朝は、やはり烏の声から始まる。
梁の上で二声。
少し間を置いて、一声。
それがいつもの朝の合図だということは、もう体に染みついている。
山道を走る。
罠を避ける。
木刀を振る。
滝に打たれる。
息を吸って、吐いて、また吸う。
そういう日々にも、少しずつ体が慣れてきた頃だった。
その朝の鱗滝さんは、いつもより口数が少なかった。
沢から戻り、桶を下ろす。
いつもならそこから、櫛那は裏手へ、俺は表の山道へ向かう。
けれどその日は、鱗滝さんが俺たちを囲炉裏の前に座らせた。
「……宗右衛、櫛那」
呼ばれ方が、いつもと少し違った。
声が低い。
重いというより、余計なものを全部落とした声だった。
「はい」
二人で姿勢を正す。
鱗滝さんは襖の向こうへ入り、油紙に包まれた長い包みを二つ持ってきた。
板の間へ置かれる。
見なくても、形で分かった。
刀だ。
今まで腰に差していた木刀ではない。
もっと鋭いもの。
もっと、戻れなくなるもの。
油紙がほどかれる。
白い鞘と柄が現れた。
目を凝らすまでもない。
これは、触ってはいけない方の刀だ。
「今日から、お前たちに真剣を持たせる」
一瞬、喉が鳴った。
隣で櫛那も、小さく息を呑む気配がした。
「これは、鬼を斬るための刀ではない」
鱗滝さんは言う。
「鬼を斬る前に、お前たちの体を作るための刀だ。だが、当たれば肉も骨も斬れる。肝に銘じろ」
「……はい」
受け取った柄は、木刀より少しだけ重かった。
そして、冷たかった。
鞘越しでも、刀身の線が指に伝わる気がする。
手のひらの中に、冬の川を一本持たされているようだった。
「そして」
鱗滝さんは、家の外を顎で示した。
「見せるものがある。来い」
山道を、いつもとは少し違う方へ折れていく。
朝の光はまだ柔らかい。
木の葉の隙間から落ちる陽は細く、足元の苔に淡く散っていた。
ほどなくして、それが見えた。
岩だった。
大きい。
寝た人を三、四人重ねても届かないくらいの高さがある。
幅も、俺の肩幅の何倍もあった。
軽く拳を当てただけで、骨まで響きそうな固さが、見ただけで分かる。
「あの……鱗滝さん。これは」
「この岩を、斬れ」
鱗滝さんは、本当に冗談を言わない人だ。
だから困る。
「……これ、斬れるんですか」
ぽろっと本音が出た。
鱗滝さんは、短く答えた。
「斬れる」
その言い方には、迷いがない。
「斬れねばならぬ。お前たちが鬼に喰われずに済むかどうかは、ここにかかっている」
櫛那が隣で唾を飲んだ。
その周りには、青と赤と緑が混ざった色がぐるぐる巻きついている。
決意。
不安。
恐怖。
全部が一緒になって、朝の霧みたいに揺れていた。
「……分かりました」
俺も、刀の柄を握り直す。
怖い。
怖いけれど、鱗滝さんが斬れと言う以上、斬れるはずなのだ。
ここまでの稽古も、最初は無理だと思うことばかりだった。
罠の山も。
滝行も。
木刀を持ったまま投げられることも。
なら、この岩だって。
いつかは。
そう自分に言い聞かせる。
「お願いします」
頭を下げると、鱗滝さんは面の向こうで一つ頷いた。
「今日からの稽古は、これまでと同じだけやる。そのうえで、真剣での素振り。巻藁斬り。稽古の合間に、この岩へ斬りかかれ」
「はい」
「刃こぼれしたら、お前たちの腕と相談する」
「腕と……?」
「折れた刀は戻らん。骨は繋がる。覚えておけ」
笑い話ではない声だった。
寒くもないのに、背中を一筋、汗が流れた。
櫛那も、ぎゅっと刀の柄を握っていた。
―――
真剣を持つようになってからの暮らしは、また一段ときつくなった。
朝はこれまで通り、烏で起きる。
水を汲む。
掃除をする。
薪を割る。
そこからが違う。
木刀ではなく、真剣での素振りが加わった。
「鞘から抜いて十度振る。そして納める。これを十」
鱗滝さんは言う。
「まずは、それだけだ。刃の重さを手に覚えさせろ」
言われた通りに、ゆっくりと鞘から抜く。
振りかぶる。
振り下ろす。
納める。
ただそれだけなのに、木刀とはまるで違った。
空気が切れる音が高い。
冷たい。
振り終えた先に、人がいなくて本当に良かったと何度も思った。
俺も櫛那も、最初は刀の重さに少し振り回されていた。
櫛那の細い腕には、真剣は重すぎるのだろう。
櫛那より小さい俺の体でも、それは同じことだった。
刃がわずかにぶれる。
そのたびに、鱗滝さんの声が飛ぶ。
「腕を振るな。腰からだ」
「はい!」
櫛那の返事はいつも真面目だった。
声の周りには、青と赤と緑が絡まっている。
集中と、焦りと、疲労。
それでも櫛那は、泣き言ひとつ言わない。
黙々と振る。
百。
二百。
三百。
俺も負けじと振る。
山歩きで培った体力の分、最初のうちは俺の方がまだ余裕があった。
少なくとも、そう思いたかった。
「藁の束だ。斬れ」
数日後には、巻藁が出てきた。
太い藁束をしっかりと結わえたものが、庭の真ん中に立てられている。
「斬ったあと、刃筋を見ろ」
鱗滝さんが言う。
「藁が粘るなら、振りが足りん。藁が逃げるなら、刃の向きと振りとが合っておらん。どちらも、鬼には届かん」
「はい」
振りかぶって、斬る。
手応えは、思ったより柔らかかった。
けれど刃は途中でわずかに止まる。
藁の繊維が、ぐしゃりと潰れた。
「……あ」
「止まるな」
鱗滝さんの声が落ちる。
「今のは、鬼の骨に跳ね返されている」
鬼の骨。
それを思い浮かべた瞬間、喉の奥が少し詰まった。
「腰を止めるな。ずっと中へ押し込め。意識は、その先に置け」
藁の真ん中。
その先。
鬼の骨の中。
そのつもりで斬っているはずなのに、刃への怖さが先に立つ。
刃の方に意識が寄ると、腰が止まる。
無理やり振り抜こうとすると、呼吸が乱れる。
その日の夜、藁と同じように、俺の心もぐしゃぐしゃになっていた。
―――
岩は、ずっとそこにあった。
稽古の合間に、何度も挑んだ。
一歩踏み込む。
息を吸う。
己の全部を乗せるつもりで振り下ろす。
「せいっ!」
刃は、岩の表面で止まった。
ほんの少し、白い傷がついただけ。
刀が折れなかっただけましと言うべきかもしれない。
「……駄目ですね」
「当たり前だ。今のお前の中は浅い」
「中、ですか」
「岩を斬ろうとするな。まずは呼吸でお前を満たせ。骨の一本一本の中まで、息を通せ。岩はそのあとだ」
言われている意味は、分かる。
頭では。
けれど体は別だ。
体は、岩を前にした瞬間に無理だと叫ぶ。
岩が斬れた先の自分を、うまく思い描けない。
それでも自分を奮い立たせて、刀を振る。
呼吸も、体も、お粗末だった。
振る前から、弾き返される準備をしている。
横では櫛那も、岩に斬りかかっては同じように弾かれていた。
櫛那ですら、白い傷を増やすのが精一杯だった。
「……本当に、斬れるんでしょうか、これ」
櫛那が珍しく小さな声で言った。
その周りには、濃い青に、ほんの少し緑が混じっている。
疲れと、戸惑いと、それでも諦めたくない意地。
「鱗滝さんが斬れって言うんだから、斬れるんだよ」
俺は言う。
「……たぶん」
言っておいて、たぶんがどうしても消せなかった。
櫛那は、そんな俺を見て、ふっと笑った。
「じゃあ、斬れるんですね」
「そう。斬れる」
笑われたなら、強がるしかない。
そうしているうちに、本当に少しだけ、胸の中の色が変わった気がした。
―――
それからの稽古には、水の呼吸の型が本格的に加わった。
「一の型。水面斬り」
鱗滝さんが、真剣で見せる。
踏み込み。
腰の切り替え。
肩の抜け方。
何度見ても、動きの途中に無駄がない。
刃が走るたび、空気が遅れてついてくるように感じる。
「二の型」
一つ一つ教えられるたび、体でなぞろうとする。
けれど、型は型で難しい。
呼吸は呼吸で難しい。
両方を一度にやろうとすると、頭が追いつかなくなる。
息を吸う頃合い。
吐く頃合い。
踏み込む足。
腰の動き。
刃の向き。
どれか一つに気を取られると、どれか一つが抜ける。
「宗右衛。今、息はどうしていた」
「……止まってました」
「型を先にするな。呼吸が先だ」
鱗滝さんが、短く言う。
「息で体を動かせ。息が骨を押し、骨が筋を動かす。腕は、そのあとだ」
「はい……」
口では分かる。
体は、ついてこない。
頭の中では、呼吸と型の順番を必死に並べている。
吸って。
踏み込んで。
腰を回して。
斬って。
吐いて。
そうやって並べているうちに、どれかが抜ける。
隣で櫛那は、最初こそ同じように戸惑っていた。
けれど日が経つごとに、太刀筋が変わっていく。
振り下ろすたび、刃の端まで呼吸が通っているのが分かる。
櫛那の周りを流れる色も、青が太くなり、そこに紅が細く走るようになった。
集中と決意。
それが、一本の線になっていく。
「櫛那、今の……」
「はい?」
「今の斬り方、なんか違ったよね。前と」
自分でも、うまく言葉にできない。
でも、確かに変わった。
刃はまだ岩の前で跳ね返されている。
それでも、今までとは何かが違う。
櫛那は柄を握りしめたまま、少し考えるように首を傾げた。
「……呼吸を、少し変えてみたんです」
「呼吸?」
「はい。最初は、全部一緒に考えていました。どの足で踏み込んで、どこで吸って、いつ吐いて、って」
「うん。俺もそんな感じ」
「でも、人は二つのことを同時にはできないって、誰かに聞いたことがあって」
「二つのこと?」
「はい。だったら、型か呼吸か、どちらかは考えなくてもできるようにするしかないなって」
櫛那は、自分の胸に手を当てた。
「私、型を忘れるのが怖かったので。まず、型の方を体が勝手にしてくれるようにしようと思ったんです」
言っていることは、すぐには全部分からなかった。
でも、櫛那の色は静かだった。
嘘や誤魔化しではなく、自分の中で掴みかけているものを探している色だった。
「歩く時とか、ご飯を食べる時とか、木刀を振る前とか。あまり頭を使わない時に、型の動きだけを一生懸命考えてみたんです。息を吸って、骨を並べて、吐いて、って」
「ああ」
思い当たる節があった。
俺は逆をやっていたのだ。
型も呼吸も、全部いっぺんにやろうとしていた。
頭の中を呼吸と型でいっぱいにして、その全部を順番通りに並べようとしていた。
「それで、さっき岩を斬ろうとした時に」
櫛那は、岩を見る。
「型の方は、もう体が勝手にやってくれているって、少しだけ思えた瞬間があって。その時に、じゃあ息だけ考えようって、やっとできた気がしたんです」
櫛那は、自分でもよく分からないというように笑った。
「だから、その……あまりうまく説明できないんですけど」
「いや、分かるよ」
分かった。
少なくとも、理屈は。
櫛那は、真面目に教えられた通りにやる。
覚えも早い。
型の方は、きっと俺より早く体に染みているのだろう。
だからこそ、呼吸だけを考える余裕ができた。
俺はと言えば。
型も呼吸も、どちらも中途半端なのだろうな。
腹の奥で暗いものが首をもたげる。
けれど、深く息を吸った。
足元。
自分の胸。
それから人の色。
順番を間違えるな。
「宗右衛さん?」
「あ、ごめん。いや、ありがとう。なんか、分かった気がする」
「え?」
「櫛那は、型の方が得意なんだと思う。だから、それを呼吸にくっつけられる」
「得意……なんでしょうか」
櫛那は少し首を傾げた。
青に、悩むような緑が少し混ざる。
「俺は、逆をやってみるよ」
「逆?」
「うん。型の方は、今まで通り木刀とか真剣でやって。呼吸の方を、何もしていない時に覚えさせる」
「……」
櫛那は、ぽかんとした。
それから、ふっと笑った。
「宗右衛さんらしいです」
「褒めてる?」
「褒めています。きっと、そういうやり方、鱗滝様も喜ばれますよ」
そう言った時、櫛那の周りに淡い金が一瞬だけ灯った。
それを見て、胸の中にも少しだけ光が差した気がした。
―――
それから、俺は呼吸の練習を増やした。
桶を担いで沢に行く時も。
掃除をする時も。
薪を割る時も。
何をしている時でも、呼吸を数えた。
吸う。
背骨を一本一本、並べ直すつもりで。
吐く。
骨の中の空気を、全部絞り出すつもりで。
呼吸が苦しくなったところから、もう一度吸う。
そこでようやく始まりだ、という鱗滝さんの言葉を思い出しながら。
最初のうちは、ただそれだけでふらついた。
呼吸を続けて心臓がどくんと跳ねると、耳や鼻の奥で何かが破裂するような音を立てることもあった。
それでも続けようとすると、だんだん頭がぼうっとして、視界が暗くなる。
「無理をするな。息が荒れている時は、まず止まれ」
「はい」
無茶をすると怒られる。
でも、やめろとは言われない。
鱗滝さんは、俺が囲炉裏の火を見つめながら息を整えているのを、何度か黙って眺めていた。
その周りの灰色の縁には、かすかに空色が混じっている。
それでいい、という色だ。
夜、囲炉裏の火の前に座っている時、自分の呼吸が整ってくる瞬間があった。
胸の中にずっと引っかかっていた針金のようなものが、一本ずつほどけていく感覚。
ある晩、ふと気まぐれに、水鏡に映った自分を見た。
揺れる水面に、自分の輪郭だけがぼんやり滲む。
そこには、薄い青と、それを囲むような淡い金が、かすかに揺れていた。
変なやつだな。
自分で思って、少し笑った。
でも、その変なやつが、俺なのだ。
ここで生きている。
ここで息をしている。
ここを家だと思っている。
なら、それを信じるしかない。
―――
月日は、それでも容赦なく過ぎた。
櫛那の太刀筋は、日に日に研ぎ澄まされていった。
木刀から真剣に持ち替えた頃にあった揺れはなくなり、動きから迷いが削れていく。
岩に向かう足取りも変わった。
最初は、斬れるのかという不安を抱えていた歩み。
それがいつの間にか、斬るという前提の歩みになっている。
ある日の夕方、俺たちはいつものように岩の前に立っていた。
「行きます」
櫛那が一つだけ短く言って、息を吸う。
その周りに集まる色が、はっきり見えた。
晴天を思わせる青の線に、紅が一本通る。
そこへ白が混じり、白藤を思わせる色の帯が岩に向かってぴんと張った。
震えがなかった。
踏み込み。
腰の切り替え。
刃の走り。
全部が一筋の線になって、岩へ流れ込んでいく。
次の瞬間、岩の表面で鈍い音がした。
「……あ」
白い傷が、いつもより深い。
表面だけではなく、ほんの少しだけ中まで入っているのが分かる。
「今のは、悪くない」
いつの間にか後ろに立っていた鱗滝さんが言った。
「その中を、もっと先まで持っていけ。同じことを、あと百回やれ」
「百回……っ」
先ほどまで空を思わせるような青だった櫛那の色に、今にも雨が降りそうな暗さが混ざる。
「できる」
「……はい!」
櫛那は、それでも笑った。
笑いながら、また岩へ向かう。
その背中を見ているだけで、胸の中が熱くなる。
悔しさも、憧れも、全部まとめて熱くなる。
負けてられないな。
刀の柄を握り直すと、自分の手の中の熱が、少しだけ変わった気がした。
―――
やがて、櫛那は岩を斬った。
それは、ある朝のことだった。
まだ山の空気が冷たく、草に残った露が光っていた頃。
「行きます」
いつものように岩の前に立った櫛那が、いつものように一礼して、刀を抜いた。
息を吸う。
その瞬間、色が変わった。
櫛那の周りの青が、すっと澄んだ水のようになる。
そこに走る紅も、激しさを持たず、ただ真っ直ぐな線になっている。
あまりに澄んだ色。
迷いが、消えていた。
分かった。
斬れる、と。
岩に向かう踏み込みが、やけに静かに見えた。
刀が振り下ろされるまでの時間が、ひどく長く感じられる。
そして、音がした。
今までと違う音だった。
表面で弾かれる音でも、刃が止まってしまう音でもない。
固いものの中を、ひと筋で抜けていく音。
気づけば、俺は息を止めていた。
岩の真ん中に、一筋の線が入っている。
その線は、ゆっくりと左右に割れていく。
ぱきり、と音がした。
岩が二つに割れた。
「やった……」
櫛那は、その場に膝をついた。
肩で息をしている。
その周りで、青と赤の間に白がぱっと広がった。
「櫛那」
駆け寄ると、櫛那は汗だくのまま俺を見上げた。
そして笑った。
「斬れました……!」
「見てた」
言葉が、少し遅れて出た。
「……すげえな」
自分の胸の奥が、ぎゅっと締まる。
嬉しさ。
悔しさ。
置いていかれるような感じ。
全部が混ざって、色にするなら、きっと変な色になる。
「宗右衛」
背後から鱗滝さんの声がした。
振り返ると、面の奥で俺を見ている気配がある。
「お前も斬れる。だが、その前に呼吸だ」
「呼吸……」
「櫛那は、型を先に覚えた。お前は、呼吸を先に覚えろ」
布団の中で呼吸を数えている時。
湯気の中で息を整えている時。
水鏡の前で、変な顔をしながら呼吸していた時も。
全部、見られていたに違いない。
「はい」
返事をすると、胸の中が少し軽くなった。
櫛那が先に岩を斬った。
でも、それでいい。
俺には俺のやり方がある。
追いつけばいい。
追いついて、いつかその先に行けばいい。
―――
櫛那が岩を斬ってから、俺の呼吸はさらに変わっていった。
歩くたびに、足裏から入った空気が背骨を登っていくのを想像する。
木刀を振る時も。
真剣を振る時も。
まず呼吸。
岩に向かう時も、最初に見るのは岩ではない。
自分の胸の内側にある、空気の流れだ。
ある晩、囲炉裏の前で深く呼吸をしている時、不思議な感覚があった。
息を吸った瞬間、耳の奥で音が変わった気がした。
囲炉裏のはぜる音。
外の風の音。
烏が羽をすくめる気配。
全部が少し遠くなる。
そのかわりに、自分の骨の中を空気が通る音だけが、よく聞こえるような気がした。
今だ。
そう思った。
次の日、俺は岩の前に立った。
「行きます」
櫛那が割った片割れの横に、まだ大きな岩が一つ残っている。
こちらは、これまで俺が何度も跳ね返されてきた相手だ。
息を吸う。
背骨一本一本を、頭のてっぺんまで並べ直すつもりで。
吐く。
骨の中の空気を全部絞り出す。
足の裏まで、空っぽにするつもりで。
もう一度、吸う。
その時、体のどこにも引っかかりがなかった。
頭の中から、型という言葉が抜けた。
気づけば、体が動き出していた。
腰が回る。
足が地面を掴む。
肩が抜ける。
腕が、あとからついてくる。
岩に近づいていくのではない。
自分の中が、岩の中心へ伸びていくような感覚だった。
刃が、通った。
音がした。
今度は、はっきり分かった。
鱗滝さんが言っていた中が、できた。
岩の中で何かが崩れるような音がして、白い線が走る。
一拍置いて、岩がぱきりと割れた。
「……っ」
すぐには声が出なかった。
膝が震えている。
柄を握る手も震えている。
自分の見たものを信じられず、しばらくその場に立ち尽くした。
「宗右衛さん!」
すぐそばで、櫛那の声がした。
振り向くと、目を潤ませて走ってくる櫛那がいる。
その周りの色は、赤と白と金でぐるぐるになっていた。
「斬れましたね……!」
「斬れた……な」
ようやく、それだけ言えた。
言った瞬間、胸の奥で何かがほどける。
どっと汗が噴き出した。
「よくやった」
いつものように、いつの間にか後ろに立っていた鱗滝さんが言った。
珍しく、はっきりとした声だった。
面の奥の灰色の縁にも、朱と、少しだけ金が混じっている。
「これで、二人とも岩を斬った」
「はい」
「お前たちは、ここでやるべきことを一つ終えた」
鱗滝さんの声が、少し低くなる。
「次は、鬼だ」
その言葉を聞いて、胸の奥が別の意味で強く跳ねた。
―――
岩を斬ってから、そう日を置かずに、その話は来た。
「藤襲山での最終選別だ」
夕飯のあと、囲炉裏を囲んでいる時に、鱗滝さんはそう言った。
俺と櫛那を正面に座らせ、面越しにじっと見据える。
「そこでは、鬼を一週間しのいで生き延びねばならん。それが、鬼殺隊に入る資格だ」
櫛那の色が、一瞬で変わった。
赤が濃くなる。
その周りに、黒が薄く滲む。
けれど、その黒はいつかのような逃げたい黒ではなかった。
覚悟を決めた黒だった。
「……行きます」
櫛那の声は、震えていなかった。
「斬りたい鬼が、いますから」
鱗滝さんは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくり頷く。
「櫛那。お前は行け」
「はい」
「宗右衛」
名前を呼ばれた瞬間、背筋がぴんと張った。
「お前は、まだ行かせぬ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「えっと……岩、斬れましたよね、俺」
「斬ったな」
「呼吸も、少しはましになってきた……はずで」
「それも見ている」
「じゃあ」
「だが、お前はまだ小さい」
淡々とした声だった。
叱るでも、責めるでもない。
ただ、事実を告げる声。
「櫛那と並べば、頭一つ分違う。骨も、筋も、まだ足りん。身体が成らぬ子を試験には送れん。鬼は、子どもだからといって容赦はせん」
言われてみれば、その通りだった。
俺は、まだ櫛那の肩になんとか顎が乗るくらいの背丈しかない。
腕だって、真剣を振る時に、まだ重いと思う瞬間がある。
それでも。
「……でも、俺、岩も斬りましたし。呼吸だって、もっと練習すれば」
「宗右衛」
鱗滝さんの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「儂は、何人も子を藤襲山へ送っている。戻った者もいれば、戻らなかった者もいる」
いつかの夜に聞いた言葉が、頭をよぎる。
先の子は、戻らなんだ。
「お前のような子を送り出して、また戻らなかったと言いたくはない」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「……櫛那は、いいんですか」
気づけば、そこを突いていた。
「櫛那は、お前より年上だ。骨も、筋も、もうひと回りできている。それに」
鱗滝さんは、一瞬だけ櫛那を見た。
「櫛那には、どうしても斬らねばならん鬼がある。そのための覚悟を、自分で選んで山に上がってきた」
櫛那の周りの色が、桔梗色に近づく。
それでも、その真ん中に、細い金が灯っていた。
「宗右衛。お前には戻る場所がある」
鱗滝さんの声が、静かに落ちる。
「ここは、お前の家だ」
「……」
「だからこそ、今は行かせぬ。骨と筋を、もうひと回り大きくするまで。
呼吸が常になるまで。それまでは、儂のそばで生きろ」
生きろ。
そう言われた。
裏長屋では、そんな言い方をされたことはなかった。
死ぬな、はあったかもしれない。
けれど、それは大抵、働けという意味だった。
ここで言われた生きろは、違う。
息をして。
飯を食って。
眠って。
大きくなれ、という意味だ。
分かっている。
頭では、分かっている。
それでも。
「……ずるいです」
ぽろっと出た言葉に、自分で驚いた。
「ずるい?」
「櫛那だけ、行かせて。俺だけ、ここに残るの。ずるいです」
「宗右衛さん……」
櫛那が、小さく俺の名を呼ぶ。
その周りの桔梗色が、少し揺れた。
鱗滝さんは、面の向こうで長く息を吐いた。
「ずるいと思うなら、強くなれ」
静かな声だった。
「いつか必ず、お前も藤襲山へ行くことになる。その時、行きたいではなく、行かねばならんと言えるようになれ」
「……はい」
それ以上は、何も言えなかった。
悔しい。
悔しいけれど、自分の腕と足を見れば、納得せざるを得ない。
鬼の前に行くということは、命を賭けることだ。
それは、罠の山で散々教えられてきたことでもある。
「櫛那」
「はい」
「お前は三日後に山を下りる。藤襲山へ向かうための支度をする」
「はい」
「宗右衛。お前はその間、いつも通りだ。呼吸を止めるな」
「……はい」
二人とも、返事だけはちゃんとした。
囲炉裏の火が、少し小さく見えた夜だった。
―――
その夜、櫛那はなかなか寝つけなかったらしい。
隣の部屋で寝返りを打つ気配が何度もする。
そのたびに色が揺れた。
青の下に黒が混じり、そこに緑が浮かんでは消える。
俺も同じだった。
目を閉じても、藤襲山という名だけが頭の中をぐるぐる回る。
鬼のいる山。
一週間。
生き延びなければならない山。
怖い。
自分が行かないくせに、怖かった。
櫛那がそこへ行くのだと思うと、なおさら怖い。
しばらくして、衝立の向こうから小さな気配がした。
起き上がると、衝立の縁から櫛那が顔を覗かせていた。
「宗右衛さん、起きていますか」
「起きてる」
小声で返事をすると、櫛那はほっとしたように微笑む。
そっと、枕元に座った。
俺も体を起こして、行燈の火を少しだけ明るくする。
櫛那の顔が、淡く浮かび上がった。
「眠れませんか?」
「……櫛那こそ」
「私も、少しだけ」
苦笑いの周りに漂っていた色は、最初、暗い緑に黒が混じっていた。
続く言葉を探すように、その帯は落ち着きなく揺れる。
行き場のない不安に見えた。
「……怖いです」
やっと出てきた言葉は、とても小さかった。
「鬼が怖いとか、死ぬのが怖いとか、そういうのももちろんありますけど。それよりも」
櫛那は、指先で着物の裾をぎゅっと掴む。
「宗右衛さんと鱗滝様を置いていくのが、少し怖いです」
「え」
予想していない方からの怖いだった。
「ここに来てから、一年近く、一緒に暮らしてきて。朝起きたら烏が鳴いていて、宗右衛さんがそこ滑るよって言ってくれて、鱗滝様が水を汲めって言ってくれて」
一つ一つ口にするたび、櫛那の色は深い青へ寄っていく。
さっきまで怖さをごまかすように揺れていた帯が、巻雲のようにすらりと伸びる。
櫛那の胸のあたりには、細い金の糸が一本だけ差し込んでいた。
「そういうのが、急になくなってしまうのが怖いです。……変ですよね」
「変じゃないよ」
即答だった。
「俺も、櫛那がここにいるの、かなり助かってるし。一緒に罠に引っかかってくれる人って、なかなかいないから」
「引っかかってませんよ」
ようやく、少しだけ声に笑いが混じった。
笑いの縁に、金がまた一つ灯る。
「……宗右衛さん」
「ん?」
「宗右衛さんのこと、弟みたいに思っています」
唐突に言われて、喉の奥で変な音が出そうになった。
「弟?」
「はい。前にも言いましたけど、弟がいたんです」
あの夜、櫛那が話してくれたことが頭をよぎる。
押し入れの隙間。
人の形をした何か。
動かない父と母と弟。
「その弟が、俺になら弱音を吐いていいって、よく言っていました。宗右衛さんを見ていると、時々その弟を思い出すんです」
櫛那の暗い青の周りに、金が広がった。
懐かしさ。
寂しさ。
あたたかさ。
全部が混ざった色だった。
「だから、その……」
櫛那は少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「帰ってきたら、宗ちゃんって呼んでもいいですか?」
「……宗ちゃん?」
自分で口に出してみると、その場の空気がおかしくなりかけた。
「似合わないですか?」
「いや、似合うかどうかは分からないけど。櫛那が呼びたいなら、別に」
「本当ですか?」
ぱっと顔が明るくなる。
金が、はっきりと輪になって櫛那の周りを巡った。
「じゃあ、帰ってきたら、そう呼びますね」
櫛那は、嬉しそうに言う。
「宗ちゃん、ただいまって」
「……うん」
胸の奥が、くすぐったくなる。
それなのに、体の中があたたかい。
「宗右衛さんも、いつか必ず来てくださいね。鬼殺隊に入って、私のこと、追い越してもいいですから」
「追い越すよ」
自然に、そう言えた。
「櫛那が先に行くのは、ちょっと悔しいけど。でも、その分、俺はここでちゃんと準備しておく。息も、骨も、筋も、ちゃんと作ってから行く」
「……はい」
櫛那は、少しだけ目を潤ませて笑った。
「じゃあ、私が戻ってくるまでに、もっともっと強くなっていてください。戻ってきたら、宗ちゃん、すごいって言わせてくださいね」
「言わせるよ」
二人で笑う。
その間にも、櫛那の周りには金と藤色が揺れていた。
怖さも、寂しさも、全部抱えたまま、それでも前を向こうとしている色。
「……怖いって言ったら、少し楽になりました」
櫛那がぽつりと言った。
「今まで、こういうこと、あまり言えなかったので」
「じゃあ、これからは俺に言えばいいよ。俺、聞くのは得意だから」
裏長屋で、何度も子どもの泣き声を聞いてきた。
何もできなかったけれど、隣で座って話を聞くことだけはしてきた。
それは、今も変わらない。
「ありがとうございます、宗右衛さん」
櫛那は、また少し笑って立ち上がった。
「そろそろ寝ます。明日も、いつも通り山を歩きましょう。……いつも通りを、ちゃんと覚えておきたいので」
「うん。明日も、足元、見ておくから」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
戸が閉まる。
残された行燈の明かりの中で、自分の胸の中の息を数える。
吸って。
吐いて。
そのたびに、櫛那の薄金が瞼の裏で静かに揺れるのを感じていた。
―――
三日後。
烏は、いつもより少し早く鳴いた気がした。
沢で水を汲む。
いつも通りに掃除をする。
いつも通りに飯を食う。
それでも、いつも通りではないことがひとつだけある。
櫛那が、この家に来た時に羽織っていた亀甲花菱の羽織を着て、荷を一つ背負っている。
替えの着物。
少しだけの食い物。
刀。
それから、頭には猫を模したような厄除の面。
それだけを持って、櫛那は板戸の前に立っていた。
「行ってきます」
櫛那が頭を下げると、鱗滝さんは静かに頷いた。
面の奥で、息を吸う音がした。
「行ってこい。必ず、生きて戻れ」
「はい」
櫛那の周りの色が、一瞬だけまっすぐな青になった。
そこに金が細く走り、その縁を白が薄く縁取る。
「宗右衛さん」
「ん」
「……宗ちゃん」
初めて呼ばれたそれは、思っていたより自然だった。
「ただいまは、まだ言いません。ちゃんと戻ってきた時まで取っておきますから」
「うん」
「だから、ちゃんと待っていてくださいね」
「待ってるよ」
そう言ってから、息を吸った。
「ここで、息して、飯食って、修行して。
櫛那がただいまって言いに来るの、ちゃんと待ってるから」
櫛那は、きゅっと唇を引き結んだ。
それから、笑った。
「行ってきます」
そう言って、山を下りていく。
背中が小さくなっていくのを、烏と一緒に見送った。
櫛那の色は、いつまでも山道の先に残っている気がした。
やがて、その色も見えなくなった時、胸の奥で何かが静かに鳴った。
行ったか。
ぽつりと呟くと、頭上で烏が一声鳴いた。
「宗右衛」
「はい」
「息を止めるな」
「はい」
俺は、深く息を吸った。
吐いて。
また吸う。
櫛那がいない山道を、いつも通りに歩くために。
この時の俺は、まだ知らなかった。
藤襲山から戻ってくる者もいれば、戻らない者もいることを。
宗ちゃん、ただいま。
そう笑う櫛那の姿を、二度と見ることはないのだと。