カフタンの夕べの、翌朝。
「中尉、貴様はイスマイル軍についてどう思うか?」
公使館の食堂でけだるげな声をしながらコボルトの大尉がそう言った。
「エアハルトの射程外からの弾幕に連発式小銃、精強無比なコサック。敵にしたら困難な相手です。ロヴァルナが苦戦しているのもうなずけます」
「貴様は将軍閣下の術にまんまとはまったな。いいか、あの場にいなかった兵科を考えてみろ」
「……砲兵。砲兵だけ見てないですね」
「そうだ。そしてそれこそが我々オルクセン軍とイスマイル軍の決定的な違いだ。イスマイルの砲兵はオルクセンから輸入した砲を使っているが、どれも輸出用の鋼製のものだ。一方我々はモリム鋼製の砲を大量に装備している。彼我が衝突したらどうなる?」
「砲兵の準備射撃で、イスマイル軍は壊滅します、か」
「正解だ。イスマイルのマルティニでの曲射は、砲の不足を埋める小手先にすぎんよ。我々の大砲ならもっと遠くから、より正確に当てられるんだからな」
イスマイル軍の教練を見た時以上の衝撃が彼女に走った。いったい私はあの場で何を見ていたのか、と。
「貴様の胸にぶら下がってる従軍記章は飾りかね。いいか中尉、貴様は牝だからという理由でちやほやされるためだけにここに呼ばれたんじゃない。ベレリアントでの戦訓をイスマイルとロヴァルナの戦争の分析に生かすために呼んだんだ。そのことを忘れられたら困るぜ」
悔しいが、大尉の言っていることは正論だった。お湯で割らない濃い紅茶を流し込んで、彼女は目を醒ます。かわいい見た目でいい加減な性格だが、だてに参謀記章をつけているわけではないようだった。
「中尉、貴様は視野狭窄なところがあるな。今何をすべきかわかるか?」
「早速自室に戻りイスマイルの戦力について報告書を書きたくあります」
席を立とうとする彼女に大尉がゆるい声で言った。
「ばかものぉ。今すべきは公使館の旨い朝飯を味わうことに決まってるだろうがぁ。せっかく戦地からこの美食の都に赴任したんだぞぉ? 飯を残すなんて銃殺刑もんだぞぉ」
ははは、やはり大尉は大尉だった。
今日の朝食はゆで卵に数種類のチーズ、オリーブ、生野菜のサラダ、サラミに干し果物、そして焼き立てパンにクリームと蜂蜜だ。宴会の翌朝なのでいつもよりは若干質素だが、戦地に比べればバはるかに贅沢な食事だ。彼女にはもうじき、観戦武官として戦地に向かう任務が待っている。そうしたら、こんな優雅な朝食は望めないに違いない。
公使館の朝食に毎回出てくる、シミットという胡麻パンが彼女は好きだった。オルクセン式のプレッツェルに似た見た目をしているが、もっと外はパリパリで中はふわふわだ。故郷からオルクセンに来たばかりの時は白パンが食べられるだけでみなと慌てていたというのに、今ではパンの種類にあれこれ思うようになったのだから我ながら舌が肥えてたというものだ。
大尉の方を見ると、朝からチーズとオリーブをつまみにラクを飲んでいる。まったくこの不良軍人め。まぁこんな牡以下の節穴だった自分は恥じるしかないが。
「中尉ぃ、今日の午後は出かけるからなぁ。昼になったら起こしてくれよぉ」
そういいながら食事を終えた大尉は部屋に戻っていった。朝酒をきめたら二度寝としけこむ気か。まったく本当に不良軍人だなこいつは。
「お嬢さん、昼までにこれを読んでおいてくださいね」
食後のコーヒーを飲んでいると、いつの間にか現れた書記官殿がそう言った。そういえば、昨日は兵舎で途中で別れたから別行動だったな。文官には文官の職分があるのだろう。などと思いつつ、渡された書類をコーヒーを片手に飲む。粉ごと煮だしたイスマイル式のコーヒーはゆっくりしか飲めないので、こういう時にはいい。
書類の見出しには、「軍機。定期報告。イスマイル軍の戦術と戦略、および軍内情勢」とある。署名は大尉じゃないか。日付は今日だ。カフタンの夕べでしこたま飲んだ後、公館に戻ってからこんなものを書き上げていたのか。それは朝が眠いわけである。
目を通してさらに驚かされた。イスマイル装備の利点と弱点、それを踏まえたオルクセン本国への新装備の提案。そして何より、カフタンの夕べで交わされていた会話の分析。彼女にとってはただの楽しい戦場帰りの軍人としての宴会であったが、大尉にとってはあの場も戦場であったのだ。
出席者でわかる軍内の派閥から、雑談から垣間見える財政状況まで、事細かに分析されている。なんだあの大尉、とんだ昼行燈じゃないか。よく考えてみれば、ただの不良軍人が駐在武官などしているわけがなかったか。大尉がいつも昼間眠そうなのは、きっと朝まで夜なべで仕事をしているからなのだろう。
イスマイル軍の新式戦術がベレリアントでの戦訓を全く反映していない、というのは今更ながらにしっくり来た。彼らは塹壕を掘らないのだ。土嚢で簡単な防御陣地は作るが、砲撃に備えて上まで覆う本格的な塹壕にまでは至っていない。ただし、事前に測距して目印を置く手法はオルクセン軍も取り入れるべきであるとあの牡は書いていた。
さて、それはそれとしてである。分厚い報告書を読んでいるちに昼になったので、大尉を起こしに行く。本来士官を呼びに行くのはもっと下級の職階のものの仕事なのだろうが、結局このマクシムープルの公使館は緩い職場だし、彼女もそのゆるさにすっかり慣れてしまっているのだった。
「大尉、起きてください。昼ですよ」
「あぁ中尉かぁ、今行くぞぉ」
ガタゴトと物音がして、寝ぼけ眼のコボルトが出てくる。最近少し伸びてきた毛並みは寝ぐせだらけだ。扉の隙間から見えた部屋の中には、大量の本と書類、そして酒瓶が転がっていた。インクと酒の強いにおいが中から漂ってくる。
「大尉、身だしなみを整えて出直して下さい」
「まったく中尉は細かいぜぇ」
部屋の中からシャワーを浴びる水音がして、30分ほどたってふかふかの毛並みになった大尉が出てきた。石鹸のいい匂いがする。いや、牡としての魅力は一切感じないが。
「それで大尉、今日はどちらに行かれるのですか。士官学校ですか?」
大尉のレポートに連隊上がりの将校と士官学校卒の対立が、と書かれていたので彼女はそう尋ねた。
「はははっ、違う違う。一週間後に本国宛の外交行李の発送があるだろ? そこにいくらか、私物のイスマイルの記念品を入れていいことになっている。中尉の原隊ももうじきヴァルダーベルクに戻るからな。貴様はここでうまい飯を食って優雅に暮らしとるからなぁ。ディアネンの宿営地で粗食に耐えてきたやつらに贈り物をたっぷりしないとたたられるぞぉ?」
わはは、そりゃ無理もないことだ。終戦直後のディアネンは、オルクセン軍の宿営地ですら食料に制限があったからな。ここで飽食三昧していたことがばれたら呪われそうだ。
それに、だ。戦死した仲間への供物が、何より必要だった。そんなことも忘れていた自分は本当に視野狭窄だと思いながら、彼女は大尉と街へと出たのだった。
「公使館の秘密」につづく