鱗滝さんが山を下りてから、どれくらい経っただろうか。
指を折って数えようとしたが、すぐ帰ってくると言ったのだから、そのうち帰ってくるだろうと思って止めた。
朝が来て、沢へ行って、水を汲んで、飯を作って、稽古をして。
日が沈んだら飯を食べて、囲炉裏の火を見て、眠る。
気がつけば、その繰り返しの中に、櫛那の姿だけがすっぽり抜けている。
笑い声も、弱音も、文句もない。
悲鳴を上げるのも、倒れ込んで息を切らすのも、全部ひとり分だ。
ひとりでも、日々は勝手に過ぎていく。
ある日の夕方、山道を走り終えた俺は、沢の水で汗を流し、刀を担いで家への道を戻っていた。
足は棒みたいになっていて、膝から下の感覚が薄い。
それでも、呼吸だけは拍を刻むのを止めない。
吸って、吐いて。
吸って、吐いて。
山の斜面を登り切るころ、ふいに、別の足音が混じった。
獣のものではない。
人の足音だ。
胸の奥が、どくん、と大きく跳ねた。
木々の間を抜けて、下り坂の先を覗き込む。
灰色の帯が一本、山道を登ってきていた。
鱗滝さんだった。
肩には、家の烏がとまっている。
羽根をふくらませて、こちらを一度だけじっと見た。
鱗滝さんの周りの灰は、前に見たときよりも分厚くなっていた。
何枚も布を重ねたみたいに、内側を隠している。
縁のあたりに、疲れた緑と、少しの青と、細い金が絡まっているのがちらちらと見えた。
「……鱗滝さん」
喉の奥から、勝手に声が漏れた。
声を出すのがなんだか久しぶりで、うまく口が回らない。
「おかえりなさい」と言うべきなのに、その言葉が喉の手前でひっかかった。
鱗滝さんは、こちらに気づくと一度だけ頷いた。
天狗面の下の表情は、やっぱり見えない。
「走っとったか」
「……はい」
何かが胸にこみあげてきて返事が少し途切れる。
「さぼらなかったか」
それだけ言って、すこし肩を落とす気配がした。
褒められたように聞こえるが、安堵と、どこか諦めが混ざったような声音だった。
並んで家へ戻るあいだ、俺たちはほとんど口をきかなかった。
山道はいつも通りで、木々も、空も、何も変わっていない。
変わったのは、俺たちの方だけだ。
家に着くと、鱗滝さんはまず囲炉裏のそばにしゃがみ込んだ。
俺が朝埋めておいた種火を掘り出す。
「……ちゃんと残しとるな」
「はい。消したら怒られるなって」
冗談めかして言ってみたつもりだったが、声はあまり冗談らしく響かなかった。
「怒りはせん。お前を投げるとき少し強く落とすだけだ」
短く答える声に、ほんの少しだけ柔らかさが混ざった気がする。
薪を増やすと、薄暗い囲炉裏に小さな火が灯る。
枯れ枝がはぜて、ぱち、と乾いた音を立てた。
芋を切り、山菜を洗い、鍋に放り込む。
家の烏は梁に戻って、羽根を整えている。
「飯が出来たぞ」
「はい」
鍋が静かに煮えるあいだ、俺たちは囲炉裏を挟んで座っていた。
火の向こうで、天狗面がじっとこちらを向いている。
言いたいことはいくつも浮かんでは消えた。
どこへ行っていたのか。
何をしていたのか。
鬼殺隊には出さん、という言葉は本気だったのか。
どれも喉の奥でつかえて、言葉にならなかった。
芋に火が通り、粥にとろみがついたところで、鱗滝さんが口を開いた。
「宗右衛」
「はい」
「飯を食ったあとで、話をする」
「……はい」
俺が言いたいことは筒抜けのようで、釘を刺された。
茶碗によそった粥を、そっと口に運ぶ。
山菜の匂いと、芋の甘みが舌に広がった。
久しぶりの誰かと食べる飯は味がちゃんとした。
けれど、「美味しいですね」と明るく笑う声は、どこからも聞こえない。
喉を通っていく感触だけが、妙に重く感じられた。
茶碗を空にして、もう一度深く息を吐く。
囲炉裏の火が、ぱち、ぱちと小さな音を立てていた。
「――行ってきた」
火を見つめたまま、鱗滝さんが言った。
「産屋敷様のところへ」
産屋敷。
鬼殺隊の頭であり、この国で鬼と戦う剣士たちを束ねている人。
名前だけは何度か聞いていた。
会ったことも、遠目に見たこともないけれど。
「育手を……やめたいと、申し上げに行った」
囲炉裏の火が、ひゅうっと細く揺れた。
「本当に……やめるつもりだったんですか」
自分でも驚くくらい、かすれた声が出た。
「ああ」
鱗滝さんは、あっさりと頷いた。
「もう、見たくないと、思ってしまった。
名札が増えていくのを。
櫛那の次を、増やしたくなかった」
灰の中で、黒がひとすじ、ゆっくり落ちていく。
それを追いかけるように、細い金がふっと揺れた。
「それで、産屋敷様は、何て……?」
知らず、思うよりも少し大きな声が出てしまった。
鱗滝さんは、わずかに間をおいて静かに答える。
「『そう思うなら、やめなさい』と仰った」
「『あなたが苦しいなら、その道を無理に続ける必要はない』と。
『あなたの心に従いなさい』と」
それは、とても優しい言葉のように思えた。
鱗滝さんの心を案じてくれた言葉だ。
けれど、胸のどこかがざわざわと落ち着かなくなっていく。
「じゃあ……鱗滝さん、本当に育手やめちゃうんですか」
気付いたら、口から飛び出していた。
育手をやめたら、鬼殺隊に弟子を出さない。
『鬼殺隊になれない』と、そのときは、そこまでしか考えなかった。
でも――育手をやめたら、俺はどうなる。
そこまで考えが辿りついた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……宗右衛」
鱗滝さんは、少しだけ顎を上げた。
面の向こうの視線が、まっすぐこちらを向く。
「産屋敷様はな、お前のことを、気にかけておられた」
「俺の……?」
思わず声が上ずった。
「え、なんでそんなすごい人が俺のことを……?
顔も見たことないんですし、名前だって、知ってるかどうか……」
「知っておられる」
きっぱりと言い切られる。
「櫛那の名も、お前の名も。
鬼狩りを志した子らのことは、全て覚えておられる方だ。
『宗右衛君は、今どうしていますか』と、真っ先に問われた」
会ったこともない人が、自分の名前を口にしたという。
その光景を思い浮かべようとして、うまくいかなかった。
「もし儂が育手をやめるなら――」
鱗滝さんの声が、少しだけ低くなる。
「産屋敷様は、宗右衛。お前を儂の子として扱い、共に町で暮らせるように支えてくださると仰った」
「……え?」
言葉の意味は分かる。
けれど、すぐに頭の中へ入ってこなかった。
「儂が山を降りて、どこかで炭焼きでもして暮らす。
宗右衛、お前は儂の子として、村でも町でも、人並みの暮らしをする。
寺子屋へ行きたければ行かせてもらえるだろう。
畑をやるもよし、職人に弟子入りするもよし。
鬼のことなど、知らんで済む生き方を、選んでもよい」
一つひとつの絵が、頭の中に浮かんでは消えていく。
山の小屋ではない、別の家。
雨風をしのげる屋根と、囲炉裏があって、畑を持つ。
夜になれば、人の声が聞こえるような場所。
鬼が出ない街道。
毎晩、藤の花の香を焚かなくても歩ける道。
そこに、鱗滝さんと俺がいる。
道端で買った団子を齧っている自分の姿が、なぜか妙にはっきり浮かんで、思わず首を振った。
「……そんなの、急に言われても」
言いながら、胸の中がぐらぐら揺れているのが分かる。
鬼殺隊になるのは、怖い。
死ぬのは嫌だ。
だけど。
だけれど。
「宗右衛」
名前を呼ばれる。
「どうしたい」
それは、とても静かな問いだった。
育手をやめるか、続けるか。
山を降りるか、残るか。
鬼と戦う道を歩くか、背を向けるか。
どれも、鱗滝さんが勝手に決めてしまうこともできるはずだ。
弟子一人のために、わざわざ頭を下げに行くような人だ。
それなのに、産屋敷様も、鱗滝さんも、「お前はどうしたい」と聞いてくる。
囲炉裏の火が、視界の中で揺れた。
その向こうに、櫛那の顔が浮かぶ。
一緒に岩を叩いていた綺麗な横顔と、まっすぐに伸びた藤の色が見えた気がした。
「怖い」と弱音を漏らしてくれた夜。それでも翌朝には少し震えながらも、刀を握っていた手を思い出す。
『私が戻ってくるまでに、もっともっと強くなっててください』
櫛那は戻ってこなかった。
でも、その言葉は、今も胸の奥に突き刺さったままだ。
あの夜、俺は何と答えただろう。
(追い越すよって……言った)
櫛那を追い越す。
今は追い越されたけど、強くなって、追い越してやるって。
あれは子どもっぽい強がりだったのかもしれない。
けれど、櫛那はちゃんと笑ってくれた。
泣きそうな顔をして、それでも笑っていた。
俺は『足元、見とくから』と、そう言ったんだ。
櫛那が転びそうになったら、挫けそうになったら、俺が支えるからと。
胸の奥がぎゅっと縮む。
喉の奥に、言葉が何かつかえている。
「……俺は」
自分の声が、遠くから聞こえてくるみたいだった。
「俺は、鬼殺隊に……なりたいです」
言った瞬間、囲炉裏の火がぱちんと大きく弾けた。
鱗滝さんの灰が、びくりと揺れる。
青と黒と金が、ごちゃごちゃに混ざって渦を巻いた。
「怖いです。
死ぬのは、嫌です」
一言言うごとに、喉の奥が痛くなる。
「でも、俺……自分で言ったことに、嘘つきたくないんです」
鱗滝さんが、はっとしたようにこちらを見る気配がした。
「櫛那姉ちゃんに、『追い越すよ』って言いました。
鱗滝さんにも、『強くなる』って言いました。
ここで山を降りて、何もかもやめたら、あのときの俺が嘘つきになっちゃいます」
拳を握る。
爪が掌に食い込んでも、痛みはよく分からない。
「町で暮らすのが、嫌なわけじゃないです。
鱗滝さんと一緒に、炭焼きして生きるのも、きっと幸せだと思います。
でも、それは……全部終わってからで、いいです」
「全部……?」
「鬼を、斬って。
櫛那みたいに、最後まで足掻いて。
それでも生き残って、もう刀を握らなくていいって思えるくらいになって……それからでも遅くないと思います」
自分で言いながら、無茶を言っている自覚はある。
そんな日が来るかどうかも分からない。
でも、そう思ってしまったのだから、仕方がない。
「だから、俺……ここに残りたいです。
刀を振って、強くなりたいです。
鬼殺隊に、なりたいです」
囲炉裏の火の向こうで、灰が静かに揺れた。
長い沈黙が落ちる。
外では、夜の風が木々を揺らしていた。
やがて、鱗滝さんが深く息を吐いた。
「……儂はな」
低い声が、火の上を渡ってくる。
「儂は、もう二度と弟子を鬼殺隊には出さんと、そう言ったな」
あの夜と同じ言葉だ。
けれど、今は少し違う響き方がした。
「名札が増えていくのは、もう耐えられん、と。
お前を、鬼の下へ送り出すのが恐ろしい、と。
そう産屋敷様にも申した」
灰の中に、黒がまたひとつ落ちる。
「だが」
そこで言葉が切れた。
火の光が、天狗面の片側を照らしている。
その奥で、何かが揺れたような気がした。
「『最後に決めるのは、子どもたちです』と、あのお方は仰った。
『進むか、戻るか。戦うか、逃げるか。
その時々にできることをしてやりなさい』と」
産屋敷様の声ではなく、鱗滝さんの声だ。
けれど、その言葉の端々に、不思議な温度が混ざっている。
「嘘をついたのは、儂の方だったな」
灰の中で、金が細く震える。
鱗滝さんが深く息を吐く音を聞きながら、俺は少し拗ねたような声色になるように口を開く。
「怖くとも、痛くとも、それでも行くと言えるかって。
死と隣り合わせとなっても、それでも鬼を斬りにいけるのかって。
……そう言ったのは、鱗滝さんですよ」
「宗右衛」
「……はい」
「儂は、お前に死んでほしくない」
「俺だって、死にたくないです」
即答だった。
「だからこそ――」
鱗滝さんは、ゆっくりと言葉を区切った。
「今すぐ鬼殺隊に出すことは、できん」
一拍、間が空いた。
「宗右衛の身体が出来上がるまで、あと数年はかかる。
骨も筋も、まだ伸びている途中。
今のまま藤襲山へ行けば、鬼を斬る前に身体が壊れる」
「……はい」
反論はしなかった。
まだ十一歳の身体だ。
真剣を振るだけでも、全身で振らねばならない。
鬼を前にした時、わずかに足がすくむだけで、俺の命に鬼の指がかかるだろう。
「それまでは、山に残る。
今まで通り……いや、それ以上に鍛える」
囲炉裏の火が、ぱち、と勢いを増した。
「息ができんくらいまで走らせる。
腕が上がらんくらいまで振らせる。
血の味がするまで呼吸を刻ませる。
それでもなお、お前が『行きたい』と言うなら――」
そこで、言葉が途切れた。
灰の中の金が、細く細く震えている。
その周りを、青がゆっくりと取り巻いていく。
「そのときは、また考える」
「行ってよい」とは、言わない。
「絶対に出さん」とも、言わない。
それは、約束とも、猶予ともつかない言葉だった。
けれど、俺には、それで十分だった。
「……はい」
小さく返事をする。
今はまだ、足らない。
櫛那の背中まで、まるで届いていない。
だったら、やることは決まっている。
もっと走る。
もっと振る。
もっと、息を吸って、吐く。
櫛那が見ていた先まで、自分の足で行けるように。
「明日からは覚悟しておけ」
鱗滝さんが、ぽつりと言った。
冗談とも本気ともつかない口調だった。
俺は小さく悲鳴をあげる。
灰の縁に、かすかな金がちろりと灯る。
「宗右衛も今日はもう休め。儂も今日は早く休む」
「……はい」
櫛那と一緒に悲鳴を上げていた日々が、胸の中に浮かんだ。
息を揃えて倒れ込んで、くだらないことで笑い合った時間が。
もう戻らない。
戻らないけれど、消えもしない。
いつかは、そんなことを考えなくなる日が来るのだろうか。
そんなことを思いながら、櫛那のいない日常に、俺たちは戻っていく。
―――
次の日から、本当に稽古は厳しくなった。
山道を走る距離は伸び、罠は増えた。
模擬戦の時も木刀から真剣に持ち替える時間が、少しずつ長くなっていく。
悲鳴を上げる声はひとり分しかないのに、山にはいつも通りの悲鳴が反響していた。
時々、自分の声に櫛那の声が混ざって聞こえる気がして、思わず笑ってしまうこともあった。
笑ってしまってから、涙が出ることもあった。
それでも、刀を振るのをやめなかった。
沢の水は冷たく、芋の味は少しずつ戻ってきた。
囲炉裏の火の向こうで、天狗面は変わらずこちらをじっと見ている。
鱗滝さんの周りの灰は、いつからか縁に暗い青が漂っていた。
けれど、その中にはいつも、細い金が絡みついていた。
誰かを守りたいと願う色。
何度傷ついても、まだ手を伸ばそうとする色。
櫛那の名札は、今も机の上にある。
梁の上には、まだ上げる気にはなれなかったから、俺がわがままを言った。
あの日から名札は増えていない。
増やさないように。
でも、このまま終わらせないように。
その両方を抱えながら、俺は今日も刀を振る。
櫛那姉ちゃん。
ちゃんと追い越すから、と。
今日も、胸を張ってそう言えるようになるまで――。