その朝も、烏の声から始まった。
梁の上で二声。
少し間を置いて、一声。
いつもと同じ鳴き方だった。
いつもと同じ声のはずだった。
それなのに、胸の中だけが少し違う。
数えていた。
一日。
二日。
三日。
櫛那が山を下りて、藤襲山へ向かった日から、もう一週間以上が過ぎている。
最終選別は一週間だと聞いた。
鬼のいる山で、そのあいだ生き延びればいいのだと。
なら、そろそろ。
布団の中で息を吸う。
吐く。
また吸う。
背骨を一本ずつ並べ直すつもりで呼吸をしても、胸の奥のそわそわは消えなかった。
布団を畳むより先に、戸口へ目が向いた。
板戸が開く。
櫛那が立っている。
亀甲花菱の羽織に、猫の面を頭の横へずらして、少し疲れた顔で笑う。
宗ちゃん、ただいま。
そう言うところまで、頭の中ではっきり浮かんだ。
言うはずだ。
櫛那なら、きっと。
そう思い込もうとした時、外からもう一つ、烏の声がした。
梁の烏ではない。
少し低く、硬い声。
山で聞き慣れた鳴き方とは違っていた。
鱗滝さんが、いつもより早い足音で家を出ていく。
板の間を踏む音。
戸が開く音。
外で短く何かを言う声。
それから、静かになる。
胸の中で、嫌な予感が細い針みたいに走った。
居間へ出ると、鱗滝さんはもう戻ってきていた。
天狗面はいつも通りだった。
けれど手には、油紙で包まれた細い巻子が一本、握られている。
烏の足に括りつけて運べるほどの、小さなもの。
囲炉裏の火の上に漂う灰の向こうで、鱗滝さんの色が見えた。
いつもより、灰が濃い。
その縁に、黒が一度だけ走る。
すぐに消える。
何かを強く押し殺す時の色だった。
「おはようございます」
一応、声をかけた。
鱗滝さんは、ほんの一拍置いてから、面の下の口元だけをこちらへ向けた。
「ああ……起きたか」
いつもより、少しだけ声が掠れている。
それ以上は何も言わなかった。
手に持った巻子を一度だけ見る。
そして、囲炉裏の端へそっと置く。
それからは、いつもの朝の支度が淡々と始まった。
茶碗を並べる。
芋を刻む。
水の準備をする。
体はいつも通りに動いている。
でも、何かが少しずつずれていた。
「沢の水を汲みに行く」
「はい」
桶を手に取る。
すると、鱗滝さんも桶を持って立ち上がった。
いつもなら、水汲みは俺に任せる。
何か言おうとして、やめた。
戸を開けて外へ出る。
山の空気が冷たく肌を撫でた。
家から沢へ向かう細い道を、二人並んで歩く。
前を行く背中の周りには、やはり灰しか見えなかった。
ただ、その縁が陽炎みたいに揺れている。
沢へ下りる手前で、つい口が滑った。
「……さっきの烏、いつものと違いましたよね」
前を行く背中へ問いかける。
「……鬼殺隊の烏だ」
短く、それだけが返ってきた。
鬼殺隊。
櫛那が目指した場所。
藤襲山の先にあるところ。
「櫛那のこと、ですか」
自分でも、声が掠れたのが分かった。
鱗滝さんは、すぐには答えなかった。
沢の縁まで歩いて、ようやく足を止める。
その背中の周りで、灰がふっと広がった。
中身を見せない、厚い布みたいな灰だった。
「……あとで話す」
それだけ言って、桶を沢水に沈めた。
冷たい水が一気に流れ込む。
桶の底が石に当たって、ごつんと音を立てる。
その音の方が、返事よりもはっきり聞こえた。
水を汲んで戻るあいだも、鱗滝さんは何も言わなかった。
日課の掃除をする。
薪を割る。
稽古の準備をする。
動きはどれも正確で、無駄がない。
けれど、ふとした時にその周りの灰が重くなるのを見た。
山道を走っている時も。
真剣を振っている時も。
呼吸を整えている時も。
鱗滝さんは、見ていた。
ちゃんと見ている。
なのに、何も言わない。
いつもなら、稽古の合間に「呼吸が止まっている」とか、「筋に頼るな」とか、短く言葉が飛んでくる。
その日は、ほとんど何もなかった。
櫛那がいない山は、静かだった。
笑い声もない。
控えめな返事もない。
宗右衛さん、と呼ぶ声もない。
足音と息遣いだけが、山の斜面に吸い込まれていく。
夕方、ようやく稽古が終わった。
沢で汗だけ流して帰ると、囲炉裏にはもう火が入っていた。
鍋の中では、いつもの芋と野菜が静かに煮えている。
鱗滝さんは火の向こう側に座っていた。
例の巻子は、床の上に伏せられている。
面の向こうの視線が、こちらを見た。
「宗右衛」
「はい」
「座れ」
言われて、囲炉裏を挟んで正面に座る。
足の裏が、板の上でやけに冷たく感じた。
しばらく、何も言われなかった。
火のはぜる音。
鍋の中で何かが沈む小さな音。
それだけが聞こえる。
鱗滝さんの周りの灰は、いつもよりずっと広い。
意識を強く隠しているのか、色が見えにくい。
その縁に、小さな金が一つだけ灯った。
すぐに沈む。
灰は湯気と一緒に揺れて、空気に溶けていった。
言いたいことを、どう言葉にするか。
それを必死に探しているように見えた。
「……宗右衛」
二度目に呼ばれた声は、少し掠れていた。
「はい」
「藤襲山の話だ」
そこで言葉が途切れる。
面の下の口元が、わずかに固くなるのが分かった。
灰の中で、黒と金が細い糸みたいに絡まり合っている。
この色を知っている。
誰かを守ろうとして、自分が傷つく色だ。
口の中がひどく乾いた。
飲み込む唾もないのに、喉の奥が勝手に鳴る。
「櫛那は……」
そこまで言って、また止まる。
鱗滝さんが言いよどむのを、初めて見た。
普段なら、言いにくいことでも淡々と事実だけを告げる人だ。
試験のことも。
鬼のことも。
戻らなんだ、と言った夜のことも。
少しだけ灰を濃くしながら、それでもきちんと口にしてきた。
その鱗滝さんが、口をつぐんでいる。
囲炉裏の火が、少しだけ小さくなったように見えた。
「……櫛那は」
もう一度、そこから言い直す。
今度は、最後まで絞り出すように。
「戻らなんだ」
囲炉裏の火が、ぱち、と音を立てた。
灰の中で、黒がひときわ濃く走る。
すぐに均されて、また灰に戻った。
「……え?」
間抜けな声が、自分の口からこぼれた。
「戻ら、なんだ」
同じ言葉を、鱗滝さんはゆっくり繰り返す。
噛むような声だった。
そのたびに、灰の奥にある金が細かく軋む。
「嘘だ」
気づいたら、言っていた。
鱗滝さんの色が、ぴたりと凍る。
「櫛那は……あいつは、きっと大丈夫だって……」
藤襲山へ行く前の夜。
囲炉裏の火の向こうで笑っていた顔が浮かぶ。
岩を斬った時、白藤の色をまとっていた背中が浮かぶ。
「あいつ、岩、斬れるようになったんですよ。鬼だって斬れるって、自分で……」
言葉が、喉で絡まる。
続きを出そうとしても、出てこない。
火の赤が、目の前で揺れている。
でも、あまり暖かくは感じなかった。
「鬼がおる山だ」
鱗滝さんの声は、いつもより低かった。
「岩は、斬らせるためにそこにある」
一つずつ、置くように言う。
「鬼は、人を殺すためにそこにおる。同じ刀でも、斬るものが違えば、斬り方も違う」
当たり前のことを言っているだけなのに、その声には、長い時間を噛みしめたような重さがあった。
「そんなの、稽古で……」
「稽古では、死なん」
短く、鋭く、遮られた。
灰の縁に、黒がまたひと筋走る。
「藤襲山では、死ぬ」
静かな声だった。
怒鳴りもしない。
責めもしない。
ただ、事実だけがそこに置かれた。
「これまで何人も、戻らなんだ」
それは知っていた。
聞いていた。
鱗滝さんの家にある、名札の意味も。
でも、その中に櫛那の名前が入ることだけは、考えないようにしていた。
「烏が持ってきたのは、その知らせだ」
畳の上の巻子へ、視線が落ちる。
油紙の隙間から覗く紙の端に、墨の黒が滲んでいる。
「名は、間違いなく櫛那だった」
面の下で、歯を食いしばる気配がした。
「か、烏が間違えたのかもしれません」
自分でもみっともないと思う言葉が、勝手に口をついて出た。
「どこかで、誰かが札を取り違えたとか。櫛那が他の子の刀を持っていて、その……」
喋りながら、どれも嘘っぽいと思う。
それでも、口は止まらなかった。
「行って、確かめたら……」
「行ってどうする」
問われて、言葉が止まった。
「鬼のおる山だ。日も沈んでいる。行ったところで、もはや誰もおらん。骨も、残ってはいないかもしれん」
灰の奥で、青がわずかに揺れた。
諦めではない。
冷たさでもない。
覚悟の色だった。
「宗右衛」
名前を呼ばれる。
今度の声は、少しだけ優しかった。
「櫛那は、戻らなんだ」
三度目だった。
耳から入ってきた言葉が、やっと胸の中まで沈んでくる。
沈んできて、何かに触れる。
触れて、痛いと分かる。
涙は、すぐには出なかった。
ただ、息の仕方が分からなくなる。
胸のあたりがきゅうっと縮む。
喉の奥が熱い。
口を開けても、声が出ない。
「……俺が」
どうにか絞り出した声は、自分のものとは思えないくらい掠れていた。
「俺が、もっと一緒に稽古してたら。俺が代わりに行ってたら。俺が、あいつに……」
何を言いたかったのか、自分でも分からなくなる。
鱗滝さんの灰が、少しだけ揺れた。
その縁に、細い金がひときわ強く光る。
すぐに沈む。
「宗右衛のせいではない」
とてもはっきりした声だった。
「行くと決めたのは、あの子だ。送り出したのは、儂だ」
淡々と告げられる言葉の一つ一つが、灰の中に沈んでいく。
沈むたび、灰が重くなる。
「儂が、あの子に刀を持たせた。藤襲山へ行けるようにした。あそこで死なぬように鍛えたつもりだった」
そこで、初めて声が揺れた。
「だが、足らなんだ」
囲炉裏の火が、ぱちぱちと小さく弾ける。
誰かが笑っているみたいにも聞こえた。
泣いているみたいにも聞こえた。
「足らなんだのは、儂だ」
灰の中へ、黒がゆっくり落ちていく。
その黒に飲まれそうになるたび、金がかすかに光って、どうにか形を保っている。
「だから、宗右衛」
鱗滝さんの声が沈む。
「儂の弟子は、もう……鬼殺隊には出さん」
その言葉に、ようやく涙が出た。
「やだ」
みっともなく鼻をすすりながら言う。
「俺、櫛那と同じところまで行くって……追いつくって……」
口にした瞬間、櫛那が困ったように笑う姿が浮かぶ。
宗右衛さんなら、きっとできます。
そんな声が、どこかから聞こえた気がした。
全部、もう戻ってこない。
「やだ……っ」
子どもみたいな声が、何度も口からこぼれる。
拳を握りしめても、爪の食い込み方すら分からない。
視界の端で、鱗滝さんがわずかに身じろぎした。
いつもなら、こういう時、泣くなと言う人だ。
前を見ろ。
息を止めるな。
立て。
強い言葉で叩きつけて、立ち上がらせる人だ。
けれど、その夜は違った。
囲炉裏を挟んだ向こうから、静かに言葉が落ちてきた。
「……泣くとよい」
思ってもみなかった言葉だった。
「儂は、もう泣けん」
面の下は見えない。
けれど、灰の中に細かい黒と金が混じっているのが分かった。
それは、宗右衛が見たことのない色だった。
「泣いても、怒っても、恨んでもよい。それでも、どうにもならんことがある」
その、どうにもならん、の中に。
これまでの名札全部と。
櫛那の名前と。
鱗滝さん自身が含まれている。
それが分かってしまって、余計に苦しくなった。
その夜、何度泣いたのか覚えていない。
囲炉裏の火は何度も小さくなって、そのたびに薪が足された。
芋は煮えすぎて形が崩れ、汁ばかりになった。
最後には、言葉も涙も出なくなった。
ただ、櫛那の名を口の中で繰り返すだけになった。
櫛那が岩を斬った時の色を思い出す。
前向きな決意と、強い集中が重なって、藤の色になった帯。
失敗しても、立ち上がるたびに少しずつ変わっていった色。
あの色は、もう二度と見られない。
そのことだけが、やけにくっきりと胸の中に残った。
囲炉裏の火がとうとう小さくなって、鱗滝さんが「もう休め」と言った時、外は白み始めていた。
寝床に潜り込んでも、なかなか目を閉じられなかった。
目を閉じれば、櫛那の顔と、藤の色が浮かぶからだ。
それでも、いつの間にか意識は途切れたらしい。
夢の中で、櫛那はやはり笑っていた。
宗ちゃん、ちゃんとご飯食べてくださいね。
そう言っていた。
帰ってきたら、そう呼ぶ約束だったのに。
目が覚めた時、胸のあたりがひどく痛かった。
その痛みに、色はついていなかった。