Q.ヒスイの大地を独りで生き抜く方法は? 作:ZA
世界から音が消えていた。
視界を埋め尽くすのは、目が痛くなるほどの白。
空と大地の境界線すら曖昧になるその場所は、ヒスイ地方最北端に位置する「純白の凍土」だ。
「寒いというか……痛いな」
俺はマフラーを鼻まで引き上げ、ゴーグルの曇りを指で拭った。
吐き出した息が、瞬時に白い霧となり、数秒後にはキラキラとした氷晶になって舞い落ちる。
気温は氷点下に達しているだろう。
────だが、俺の装備は完璧だ。
内側に俺お手製のインナーを着込み、外側にはイチョウ商会で買った厚手のコート。足元は雪上歩行用のカンジキ。
そして何より、懐には最高の暖房器具が入っている。
「えぱ……ぱぅ……」
コートの胸元がもぞもぞと動き、エイパムが顔を覗かせた。
寒さに弱いこいつは、ここに来てからずっと俺の服の中で丸まっている。
俺の体温と、さらに内ポケットに入れているカイロ(火吹き島の溶岩石を砕いて布で何重にも巻いたもの)のおかげで、ここだけは常夏気分だ。
「おい、俺の腹を尻尾で蹴るな」
「えぱぱっ」
俺は雪原を踏みしめる。
ザク、ザク、という乾いた音が、この静寂な世界における唯一のノイズだった。
今回の目的は、凍土にしか自生しない「スナハマ大根」と、いつも通り木の実の採取なのだが────この環境だ。
長居は命取りになる。
「マニューラ、先行してくれ。クレベースの氷塊に気をつけろ」
雪原に放ったマニューラが静かに頷き、音もなく雪の上を滑っていく。
氷・悪タイプである彼にとって、この極寒の地はホームグラウンドだ。
その動きは水を得た魚のように生き生きとしており、時折、雪に埋もれたアイテムを掘り出しては、俺の方へ投げてよこす。
「ナイス。……お、これは『こおりのいし』の欠片だな」
マニューラが先導し、俺がそれを追う。
人間一人が生きるにはあまりに過酷で、あまりに美しい世界。
俺は凍りつくような風を受けながら、どこか心地よさを感じていた。
思考がクリアになり、余計な雑念が凍結して剥がれ落ちていく感覚。
─────これだから、ヒスイの旅はやめられない。
──────────
日が傾き、空が橙に染まり始めた頃。
俺たちは「戦場への道」の脇にある小さな洞窟を見つけた。
入り口は狭いが奥は広がっており、風雪を凌ぐには十分だ。
「今日はここをキャンプ地とする!」
リュックを下ろし、設営に取り掛かる。
まずは入り口に洞窟に落ちていた石を積み上げ、風の通り道を塞ぐ。
完全に塞ぐと酸欠になるので、上部に通気口を開けておくのがポイントだ。
「さて──
俺の投げた木製のボールから飛び出したのは、人工的な滑らかさを持つピンク色の丸々とした電子ポケモン、ポリゴン2だ。
本来、この時代のヒスイには存在しないはずの人工生物。
時空の歪みから落ちてきたところを保護した手持ちの一体である。
「ちょっと温めてくれ。出力は1/3くらいで」
俺が指示すると、ポリゴン2は自漫気に電子音を鳴らし、その身体を微かに赤熱させた。
彼の持つプログラム処理能力を意図的に暴走させ、排熱を利用する。
洞窟内の気温が、じわりと上がり始めた。
「ふぅ……」
ようやくひと心地つける。
コートのジッパーを下ろすと、エイパムが「プハッ!」と飛び出してきた。
「えぱー!」
「はいはい、お疲れ。飯にするぞ」
今日のメニューは、体を芯から温めるシチューだ。
黒曜の原野でポケモンから採取し、さっきまで凍土で冷やしておいた「(疑似)モーモーミルク」に、採取したばかりの「スナハマ大根」を投入する。
火はいつものようにオクタンに頼み、とろみがつくまでじっくり煮込む。
やがて洞窟の中に、ミルクの優しい香りが充満した。
外では猛吹雪が吹き荒れているというのに、ここは別世界のように穏やかだ。
「いただきまーす」
熱々のシチューを木のスプーンですくう。
濃厚なミルクのコクに加えて、ダイコンの独特な風味がアクセントになり、冷え切った内臓に染み渡っていく。
これに比べると山岡さんの鮎はカスみたいなもんだ。
「……生き返るな」
エイパムやその他のポケモンたちもフーフーと冷ましながら、幸せそうな顔で舐めている。
前々から思ってたけど、ポリゴン2は液体とか摂取して大丈夫なのか。
マニューラは入り口付近で、雪を氷菓子のように齧りながら警戒を続けてくれている。
──────その時だった。
洞窟の入り口、雪のバリケードの隙間から何かが侵入してくる音がした。
俺はスプーンを置き、音もなく調理用のナイフに手を伸ばす。
マニューラも低い姿勢で構えた。
やがて、その正体が姿を現し──────、
「……へ?」
現れたのは、オヤブン・マンムーでもなければ、凶暴なニューラでもない。
黄色い三角形の笠を被ったような、小さなポケモン。
ユキワラシだった。
しかも一匹ではない。
五匹……いや、七匹。
小さなユキワラシたちが震えながら入ってきたのだ。
「なんだぁ、お前ら」
俺が声をかけると、先頭の一匹がビクッと体を震わせ、つぶらな瞳でこちらを見上げてきた。
そして、チラリと焚き火を見る。
「寒いのか?」
こいつらは氷タイプだ。寒さには強いはずだが、今の外の吹雪は異常気象レベルの荒れ模様。
さすがに子供たちには厳しいのかもしれない。
あるいは、この前のショウみたくシチューの匂いに釣られたか。
「ユキッ」
ユキワラシが遠慮がちに、一歩近づいてきた。
俺はナイフから手を離し、ため息をついた。
「……食うか?」
残っていたシチューを小皿に取り分け、差し出す。
すると、彼らは「わーっ!」という感じで一斉に群がってきた。
ハフハフ、チャプチャプと、ものすごい勢いで平らげていく。
「おいおい、喧嘩すんな。まだあるから……おいエイパム! お前はさっき食ったろうが」
結局、俺の明日の朝食分まで振る舞う羽目になった。
腹が満たされたユキワラシたちは、今度は暖を求めて動き出す。
ポリゴン2の周りに集まる者。
エイパムの尻尾に巻きつく者。
そして――。
「おい、そこは俺の寝袋だぞ」
俺が寝ようとしていた場所に、三匹のユキワラシが潜り込んでいた。
注意しようとすると、彼らは俺の体にもぺたりと張り付いてきた。
「……まあ、いいか」
俺は諦めて、ユキワラシたちを抱き枕のようにして横になった。
右脇にユキワラシ。左脇にユキワラシ。腹の上にエイパム。足元にポリゴン2。
「ユキ……」
外の吹雪の音が、遠い子守唄のように聞こえる。
俺はヒスイの厳しい自然が生んだ小さな温もりに包まれて、深い眠りに落ちていった。
恋愛漫画なら、ひとつ屋根(洞窟)の下で女の子と寝食を共にするシーンのはずなんだけどなぁ─────────、
──────────
(女の子と寝食を共にするシーンに)なってしまった。
簡潔に説明すると───いや、見てもらった方が早いな。
視線を洞窟の右奥の方にやると、体育座りのような格好で顔を埋めている少女の姿が見える。
「……あまり、ジロジロ見ないでくれますか」
顔を上げたその少女は、シンジュ団の長、カイだった。
トレードマークの髪飾りは少し歪み、白とピンクの装束は雪で濡れて張り付いている。
彼女がここにいる理由は単純だ。
数十分前に俺がまどろみかけたその時、入り口の石垣がガラガラと崩され、猛吹雪と共に彼女が転がり込んできたのだ。
どうやら護衛とはぐれ、遭難しかけていたらしい。
「あー、いや、そこ食料置き場なんで」
「っ……! 失れ──あうっ」
カイは慌てて場所を移動しようとして、足が痺れていたのか「あうっ」と情けない声を上げて前のめりに倒れそうになった。
俺は手を貸して焚き火の近くに座らせる。
「無理に動くと余計に体力を食う。……ほら、残り物ですが」
温め直したシチューの器を渡すと、彼女は「感謝します」と震える声で言い、スプーンを口に運んだ。
熱いシチューが喉を通るたび、彼女の表情から険しさが溶け出し、年相応の少女の顔に戻っていく。
「……おいしい」
「スナハマ大根と、ミルクです」
「大根? この凍土で、それも旅のお方が、よく一人で食材なんて見つけられますね」
「生きていく上でのコツってのがあるんですよ」
ついでに「あんま堅苦しい口調じゃなくていいですよ」的な事を言いながら、カイがシチューを飲む様子をぼんやり眺める。
どうせ人里から離れた洞窟だ、里の長だろうがなんだろうが、相応しい振る舞いなんてしなくても叱られない。
一息ついた彼女は、ふと俺の足元で発光するピンク色の物体に目を止めた。
「あの、この丸くて赤いポケモンは?」
「ポリゴン2です。俺の大切な仲間の一人ですよ」
「ぽりごん……? 不思議な肌触り……まるで磨き上げたシンジュのよう……」
カイがおっかなびっくりポリゴン2に触れる。
ポリゴン2は「ギュイ」と機械的な声を上げ、カイの低体温を感知して表面温度を上げた。
「わっ! ……暖かい。まるで湯たんぽね」
「ええ、高性能で人懐っこい湯たんぽです」
俺が答えると、カイは不思議そうに、しかし心地よさそうにポリゴン2を抱きしめた。
その様子を見ていたユキワラシたちが、ざわめき始める。
彼らは氷タイプの専門家であるカイの気配を、そして彼女から溢れる慈愛のようなものを敏感に察知したらしい。
「ユキッ!」「ワラッ!」
一匹がカイの膝に乗ると、堰を切ったように他のユキワラシたちも突撃した。
シンジュ団の長は、瞬く間に黄色い笠の山に埋もれてしまった。
「ちょ、ちょっと! くすぐったい! 私はこれでも長なのだけど!?」
「ははは、長だからこそ好かれてるんでしょう」
「笑い事じゃ……きゃっ、服の中に入らないで!」
「わぁ」
もみくちゃにされる美少女と、無邪気なポケモンたち。
さっきまで死にかけていたとは思えないその光景に、俺は思わず「ふふっ」と笑ってしまった。
「……何がおかしいのですか」
雪まみれになったカイが髪を直しながら、少しムッとした顔でこちらを睨む。
「いや、普段は凛としている長の、そんな姿が見れるのはここだけの特権かなと」
「無礼な人ね。でも、悪い気はしないかも」
「いや別に褒めてはないですけど」
「……無礼な人」
カイは口元を緩め、膝上のユキワラシを優しく撫でた。
──────────
夜が更けた。吹雪はまだ止まない。
狭い洞窟内では、互いの距離を詰めざるを得なかった。
焚き火の薪がパチリと爆ぜる音だけが響く。
「……貴方は、怖くないの?」
不意に、カイがポツリと漏らした。
彼女は炎を見つめたまま、膝を抱えている。
「こんな辺境で、一人で、外は猛吹雪。いつオヤブンが入ってくるかもわからない。……こんなこと普段は言えないけれど、私は怖い。シンオウ様への祈りだけでは、震えが止まらない時だってあるから」
彼女は俺を見た。
その瞳には、若くして長となった重圧と、根源的な死への恐怖が滲んでいた。
本来なら、ここで「大丈夫だ」とか「俺が守る」とか、気の利いた言葉を吐くのだろう。
だが、俺の口から出たのは、もっと乾いた言葉だけだった。
「怖がっても、カロリーの無駄ですよ」
「……え?」
カイが目を丸くする。俺は淡々と続けた。
「恐怖で心拍数を上げても、腹が減るだけです。どうせ死ぬ時は死ぬ。なら、美味いシチューの味を覚えているうちに死んだ方がお得だ。……俺はそう思って旅をしてます」
嘘ではない。本心だ。
このヒスイに来てから、俺の中で「生」と「死」の境界線はひどく曖昧になっていた。
今日生き残れたらラッキー。
明日死んだらそれまで。
その諦観にも似た軽さが、今の俺を支えている。
そう思っていないと、いつか正気の糸が切れてしまいそうで。
俺は、臆病だから。
カイは息を呑んだ。
目の前の男から発せられる空気が、あまりにも異質だったからだ。
彼は強がっているわけでも、勇気があるわけでもない。
ただ、静寂とした湖面のように静まり返っている。
人間が持つはずの、生への執着が希薄なその横顔が──少しだけ、不気味で。
けれど、どうしようもなく頼もしく見えた。
「貴方は不思議な人だ」
「……それ、少し前に行商人にも言われましたよ。そんなに変です?」
カイは僅かに微笑み、身体を男の方へ少し寄せた。
その絶対的な「揺らがないもの」の側にいると、不思議と寒さは感じなくなっていた。
──────────
翌朝。
目が覚めると、顔のすぐ近くに甘い匂いがあった。
重みを感じて視線を下ろすと、カイが俺の肩に頭を預けて眠っている。
身じろぎしたカイが、ゆっくりと目を開けた。
─────俺と目が合う。数秒の沈黙。
そして現状を理解した彼女の顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
「ひゃっ!?」
飛び起きた彼女は、洞窟の天井に頭を打ちそうになりながら距離を取った。
「あ、あの……昨晩は、その、無礼を!」
「暖を取るための合理的な判断です。気にしないでください」
俺がしびれた腕をさすりながら言うと、カイは口をパクパクさせた後、コホンと咳払いをして長としての威厳を取り戻そうとした。
入り口の石をどけると、突き抜けるような快晴が広がっていた。
ダイヤモンドダストが舞う中、カイは眩しそうに目を細め、そして俺に向き直った。
「……助かりました。貴方がいなければ、私はここで凍えていたかもしれません」
「偶然ですよ」
「偶然でも、貴方がいたことに感謝します」
カイは少し躊躇った後、じっと俺の目を見つめた。
その視線には、昨夜感じた「異質さ」への興味と、それ以上の柔らかな感情が混ざっていた気がした。
「……また、会えますか?」
「生きていれば、そのうち。俺はこのまま世界を歩き続けるだけですから」
「……そうですか。なら、死なないでくださいね。貴方の作ったシチュー、また食べたいですから」
カイは精一杯の強がりを見せて微笑むと、迎えに来たグレイシアの鳴き声の方へと駆けていった。
「さて、行くか」
エイパムが肩に飛び乗る。
俺の腹がぐぅと鳴った。
そういや、昨日のシチューは全部あげてしまったんだった。
少しだけ特別な夜の余韻を感じながら、俺はまた、白銀の世界へと足を踏み出した。
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