鱗滝の養子   作:松雪草

7 / 32
7話

 その朝も、烏の声から始まった。

 

 梁の上で二声。

 少し間を置いて、一声。

 

 いつもと同じ鳴き方だった。

 いつもと同じ声のはずだった。

 

 それなのに、胸の中だけが少し違う。

 

 数えていた。

 

 一日。

 二日。

 三日。

 

 櫛那が山を下りて、藤襲山へ向かった日から、もう一週間以上が過ぎている。

 

 最終選別は一週間だと聞いた。

 鬼のいる山で、そのあいだ生き延びればいいのだと。

 

 なら、そろそろ。

 

 布団の中で息を吸う。

 吐く。

 また吸う。

 

 背骨を一本ずつ並べ直すつもりで呼吸をしても、胸の奥のそわそわは消えなかった。

 

 布団を畳むより先に、戸口へ目が向いた。

 

 板戸が開く。

 櫛那が立っている。

 亀甲花菱の羽織に、猫の面を頭の横へずらして、少し疲れた顔で笑う。

 

 宗ちゃん、ただいま。

 

 そう言うところまで、頭の中ではっきり浮かんだ。

 

 言うはずだ。

 

 櫛那なら、きっと。

 

 そう思い込もうとした時、外からもう一つ、烏の声がした。

 

 梁の烏ではない。

 

 少し低く、硬い声。

 山で聞き慣れた鳴き方とは違っていた。

 

 鱗滝さんが、いつもより早い足音で家を出ていく。

 

 板の間を踏む音。

 戸が開く音。

 外で短く何かを言う声。

 

 それから、静かになる。

 

 胸の中で、嫌な予感が細い針みたいに走った。

 

 居間へ出ると、鱗滝さんはもう戻ってきていた。

 

 天狗面はいつも通りだった。

 けれど手には、油紙で包まれた細い巻子が一本、握られている。

 

 烏の足に括りつけて運べるほどの、小さなもの。

 

 囲炉裏の火の上に漂う灰の向こうで、鱗滝さんの色が見えた。

 

 いつもより、灰が濃い。

 

 その縁に、黒が一度だけ走る。

 すぐに消える。

 

 何かを強く押し殺す時の色だった。

 

「おはようございます」

 

 一応、声をかけた。

 

 鱗滝さんは、ほんの一拍置いてから、面の下の口元だけをこちらへ向けた。

 

「ああ……起きたか」

 

 いつもより、少しだけ声が掠れている。

 

 それ以上は何も言わなかった。

 

 手に持った巻子を一度だけ見る。

 そして、囲炉裏の端へそっと置く。

 

 それからは、いつもの朝の支度が淡々と始まった。

 

 茶碗を並べる。

 芋を刻む。

 水の準備をする。

 

 体はいつも通りに動いている。

 

 でも、何かが少しずつずれていた。

 

「沢の水を汲みに行く」

 

「はい」

 

 桶を手に取る。

 

 すると、鱗滝さんも桶を持って立ち上がった。

 

 いつもなら、水汲みは俺に任せる。

 

 何か言おうとして、やめた。

 

 戸を開けて外へ出る。

 

 山の空気が冷たく肌を撫でた。

 

 家から沢へ向かう細い道を、二人並んで歩く。

 

 前を行く背中の周りには、やはり灰しか見えなかった。

 

 ただ、その縁が陽炎みたいに揺れている。

 

 沢へ下りる手前で、つい口が滑った。

 

「……さっきの烏、いつものと違いましたよね」

 

 前を行く背中へ問いかける。

 

「……鬼殺隊の烏だ」

 

 短く、それだけが返ってきた。

 

 鬼殺隊。

 

 櫛那が目指した場所。

 藤襲山の先にあるところ。

 

「櫛那のこと、ですか」

 

 自分でも、声が掠れたのが分かった。

 

 鱗滝さんは、すぐには答えなかった。

 

 沢の縁まで歩いて、ようやく足を止める。

 

 その背中の周りで、灰がふっと広がった。

 

 中身を見せない、厚い布みたいな灰だった。

 

「……あとで話す」

 

 それだけ言って、桶を沢水に沈めた。

 

 冷たい水が一気に流れ込む。

 桶の底が石に当たって、ごつんと音を立てる。

 

 その音の方が、返事よりもはっきり聞こえた。

 

 水を汲んで戻るあいだも、鱗滝さんは何も言わなかった。

 

 日課の掃除をする。

 薪を割る。

 稽古の準備をする。

 

 動きはどれも正確で、無駄がない。

 

 けれど、ふとした時にその周りの灰が重くなるのを見た。

 

 山道を走っている時も。

 真剣を振っている時も。

 呼吸を整えている時も。

 

 鱗滝さんは、見ていた。

 

 ちゃんと見ている。

 

 なのに、何も言わない。

 

 いつもなら、稽古の合間に「呼吸が止まっている」とか、「筋に頼るな」とか、短く言葉が飛んでくる。

 

 その日は、ほとんど何もなかった。

 

 櫛那がいない山は、静かだった。

 

 笑い声もない。

 控えめな返事もない。

 宗右衛さん、と呼ぶ声もない。

 

 足音と息遣いだけが、山の斜面に吸い込まれていく。

 

 夕方、ようやく稽古が終わった。

 

 沢で汗だけ流して帰ると、囲炉裏にはもう火が入っていた。

 

 鍋の中では、いつもの芋と野菜が静かに煮えている。

 

 鱗滝さんは火の向こう側に座っていた。

 

 例の巻子は、床の上に伏せられている。

 

 面の向こうの視線が、こちらを見た。

 

「宗右衛」

 

「はい」

 

「座れ」

 

 言われて、囲炉裏を挟んで正面に座る。

 

 足の裏が、板の上でやけに冷たく感じた。

 

 しばらく、何も言われなかった。

 

 火のはぜる音。

 鍋の中で何かが沈む小さな音。

 

 それだけが聞こえる。

 

 鱗滝さんの周りの灰は、いつもよりずっと広い。

 

 意識を強く隠しているのか、色が見えにくい。

 

 その縁に、小さな金が一つだけ灯った。

 すぐに沈む。

 

 灰は湯気と一緒に揺れて、空気に溶けていった。

 

 言いたいことを、どう言葉にするか。

 

 それを必死に探しているように見えた。

 

「……宗右衛」

 

 二度目に呼ばれた声は、少し掠れていた。

 

「はい」

 

「藤襲山の話だ」

 

 そこで言葉が途切れる。

 

 面の下の口元が、わずかに固くなるのが分かった。

 

 灰の中で、黒と金が細い糸みたいに絡まり合っている。

 

 この色を知っている。

 

 誰かを守ろうとして、自分が傷つく色だ。

 

 口の中がひどく乾いた。

 

 飲み込む唾もないのに、喉の奥が勝手に鳴る。

 

「櫛那は……」

 

 そこまで言って、また止まる。

 

 鱗滝さんが言いよどむのを、初めて見た。

 

 普段なら、言いにくいことでも淡々と事実だけを告げる人だ。

 

 試験のことも。

 鬼のことも。

 戻らなんだ、と言った夜のことも。

 

 少しだけ灰を濃くしながら、それでもきちんと口にしてきた。

 

 その鱗滝さんが、口をつぐんでいる。

 

 囲炉裏の火が、少しだけ小さくなったように見えた。

 

「……櫛那は」

 

 もう一度、そこから言い直す。

 

 今度は、最後まで絞り出すように。

 

「戻らなんだ」

 

 囲炉裏の火が、ぱち、と音を立てた。

 

 灰の中で、黒がひときわ濃く走る。

 

 すぐに均されて、また灰に戻った。

 

「……え?」

 

 間抜けな声が、自分の口からこぼれた。

 

「戻ら、なんだ」

 

 同じ言葉を、鱗滝さんはゆっくり繰り返す。

 

 噛むような声だった。

 

 そのたびに、灰の奥にある金が細かく軋む。

 

「嘘だ」

 

 気づいたら、言っていた。

 

 鱗滝さんの色が、ぴたりと凍る。

 

「櫛那は……あいつは、きっと大丈夫だって……」

 

 藤襲山へ行く前の夜。

 囲炉裏の火の向こうで笑っていた顔が浮かぶ。

 

 岩を斬った時、白藤の色をまとっていた背中が浮かぶ。

 

「あいつ、岩、斬れるようになったんですよ。鬼だって斬れるって、自分で……」

 

 言葉が、喉で絡まる。

 

 続きを出そうとしても、出てこない。

 

 火の赤が、目の前で揺れている。

 

 でも、あまり暖かくは感じなかった。

 

「鬼がおる山だ」

 

 鱗滝さんの声は、いつもより低かった。

 

「岩は、斬らせるためにそこにある」

 

 一つずつ、置くように言う。

 

「鬼は、人を殺すためにそこにおる。同じ刀でも、斬るものが違えば、斬り方も違う」

 

 当たり前のことを言っているだけなのに、その声には、長い時間を噛みしめたような重さがあった。

 

「そんなの、稽古で……」

 

「稽古では、死なん」

 

 短く、鋭く、遮られた。

 

 灰の縁に、黒がまたひと筋走る。

 

「藤襲山では、死ぬ」

 

 静かな声だった。

 

 怒鳴りもしない。

 責めもしない。

 

 ただ、事実だけがそこに置かれた。

 

「これまで何人も、戻らなんだ」

 

 それは知っていた。

 

 聞いていた。

 

 鱗滝さんの家にある、名札の意味も。

 

 でも、その中に櫛那の名前が入ることだけは、考えないようにしていた。

 

「烏が持ってきたのは、その知らせだ」

 

 畳の上の巻子へ、視線が落ちる。

 

 油紙の隙間から覗く紙の端に、墨の黒が滲んでいる。

 

「名は、間違いなく櫛那だった」

 

 面の下で、歯を食いしばる気配がした。

 

「か、烏が間違えたのかもしれません」

 

 自分でもみっともないと思う言葉が、勝手に口をついて出た。

 

「どこかで、誰かが札を取り違えたとか。櫛那が他の子の刀を持っていて、その……」

 

 喋りながら、どれも嘘っぽいと思う。

 

 それでも、口は止まらなかった。

 

「行って、確かめたら……」

 

「行ってどうする」

 

 問われて、言葉が止まった。

 

「鬼のおる山だ。日も沈んでいる。行ったところで、もはや誰もおらん。骨も、残ってはいないかもしれん」

 

 灰の奥で、青がわずかに揺れた。

 

 諦めではない。

 冷たさでもない。

 

 覚悟の色だった。

 

「宗右衛」

 

 名前を呼ばれる。

 

 今度の声は、少しだけ優しかった。

 

「櫛那は、戻らなんだ」

 

 三度目だった。

 

 耳から入ってきた言葉が、やっと胸の中まで沈んでくる。

 

 沈んできて、何かに触れる。

 

 触れて、痛いと分かる。

 

 涙は、すぐには出なかった。

 

 ただ、息の仕方が分からなくなる。

 

 胸のあたりがきゅうっと縮む。

 喉の奥が熱い。

 

 口を開けても、声が出ない。

 

「……俺が」

 

 どうにか絞り出した声は、自分のものとは思えないくらい掠れていた。

 

「俺が、もっと一緒に稽古してたら。俺が代わりに行ってたら。俺が、あいつに……」

 

 何を言いたかったのか、自分でも分からなくなる。

 

 鱗滝さんの灰が、少しだけ揺れた。

 

 その縁に、細い金がひときわ強く光る。

 すぐに沈む。

 

「宗右衛のせいではない」

 

 とてもはっきりした声だった。

 

「行くと決めたのは、あの子だ。送り出したのは、儂だ」

 

 淡々と告げられる言葉の一つ一つが、灰の中に沈んでいく。

 

 沈むたび、灰が重くなる。

 

「儂が、あの子に刀を持たせた。藤襲山へ行けるようにした。あそこで死なぬように鍛えたつもりだった」

 

 そこで、初めて声が揺れた。

 

「だが、足らなんだ」

 

 囲炉裏の火が、ぱちぱちと小さく弾ける。

 

 誰かが笑っているみたいにも聞こえた。

 泣いているみたいにも聞こえた。

 

「足らなんだのは、儂だ」

 

 灰の中へ、黒がゆっくり落ちていく。

 

 その黒に飲まれそうになるたび、金がかすかに光って、どうにか形を保っている。

 

「だから、宗右衛」

 

 鱗滝さんの声が沈む。

 

「儂の弟子は、もう……鬼殺隊には出さん」

 

 その言葉に、ようやく涙が出た。

 

「やだ」

 

 みっともなく鼻をすすりながら言う。

 

「俺、櫛那と同じところまで行くって……追いつくって……」

 

 口にした瞬間、櫛那が困ったように笑う姿が浮かぶ。

 

 宗右衛さんなら、きっとできます。

 

 そんな声が、どこかから聞こえた気がした。

 

 全部、もう戻ってこない。

 

「やだ……っ」

 

 子どもみたいな声が、何度も口からこぼれる。

 

 拳を握りしめても、爪の食い込み方すら分からない。

 

 視界の端で、鱗滝さんがわずかに身じろぎした。

 

 いつもなら、こういう時、泣くなと言う人だ。

 

 前を見ろ。

 息を止めるな。

 立て。

 

 強い言葉で叩きつけて、立ち上がらせる人だ。

 

 けれど、その夜は違った。

 

 囲炉裏を挟んだ向こうから、静かに言葉が落ちてきた。

 

「……泣くとよい」

 

 思ってもみなかった言葉だった。

 

「儂は、もう泣けん」

 

 面の下は見えない。

 

 けれど、灰の中に細かい黒と金が混じっているのが分かった。

 

 それは、宗右衛が見たことのない色だった。

 

「泣いても、怒っても、恨んでもよい。それでも、どうにもならんことがある」

 

 その、どうにもならん、の中に。

 

 これまでの名札全部と。

 櫛那の名前と。

 鱗滝さん自身が含まれている。

 

 それが分かってしまって、余計に苦しくなった。

 

 その夜、何度泣いたのか覚えていない。

 

 囲炉裏の火は何度も小さくなって、そのたびに薪が足された。

 

 芋は煮えすぎて形が崩れ、汁ばかりになった。

 

 最後には、言葉も涙も出なくなった。

 

 ただ、櫛那の名を口の中で繰り返すだけになった。

 

 櫛那が岩を斬った時の色を思い出す。

 

 前向きな決意と、強い集中が重なって、藤の色になった帯。

 

 失敗しても、立ち上がるたびに少しずつ変わっていった色。

 

 あの色は、もう二度と見られない。

 

 そのことだけが、やけにくっきりと胸の中に残った。

 

 囲炉裏の火がとうとう小さくなって、鱗滝さんが「もう休め」と言った時、外は白み始めていた。

 

 寝床に潜り込んでも、なかなか目を閉じられなかった。

 

 目を閉じれば、櫛那の顔と、藤の色が浮かぶからだ。

 

 それでも、いつの間にか意識は途切れたらしい。

 

 夢の中で、櫛那はやはり笑っていた。

 

 宗ちゃん、ちゃんとご飯食べてくださいね。

 

 そう言っていた。

 

 帰ってきたら、そう呼ぶ約束だったのに。

 

 目が覚めた時、胸のあたりがひどく痛かった。

 

 その痛みに、色はついていなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。