鱗滝の養子   作:松雪草

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8話

 鱗滝さんが、山を下りると言った。

 

「少し、行くべきところがある」

 

 その日の稽古が終わって、汗を拭いているときだった。

 

 囲炉裏の火の向こうで、天狗面がこちらを向く。

 その周りの灰は、いつもより少しだけ青を含んでいた。

 何かを心に決めて、それをやろうとしている時の色だ。

 

「どこへ、行くんですか」

 

 一瞬、鱗滝さんが俺を置いてどこかに行ってしまうのではないか、そんなろくでもない考えが頭をよぎる。

 心が弱っているのを自覚しながら、思わず聞いてしまう。

 

「用が済んだら戻る。……数日は、家を空ける」

 

 答えになっているような、なっていないような言葉だった。

 

 視線を向けると、家の烏が鱗滝さんの肩にとまっている。

 家の烏は俺が稽古していると見張る様に着いてきていたのに。

 今日は朝から見ないと思っていたが、そんなところにいたのか。

 

「水と飯は、いつも通りにせい。

 山から下りようとは、思うな」

 

「……はい」

 

 返事はした。

 したけれど、胸の奥では、何かがざわざわと落ち着かない。

 

「何日くらいで戻りますか」

 

「三日か、五日か……はっきりとは言えん。

 長くはかからん」

 

 そう言いながらも、周りの灰は、さっきより少しだけ濃くなっていた。

 金がふっと灯りかけては、すぐに沈む。

 

 何を考えているのかまでは、分からない。

 

 ただ、「行きたくない」のに「行かねばならない」ときの色に似ている気がした。

 

「宗右衛」

 

「はい」

 

「家を、頼んだぞ」

 

 短く、それだけ言われる。

 

 頼まれていいような人間かどうか分からない。

 でも、その言葉は、少しだけ胸の中に残った。

 

 荷物らしい荷物も持たず、鱗滝さんは山道を下りていった。

 烏が、その肩にしがみつくようにしてついていく。

 

 灰の帯が、長く伸びていって、木々の間に紛れて見えなくなった。

 

 山に来てから、初めて、本当に一人きりになった。

 

 静かだった。

 風の音と、木の軋む音と、遠くの鳥の声だけがする。

 

 櫛那が下りたあとも、笑い声は消えたけれど、ここまで静かではなかった。

 鱗滝さんの足音や、天狗面の下の吐息が、いつもどこかにあった。

 

 今は、それすらない。

 

(……何もしなくていいなら、それはそれで楽だな)

 

 一瞬、そんな考えがよぎった。

 

 ああ、これで全部やめてしまえたら、どれだけ気が楽か。

 櫛那のことも、鬼殺隊のことも、稽古のことも、何もかも水に流してしまえたら。

 

 布団に潜り込んで、いっそ何日でも寝てしまえたら。

 

 そう思ったのに。

 

 次の日の朝も、目は、いつもの時間に勝手に覚めた。

 

 烏の声もしないのに、体が動く。

 外の明るさと、冷たい空気の気配だけで、だいたいの時刻が分かるようになってしまっていた。

 

 布団の中で丸くなって、目を閉じてみる。

 もう一度眠ろうとすると、気配だけ静かになって、頭の中がうるさくなった。

 

 櫛那が笑いながら言った言葉が、頭のどこかでくり返される。

 

『宗ちゃん、ちゃんとご飯食べてくださいね』

 

 夢の中で言われたのか、あの子が山を下りる前に言ったのか、もうよく分からない。

 ただ、その言葉だけが、妙に鮮やかに残っている。

 

(……水)

 

 布団から這い出る。

 

 桶を持って外に出ると、朝の空気が冷たく肺に入ってきた。

 沢へ向かう道は、何度も通った道だ。

 櫛那と一緒に歩いたときもある。

 

 山の木々は、当たり前の顔をして立っていた。

 その幹にも枝にも、色はついていない。

 ただの、木だ。

 

 沢で水を汲み、家に戻る。

 囲炉裏に埋めた種火を掘り出して、火を起こす。

 山菜を洗って鍋に放り込む。

 

 手は勝手に動く。

 何度も繰り返してきた動きだ。

 頭で何も考えなくても、体は覚えている。

 

 そうして出来上がった芋と、ご飯を、ひとりで食べる。

 

 昔は、それで充分に幸せだったはずだ。

 飯があって、屋根があって、雨風をしのげれば、それ以上望むものなんてなかった。

 

 それなのに。

 

 一口噛んだ瞬間、味がどこかへ行ってしまった。

 

 舌の上にあるのは、粥の柔らかい感触と、ぬるい湯気だけだ。

 塩気も、甘みも、何もない。

 

 喉の奥に押し込もうとすると、胃がきゅっと縮んで、押し返してくる感じがした。

 吐き出してしまった方が、ずっと楽だと思う。

 

 それでも、茶碗を置かなかった。

 

 箸を握る手に、力を込める。

 

『ちゃんとご飯食べてくださいね』

 

 櫛那の声が、耳の奥で響く。

 

 どうしてあんなことを、わざわざ言ったんだろう。

 本当に言われたのかどうかも分からないのに、そんなことを考える。

 

「……っ」

 

 勢いで、ぐいっと飲み込んだ。

 

 喉を通っていく感触が、苦かった。

 涙が出るかと思ったけれど、出なかった。

 

 なぜそんなことをしているのか、自分でも分からない。

 

 食べたところで、櫛那が戻ってくるわけでもないのに。

 食べなかったからといって、誰に責められるわけでもないのに。

 

 茶碗を空にして、深く息を吐いた。

 胸の中が、少しだけ空っぽになった気がした。

 

 腹が満たされた感覚をぼーっと感じながら、深く呼吸をする。

 

 何もしないまま一日を終えることも、できたはずだ。

 

 それでも、足は勝手に外に向いた。

 

 刀を持って、山道に出る。

 走る道も、斜面の勾配も、刀の重さも体に染みついている。

 

 ここで急いで足を出すと、過去の俺は転んだ。

 ここで枝を踏むと、鱗滝さんの仕掛けた罠に引っかかる。

 

 そういう場所を避けながら、ただ黙って走る。

 

 呼吸を数える。

 吸って、吐いて。

 吸って、吐いて。

 

 ひたすらに走り続けると、心が苦しいのか、肺が苦しいのか、だんだん分からなくなってくる。

 

 足がもつれて、斜面に手をついた。

 土の匂いが鼻に入る。

 膝も掌も痛い。

 

 それでも、立ち上がる。

 

(ここで全部やめたら)

 

 ふと、そんな考えが浮かんだ。

 

 家で一人、布団の中で泣き暮れていられたら、楽だったろうか。

 

 すべて投げ出して、ここで朽ちてしまえたら、こんな思いはしなくていいのだろうか。

 

 でも、と心の中で思う。

 

(ここで全部投げ出したら、

 鱗滝さんと、櫛那と過ごした日々を、

 全部、俺が駄目にしたことになる気がする)

 

 そんなことをしたら、二人と過ごした時間が、全部「無駄だった」と言ってしまうみたいで。

 

 それだけは、嫌だった。

 

 昼飯を食べた後もがむしゃらに、刀を振る。

 型も呼吸も、ぐちゃぐちゃになっている自覚はある。

 それでも、止めることができない。

 

 腕が上がらなくなるまで振って、足が前に出なくなるまで型を繰り返して、とうとう、地面に倒れ込んだ。

 

 視界いっぱいに空が見える。

 夕方が近いのか、少しだけ赤くなり始めていた。

 

「櫛那……肩、貸して」

 

 気付いたら、口が勝手に動いていた。

 

「櫛那……」

 

 誰もいない山の中で、情けない声が、ぽつんと落ちる。

 

 言った瞬間、胸の奥から何かが溢れ出した。

 

 涙だった。

 

 喉の奥がぎゅうっと締め付けられて、うまく息が吸えない。

 声を出そうとしても、うめき声みたいな音しか出てこない。

 

 櫛那はもういない。

 戻らない。

 分かっている。頭では、分かっている。

 

 でも、心の中には、まだ櫛那がいる。

 

 岩を叩く音。

 息を切らしながら、それでも笑っていた横顔。

 「宗右衛さんもできますよ」と、半分泣きながらも言い切った声。

 

 いなくなってしまったことと、

 それでも心の中にいることと。

 どちらにも、どう折り合いをつけたらいいのか分からない。

 

 それでも、生きている。

 

 腹は減る。

 

 汗をかけば、喉が渇く。

 

 どれだけ悲しんでも、悔やんでも、それでも、明日が来るのなら。

 

(……生きている間は)

 

 ふと、鱗滝さんの声が、耳の奥でよみがえった。

 

『自分に嘘はつくな』

 

 名前をもらった日のことだ。

 あたたかなご飯と、風呂を用意してくれた、優しい天狗面が囲炉裏の火に照らされて恐ろしく見えたことを覚えている。

 

『刀を持つなら、自分にだけは嘘をつくな。

 でないと、どこで足を踏み外したか分からんようになる』

 

 いつか言われたときはよく分からなかった言葉が、今になって胸に刺さる。

 

(櫛那を『追い越すよ』って、俺が言ったんだ)

 

 櫛那が最終選別に向かうと告げられたあの日。

 怖いと弱音をみせてくれた櫛那に、強がりで言った自分の声を思い出す。

 

 あれは、櫛那を見返したいだけの、子どもっぽい強がりだったのかもしれない。

 でも、その言葉に、櫛那はちゃんと笑ってくれた。

 

『私が戻ってくるまでに、もっともっと強くなっててください』

 

 櫛那は、そう言った。

 

(俺は)

 

 喉の奥に、言葉が溜まる。

 

(「俺」は)

 

 地面に手をついて、ゆっくりと上体を起こす。

 夕焼けの色が、木々の隙間から差し込んでくる。

 空が、櫛那の帯みたいな紅に染まり始めていた。

 

(「宗右衛」は)

 

 息を吸う。

 苦しくても、ちゃんと吸う。

 

 どんなに苦しくたって、今日を生きていかなくちゃいけないのなら。

 

「櫛那姉ちゃんにも……」

 

 声が震える。

 

「櫛那姉ちゃんにも、鱗滝さんにも……

 胸張って、自慢できるような明日にしてやる!!!!」

 

 誰も聞いていない山に向かって、叫んだ。

 声がひゅうっと空に吸い込まれていく。

 

「馬鹿みたいに、ガキみたいに、泣いても、騒いでも!!!!」

 

 櫛那なら、「そうですね」と笑って。

 鱗滝さんなら、「うるさい」と一言で済まされそうだ。

 

「俺は……っ、俺は……ッ!」

 

 その先は、言葉にならなかった。

 

 喉の奥がまたギュウと締まって、

 涙があふれてきて、

 うめき声みたいな泣き声しか出てこない。

 

 それでも、空を見上げる。

 

 櫛那の藤と、夕焼けの紅が、頭の中で重なっていく。

 あの子が刀を振るたびにまとっていた色と、今目の前に広がる空の色とが。

 

(俺も、あの色になりたい)

 

 櫛那の紅みたいに染まる空を見て、

 心のどこかで、そう思った。

 

 鬼殺隊になる。

 強くなる。

 櫛那が見ていた先まで、自分の足で行く。

 

 何度転んでも、泣きながらでもいい。

 それでも、自分で選んだ道に、嘘だけはつかない。

 

 夕焼けの空は、何も言わなかった。

 ただ、静かに、山の上を赤く染めていた。




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