リファの右腕が完全に戻った歓喜の余韻が冷めやらぬ中、ふと俺の視界の端で、ふらふらと宙を漂っていたピムがぐらりと体勢を崩した。
「おい、ピム。大丈夫か?」
俺が慌てて両手で受け止めると、ピムの体は先ほどまでの輝きを失い、さらにそのサイズが一回りも二回りも小さくなっていた。元々手のひらサイズだったのが、今や親指姫のような極小サイズになってしまっている。
「……むぅ、さすがに力を使いすぎたのじゃ……眠い……」
ピムは俺の手のひらの上でぐったりと力なく瞳を閉じた。
だが、次の瞬間。
カッとピムの閉じた瞼の奥から、まばゆい光が溢れ出した。
「なっ、なんだ!?」
俺が驚いて手を引こうとすると、手の中のピムがパチリと目を開けた。
その瞳の色は、いつもの緑色ではなく、深く底知れない黄金色に染まっていた。
漂う空気が一変する。
中庭の空気がピリつき、風さえも動きを止めたかのような静寂がその場を支配した。
『──聞こえるか、人の子よ』
ピムの口から発せられたのは、彼女の愛らしい声ではなく、腹の底に響くような荘厳で重厚な声だった。
俺は直感した。こいつはピムじゃない。
「……ピムじゃないな。もしかして……精霊王か」
『如何にも。森の民が世話になっている』
俺の手のひらの上で、極小の存在が悠然と腕を組む。
その姿には、サイズ感を忘れさせるほどの圧倒的な威圧感があった。
『礼を言うぞ、ハルカ。約束通り、お主の愛し子の腕は再生させた。契約は履行された』
「ああ。感謝するよ。……だが、わざわざ出てきたってことは、礼を言うためだけじゃないんだろ?」
『察しが良くて助かる。……我が力を使い、養い子の体を依り代に顕現できる時間は短い。単刀直入に伝えよう』
精霊王は黄金の瞳で俺を射抜くように見つめた。
『精霊王である我は、人間と他の種族との争いや在り方に関与はできん』
「関与できない? これだけの力があるのにか」
『精霊とは世界の理そのもの。直接的な干渉は、世界の均衡を崩しかねんのだ。人間が愚かな争いをしようと、亜人が迫害されようと、我はその行く末を見守ることしかできぬ』
神様気取りかよ、と言いたくなるのをグッと堪える。
まあ、自然現象そのものみたいな存在が、特定の種族に肩入れして戦争に参加したら世界が滅茶苦茶になるのは分かる。
『だが、我が愛する森の民たちが散っていくのは忍びない。……故に、人の子よ。お主に頼みたい』
精霊王は、その小さな手を森の奥へと向けた。
『森の中には、まだ逃げ惑う亜人たちがいる。彼らを……残りの者たちを保護してほしい。それができるのは、理の外にある力を持つお主だけだ』
「……また面倒なことを」
『報酬として、お前達には居場所を与えよう。肥沃な大地を。安息の地を築くための土地へと案内しよう』
「……何をやらせようとしてるんだ?」
精霊王が報酬として提示した内容は、悪くない。
だが、それは裏を返せば、広大な土地を治めろと言っているのと同じだ。
『ふむ。悟っているようだな。ハルカ……否、異界よりきたりし、
「おいおい、国造りとは随分、大仰だな」
『考えておいてほしい。だが、いずれ、お前は選ばねばならない時が来る。国を作るか。国に縛られるか……』
その言葉を最後に、ピムの体から黄金の光がスッと抜けていった。
「勝手なことを言うな! おい。おい!」
ガクンと膝をついたピムは、元の緑色の瞳に戻り、きょとんとした顔で俺を見上げた。
「……ふあ? なんじゃ、ハルカ。そんな怖い顔をして」
「……いや、なんでもない。お前は少し寝ておけ」
俺は小さくなったピムをリファに預けると、大きく息を吐き出した。
追加の取引だ。だが、今後を考えるならば、乗りかかった船だ。見捨てる寝覚めの悪さを抱えるよりはマシだろう。
「ハルカ? どうしたの? 急に黙り込んで……」
リファの声に顔を上げると、彼女が不安そうな表情でこちらを見つめていた。
周りを見回すと、リファの腕が甦る奇跡を見ていた亜人たちも、怪訝な表情でこちらを見ているだけで、誰も何も言わない。
「あ、いや。なんでもないよ。こんなに小さくなるまで頑張ってもらって申し訳ないと思ってたんだよ」
(どうなっている? さっきの精霊王との会話を聞いていたなら何かしらの反応を示していいはずだ)
特に亜人族は精霊王に対して、信仰心に近い畏敬の念を持っている。
その精霊王がピムの体を通してとはいえ、目の前に顕現していたなら、何かしらの反応はあるはずだ。
「リファごめん。とりあえずはルイと一緒に家でピムを休ませてやってくれないか? 一応は俺たちの恩人なんだしな」
「もう……っ、一応じゃなくて恩人なんだから、ちゃんとお礼をしないとね」
「はは、そうだな。起きたら何かお礼を考えないとな」
俺はなんとか話題を逸らして、リファたちを家へと帰らせた。
おそらく、精霊王の声は俺にしか届いていなかったのだろう。
「とりあえずは細かい傷と疲労はある程度マシになっただろうが、まだ調子が悪い奴がいたら、名乗り出てくれ。ちゃんと治療するからな」
俺の言葉に亜人たちはざわつく。いまだに多少なりとも人間に対する不信感があるのかもしれない。
「いや……それはありがたいが……いいのか? その、亜人なんだぞ?」
ガルドが恐る恐ると言った感じで問いかけてくるが、俺からしてみれば、放置して怪我が酷くなられるほうが迷惑である。
「……亜人だからなんだって言うんだ。俺にしてみれば、耳が少し長かったり、尻尾が生えてたりするくらいの違いでしかない。そんなことで治療を拒否するほど、俺は狭量ではないつもりだ」
俺は肩をすくめながら、ガルドの問いを一蹴した。
呆気にとられるガルドを尻目に、俺は手近にいた負傷者の前へしゃがみ込む。足に深い切り傷を負った、狼のような耳を持つ青年だ。
俺が手をかざすと、彼はビクリと身を強張らせ、喉の奥で警戒の唸り声を漏らした。
「グルルッ……人間に、手当など……」
「暴れるなよ。余計に傷が開くぞ」
俺は構わず、インベントリから『傷薬』を出して塗ると、その上から手早く包帯を巻く。
ポーションほどの即効性はないが、ゲーム内ではジワリと体力を回復させるアイテムだ。
突然現れたアイテムと手際良い治療に、彼は目を白黒させる。
痛みが引いていくのを実感したのだろう、青年の強張っていた肩から力が抜け、険しかった表情が驚愕へと変わっていった。
「な……痛みが、消えた……?」
驚愕を露わにする狼の獣人を無視して、恐々とこちらの様子を窺っていた親子へと視線を向けた。
「はい、次。そっちの子連れのお母さん、こっちへ」
俺は呆然とする青年を置いて、次々と手当を進めていった。
擦り傷、打撲、切り傷。
森を逃げ惑う中で負ったであろう生々しい傷跡たちが、俺の手によって次々と癒えていく。
あまりにも酷い傷には、ポーションも惜しげもなく使った。
その光景を目の当たりにして、遠巻きに見ていた他の亜人たちも、次第にざわめきから静寂へと変わっていった。
そこにあるのは、恐怖や警戒ではない。
理解不能なものを見る目と、そして――縋るような期待の眼差しだ。
一通りの治療を終えた頃には、日は少し傾き始めていた。
俺が額の汗を拭いながら立ち上がると、中庭に集まっていた亜人たちが、どこかモジモジとした様子で互いに顔を見合わせていることに気づいた。
「……なんだ? まだどこか痛むのか?」
俺が尋ねると、先ほど治療した狼耳の青年が、意を決したように一歩前に進み出た。
まだ少し足を引きずっているようだが、傷自体は完全に塞がっている。
「いや、傷は……治った。その……なんだ……」
彼は視線を泳がせ、俺と目を合わせようとしない。
その横から、小さな子供の手を引いた母親――兎のような長い耳を持つ女性がおずおずと近づいてきた。
「あの……なんと呼んでいいか……」
「ハルカでいいよ」
「は、はい。ハルカ……さん。その、この子まで治していただいて……なんてお礼を言えばいいか……」
彼女は深々と頭を下げた。
すると、それが合図になったかのように、他の者たちも口々に声を上げ始めた。
「俺も……助かった。もう足は動かねえと思ってたんだ」
「人間が全員クソ野郎だと思ってたけど、あんたは……少し違うみたいだな」
「……ありがとな」
彼らの言葉は拙く、どこか不器用だった。
今まで人間に追い立てられ迫害されてきた彼らにとって、人間に感謝の言葉を述べるという行為自体が、不慣れで気恥ずかしいものなのだろう。
中には、まだ納得がいかないといった顔で腕を組んでいる者もいるが、その瞳からは以前のような鋭い殺気は消えていた。
ガルドが、やれやれといった様子で頭を掻きながら俺の隣に来る。
「……お前という男は、本当に底が知れんな。リファの腕を治したかと思えば、我らのような薄汚い逃亡者まで無償で治療するとは」
「勘違いするなよ、ガルド。言っただろ、お前たちのためじゃない」
「……あ?」
「俺はな、リファとルイに軽蔑されたくないんだよ。あの二人の前で、助けられる命を見捨てて『仕方なかった』なんて言い訳をするカッコ悪い男になりたくない。……ただそれだけの理由だ」
俺の言葉を聞いたガルドは、一瞬呆気にとられたように口を開け、それから今日一番の快活な笑声をあげた。
「ハハッ! そりゃいい! 正義感だの慈悲だの言われるより、何よりも信用できる理由だ!」
ガルドはニヤリと口の端を吊り上げ、俺の肩をバンと強く叩いた。
痛ってえな、と俺が顔をしかめると、周囲の亜人たちからドッと小さな笑い声が漏れた。
その笑い声には、先ほどまでの張り詰めた緊張感はない。
人間と亜人。
種族の壁がなくなったわけではないし、長年の確執がすぐに消えるわけでもない。
けれど、この中庭に流れる空気は、ほんの少しだけ――確実に温かいものへと変わっていた。
「さて、とりあえず今日はもう休め。明日も飯の準備もリファたちに頼んである」
「おお、飯か! それはありがたい!」
食い気には勝てないらしい。亜人たちの表情が一気に明るくなる。
ガルドたちに背を向け、俺は自宅へと続く道を歩き出した。
背後からは、まだ興奮冷めやらぬ亜人たちの声が微かに聞こえてくる。
だが、俺の頭の中を占めていたのは、治療の達成感でも、ガルドとの男同士の友情でもない。
先ほどピムを通じて、精霊王が言ったあの重苦しい言葉だ。
「国を作れ、か……」
独り言が、夕暮れの空に虚しく溶ける。
精霊王は簡単に言ってくれたものだ。
国を作るということは、ただ土地を囲って「ここは俺の国だ」と宣言すれば済む話ではない。
法を定め、治安を維持し、食料を確保し、外交を行い、外敵から民を守る。
そこには無限の責任と、終わりのない労働が待っている。
(冗談じゃない。俺はそんなガラじゃないし、何より面倒くさい)
俺がこの世界で望んでいるのは、英雄譚のような波乱万丈な人生ではない。
リファやルイと、美味いものを食べて、ふかふかのベッドで眠る。そんなささやかな平穏だ。
王様になって玉座に縛り付けられるなんて、願い下げだ。
(だが……森に残された亜人たちの保護、か)
その点に関しては、正直なところ否やはない。
今日、治療した亜人たちの顔が脳裏をよぎる。怯えていた子供、必死に子を守ろうとした母親、仲間を案じていた男たち。
彼らがただ「亜人である」という理由だけで狩り立てられ、命を落とすのを黙って見過ごすのは、確かに精霊王の言う通り寝覚めが悪い。
それに、これだけの数の亜人を抱え込むことになれば、今の拠点のままでは手狭になるのは目に見えている。
精霊王が報酬として提示した「安息の地」――肥沃な大地というのは、喉から手が出るほど魅力的だ。
「……はあ。結局、やらざるを得ない状況に追い込まれてる気がするな」
ため息交じりに玄関のドアノブに手をかける。
カチャリ、と軽い音を立ててドアを開けると、家の中から温かな光と、夕食のいい匂いが溢れ出してきた。
「あ、ハルカ。おかえりなさい」
その右手は、不自然な義手でもなく、風に靡く袖でもない。確かな存在感を持ったその右腕を見て、俺の胸の奥にあった重たいしこりが少しだけ解けるのを感じた。
「ただいま。……ピムはどうだ?」
「うん、タオルを布団代わりにして、ぐっすり眠ってるわ。よっぽど疲れちゃったのね」
リファが視線を向けた先、ソファの隅では、ルイのシャツに埋もれるようにして、極小サイズのピムが盛大に涎を垂らして寝息を立てていた。
あの荘厳な精霊王の依り代になっていたとは信じられないほど、無防備で何とも間抜けな寝顔だ。
「そっか。なら、起こさないようにしないとな」
「ハルカ、すごく疲れた顔をしてる。……治療、大変だった?」
リファが心配そうに覗き込んでくる。
俺は苦笑しながら首を横に振った。
「いや、治療自体は大したことない。ただ……ちょっと考え事をしてただけだ」
「考え事?」
「ああ。……今後のことだよ。畑を作ったり、防備を強化したり、やる事は山のようにある」
俺がそう言うと、リファの瞳が揺れた。
「私も手伝うわ。もう、足手まといのままでいたくないの」
「病み上がりだぞ? リハビリもまだだろ」
「平気よ。ハルカが治してくれたんだもの。それに……」
リファは右手をグーパーと開閉させ、力強い光を宿した瞳で俺を見る。
「ハルカ一人に、全部背負わせたくないの」
その言葉に、俺は不意を突かれたように口を噤んだ。
精霊王に言われた「国作り」という重圧。それを一人で抱え込んでいたことを見透かされたような気がしたからだ。
もちろん、リファは精霊王の話など知らないはずだが、女の勘は時として鋭い。
「……これからは家のことを色々と頼むことになる。頼りにさせてもらうよ」
「うん!」
嬉しそうに頷くリファを見て、俺は小さく息を吐く。
国を作るなんて大それたことは、今は考えなくていい。
まずは目の前の、手の届く範囲のことを片付ける。
この小さな家と、こいつらの笑顔を守るために、少しばかり庭を広げる。
――そう、国作りではなく、あくまで「大規模な敷地拡張」だと思えばいい。
俺は自分自身にそう言い聞かせ、少しだけ軽くなった足取りでリビングへと足を踏み入れた。
「ん?」
ふと視界の端のマップに赤い点が三つほど、拠点の近くに表示されたのを見て、足を止めた。
「どうしたの?」
リファが俺の反応に怪訝な声をかける。
そちらに気を取られている間に、赤い点はすぐさま拠点から離れていった。オオカミが群れで近づいただけかと思い、俺はマップから目を離した。
「いや、なんでもない。単なる勘違いだ。さ、今日は疲れただろ? もう休もう」
「ええ、おやすみなさい。ハルカ。本当にありがとう……」
リファは微かに頬を赤らめると、一瞬で距離を縮めて、俺の唇に軽い口付けをしてきた。
ほんの一瞬のことだった。
柔らかい感触と甘い香りが残る中、呆然としている俺を置いて、リファは小走りで二階へと駆け上がって行ってしまった。
「…………」
俺は唇を指で触れると、頭をガシガシと掻いて、二階の自室へとゆっくりと向かう。
耳が熱く感じるのは、おそらく長く焚き火に当たっていたせいだ。
……そう思うことにした。
騒がしい夜は、こうして更けていった。