまで話し終えると、櫛那は小さく頭を下げた。

 

「すみません。長くなりました。歩きながらする話ではないのに」

 

「いや」

 

 俺は、すぐには続けられなかった。

 

 言葉を選んで、結局、これだけ言った。

 

「聞かせてくれて、ありがとな」

 

 それしか言えなかった。

 

 本当は、もっと言うべきことがあるのかもしれない。

 でも、櫛那の話は、俺がすぐに何かを置いていいものではなかった。

 

「強くなりたいって言ってここに来たのに、こんな、全然歩けなくて。情けないですよね」

 

「情けなくはないだろ」

 

 それだけは、すぐに出た。

 

「最初から山を走れる方がおかしいよ」

 

 櫛那は、少しだけ笑った。

 

 夕暮れの光が、その笑いの端だけを照らす。

 

 笑顔の縁に、金がちょんと灯った。

 

 すぐにまた紫の下へ沈んだけれど、それでも見えた。

 

 家が見えてくる頃には、空はほとんど紫だった。

 赤は、山の端に細く残っているだけだった。

 

 

―――

 

 

 その夜。

 

 櫛那は湯から上がるなり、ほとんど転がるように布団へ潜り込んだ。

 

 ひと息つく間もなく、寝息が聞こえ始める。

 

 相当疲れていたのだろう。

 

 囲炉裏の火は、丸く小さくなっていた。

 

 木の爆ぜる音と、外の沢の音だけが、細く流れている。

 

 足の裏には、まだ山の感触が残っていた。

 板の間に胡座をかき、親指の付け根を揉みながら、さっきの話を何度も頭の中で繰り返す。

 

 父と母と弟。

 押し入れの隙間から見えた、人の形をした何か。

 強くなりたいと言った櫛那。

 

 それから、鬼。

 

 櫛那には、奪われたものがある。

 殺した相手がいて、向かう先がある。

 

 では、俺はどうなのだろう。

 

 裏長屋で、俺は何をしていた。

 

 冬を越せなかった子。

 殴られて動けなくなった子。

 腹を空かせて泣いていた子。

 

 俺は、その横にいた。

 見ていた。

 けれど、何もできなかった。

 

 鬼がいたわけじゃない。

 爪も牙もない。

 夜に現れて人を喰ったわけでもない。

 

 それでも、いなくなる子はいた。

 壊れていく人もいた。

 

 何度考えても、答えは一つに寄っていく。

 

 俺は、弱かった。

 

 弱かったから、見ていることしかできなかった。

 

「……鬼って」

 

 自分でも驚くほど小さな声が、喉から漏れた。

 

 櫛那の家族を奪ったもの。

 鱗滝さんが剣を教える理由。

 この山が、ただの山小屋ではない理由。

 

 それを知らないままでいることは、もうできない気がした。

 

 俺は、もう一度口を開いた。

 

「鬼って、本当にいるんですか」

 

 今度は、はっきりと言えた。

 

 火の上に乗っていた空気が、一瞬だけ重くなる。

 

「……誰に聞いた」

 

 低い声が、囲炉裏の向こうから返ってきた。

 

 顔を上げると、鱗滝さんが座っていた。

 

 いつからそこにいたのか分からない。

 面の下の口元だけが、火の赤で浮かんでいる。

 

「櫛那です」

 

 隠しても仕方がないので、そのまま答えた。

 

 鱗滝さんは、短く息を吸い、それからゆっくり吐いた。

 

「そうか」

 

 それだけ言って、しばらく火を見ていた。

 

 灰色だった周りの色に、青が少し混ざる。

 その縁の金と、静かにせめぎ合っているように見えた。

 

「鬼はいる」

 

 鱗滝さんは、改めて答えるように言った。

 

「夜に現れ、人を喰らう。首を斬られても、心臓を刺されても死なん。

 日の光と、日輪刀。それだけが、奴らを殺す」

 

「……日輪刀?」

 

 聞いたことのない言葉だった。

 

「特別な鋼で作った刀だ。鬼の首を落とせば、灰になる」

 

 火床の赤が揺れる。

 

「じゃあ、櫛那の家を襲ったのも」

 

「鬼だ」

 

 その一言には、長い時間が貼りついていた。

 

 櫛那の家のことだけではない。

 もっと前から、ずっと積み重なってきたものを含んだ言葉だった。

 

「鬼を斬るために剣を学ぶ者たちがいる。

 鬼殺隊と呼ぶ。儂は、その者たちに剣を教える役目を負っている」

 

「育手、ってやつですか」

 

「そうだ」

 

 天狗面の奥の視線が、ほんの少しだけこちらへ向いた。

 

「ここは、そのための場所だ。山で足を鍛え、息を鍛え、心を鍛える。それでも、多くは途中で折れる。折れずに進んだ者だけが、試験に向かう」

 

 試験。

 

 その言葉で、いつか聞いた言葉が戻ってきた。

 

 先の子は、戻らなんだ。

 

 戻らなかった。

 どこから。

 何をしに行って。

 

 聞かなくても、もう少し分かってしまった気がした。

 

「……櫛那も、そこへ行くんですか」

 

「望み続けるならばな」

 

 喉の奥が、きゅっと狭くなった。

 

 櫛那が、今日の山道で言った声を思い出す。

 強くなりたい、と言った声。

 歩くのもやっとなのに、それでも前を向こうとしていた顔。

 

 あの子は、行くのだろう。

 

 父と母と弟を奪ったものの方へ。

 鬼の方へ。

 

「俺は」

 

 声が勝手に出た。

 

 鱗滝さんがこちらを見る。

 

「俺は、何も知らないままでいいんですか」

 

 言ってから、自分でも少し驚いた。

 

 責めたいわけではなかった。

 怒っているのとも違う。

 

 ただ、櫛那があんな話をして、あんな顔で山を歩いているのに。

 俺だけが、明日もただ水を汲んで、飯を食って、眠るのだと思うと、胸の奥がざらついた。

 

「お前には……。

 知らずにいてほしかった」

 

 鱗滝さんの声は低かった。

 

「鬼に家を壊されたのは櫛那だ。お前ではない」

 

「……はい」

 

「お前をここへ連れてきたのは、鬼ではない。人だ」

 

 政吉の顔が浮かぶ。

 

 怒鳴り声。

 酒の匂い。

 帳面を睨む目。

 俺を見る時の、あの濁った桔梗の色。

 

 あれは鬼ではない。

 牙も爪もなかった。

 夜に来て人を喰ったわけでもない。

 

 でも。

 

「でも、俺も弱かったんです」

 

 言葉が、ぽろりと落ちた。

 

「裏長屋で、俺はずっと弱かった」

 

 冬を越せなかった子がいた。

 殴られて動けなくなった子がいた。

 泣いているのに、飯を分けられなかった子がいた。

 

 俺は、その横にいた。

 

 見ていた。

 

「何もできなかった」

 

 そこまで言うと、喉が熱くなった。

 

「鬼じゃなくても、いなくなる子はいました。壊れていく人もいました。俺は、それを見てるだけで」

 

 言葉がうまく続かない。

 

 何を言いたいのか、自分でも全部は分からなかった。

 

 ただ、櫛那が一人で鬼の方へ歩いていくのを、何も知らない顔で見送るのは嫌だった。

 

「櫛那が行くなら」

 

 膝の上で、指を握る。

 

「俺も、櫛那の隣を歩けるようになりたいです」

 

 鱗滝さんは、しばらく何も言わなかった。

 

 囲炉裏の中で、炭がぱちりと弾ける。

 その音が消えてから、ようやく鱗滝さんが口を開いた。

 

「それは、鬼と戦う道だ」

 

 静かな声だった。

 

「分かっているか」

 そう問われて、俺もすぐには答えられなかった。

 

「……分かりません」

 

 正直に言う。

 

 それでも櫛那の言葉が、胸の中で回っている。

 

『強くなりたい』

 

 空に溶けてしまいそうな櫛那の紅が、まだ目の奥に残っていた。

 

「でも、戦えないままなのは嫌なんです」

 

 櫛那の話を聞いた。

 鬼のことを知った。

 この家が、ただ子どもを寝かせるための家ではないことも知った。

 

 知ってしまったのに、知らないふりをする方が、もっと怖かった。

 

「鱗滝さん」

 

 声が震えた。

 

「俺にも、教えてください」

 

 ようやく、そこまで言えた。

 

「鬼殺隊になりたいと、今すぐはっきり言えるかは分かりません。でも」

 

 息を吸う。

 

「そこへ行けるくらいには、強くなりたいです」

 

 櫛那が、一人で鬼の方へ歩いていかなくていいくらいには。

 俺も、隣を歩けるくらいには。

 

 言った瞬間、胸の奥で何かが、こつんと音を立てた。

 

 裏長屋を出た夜よりも。

 桃に手を伸ばした朝よりも。

 

 ずっとはっきりした音だった。

 

 鱗滝さんは、しばらく何も言わなかった。

 

 火のはぜる音だけが、大きく聞こえる。

 

 色を見ると、灰と青と赤が混ざっている。

 その外側を、細い金が必死に縫い止めていた。

 

「……軽いことを言ったわけでは、ないな」

 

「軽くはないです」

 

 自分でも驚くほど、すっと声が出た。

 

「怖いですし」

 

 正直に付け足すと、鱗滝さんの口元が、ほんの少しだけ動いた。

 

「怖いと言えるうちは、まだましだ」

 

 低く漏れたその一言に、少しだけ笑いそうになる。

 

「宗右衛」

 

「はい」

 

「今ここで言ったことを、明日も言えるか」

 

「……はい」

 

「一年後もか」

 

「言います」

 

 息を一つ飲み込んでから、はっきり答えた。

 

「足が折れ、指が割れ、血を吐いてもなお言えるか」

 

 想像すると、背筋が冷たくなる。

 

 山で転んだだけでも痛い。

 足の裏が割れただけでも、歩くのが嫌になる。

 

 それ以上のことが、この先にある。

 

 すぐに「言えます」とは出てこなかった。

 

 嘘はつくな。

 

 自分に。

 

 鱗滝さんの言葉が、胸の中で沈む。

 

「……言いたいです」

 

 俺は、ようやくそう言った。

 

「言えるように、なりたいです」

 

 本当のところ、今の自分でそこまで言い切れるとは思えなかった。

 

 でも、そこへ行きたい。

 そのことだけは、ちゃんと口にしたかった。

 

 鱗滝さんは、ゆっくりと俺に手を伸ばした。

 

 肩に触れる寸前で、その手は空中に止まる。

 

「……よかろう」

 

 その言葉は、火の音よりも静かだった。

 

 それなのに、胸の奥にはやけに大きく響いた。

 

「だが、今すぐ剣は握らせん。まずは足と息だ。山を歩き、体を作れ。それからだ。鬼殺隊を目指すのは」

 

「……はい!」

 

 返事が、囲炉裏の火に弾かれるように出た。

 

 梁の上で、烏が一声だけ鳴いた。

 

 それが返事に聞こえて、少し笑いそうになった。

 

「識彩の目も、置き場所を覚えさせろ」

 

 鱗滝さんの声が続く。

 

「そうでなければ、その目はお前自身を削る」

 

「……はい」

 

 足元。

 自分の胸。

 それから、人。

 

 順番を間違えないこと。

 

 その言葉を、胸の中でもう一度なぞる。

 

「今日はもう寝ろ。頭が熱い時に考えても、ろくなことにならん」

 

「はい」

 

 立ち上がると、足の裏に残っていた山のざらつきが、少しだけ軽くなった気がした。

 

 寝所に戻って布団へ入る。

 

 隣から、櫛那の寝息が聞こえる。

 

 規則正しい。

 少し疲れた音だ。

 

 目を閉じても、色は少しだけ残っていた。

 

 櫛那の周りに揺れていた紫と紅。

 鱗滝さんの灰と金。

 

 どれもが、何かに向かって揺れている。

 

 鬼殺隊。

 

 胸の中で、その言葉をそっとなぞる。

 

 怖くないと言ったら、嘘になる。

 

 けれど明日の朝も、きっと烏が鳴く。

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