大尉と前日と同じ公使館近くの船着き場から乗合船に乗るが、今日の行き先は兵舎のある海峡の向こう側の別大陸ではない。マクシムープルの街は別大陸の東側、公使館や新宮殿のある新市街、そして新市街と同じ星欧大陸に属しながら細長く奥深い湾で分けられる旧市街に三分される。
この日やってきたのは旧市街北側の、湾に面した貿易港である。イスマイル帝国は広大だ。その広大な領土の全土から、そしてさらに東方のマウリアからも運ばれてきた物資が行き交う。だから当然そこには貿易街が生まれる。ムスル商店街という。
「大尉、これって何ラングですか?」
「中尉ぃちょっと待ってろぉ。ここでは値段は交渉で決まるんだぞぉ」
このムスル商店街で扱われる品々は鎖国していたベレリアント半島の、それも山奥の寒村に育った彼女には珍しいものばかりだ。とりわけ故郷ではものすごい高値で取引されていた香辛料が山と積まれている。ちょっとばかり外交行李に忍ばせて本国の姉妹や戦友に送りたいと思ったのは仕方のないことだろう。
「中尉、ここは高すぎる。ほかに行こう」
大尉がなぜかイスマイル語でそう言いながら問屋に背を向けて歩き始めるのでついていこうとすると、商店主が何か大声で叫んでくる。早口で訛ったイスマイル語なので何を言っているかはわからない。
「かかったぞぉ」
大尉が今度は低地オルク語でぼそっとそうつぶやく。その顔はなんとなく笑みを秘めているように見えた。再び問屋の方に戻った大尉は、商店主と何度かやり取りしてまた彼女の方に来る。
「中尉ぃやったぞぉ。相場の5倍吹っ掛けてきたが相場の8割で買ってやった」
香辛料をあれこれ買ったというので値段を聞いてみると、どれもものすごく安い。この牡は相場の8割などと言っているが、オルクセンの市場価格と比べたら1割にも満たないではないか。まして彼女の育った寒村で行商人から買っていた時の値段と比べたらタダみたいなものである。
「これをな、外交行李でオルクセンに知り合いに送るんだ。そいつがさらに知り合いに友達価格で譲って、その儲けのいくらかが俺の口座に入るってわけだ。何せ外交行李は関税も検疫もないからなぁ」
おいおい、純然たる密輸じゃないか。しかもさらに話を聞くと、そういった密輸取り締まるべき本国の憲兵にも軍文両方の官僚たちにも、彼の顧客がいるのだというのだから手に負えない。これはさすがに告発すべきじゃないか?
「いいか中尉ぃ、この売上は公使館の軍資金でもあるんだぞぉ。何せこんな辺鄙な公使館に割り当てられる経費は少ないからなぁ。自活しなきゃいけんし、公式の帳簿にない資金は便利だからなぁ」
なんてこった。公使館ぐるみの密輸組織である。しかし彼女が清廉さを失わざるを得ない言葉が続く。
「今回の外交行李ではアンファングリアにも送るぞぉ。戦果を挙げたから今後軍内での発言力は強まるだろうからな、初回は特別価格だ。もちろん、中尉の献身は書簡に書くつもりだからなぁ」
不都合なことを書かれたくなかったら黙っていろ、原隊に便宜は計ってやる、というわけだ。確かに中尉の棒級では原隊に土産を贈ろうにも心もとないので助かるのである。
こうして組織犯罪に加担することが決まった彼女は、大尉とともにムスル商店街のあちこちで買い付けて回った。ちなみに中尉は大量の白砂糖を見つけて嬉々として買おうとしたら、それはオルクセン産だぞと鼻で笑われた。マクシムープル安い砂糖はオルクセンから輸入される甜菜糖なんだという。甘味ならこっちがいい、と大尉は大量の蜂蜜を発注していた。
ムスル商店街で香辛料や乾物、コーヒーに茶葉などを買いあさった後は、河岸を変えるぞとしばらく歩き大商店街に行く。ここでの目当ては貴金属や宝石のたぐいだ。これは密輸商売ではなく、「本国の大切な方々」への贈り物。賄賂じゃないかと言いたくなるが、旅団長と陛下の結婚祝いだと熱心に選ぶ大尉の姿を見せつけられるとそうも言えなくなる。
そのうちに吹っ切れて、戦友や負傷した部下、世話になった部隊などへの贈り物を大尉
に要求してしまったのだから、彼女にはもう清廉さのかけらもなかった。まぁそうはいってもさすがに宝飾品をたかる気はせず、バクラヴァなどの旨いイスマイル菓子といくらかの絹布にしたのだが。あとついでに自腹でイスマイル式の珈琲道具一式を買った。これは携帯用のもので、観戦武官の仕事に持っていこうと思ったのだ。
「今日はいい仕入れができたぞぉ。一杯飲んで帰るかぁ」
お、酒場か。中尉はいけるクチであるが、この街に来てまだそのたぐいの店にはいったことがない。その前も戦場暮らしでたまの酒保程度。クライストのような店はあるかな、などと思いながら大尉についていったのであった。