深夜。遥か彼方から、オオカミの遠吠えが風に乗って聞こえてくる。
俺は脳内でメニューを展開し、マップを呼び出した。
自身を示すアイコンのそば、家の中には青い点が二つ、寄り添うように点灯している。対して、森の中には赤い点が二つ。
少ししてから、遠くでオオカミの「ギャンっ!」という断末魔が二つ重なって響き、マップ上の赤点が消失した。
街からここへ戻る三日間の道中で確認した機能だ。おそらくはこれが『気配察知』の効果なのだろう。友好的な生物は青、敵対的生物は赤で表示される仕組みらしい。
家の中にある二つの青い点はリファとルイだ。
静寂を取り戻した森の闇を見つめ、俺はふぅ、と息を吐いた。
赤い点が消えたということは、設置したスパイクが正常に作動し、敵対生物を排除した証拠だ。
寝室からは、リファとルイの穏やかな寝息が聞こえてくる。二人は安全だ。
「……目が冴えちまったな」
ゲームシステムの恩恵か、ベッドで少し休むだけで眠気が吹き飛んでしまう。あるいは、神経が昂っているせいか。
俺はベッドを抜け出し、タオルを一枚引っ掴むと、建物の外へと出た。
肌を撫でる風は冷たく、冬の訪れを感じさせる。冷気が火照った頬を撫でていくのが心地よい。
目の前には、依然としてもうもうと白い湯気を上げ続ける露天風呂があった。
循環式ボイラーは燃料がある限り稼働し続ける。停止させるのも手間だし、いつでも入れるならそれに越したことはない。
俺はタオルを岩の上に置き、湯船に身体を沈めた。
「あぁ……」
二度目の入浴だが、一人で入る風呂はまた格別の趣がある。
湯が揺れる音だけが響く空間で、俺は夜空を仰いだ。
そして、ふと自分の手を見る。
(もう……震えもしない、か)
人を殺した手だ。
スパイクの罠にかかったゴロつきや衛兵たち。そして、俺が直接手を下したあの男。
日本にいた頃の俺なら、想像しただけで吐き気を催していただろう。だが、今の俺は驚くほど冷静だ。
『ストレス耐性』。このスキルが俺の心を強固に守っている。
それがありがたい反面、人間としての何かが欠落していくような薄ら寒さも感じていた。
だが、後悔はない。あのままではリファたちは慰み者にされ、俺は殺されていただろう。
(やるしかなかった。これからも、だ)
この世界は残酷だ。力なき者は奪われる。
だから俺は、もっと強固な拠点を作る。鉄を、石を、食料を。
俺のクラフト能力ですべてを支配できる領域を広げていくんだ。
──ペタッ、ペタッ。
不意に、素足で歩く音がした。
思考の海に沈んでいた俺は、弾かれたように顔を上げる。
「……リファ?」
湯気の向こう、脱衣所の方からリファが歩いてくるところだった。
月明かりの下、彼女は一枚の布も纏わずにそこに立っていた。
白磁のような肌が、篝火の灯りに照らされて艶めかしく浮かび上がっている。
「目が覚めたら、ハルカがいなくて……窓から見たら、ね」
リファは恥じらう様子もなく、静かに湯船に入ってくる。
お湯をかき分け、俺のすぐ側まで来ると、その豊満な肢体を押し付けるようにして隣に座った。
「リファ、どうしたんだ? 何か怖い夢でも──」
「ハルカ」
俺の言葉を遮り、リファが濡れた瞳で俺を見つめる。
その瞳に宿っているのは、純粋な好意だけではない。もっと切迫した、何かに追い詰められたような色が混じっていた。
リファの手が湯の中で俺の太腿に触れ、ゆっくりと這い上がってくる。
「……抱いて」
「えっ」
「私、ハルカのものになりたい。心も、身体も、全部」
リファは俺の胸に顔を埋め、震える声で懇願するように囁いた。
「私には何もないの。ハルカみたいなすごい力もないし、ルイを守る強さもない。ただのお荷物よ……。だから、せめて……ハルカにだったら慰み者にされてもいいわ。だから、捨てないで……」
それが本音か。
俺はリファの細い肩を抱き寄せながら、内心で苦いものを噛み潰した。
彼女は不安なのだ。
街の人間たちを見て……さらに頼ろうとした叔父にも裏切られ、自分自身でもどうしていいのかわからなくなったのだろう。
さらに圧倒的な力を持つ俺を見て、いつか自分たちが「不要だ」と切り捨てられることを恐れている。
好意はあるのだろう。だがそれ以上に、肉体関係を持つことで「既成事実」を作り、俺との繋がりを確固たるものにして、自分とルイの安全保障を得ようとしている。
生きるための、悲しい打算だ。
リファの指先が、際どい部分に触れようとしたその時、俺は優しく、しかし強くその手首を掴んで止めた。
「……ハルカ?」
拒絶されたことに、リファが絶望の色を浮かべる。
俺は彼女の目を見て、静かに首を横に振った。
「今は、駄目だ」
「嫌……? 私じゃ、魅力がない……?」
「違う。リファは魅力的だ。男なら誰だって放っておかないくらいにな」
俺は彼女の左手を握りしめたまま、言葉を続ける。
「でも、それは今じゃない。リファ、お前は今、恐怖で動いてるだけだ。捨てられるのが怖くて、自分の身体を代償にしようとしてる」
「だって……! そうでもしないと、私たちには返すものが……!」
「そんなものは要らない」
俺はきっぱりと言い切った。
そして、もう一方の手で彼女の頬に触れ、涙を指で拭う。
「俺が欲しいのは、対価としての身体じゃない。短い付き合いだが、俺は二人を家族と思ってる。俺はリファとルイを守ると決めた。それはお前が身体を差し出すからじゃなくて、俺がそうしたいからだ」
「ハルカ……」
「それに、今はまだ落ち着かない。ここも安全にはなったけど、まだ生活基盤が整ったとは言えないだろ? もっと家を広くして、畑を作って、風呂以外の設備も充実させて……本当に安心して暮らせるようになった時──」
俺はリファの瞳を真っ直ぐに見つめ、約束の言葉を口にする。
「その時まで待ってくれ。生活が落ち着いて、リファの心の傷も癒えて……それでもリファが俺を求めてくれるなら、その時はちゃんと抱くよ」
不安からくる逃避としての行為ではなく、互いに心から求め合える時まで。
それは俺なりの誠意であり、彼女の尊厳を守るための線引きだった。
リファはしばらく呆然と俺を見つめていたが、やがてその瞳から大粒の涙が溢れ出した。
それは先ほどまでの怯えを含んだ涙ではなく、安堵の涙だった。
「……うん……うんっ……!」
リファは俺の胸に飛び込み、子供のように泣きじゃくった。
俺は彼女の背中をポンポンと優しく叩きながら、温かい湯の中でその震えが収まるのを待った。
(……男として、結構な我慢を強いられる約束をしちまったなぁ)
肌に伝わるリファの柔らかさと温もりを感じながら、俺は苦笑する。
だが、これでいい。
俺たちはただ生き延びるためだけの群れじゃない。家族になるんだ。そのためには、手順というものが必要だ。
「よし、もうしばらく温まったら上がろうか。湯冷めしちゃうからな」
「うん……でも、もう少しだけ、このままでいさせて……?」
「好きなだけそうしていてもいいさ」
「ずるい……女でごめんね? ごめん……なさい」
「それをいうなら、俺も鈍い男でごめんな。だから、お互い様さ」
「うふふ……ふふ……ぅう……あり……がとう……」
湯船に無数の雫が落ちるが、俺は何も言わずに、ただリファの頭を慈しむように撫で続ける。
甘えるように身体を寄せてくるリファを、俺はただ黙って受け入れた。
夜空の星々が、そんな俺たちを静かに見守っていた。
◇◆◇◆◇◆◇
リファとの約束の夜が明けて翌日。俺は朝から精力的に動き始めることにした。
別にリファと早くそうなりたいと焦っているわけではない。ここを拠点にすると決めてから、ずっと考えていたことだ。
しばらく拠点内が慌ただしくなると伝えると、リファはイタズラっぽく笑ってきた。
あれは明らかに勘違い──とは一概に言えないが、妙な深読みをしている顔だった。一緒に遊べないことをルイに謝ったが、お風呂の件で「もっと楽しい物ができる」と期待してくれたのか、彼女も渋々ながら許してくれた。
まずは徹底的に鉄集めである。クラフトとは鉄に始まり鉄に終わるといっても過言ではない。
鉄のストックだけは、何百スタックあっても困らないのだ。
「よし、やるか」
インベントリから『鉄のツルハシ』を取り出し、鉱脈に狙いを定める。
──ガキンッ! ガキンッ!
小気味よい音が洞窟内に響き渡る。現実の肉体労働とは違い、ゲーム的な補正がかかった採掘作業は、スタミナ消費こそあれど、岩と鉱石が面白いほど取れていく。
削り取られた岩盤は光の粒子となって吸い込まれ、視界の隅にログが流れた。
『鉄鉱石×1を取得』
『鉄鉱石×3を取得』
『石材×5を取得』
この世界に来てからというもの、単純作業が妙に心地よい。無心でツルハシを振るうこと数時間。
インベントリの一枠あたりのスタック数である「99」が埋まり、それが十セット以上並んだところで、俺はようやくツルハシを置いた。
「これだけあれば、家一軒どころか砦だって作れるな」
チート級の容量を持つインベントリ内で、スタックされた鉄鉱石をインゴッドへと加工・分解する。
そして、俺が計画した建築に必要な部品を黙々と作り続けた。
「ふふ……すごく頑張ってくれるのは嬉しいけど、少しは休んだら? 簡単な物だけど作ったから一緒に食べましょ?」
作業台のメニューを見ながら制作していると、不意に腕に柔らかいものが当たり、微かに引っ張られた。
「あ、ああ。今作っているものを予約したら、出来上がるまで時間があるから。一緒に飯にしよう」
昨夜以来、リファの距離感がいつもより近くなっているため、いちいちドギマギしてしまう。
ルイもなんとなく様子がおかしいと感じているのか、子供ながら怪訝な顔を浮かべていた。
食事を終え、ルイの「おいしかったぁ!」という可愛らしい声と共に午後の部が始まった。
リファが作ってくれたのは、採取した野草と干し肉を煮込んだシンプルなスープだったが、労働の後の身体には染み渡るように美味かった。
何より、食事中にリファがかいがいしく世話を焼いてくるものだから、ルイが「お姉ちゃん、なんか楽しそう。いいことあったの?」と不思議がっていたのが印象的だ。
「よし、じゃあ始めるか」
俺は二人に少し離れているように指示を出すと、以前の小さな小屋の横、更地にした広いスペースの前に立った。
脳内でメニューを展開し、建築モードに移行する。
これまでの『木の拠点』レベルではない。今回作成するのは『石材』と『鉄』をふんだんに使った上位建築だ。
イメージするのは、堅牢な守りと快適な居住性を兼ね備えた二階建ての邸宅。
ただの豆腐ハウス(真四角な家)ではない。敵の侵入を許さない要塞でありながら、帰るべき温かい我が家だ。
頭の中で組み立てた建物が、意識を少しずらすと
サイズ感やデザインを脳内で最終決定し、石壁で覆った広場の中心、風呂をほんの少し避ける形で位置を固定した。
『建築を開始しますか?』
『必要素材:石材×800、鉄インゴット×200、木材×400……』
素材は十分に足りている。
俺は虚空に浮かぶ「YES」のボタンを頭の中でタップした。
──ズズズズズズッ……!
重低音が響き、俺のインベントリから光の粒子となって素材が噴出する。
それらは空中で幾何学的なラインを描き、目にも止まらぬ速さで組み上がっていく。
まずは基礎。地面に深く杭が打ち込まれ、その上に切り出された石材が隙間なく並ぶ。
柱となるのは、太い木材を鉄で補強した複合素材だ。
「わぁっ……! すごい、すごいよハルカお兄ちゃん!」
「これが……魔法? いいえ、それ以上の……」
背後でルイの鈴を転がすような歓声と、リファの息を呑む気配がする。
光が収束するにつれ、その全貌が明らかになっていく。
灰色の石積み壁は厚みがあり、窓には鉄格子の補強が入っているが、ガラス(これも砂から精製済みだ)が嵌め込まれており採光も完璧だ。
屋根は急勾配の瓦葺きで、雪や雨を効率よく流す構造になっている。
──きぃぃぃぃぃーーーーん!
まるで完成を知らせるように、澄んだ空気に甲高い音が響き回り、その建物は姿を現した。
そこには森の風景を一変させるほどの、立派な石造りの家が鎮座していた。
「完成だ」
俺は満足げに頷き、呆然としている二人を振り返った。
「どうだ? これならオオカミどころか、オークの集団が来てもビクともしないぞ」
「……うそ」
リファが夢遊病のようにふらふらと歩み寄り、冷たく硬い石の壁に触れる。
「硬い……。本物の石……それに、鉄まで……」
「中も見てくれ。その中も結構凝ったんだ!」
俺が重厚な鉄補強の木製ドアを開けると、ルイが一番に飛び込んでいった。
「ひろーい!! すごーい! 床がキラキラしてる!」
中はフローリング張りで、木の香りが漂っている。
一階には広々としたリビングダイニング。奥にはシステムキッチン──とまではいかないが、石釜と水道(貯水タンク直結)を備えた調理場。
そして何より重要な、トイレと風呂場への動線も確保してある。
しかも、今回は水洗トイレを完備した。
排水をどう処理すべきか悩んだが、クラフト機能の謎の働きにより、流された汚物は亜空間へ消える仕様になっていた。
流石にお風呂は水を溜める必要があるが、屋上に設置した貯水タンクから蛇口一つで水が出るようになっている。
「こっちが二階だ。部屋は三つあるから、リファとルイで一部屋ずつ使ってもいいし、一緒でもいい」
階段を上がり、二階の部屋を見せる。
どの部屋にもしっかりとしたベッドとスプリングマット、収納用のチェストまで完備している。
窓から差し込む午後の日差しが、部屋の中を明るく照らしていた。
「……こんな」
リファが部屋の中央で立ち尽くし、口を押さえて震える声で呟く。
「こんな立派な家、きっと、王都の貴族様だって住んでないわ……。これを、私たちに?」
「俺たち、だろ? 俺も住むんだから」
俺は肩をすくめて笑った。
「言っただろ。生活基盤を整えるって。これが第一歩だ。安心して眠れる場所、雨風を凌げる場所。それがなきゃ始まらない」
昨夜の約束。
『本当に安心して暮らせるようになった時』
その言葉が嘘ではないと証明するための、形ある証拠だ。
リファは窓枠の鉄格子を指でなぞり、その強固さを確かめると、くるりと振り返った。
その目にはまた涙が溜まっていたが、昨日のような悲壮な色は欠片もない。
「ハルカ……ありがとう。本当に、ありがとう……!」
「お礼を言うのはまだ早いよ。これから家具も増やさなきゃいけないし、外には畑も作る。ルイ、お前も手伝ってくれるか?」
一階ではしゃいでいたルイが、パタパタと階段を駆け上がってきて、俺の腰のあたりに抱きついた。
「やる! 私、なんでもやるよ! ここ、私の家なんだよね!? ずっといていいんだよね!?」
「ああ、もちろんだ。ここが俺たち三人の家だ」
俺がルイの柔らかい髪を撫でると、リファも近づいてきて、俺の肩に額を預けてきた。
「……頑張るわ。私、ここの奥さんとして恥ずかしくないように、なんでもする」
「あー……奥さんっていうのは、まだ気が早いんじゃないか?」
「ふふ、予約よ、予約。……家族なんでしょ?」
少し悪戯っぽく微笑むリファに、俺はタジタジになりながらも、悪い気はしなかった。
石と鉄で作られた冷たいはずの要塞は、二人の笑顔のおかげで、すでに温かい家になり始めていた。