鱗滝の養子   作:松雪草

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9話

 鱗滝さんが山を下りてから、どれくらい経っただろうか。

 

 指を折って数えようとしたが、すぐ帰ってくると言ったのだから、そのうち帰ってくるだろうと思って止めた。

 朝が来て、沢へ行って、水を汲んで、飯を作って、稽古をして。

 日が沈んだら飯を食べて、囲炉裏の火を見て、眠る。

 

 気がつけば、その繰り返しの中に、櫛那の姿だけがすっぽり抜けている。

 笑い声も、弱音も、文句もない。

 悲鳴を上げるのも、倒れ込んで息を切らすのも、全部ひとり分だ。

 

 ひとりでも、日々は勝手に過ぎていく。

 

 ある日の夕方、山道を走り終えた俺は、沢の水で汗を流し、刀を担いで家への道を戻っていた。

 足は棒みたいになっていて、膝から下の感覚が薄い。

 それでも、呼吸だけは拍を刻むのを止めない。

 

 吸って、吐いて。

 吸って、吐いて。

 

 山の斜面を登り切るころ、ふいに、別の足音が混じった。

 

 獣のものではない。

 人の足音だ。

 

 胸の奥が、どくん、と大きく跳ねた。

 

 木々の間を抜けて、下り坂の先を覗き込む。

 灰色の帯が一本、山道を登ってきていた。

 

 鱗滝さんだった。

 

 肩には、家の烏がとまっている。

 羽根をふくらませて、こちらを一度だけじっと見た。

 

 鱗滝さんの周りの灰は、前に見たときよりも分厚くなっていた。

 何枚も布を重ねたみたいに、内側を隠している。

 縁のあたりに、疲れた緑と、少しの青と、細い金が絡まっているのがちらちらと見えた。

 

「……鱗滝さん」

 

 喉の奥から、勝手に声が漏れた。

 

 声を出すのがなんだか久しぶりで、うまく口が回らない。

 「おかえりなさい」と言うべきなのに、その言葉が喉の手前でひっかかった。

 

 鱗滝さんは、こちらに気づくと一度だけ頷いた。

 天狗面の下の表情は、やっぱり見えない。

 

「走っとったか」

 

「……はい」

 

 何かが胸にこみあげてきて返事が少し途切れる。

 

「さぼらなかったか」

 

 それだけ言って、すこし肩を落とす気配がした。

 褒められたように聞こえるが、安堵と、どこか諦めが混ざったような声音だった。

 

 並んで家へ戻るあいだ、俺たちはほとんど口をきかなかった。

 山道はいつも通りで、木々も、空も、何も変わっていない。

 変わったのは、俺たちの方だけだ。

 

 家に着くと、鱗滝さんはまず囲炉裏のそばにしゃがみ込んだ。

 俺が朝埋めておいた種火を掘り出す。

 

「……ちゃんと残しとるな」

 

「はい。消したら怒られるなって」

 

 冗談めかして言ってみたつもりだったが、声はあまり冗談らしく響かなかった。

 

「怒りはせん。お前を投げるとき少し強く落とすだけだ」

 

 短く答える声に、ほんの少しだけ柔らかさが混ざった気がする。

 

 薪を増やすと、薄暗い囲炉裏に小さな火が灯る。

 枯れ枝がはぜて、ぱち、と乾いた音を立てた。

 

 芋を切り、山菜を洗い、鍋に放り込む。

 家の烏は梁に戻って、羽根を整えている。

 

「飯が出来たぞ」

 

「はい」

 

 鍋が静かに煮えるあいだ、俺たちは囲炉裏を挟んで座っていた。

 火の向こうで、天狗面がじっとこちらを向いている。

 

 言いたいことはいくつも浮かんでは消えた。

 

 どこへ行っていたのか。

 何をしていたのか。

 鬼殺隊には出さん、という言葉は本気だったのか。

 

 どれも喉の奥でつかえて、言葉にならなかった。

 

 芋に火が通り、粥にとろみがついたところで、鱗滝さんが口を開いた。

 

「宗右衛」

 

「はい」

 

「飯を食ったあとで、話をする」

 

「……はい」

 

 俺が言いたいことは筒抜けのようで、釘を刺された。

 

 茶碗によそった粥を、そっと口に運ぶ。

 山菜の匂いと、芋の甘みが舌に広がった。

 

 久しぶりの誰かと食べる飯は味がちゃんとした。

 けれど、「美味しいですね」と明るく笑う声は、どこからも聞こえない。

 

 喉を通っていく感触だけが、妙に重く感じられた。

 

 茶碗を空にして、もう一度深く息を吐く。

 囲炉裏の火が、ぱち、ぱちと小さな音を立てていた。

 

「――行ってきた」

 

 火を見つめたまま、鱗滝さんが言った。

 

「産屋敷様のところへ」

 

 産屋敷。

 

 鬼殺隊の頭であり、この国で鬼と戦う剣士たちを束ねている人。

 名前だけは何度か聞いていた。

 会ったことも、遠目に見たこともないけれど。

 

「育手を……やめたいと、申し上げに行った」

 

 囲炉裏の火が、ひゅうっと細く揺れた。

 

「本当に……やめるつもりだったんですか」

 

 自分でも驚くくらい、かすれた声が出た。

 

「ああ」

 

 鱗滝さんは、あっさりと頷いた。

 

「もう、見たくないと、思ってしまった。

 名札が増えていくのを。

 櫛那の次を、増やしたくなかった」

 

 灰の中で、黒がひとすじ、ゆっくり落ちていく。

 それを追いかけるように、細い金がふっと揺れた。

 

「それで、産屋敷様は、何て……?」

 

 知らず、思うよりも少し大きな声が出てしまった。

 

 鱗滝さんは、わずかに間をおいて静かに答える。

 

「『そう思うなら、やめなさい』と仰った」

 

「『あなたが苦しいなら、その道を無理に続ける必要はない』と。

 『あなたの心に従いなさい』と」

 

 それは、とても優しい言葉のように思えた。

 鱗滝さんの心を案じてくれた言葉だ。

 

 けれど、胸のどこかがざわざわと落ち着かなくなっていく。

 

「じゃあ……鱗滝さん、本当に育手やめちゃうんですか」

 

 気付いたら、口から飛び出していた。

 

 育手をやめたら、鬼殺隊に弟子を出さない。

 『鬼殺隊になれない』と、そのときは、そこまでしか考えなかった。

 

 でも――育手をやめたら、俺はどうなる。

 

 そこまで考えが辿りついた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 

「……宗右衛」

 

 鱗滝さんは、少しだけ顎を上げた。

 面の向こうの視線が、まっすぐこちらを向く。

 

「産屋敷様はな、お前のことを、気にかけておられた」

 

「俺の……?」

 

 思わず声が上ずった。

 

「え、なんでそんなすごい人が俺のことを……?

 顔も見たことないんですし、名前だって、知ってるかどうか……」

 

「知っておられる」

 

 きっぱりと言い切られる。

 

「櫛那の名も、お前の名も。

 鬼狩りを志した子らのことは、全て覚えておられる方だ。

 『宗右衛君は、今どうしていますか』と、真っ先に問われた」

 

 会ったこともない人が、自分の名前を口にしたという。

 その光景を思い浮かべようとして、うまくいかなかった。

 

「もし儂が育手をやめるなら――」

 

 鱗滝さんの声が、少しだけ低くなる。

 

「産屋敷様は、宗右衛。お前を儂の子として扱い、共に町で暮らせるように支えてくださると仰った」

 

「……え?」

 

 言葉の意味は分かる。

 けれど、すぐに頭の中へ入ってこなかった。

 

「儂が山を降りて、どこかで炭焼きでもして暮らす。

 宗右衛、お前は儂の子として、村でも町でも、人並みの暮らしをする。

 寺子屋へ行きたければ行かせてもらえるだろう。

 畑をやるもよし、職人に弟子入りするもよし。

 鬼のことなど、知らんで済む生き方を、選んでもよい」

 

 一つひとつの絵が、頭の中に浮かんでは消えていく。

 

 山の小屋ではない、別の家。

 雨風をしのげる屋根と、囲炉裏があって、畑を持つ。

 夜になれば、人の声が聞こえるような場所。

 鬼が出ない街道。

 毎晩、藤の花の香を焚かなくても歩ける道。

 

 そこに、鱗滝さんと俺がいる。

 

 道端で買った団子を齧っている自分の姿が、なぜか妙にはっきり浮かんで、思わず首を振った。

 

「……そんなの、急に言われても」

 

 言いながら、胸の中がぐらぐら揺れているのが分かる。

 

 鬼殺隊になるのは、怖い。

 死ぬのは嫌だ。

 

 だけど。

 

 だけれど。

 

「宗右衛」

 

 名前を呼ばれる。

 

「どうしたい」

 

 それは、とても静かな問いだった。

 

 育手をやめるか、続けるか。

 山を降りるか、残るか。

 鬼と戦う道を歩くか、背を向けるか。

 

 どれも、鱗滝さんが勝手に決めてしまうこともできるはずだ。

 弟子一人のために、わざわざ頭を下げに行くような人だ。

 

 それなのに、産屋敷様も、鱗滝さんも、「お前はどうしたい」と聞いてくる。

 

 囲炉裏の火が、視界の中で揺れた。

 その向こうに、櫛那の顔が浮かぶ。

 

 一緒に岩を叩いていた綺麗な横顔と、まっすぐに伸びた藤の色が見えた気がした。

 

 「怖い」と弱音を漏らしてくれた夜。それでも翌朝には少し震えながらも、刀を握っていた手を思い出す。

 

『私が戻ってくるまでに、もっともっと強くなっててください』

 

 櫛那は戻ってこなかった。

 でも、その言葉は、今も胸の奥に突き刺さったままだ。

 

 あの夜、俺は何と答えただろう。

 

(追い越すよって……言った)

 

 櫛那を追い越す。

 今は追い越されたけど、強くなって、追い越してやるって。

 あれは子どもっぽい強がりだったのかもしれない。

 

 けれど、櫛那はちゃんと笑ってくれた。

 

 泣きそうな顔をして、それでも笑っていた。

 

 俺は『足元、見とくから』と、そう言ったんだ。

 

 櫛那が転びそうになったら、挫けそうになったら、俺が支えるからと。

 

 胸の奥がぎゅっと縮む。

 喉の奥に、言葉が何かつかえている。

 

「……俺は」

 

 自分の声が、遠くから聞こえてくるみたいだった。

 

「俺は、鬼殺隊に……なりたいです」

 

 言った瞬間、囲炉裏の火がぱちんと大きく弾けた。

 

 鱗滝さんの灰が、びくりと揺れる。

 青と黒と金が、ごちゃごちゃに混ざって渦を巻いた。

 

「怖いです。

 死ぬのは、嫌です」

 

 一言言うごとに、喉の奥が痛くなる。

 

「でも、俺……自分で言ったことに、嘘つきたくないんです」

 

 鱗滝さんが、はっとしたようにこちらを見る気配がした。

 

「櫛那姉ちゃんに、『追い越すよ』って言いました。

 鱗滝さんにも、『強くなる』って言いました。

 ここで山を降りて、何もかもやめたら、あのときの俺が嘘つきになっちゃいます」

 

 拳を握る。

 爪が掌に食い込んでも、痛みはよく分からない。

 

「町で暮らすのが、嫌なわけじゃないです。

 鱗滝さんと一緒に、炭焼きして生きるのも、きっと幸せだと思います。

 でも、それは……全部終わってからで、いいです」

 

「全部……?」

 

「鬼を、斬って。

 櫛那みたいに、最後まで足掻いて。

 それでも生き残って、もう刀を握らなくていいって思えるくらいになって……それからでも遅くないと思います」

 

 自分で言いながら、無茶を言っている自覚はある。

 そんな日が来るかどうかも分からない。

 

 でも、そう思ってしまったのだから、仕方がない。

 

「だから、俺……ここに残りたいです。

 刀を振って、強くなりたいです。

 鬼殺隊に、なりたいです」

 

 囲炉裏の火の向こうで、灰が静かに揺れた。

 

 長い沈黙が落ちる。

 外では、夜の風が木々を揺らしていた。

 

 やがて、鱗滝さんが深く息を吐いた。

 

「……儂はな」

 

 低い声が、火の上を渡ってくる。

 

「儂は、もう二度と弟子を鬼殺隊には出さんと、そう言ったな」

 

 あの夜と同じ言葉だ。

 けれど、今は少し違う響き方がした。

 

「名札が増えていくのは、もう耐えられん、と。

 お前を、鬼の下へ送り出すのが恐ろしい、と。

 そう産屋敷様にも申した」

 

 灰の中に、黒がまたひとつ落ちる。

 

「だが」

 

 そこで言葉が切れた。

 

 火の光が、天狗面の片側を照らしている。

 その奥で、何かが揺れたような気がした。

 

「『最後に決めるのは、子どもたちです』と、あのお方は仰った。

 『進むか、戻るか。戦うか、逃げるか。

 その時々にできることをしてやりなさい』と」

 

 産屋敷様の声ではなく、鱗滝さんの声だ。

 けれど、その言葉の端々に、不思議な温度が混ざっている。

 

「嘘をついたのは、儂の方だったな」

 

 灰の中で、金が細く震える。

 

 鱗滝さんが深く息を吐く音を聞きながら、俺は少し拗ねたような声色になるように口を開く。

 

「怖くとも、痛くとも、それでも行くと言えるかって。

 死と隣り合わせとなっても、それでも鬼を斬りにいけるのかって。

 ……そう言ったのは、鱗滝さんですよ」

 

「宗右衛」

 

「……はい」

 

「儂は、お前に死んでほしくない」

 

「俺だって、死にたくないです」

 

 即答だった。

 

「だからこそ――」

 

 鱗滝さんは、ゆっくりと言葉を区切った。

 

「今すぐ鬼殺隊に出すことは、できん」

 

 一拍、間が空いた。

 

「宗右衛の身体が出来上がるまで、あと数年はかかる。

 骨も筋も、まだ伸びている途中。

 今のまま藤襲山へ行けば、鬼を斬る前に身体が壊れる」

 

「……はい」

 

 反論はしなかった。

 

 まだ十一歳の身体だ。

 真剣を振るだけでも、全身で振らねばならない。

 鬼を前にした時、わずかに足がすくむだけで、俺の命に鬼の指がかかるだろう。

 

「それまでは、山に残る。

 今まで通り……いや、それ以上に鍛える」

 

 囲炉裏の火が、ぱち、と勢いを増した。

 

「息ができんくらいまで走らせる。

 腕が上がらんくらいまで振らせる。

 血の味がするまで呼吸を刻ませる。

 それでもなお、お前が『行きたい』と言うなら――」

 

 そこで、言葉が途切れた。

 

 灰の中の金が、細く細く震えている。

 その周りを、青がゆっくりと取り巻いていく。

 

「そのときは、また考える」

 

 「行ってよい」とは、言わない。

 「絶対に出さん」とも、言わない。

 

 それは、約束とも、猶予ともつかない言葉だった。

 

 けれど、俺には、それで十分だった。

 

「……はい」

 

 小さく返事をする。

 

 今はまだ、足らない。

 櫛那の背中まで、まるで届いていない。

 

 だったら、やることは決まっている。

 

 もっと走る。

 もっと振る。

 もっと、息を吸って、吐く。

 

 櫛那が見ていた先まで、自分の足で行けるように。

 

「明日からは覚悟しておけ」

 

 鱗滝さんが、ぽつりと言った。

 冗談とも本気ともつかない口調だった。

 

 俺は小さく悲鳴をあげる。

 

 灰の縁に、かすかな金がちろりと灯る。

 

「宗右衛も今日はもう休め。儂も今日は早く休む」

 

「……はい」

 

 櫛那と一緒に悲鳴を上げていた日々が、胸の中に浮かんだ。

 息を揃えて倒れ込んで、くだらないことで笑い合った時間が。

 

 もう戻らない。

 戻らないけれど、消えもしない。

 

 いつかは、そんなことを考えなくなる日が来るのだろうか。

 

 そんなことを思いながら、櫛那のいない日常に、俺たちは戻っていく。

 

 

―――

 

 

 次の日から、本当に稽古は厳しくなった。

 

 山道を走る距離は伸び、罠は増えた。

 模擬戦の時も木刀から真剣に持ち替える時間が、少しずつ長くなっていく。

 

 悲鳴を上げる声はひとり分しかないのに、山にはいつも通りの悲鳴が反響していた。

 時々、自分の声に櫛那の声が混ざって聞こえる気がして、思わず笑ってしまうこともあった。

 

 笑ってしまってから、涙が出ることもあった。

 

 それでも、刀を振るのをやめなかった。

 

 沢の水は冷たく、芋の味は少しずつ戻ってきた。

 囲炉裏の火の向こうで、天狗面は変わらずこちらをじっと見ている。

 

 鱗滝さんの周りの灰は、いつからか縁に暗い青が漂っていた。

 けれど、その中にはいつも、細い金が絡みついていた。

 

 誰かを守りたいと願う色。

 何度傷ついても、まだ手を伸ばそうとする色。

 

 櫛那の名札は、今も机の上にある。

 梁の上には、まだ上げる気にはなれなかったから、俺がわがままを言った。

 

 あの日から名札は増えていない。

 

 増やさないように。

 でも、このまま終わらせないように。

 

 その両方を抱えながら、俺は今日も刀を振る。

 

 櫛那姉ちゃん。

 ちゃんと追い越すから、と。

 

 今日も、胸を張ってそう言えるようになるまで――。

 

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