朝は、やはり烏の声から始まる。
梁の上で二声。
少し間を置いて、一声。
それがいつもの朝の合図だということは、もう体に染みついている。
けれど、その日の胸の中は、少しだけ違った。
櫛那が来る前、この山での暮らしは、不思議な家の手伝いのようなものだった。
沢へ水を汲みに行く。
掃除をする。
薪を割る。
飯を食べる。
風呂を焚く。
生きていくために必要なことを、とにかく一つずつ覚えていく毎日。
櫛那が来てからは、そこに山を歩くための稽古が増えた。
あれは、山歩きを始めたばかりの櫛那には、ずいぶんきつい稽古に見えた。
けれど、自分ならもう少し楽にできるだろうとも思っていた。
昨日までは。
鬼のことを聞いた。
鬼殺隊のことを聞いた。
ここが、ただ拾われた子どもを寝かせるための家ではないことも知った。
そして俺は、鱗滝さんに言った。
櫛那の隣を歩けるようになりたい、と。
布団の中で、指を握る。
その言葉は、朝になっても消えていなかった。
烏が、もう一度鳴いた。
「起きてるよ」
そう返して、俺は布団を畳んだ。
今日からは、自分も歩く側なのだと思った。
―――
朝の沢までは、まだ一緒だった。
「足元、そこ滑るよ」
「はい」
眠気の残る目をこすりながら、櫛那は俺の足跡の上を踏んで降りていく。
冷たい水に手を入れる。
顔を洗う。
桶を満たす。
そこまでは、昨日までと同じ光景だ。
違ったのは、その先だった。
家に戻って桶を下ろすと、鱗滝さんが短く言った。
「ここからは別だ」
「……別?」
「櫛那は裏手。宗右衛は表から出ろ」
櫛那が驚いたように俺を見る。
それから、すぐに姿勢を正した。
「いってらっしゃいませ」
「いや、同じ山なんだけど……行ってきます」
そう返すと、櫛那の口元が少しだけゆるむ。
鱗滝さんは、こちらに顎をしゃくった。
「宗右衛。お前の分の印は、もう打ってある」
「印、ですか」
木に刻まれた傷。
枝に結ばれた布切れ。
石の裏に置かれた小さな目印。
山道を外れないためのものでもあり、鱗滝さんが俺たちに走らせる道の線でもある。
その俺用のものが、増えているらしい。
「印を辿れ。止まるな。足で覚えろ」
それだけ言うと、鱗滝さんは櫛那を連れて裏手へ消えた。
つまり、今日からは櫛那の分とは別に、俺の分がある。
そう思った瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
期待なのか、不安なのか。
確かめる暇もなく、梁の上で烏が鳴いた。
行け、と言われているようだった。
表から山に入る。
すぐに、見覚えのある木の幹が目に入った。
そこに、新しい印が斜めに二本刻まれている。
本当に、俺用だ。
息を吸って、走り出す。
印から印へ。
一つ辿るたび、これが今日の分だと鱗滝さんに告げられているような気がした。
最初のうちは、まだそんなことを考える余裕があった。
山での暮らしで鍛えられた足がある。
櫛那に付き合って歩いた日々も、体に残っている。
これなら、いけるかもしれない。
そう思ったのは、三本目の印までだった。
四本目の印は、斜面を回り込んだ先にあった。
そこから先は、道が道であることをやめていた。
土が崩れかけた場所を横切る。
踏めば足首まで沈みそうなぬかるみを避ける。
身の丈ほどの段差を飛び下りる。
足の骨がきしむ。
今、山のどこを歩いているのか分からない。
けれど印は続いている。
戻ろうかと考える隙もない。
止まるな。
鱗滝さんの声が、頭の奥で繰り返される。
櫛那は、この軽い版から始めていたのか。
そう思った瞬間、心の中で少しだけ謝った。
自分なら楽にやれるはずだと思っていた稽古は、山が初めての者に合わせた、入口のさらに入口だった。
今、自分が辿っているのは、その先だ。
鬼と戦う道だと聞いたあとに歩く、この山の本来の道。
足の感覚が、少しずつ棒に近づいていく。
しばらく走った頃、道に罠が混ざり始めた。
草むらの中に、妙に張りのある一本の草。
土の色がわずかに違う盛り上がり。
倒木の下に、不自然な空洞。
「……これは、絶対ろくでもない」
それを察する目だけはある。
疲れた時こそ足元を疎かにするな。
ここにはいないはずの鱗滝さんの声が、耳の奥で響くようだった。
罠の仕組みを確かめてみたい気持ちはある。
けれど、止まるなと言われている以上、わざわざ罠を踏むのはただの阿呆だ。
気を引き締め直す。
頼れるのは、目と耳。
それから、足。
疲れると視界が狭くなる。
だから、一点だけを見ない。
景色を少し霞ませるように見て、普通の草むらと、何かが混ざった草むらの差を拾う。
形を見る。
影を見る。
目だけでなく、肌で違和感を拾う。
いつかの言葉を思い出す。
足の裏で、土の硬さが変わる瞬間を掴む。
脛のあたりで、草の密度の違いを感じる。
踏み出した足を下ろしきる寸前、わずかな違和感があった。
ぎりぎりで踏み替える。
踏み替えたすぐ横で、地面が沈んだ。
心臓が、どくんと跳ねる。
今の、絶対に落とし穴だった。
避けてから、危なかったと理解する。
それを何度も繰り返した。
頭が熱い。
息が荒い。
足は重い。
それでも、印は続く。
罠の道を抜ける頃には、足の裏がじんじんしていた。
警戒しすぎたせいか、後頭部のあたりまで熱を持っている。
今自分が狭霧山のどのあたりかも分からないが、やっとのことで最後の印を見つける。
そして当然、戻る道は、来た道と同じだけ遠い。
足を止めるな、という言いつけだけを頼りに、印を逆順にたどりながら足を運ぶ。
家の屋根が見えた時、本当に嬉しくなって心の中で小さく息をついた。
ようやく戻れた!
そう思った瞬間、屋根の上で烏が鳴いた。
家の庭先には地面に大の字になっている櫛那がいて、立ったままの鱗滝さんがこちらを見た。
「では、もう一周」
今日は、それで一杯だった。
―――
夕飯は、正直、味を覚えていない。
櫛那が隣に座って、同じように箸を震わせていることだけは分かった。
「大丈夫?」
そう聞くと、櫛那は「はい」と返す。
声は細い。
でも、ちゃんと出ている。
きっと俺よりきつかっただろうに、愚痴ひとつ言わない。
最初のうちは、それが不思議だった。
最近は、たぶんそういう育ち方をしてきたのだろうと思うようになった。
弱音を吐けば飯が抜かれる場所で育った俺とは、別の理由だ。
でも、弱音を吐かないという形だけは、少し似ている。
「……明日には絶対、俺は脚が取れますね」
櫛那が言わない分の愚痴を、代わりに口に出す。
櫛那は噴き出しかけて、慌てて口を押さえた。
「ふふ……」
笑いの縁に、ふっと小さな金が灯る。
櫛那が最近になって、たまに見せる色だ。
鱗滝さんの視線を感じた。
今度は俺の方が気恥ずかしくなって、早々に茶を飲み干した。
―――
次に増えたのは、呼吸の稽古だった。
「全集中の呼吸は、肺だけでやるものではない」
鱗滝さんは、分かるような分からないようなことを言う。
「足の裏から頭のてっぺんまで、全部で息を通せ」
「全部で……?」
「息を吸う時は、背骨一本一本を並べ直すつもりで吸え。吐く時は、骨の中の空気を全部絞り出す。
息が続かなくなった時が、本当の始まりだ」
やはり、分かるような分からないような話だったが、やるしかない。
しかし、言われた通りに息をしているつもりでも、できていないと「違う」と言われる。
そして容赦なく腹を叩かれる。
「っ!!」
「そこではない。腹を固めるな。固めれば息は止まる」
「はい……!」
隣では櫛那も呼吸の稽古をしている。
今日は見取り稽古ということで、鱗滝さんに腹は叩かれていない。
そのことが少しだけ羨ましかった。
腹が痛いのは呼吸の稽古のせいなのか、それとも叩かれすぎたせいなのか分からなくなった頃に、ようやく終わりを告げられた。
午後には、滝へ連れて行かれた。
「水と一つになれ」
鱗滝さんは、またひどく分かりづらいことを言った。
そして平気な顔で流れ落ちる水の下へ行き、胡座を組む。
その真似をしようとして、水に触れた瞬間に後悔した。
当たり前のことだが、桶で運ぶ水は重い。
そう、当たり前のことだが、水は重いのだ。
そして、桶とは比べものにならない量の水が絶え間なく頭の上から落ちてくるという、当たり前の事実を体感することになった。
重い!
痛い!!
めちゃくちゃ冷たい!!!!
冬も近い水は、顔を洗うだけでも躊躇う冷たさだった。
それが肩に、背に、頭に叩きつけられる。
呼吸を十もしないうちに、命の危機を感じて滝から飛び出した。
櫛那も、ほとんど同じ顔をして飛び出してきた。
鱗滝さんだけが、当たり前のように滝の下に座っている。
「骨と呼吸を整えろ」
「と、とと、整える前に、骨が砕けそうなんですけど」
「砕けておらんだろ」
「そ、そそういう問題ですか」
あまりの寒さに歯の根が合わない俺たちを尻目に、鱗滝さんは変わらず滝行を続けていた。
俺と櫛那は、痛さと寒さに追い返されながら、何度も滝に挑んだ。
その間も鱗滝さんは、滝の下でじっと座っていた。
濡れても、冷えても、崩れないもの。
あれを、骨と呼ぶのかもしれないと思った。
―――
そんな日々を過ごしていた、ある日の夕方。
稽古から戻って汗を拭いていると、鱗滝さんが戸棚の奥から二本の木刀を取り出した。
白木の、まだ何の飾りもない刀。
鞘も鍔も簡素だった。
けれど、妙な存在感がある。
「宗右衛、櫛那」
「はい」
「今日から、お前たちに木刀を握らせる」
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
ついに、その言葉が来た。
「……はい」
胸の奥で、何かがしゃんと音を立てる。
やっとここまで来た、という思い。
ここから先は戻れない、という思い。
その二つが、同じ場所でぶつかる。
鱗滝さんは、何の前置きもなく木刀を構えて見せた。
無駄のない立ち姿だった。
足のどこにも偏りのない重心。
腰のわずかな落ち方。
力んでいない肩。
ぶら下がるような肘。
「よく見ろ。よく見て、真似ろ」
それだけ言って、払いの動きを見せる。
なだらかに見える。
けれど振り終わった瞬間、空気が遅れてついてくるような太刀筋だった。
鱗滝さんが、俺に木刀を渡す。
「やってみろ」
頭の中で、その動きを何度も巻き戻す。
腰が先。
地面を流れるように足を運ぶのに合わせて、重心を滑らせる。
息を吐くのは、腰が動き出す少し手前。
肩は後からついてくる。
腕は、その最後。
こうだ。
そう思って構え、一歩踏み出す。
頭でなぞった通りにやったつもりだった。
けれど、体はついてこなかった。
腰の前に肩が出る。
足から力が上ってくる前に、腕が走る。
「腕に力が逃げている。腰からだ」
「……はい」
横では、櫛那が同じ手本を見て、木刀を構えたまま固まっていた。
おそらく頭の中が、分からないものでいっぱいになっている。
鱗滝さんは、言葉を足さない。
だから、俺が足す。
「櫛那、足はもう少し前。爪先じゃなくて、足全体で支える感じ。それで、そこに腰を乗せると、身体が勝手に引っ張られるから、腕はそのあとで……」
自分で動きながら、口で説明する。
なぞった通りにいかないもどかしさを、そのまま言葉へ落とす。
櫛那はじっと聞いてから、木刀を振った。
それから真面目に、もう一度構える。
一振りごとに、余計な力が少しずつ抜けていくのが分かった。
やっぱり、櫛那は覚えが早い。
少し悔しい。
でも、その変化を見るのは素直に嬉しかった。
何より、自分の中でぐちゃぐちゃだった感覚を言葉にすると、俺の体も少しずつそれに追いついてくる。
鱗滝さんは何も言わない。
ただ、面の奥からじっとこちらを見ている。
灰色の縁に、空色が混じっているのが見えた。
それでいい、という色だった。
―――
木刀を握るようになってからの日々は、さらにきつくなった。
木刀を腰に差したまま、罠のある道を走らされる。
「刀を折れば、その日は飯抜きだ」
「鬼より怖いこと言わないでください」
「鬼はお前を褒めてはくれんが、折れた刀は何も言わん。どちらが怖いと思う」
「分かりませんけど、どっちも怖いです」
情けない声が出ると、櫛那が遠くで小さく笑った。
山を走らない日は、まず素振り。
ひたすら素振り。
朝、沢から戻って飯をかき込んだら、日が傾くまで素振り。
鱗滝さんが振って見せてくれた正しい形を、何度も頭の中でなぞる。
肩の角度。
関節の抜き方。
腰の回り方。
見ている時は分かる。
自分でやると、途端にばらばらになる。
「肘が上がりすぎだ。肩が死ぬ」
「腰だけ回すな。足を使え」
「腕で振るな。背中から振れ」
指摘されるたび、そこに意識を寄せる。
頭の中の鱗滝さんの体だけでなく、灰色の意識の動きも追うようにして木刀を振る。
櫛那は、最初のうちは木刀を振るだけで精一杯だった。
腕が細い分、振るたびに体ごと持っていかれそうになっている。
「腕じゃなくて、腰で振るんだって」
俺がそう言うと、櫛那は困ったように笑った。
「分かっているんですけど」
「うん」
「分かっているのに、体がついてこないんです。すみません」
「謝ることじゃないよ。俺もそうだし」
櫛那の周りには、薄い青と緑が混ざった色が揺れている。
集中と疲労の境目。
そのもう少し向こう。
足元には、鉄色の混じった緑が貼りついていた。
その色を見ていると、どこをどう直せばいいのかが、なんとなく分かる。
「肩を、もう少しだけ落とした方がいいかも。ここらへんに力が入りすぎてるから、振り終わった時に腕が突っ張るんだと思う」
「こう、ですか?」
櫛那が言われた通りに肩を落とす。
さっきまで肩口に集まっていた緑が、少しだけ散った。
かわりに、腰のあたりに青が寄る。
「……どうですか?」
「さっきより、いいと思う。鱗滝さん?」
俺が振り返る前から、鱗滝さんはそこにいた。
「悪くない。宗右衛、お前ももう一度振れ」
「はい」
鱗滝さんは、櫛那を直接細かく直すことが少ない。
かわりに俺に見せて、俺に説明させる。
便利に使われている気がしないでもない。
でも、嫌ではなかった。
俺が見て、言葉にしたことが、櫛那の動きにつながる。
その櫛那の動きが、また俺の目に返ってくる。
ぐるぐる回って、二人分の稽古になる。
鱗滝さんは、そういうところだけ妙にうまい。
―――
模擬戦の稽古が始まったのは、それからさらに先のことだ。
「始め」
鱗滝さんの声と同時に、櫛那が踏み込んでくる。
真っ直ぐで、素直な踏み込み。
色で言えば、青と赤が綺麗に重なっている。
そこだ。
識彩で見ると、次に来る攻撃の向きがなんとなく分かる。
肩に集まる色。
腰のひねり。
視線の先。
全部が一本の線にまとまっていく。
櫛那の木刀が振り下ろされる前に、その線の少し外側へ体をずらす。
ぎりぎりで、木刀の腹で櫛那の木刀を受けた。
「っ……!」
櫛那の周りの色が揺れる。
青に緑が混ざり、悔しさの赤が少し滲む。
ごめん。
心の中で謝りながらも、手は止めない。
識彩の線を追って、先回りするように剣を動かす。
二合、三合。
打ち合うたび、櫛那の色の流れが分かってしまう。
分かってしまうから、つい先読みしてしまう。
気づけば、俺の方が押していた。
「そこまで」
鱗滝さんの声が飛ぶ。
「宗右衛」
「はい」
「今、お前は何を見ていた」
「櫛那の……色、というか、その、動きの先を……」
言いながら、喉の奥が熱くなる。
「……すみません」
「謝るな。直せ」
鱗滝さんの声は冷静だった。
「識彩に頼りすぎるなと言ったはずだ。色を見ている間は、音も風も、足元も疎かになる」
図星すぎて、反論の余地がない。
櫛那は肩で息をしながらも、俺を責める気配はまるでなかった。
むしろ、少し照れくさそうに笑っている。
「宗右衛さん、すごいです。何度振っても、全部先にそこに刀があって……」
「いや、あれはずるだから」
「ずる、ですか?」
「そう。ずる」
変な言い方をすると、櫛那はくすりと笑った。
「じゃあ、そのずる、いつか教えてくださいね」
「……考えとく」
そう答えながら、胸の奥に小さな温かさが宿るのを感じた。
―――
そんな日々が続いて、木刀を腰に差していることに違和感がなくなり始めた頃。
「宗右衛、櫛那。木刀を持て」
「はい」
「今日からは、儂が相手をする。お前たちは木刀を持ったまま、儂に向かって来い」
二人で木刀を握って並ぶと、鱗滝さんは手ぶらのまま、少し離れた場所に立った。
どう見ても、武器を取り忘れているようにしか見えない。
「……鱗滝さんは、刀は?」
「要らん」
即答だった。
「えっ、でも鱗滝さん素手じゃ」
言い終わる前に、視界がひっくり返った。
「わっ、うわああっ」
肩口を軽く押されたと思った瞬間には、足が宙に浮いていた。
そのまま背中から地面に叩きつけられる。
肺の中の空気が一気に抜けて、口からぐえっと変な声が出た。
「宗右衛さん!」
櫛那が慌てて駆け寄ってくる。
俺は仰向けになったまま、なんとか木刀を握りしめていた。
その先を、鱗滝さんが掴んでいる。
「今のは、木刀から手を離していれば首が折れていた」
鱗滝さんは、ぞっとするようなことを言いながら続ける。
「刀は命だ。どんな態勢になろうと、絶対に手放すな。それを体に叩き込む」
「……先に言ってください、そういう大事なことは」
情けない声で抗議すると、鼻の奥で笑う気配がした。
「先に言ったら、今の転がり方はできん」
理屈としては分かる。
分かるが、すごく腹が立つ。
なんとか一太刀だけでもいれてやりたい気持ちになったが、そのあとも地獄だった。
正面から踏み込めば、腰をすくわれて投げられる。
斜めから斬りかかれば、腕を取られてひっくり返される。
振り向きざまに振ろうとしても、足を払われて空を泳ぐ。
気づけば、空と地面を交互に見続けていた。
「腕で受け身を取るな。肩と背中で回れ」
「刀を庇うな。刀と一緒に転がれ」
「どの向きで落ちても、すぐ次の一歩が出せるよう構えろ」
投げられるたびに、そんな声が飛んでくる。
痛い。
正直、かなり痛い。
でも、そのたびに体の中のどこかが勝手に覚えていく。
櫛那も同じように、何度も地面に転がされていた。
最初は投げられるたびに声にならない悲鳴を上げていたのに、そのうち、転がりながらも木刀だけはしっかり胸に抱えている。
「櫛那、今のは悪くない。落ちる時に、もう半歩だけ足を送れ」
「は、はい……っ」
櫛那の周りには、緊張の青と、必死さの赤が入り混じっている。
足元にわずかに緑が滲むたび、鱗滝さんの手が容赦なく伸びた。
最後には、俺も櫛那も、小鹿みたいな足取りで山を下りる羽目になった。
「……あの人、絶対ちょっと楽しんでますよね」
「宗右衛さん、そんなことを言える元気が、まだあるんですね……。すごいです」
「褒めてないで、肩貸して……」
櫛那はくすくす笑いながら、ちゃんと肩を貸してくれた。
その笑いの縁に、小さな金が灯っていた。
―――
そうやって、日々の稽古は増えていった。
山道を走りながら息を鍛える。
罠を避けながら目と足を鍛える。
木刀を振り続けながら骨と筋肉を鍛える。
夜には囲炉裏の前で体を揉みながら、その日の失敗と、うまくいった瞬間をひとつずつ思い返す。
識彩の稽古も、いつの間にか日課になっていた。
「一点に置け。次に、部屋全体を見ろ。最後に、人を見ないでいろ」
鱗滝さんの言う、置き場所の稽古だ。
最初は難しかった。
色は勝手に見える。
意識していなくても、感情の動きが視界の端で明滅する。
でも、見ようとしないことは、少しずつ覚えられた。
足元に意識を固定して歩く。
胸の中の自分の呼吸だけを数える。
その上で、見るべき色が揺らぐ瞬間だけを拾う。
例えば、櫛那が痛いとか悔しいとか思っている色は、見るだけで、拾わない。
拾わないかわりに、大丈夫、の一言だけで留めておく。
櫛那が転びそうになった時、鉄色の混じった緑が驚きで一気に赤に寄る。
そういう時だけは、目に体を引っ張らせるように動く。
そんなふうに、見る色と、見ない色を分ける稽古を続けた。
―――
櫛那は、やはり弱音を言わない。
木刀が当たっても、大丈夫ですとしか言わない。
泥にまみれても、すみませんと謝るばかりだ。
そういう時の色は、青の下に少しだけ黒が混ざって、紺鉄に近くなる。
裏長屋の小さい子がひどく叱られて、落ち込んでいる時に似た色だった。
あの頃なら、そういう色をした子は向こうから弱音を吐いてきた。
俺はそれを聞いて、慰めていた。
櫛那には、それがない。
一方で、俺の方は、少しずつ弱音を吐けるようになっていった。
「……今日の罠、本当に性格悪くないですか」
「罠に性格はない。仕掛ける奴にはある」
「それを言ってるんですよ」
囲炉裏を挟んでそんなことを言っても、殴られはしない。
ただ、明日はもっと増やす、と返されて悲鳴を上げる。
隣でそのやりとりを見ていた櫛那が、堪えきれずに笑っていた。
その晩、風呂の準備をしている時、櫛那にそれとなく聞いてみる。
「櫛那はさ、俺とか鱗滝さんに、言いたいこととかないの?」
「えっ?」
櫛那は掃除の手を止めて、きょとんとした顔でこちらを見た。
湯気で少し赤くなった頬に、疲れの青が薄く差している。
「ほら、今日の罠ひどい、とか。滝行寒すぎる、とか。痛いとか、怖いとか。そういうの」
言いながら、自分で少し気恥ずかしくなった。
言っているそれは、全部、自分が日々こぼしている言葉だ。
「宗右衛さんは、よく言っていますよね」
「うん。言ってるね……」
否定できない。
櫛那はふっと目を細めた。
少しだけ、笑う前の色が滲む。
「……羨ましい、って思う時はあります」
「え?」
「そうやって言えるの。鱗滝様にひどいって言えて、ちゃんと笑ってもらえるの。ここを家だと思っている人の話し方だな、って」
胸のどこかを、軽く突かれた気がした。
「櫛那は、違うの?」
「違う、わけではないです」
櫛那は少し考えるように視線を下げ、桶の縁を指でなぞった。
その周りに、青と緑が混ざった色が静かに揺れる。
「宗右衛さんと鱗滝様のこと、家族みたいに思っていないかと言われたら……思っています。
ここに来てから、ずっと一緒にいて、教えてもらって。もし帰る場所って聞かれたら、きっとこの山のことを言います」
「じゃあ……」
「でも」
そこに、細い黒が一本落ちた。
「私は、復讐のためにここに来たので」
淡々とした言い方だった。
でも、言葉の縁には赤が濃く滲む。
「父と母と弟を殺した鬼を斬れるくらい、強くなりたいって、自分で言いました。
あの時、そう言わなかったら、きっと私はどこにも行けなかったから」
押し入れの隙間越しに見た景色が、櫛那の目の奥にまた浮かんでいるのだろう。
色が、あの夜の紫に少しだけ近づく。
「だから……弱音を言ったら、そこに戻れなくなってしまいそうで」
「戻れなく、って?」
「ただの女の子に戻ってしまいそうで。
宗右衛さんと同じように甘えてしまったら、きっと私は、鬼を斬れなくなる」
言いながら、櫛那は小さく笑った。
強がりの入った、でも壊れそうな笑いだった。
「鱗滝様は優しいから。もし私が泣いて、怖いです、もう嫌ですって言ったら、きっとどこまでも許してくださる。それが分かるから、余計に言えません」
返す言葉を一瞬失った。
櫛那の周りには、細い青の輪がある。
その内側に、赤と黒が絡まっている。
どこにも逃げ道のない色だった。
「……俺は」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「俺は、櫛那がここにいてくれるの、ちょっと助かってるよ」
櫛那が、きょとんと顔を上げる。
「え?」
「だって、櫛那がいなかったら、俺、全部一人でやってたから。
山歩くのも、罠にかかるのも、滝に打たれるのも。鱗滝さんに文句言うのも、一人でだったろうし」
想像すると、それだけで腹の奥が重くなる。
「櫛那がいると、自分だけじゃないって思える。誰かと一緒に小鹿みたいになって帰れるのって、だいぶ助かってるんだよ」
照れ隠しに笑いながら言うと、櫛那の目の色が少し揺れた。
青の輪の縁に、ほんの小さく金が灯る。
「……そんなふうに思ってもらえてるなんて、考えたことなかったです」
「思ってるよ。だから、もし本当にしんどくなったら、ちょっとくらい俺に愚痴言ってもいいと思う」
「宗右衛さんに、ですか?」
「うん。俺、聞くの慣れてるから」
裏長屋で、何度も子どもの泣き言を聞いてきた。
何もできなかったけれど、話を聞いて、隣で座っていることだけはしてきた。
「……考えておきます」
櫛那は、少しだけ肩の力を抜いて笑った。
その笑いは、さっきよりも柔らかい。
「でも、今のところは、大丈夫です。宗右衛さんが鱗滝様に文句を言ってくれるので、私の分も言ってくださってる気がしますから」
「それはそれで恥ずかしいんだけど」
思わず顔をしかめると、櫛那がくすくすと笑った。
笑いの縁に、さっきよりはっきりした金が灯る。
「……前にも弟が、そんなふうに言っていました」
ぽつりと、櫛那が続ける。
「姉ちゃんが怒ってくれるから、俺まで怒られなくて済むって。
宗右衛さんを見ていると、時々それを思い出すんです」
胸の奥が、少しだけきゅっとなった。
櫛那の色の中で、赤が少しだけ白に寄る。
懐かしさ。
寂しさ。
ほんの少しの楽しさ。
「だから……その……」
櫛那は、言葉を選ぶように視線を泳がせてから、俺を見た。
「宗右衛さんがここを家みたいに思ってくれてるの、私は嬉しいです。きっと父や母がいたら、同じように笑うんだろうなって、想像できるから」
その言葉の縁に、柔らかい金が広がった。
俺がまだ名前を持たせきれていない色。
でも、確かに大事に思っているという色だった。
「……そっか」
それしか言えなかった。
でも、それで十分な気がした。
櫛那は、そろそろ湯が沸きますね、と言って立ち上がる。
桶を持ち上げる背中は、相変わらず細い。
けれど、あの日山に来た時より、ずっと真っ直ぐだ。
その背中を見送りながら、俺は自分の胸の中をそっと探った。
そこにも、櫛那と似たような色が、ほんの少し灯っている気がした。
自分の色は見えない。
けれど、たぶん、同じものだ。
ここは、やっぱり家だ。
そう思った瞬間、風呂小屋の上で、烏が一声だけ鳴いた。
翌朝もまた、二声。
少し間を置いて、一声。
それに短く返事をして、俺たちは山へ出る。
足元を見る。
胸の中の息を数える。
それから少しだけ、隣を歩く誰かのことを思いながら。