百舌の殺害方法   作:アイダカズキ

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百舌の殺害方法(前)天敵

 ──その男からは、夥しい死の臭いがした。

 腐敗を防ぐため石灰を被せられた、膨大な屍の山を思わせる隠し切れない死の臭い。

 まるでかつての自分のような。

 

【数日前──シンガポール市内、ホテル・オーチャード57階、高級会員制バー〈クラブ・セントーサ〉VIP専用エリア】

「……遅くなって申し訳ない。辺鄙な場所ほど官憲の目が光っているもんだ。余計な邪魔が入らず、落ち着いて取引ができる場を整えるにはそれなりの時間と手間が必要だったわけだ──バー一つ、貸切りにするだけの苦労がね」

「こちらもそれほど待ったわけではない。商談を始めるとしよう」

 こちらへ。夜景の一番素晴らしい席なんだ──手招きしたのは、蟇蛙がスーツを着たような、と形容すればイメージが一致しそうな男だった。突き出た腹に、高価だがあまり趣味の良くないスーツ。人を見かけで判断するのは良くないとは言うが──あまり高潔そうにも誠実そうにも見えない。

 軽く頷いてその後に続いた客は、対照的な男だった。漆黒の肌に、スーツの上からでもわかる鍛えられた肉体。それなりの訓練を受けた者特有の、抑制された足取り。私服を着た軍人にしか見えないが、実際そうなのだろう。その後に続く、似たような体格と足取りの男たちは護衛か。

 目標を肉眼で確認(ターゲット・インサイト)、とアレクセイは密かに呟いた。

 高級会員制を自称するだけあって〈クラブ・セントーサ〉は趣味の良いバーだった。室内の調度も適度にシックで、金はかかっていても下品さはない。照明も明るすぎず暗すぎず、そこかしこに点在する暗がりがリラックスしたムードを演出していた。商談の場としては申し分ないだろう──真っ当な商談かはともかくとして。

 もっとも、この薄暗さはアレクセイたちには好都合だったが。

 彼が潜むのは天井裏の、年に一度のメンテナンス以外では使われることのない通風口兼配管スペースだ。閉所恐怖症の人間なら悲鳴を上げそうな狭さだが、気取られず階下を伺うにはこれ以上好都合な場所はない。

 彼が身につけているのは、全身一体型の隠蔽型戦闘服(スニーキングスーツ)だ。最小限の防弾・防刃機能はあるが、あくまで潜入作戦用の装備である。武器にしても透明な刃〈硝子〉、それに腕の射出器に収めた〈糸〉のみだ。

『アレクセイ、こちらも配置に着いたわ』イヤホンからブリギッテの声。もちろんここからでは彼女の潜伏位置は見えないが、暗視ゴーグルを装着した上に愛用の強化弓を油断なく構えているに違いない。

『室内の全員を射界に捉えた。合図があり次第、いつでも誰でもお好みのタイミングで()()にできるわ』

 アレクセイは苦笑した。かつて女子アーチェリーのオリンピック候補生だった彼女が、自分や龍一と初めて出会った時に何と言ったのかを思い出したのだ。

「君の腕前は信頼しているよ」ブリギッテはできることをできないとも、逆にできないことをできるとも、決して口にしない少女だ。きっとこれからもそうだろう。「でも、今日は殺しは()()だ──少なくとも今日はね」

 そう、殺害せず(ノーキル)だ。密かに呟く──もう僕は〈ヒュプノス〉でも、殺し屋でもないのだから。

『この手の仕事となると、いつも私とあなたに出番が回ってくるわね。龍一やシュウはお世辞にも向いているとは言えないもの』

「ミルカやイナンナにも頼めないからね」

『それ以前に教育に悪いわ』

 その通りだった。彼ら彼女らの中で潜入作戦(スニーキング)をこなせるのは、元〈ヒュプノス〉のアレクセイと、MI6で技能を叩き込まれたブリギッテのみだ。

「適材適所だよ。僕らがこれからやるべきは火事場泥棒だからね」

 真っ当な生業とは言えないが、少なくとも殺しより罪深くはないだろう。

 かつての自分の生業を考えれば。

『こちらも準備完了だ。ホテル内の保安および電力管理システムを掌握した。いつでもバー内の電気系統をカットできる』今度は〈白狼〉の声。『ただし、セキュリティへの欺瞞を保持できる時間は短い。目標を確保次第、即ちに逃走に移る必要がある。殺到してくるホテルの保安部隊と一戦交えたいなら止めはしないが』

「充分だ」

 一戦が発生するような事態は、明確な失敗だろう。

 下では「商談」が続いていた──世界中のあらゆる犯罪シーンで見られる光景が展開していた。蟇蛙のごとき男があの手この手で値を吊り上げ、私服の軍人らしき男が素っ気なくそれを突っぱねる、といった様子だ。

『蛙面の男は東欧から北欧を中心に活動している武器ブローカー。私服の軍人は……カリブ海軍情報部に属する連絡将校だ』

 無反応ではいられない名前だった。〈海賊の楽園〉、討伐艦隊、〈竜〉の顕現、そしておびただしい破壊と死。

「ハイチ=ドミニカ連邦のエージェント、それも士官クラスか。軽々しく使い走りにやらされるような役職でもない。なぜここへ?」

『さあな。だが君や龍一と全く無関係でもないのだろう……ちょうど今、その話をしているようだぞ』

 眼下の男たちの音声が急にクリアになった。〈白狼〉が気を利かせて、彼らの持つスマートフォンをハッキングしたのだろう。

「……素晴らしい。元帥も満足なさるだろう。無論、『それ』が実際にあなたの提示したスペックを発揮すれば、の話だが」

 お疑いかね、豪快さを装うようにブローカーは手を振ってみせる。「さすがに軍人さんは慎重だな。だがそれは信じてくれ、と言うしかありませんな。あんたも知っての通り、こいつは威力を見るためにその辺の往来でぶっ放す、というわけにはいかない──だが使えば確実に効力を発揮することは保証する。これはそういうブツだ」

 連絡将校はしばし黙考しているようだった。目の前の男を信用し切ってはいない。が、跳ね除けるには「商品」は魅力がありすぎる。そういう顔だ。

「入金が確認され次第、解除コードを送る。それでめでたく商談成立──逆に言えば解除コードがなけりゃ、あれは金属とタンパク質でできた粗大ゴミだ」

「護衛の一人もつけていないとは、と思ったが、そういう切り札か。……あなたを拷問にかけ、解除コードを聞き出すという手もあるな。()()()()()()()()()()()()

 ブローカーは身を強張らせた。目の前の客がどういう素性なのか思い出したような顔だった。そしてその言葉が脅しではないことも。

 が、彼はあえてぐいと胸を張った。「そう思われるんならやればいい。あんたの御国に便宜を図る兵器商は誰もいなくなる。でもあんたら、座して御国の滅びを待たないんじゃなかったのかね?」

『臆病者じゃないことは認めてもいいわね。欲の皮の突っ張ったカス野郎にしても』

 ミルカの前では絶対言えない表現だね、と言いそうになったが黙っていた。

 異様な音が響いた。音は連絡将校の口元から発されていた──歯軋りの音だ。

 冷静沈着な態度を保っていた軍人の顔面が、憎悪のあまり極限まで歪み切っていた。

「言われるまでもない。リュウイチ・サガラとその一党のことさえ……我が海賊討伐艦隊が壊滅した、あのいまわしい災厄さえなければ……誰がお前たち薄汚い闇商人どもと取引など……!」

『おやおや。ひどく嫌われたものね』

「言いがかりだ、と一蹴できないところが辛いな……」

 一介の連絡将校が海軍を背負っているかのような発言は本来なら失笑ものだが、〈竜〉と化した相良龍一によって一艦隊が海の底に消えたのは事実なのだ。一部始終を目撃していたアレクセイとしては笑う気になれなかった。

 頃合いを見計らったのか、ブローカーは静かにタブレット端末を連絡将校に示した。「応じてくだされば、今後は御国に卸す兵器の全てを、半額にしてもいい。さあどうします? 決めるのはあんたらだ」

 垣間見せた激昂が嘘のように、連絡将校は黙った。やがて──憮然としてはいたが、黙ってタブレットの画面に指を滑らせた。

 ブローカーは満足そうに頷く。「契約成立だ。いい買い物をなさいましたな。これで『商品』はあんたがたのものだ」

『頃合いだ』〈白狼〉の声。『あのタブレット端末は宝の山だ。しかも好都合なことに、持ち主と客の生体情報までおまけについてくる。アレクセイ、ブリギッテ、準備はいいな?』

「無論だ」

『いつでも』

 数時間近い潜伏が報われる瞬間だった。アレクセイは防弾・耐ガス仕様の目出し帽(バラクラバ)を目深に被り直す──龍一ならここで「戦闘開始(オープンコンバット)」と言うところだな。

『……待て。新しい客のようだ……それも予期しない類の』

 スマートフォンを耳に当てたブローカーは露骨に不機嫌そうな顔をしている。商談の成功水を差されたのが不愉快でたまらないのだろう。「一大事でない限りかけてくるなと言っただろう……その一大事だと?」

 少し待て、と言ってから連絡将校に話しかける。「〈王国〉からの遣いだそうだ。しかも一人だけらしい。どうするね?」

 連絡将校は逡巡したが、ごく短い間だった。「通そう。この期に及んで〈王国〉が何を言いに来たのか興味深いではないか。それに、一人で何ができる?」

 それもそうだ、頷いてブローカーはスマートフォンに告げる。「通せ!」

 踝まで埋まる絨毯を考慮しても、控えめな足音が客の訪問を告げた。

 風采の上がらない男、がその第一印象だった──半分以上禿げ上がった額に、お世辞にも洒脱とは言えない分厚い眼鏡、体型に合っていない鼠色のスーツ。痩せても太ってもいない中肉中背の体躯が、没個性的な印象をさらに深めていた。あまり大きくない企業の大して重要ではないポストの、定年まで勤め上げることだけが唯一の生き甲斐である部長職、といった風情の中年男だ。

「〈白狼〉、あの男の顔に見覚えは?」

『ない。現在、各国治安機関のデータベースにアクセス中だが、時間がかかりそうだ』

『とんだ飛び入りね。ますます局面が読めなくなったわ』

 修道僧のように、男は目を伏せたまま歩き続けた。力強さとも身の内から溢れ出る自信とも無縁な、静かな足音のみが聞こえる。まるで自分がこの世に生まれ出たのは何かの間違いです、とでも言うような。

 だが。

 不意に、男は顔を上げた──分厚い眼鏡の奥から、真円に近い、まるで鳥類のような丸い目がアレクセイを捉えた。

 アレクセイは身を強張らせた。咄嗟に気配を殺しはしたが──本当に身を隠しおおせたかはわからなかった。自分の隠行を見破れた者など、この世には数えるほどしかいなかったはずなのに。

 

 ──その男からは、夥しい死の臭いがした。

 腐敗を防ぐため石灰を被せられた、膨大な屍の山を思わせる隠し切れない死の臭い。

 まるでかつての自分のような。

 

「大遅刻だな、〈王国〉の使者とやら!」ブローカーの声は今や勝者の余裕を隠していなかった。「たった今〈連盟(ユニオン)〉と、ハイチ=ドミニカ連邦の商談は成立した! これからの犯罪業界をリードしていくのは〈連盟〉なんだ! あんたら〈王国〉は、玉座からケツを蹴り落とされたんだよ!」

「無論、我々は今日に至るまでの〈王国〉の尽力を忘れてはいない」ブローカーと対照に連絡将校の口調は物静かだったが、それだけに冷ややかだった。「だが同時に、我々が最も苦しかった時期に〈犯罪者たちの王〉が何一つ手を差し伸べなかったことも忘れてはいない。帰って主に伝えるがいい──あなたの時代は終わった、と」

〈王国〉の使者という風采の上がらない男は身じろぎもしない。冴えない外見と合間って、途方に暮れているようにも見えた──だが、アレクセイがその時感じたのは、首筋が総毛立つような戦慄だった。

 ()()()()()()()()

 ブローカーが拍子抜けしたように呟く。「……〈王国〉の使者にしてはえらく無口だな。それともせっかくの言伝てを忘れたのか?」

「いずれにせよ、ここにあなたの居場所がないことは確かだ」連絡将校は傍らの護衛たちに目で合図する。「言うべき言葉がないというなら、我らもあなたに敢えて敬意を払う必要もない。つまみ出せ」

 護衛たちの中でも一際屈強な者たちが動く。小山のような体躯の護衛たちと比べると、使者らしき男との体格差は大人と子供同然だ。

 だが、男は慌てふためく様子もなく、静かに顔を上げた。まるでこれから狩る獲物を見据える猛禽のように。

 護衛の一人が男の肩を掴もうとした瞬間。

「遣い」の男の右手が、瞬時に霞と化したように()()()

 その場の全員が──天井裏に潜むアレクセイやブリギッテ、電子の眼で密かに窃視中の〈白狼〉でさえ、何が起こったのか理解できなかった。

 血煙を上げ、男に掴みかかった護衛たちが、逆に自らの血煙の中に倒れ伏した。シックな色調の床を夥しい鮮血が染めていく。鍛え抜かれた身体が死にきれず痙攣を続けているが、もはや意識はない。

 男はまだその場に佇んだままだった。ただその右手が、血で赤黒く染まっている。

『……!』

 イヤホン越しにブリギッテの動揺が伝わってくる。男の手から何かが転がり落ち、湿った音を立てて転がった。()()()()()()。素手で抉り出された、喉の軟骨部だ。

 ブローカーと連絡将校が血相を変えて立ち上がる──ようやく目の前の男が、どれほどの脅威に気づいたように。

「てめえ、まさか……〈百舌(シュライク)〉か!?」

「〈ヒュプノス殺し〉がなぜここに!?」

〈百舌〉の返答はない。だがその広げられていた五指が、何かを握り潰すように曲がり始める──猛禽の爪のように。

「……殺せ!」

 顔を引き攣らせながらも、連絡将校が護衛たちに命じる。

 控えていた護衛たちが次々に、脇のホルスターから機関短銃を抜き出して照準。HW応用技術の強化神経を移植されているのか、その動きは極めて素早い。

 だが〈百舌〉の方がもっと早かった。鍛え抜かれた護衛たちの、強化された神経でさえ間に合わないほどに。

 鉤爪のように曲げられた〈百舌〉の五指が容赦なく振り抜かれる。その一撃で目も鼻も顎も、ごっそりと削ぎ落とされた。顔面を失った護衛がごぼごぼと血の泡を吹いているが、悲鳴にはならない。

 わずかに後方で機関短銃を構える護衛が発砲。顔面を失った護衛が銃弾に全身を引き裂かれて崩れ落ちるが、その時には〈百舌〉はもう発砲した護衛に躍りかかっている。

 小型の猛禽を思わせる跳躍だった。護衛の肩口に両足で飛び乗り、頭部を鷲掴みにして力を込める。悲鳴を上げる間すらなく、果実のように首がもぎ取られた。

 無造作に投擲された護衛の頭部が、別の護衛の頭部を直撃する。仰向けに倒れた護衛の首は、奇妙な方向に折れ曲がっていた。

 止めようのない、そして止める間などない殺戮劇だった。屈強な護衛たちが、わずか数秒で紙細工か何かのように引き裂かれたのだ。連絡将校も、ブローカーも、唇まで血の気を失くしている。

 だが護衛たちが全員殺された今、次の標的は自分たちだ、と判断できる理性は残っていたらしい。

「まさかこいつに頼るとはな……出番だぞ、〈ゴリアテ〉!」

 ブローカーの叫びに応じ、パーテーションを薙ぎ倒して巨大な影が進み出る。

〈百舌〉とブローカーたちの間に立ちはだかったのは、複合センサーを組み込んだガスマスク兼用のフルフェイスヘルメットを装着した巨人だった。巨躯を包むのは西洋鎧にも似たセラミック製の全身戦闘スーツ。小銃のように構えた大口径の重機関銃から伸びる弾帯は、背の給弾バックパックに接続されている。

「商談にHWを連れてきたのか? 我々を信用していなかったのだな!」

「確実な()()を持たずに商談に臨む馬鹿がいるか!」連絡将校の抗議を、ブローカーは顔中を脂汗で光らせながら嘲笑う。「それにこいつはHWじゃねえ……薬物で自由意志なんてもんを()()()()()()()()()()、無痛無覚のスーパーソルジャーよ! コスト面で量産は無理だが、生身の殺し屋一匹なんて一捻りだ。やれ!」

 ブローカーが下した命令の語尾は、轟音にほぼ搔き消された。低空を飛ぶヘリやドローンを撃ち落とすための機関銃弾が、放水でもするようにばら撒かれたのだ。掃射を受けたテーブルやソファが、穴だらけどころか一瞬で粉砕された。

〈百舌〉は横っ飛びにカウンターの裏側へ飛び込んだが、当然ながら弾着はその後を追う。並のサラリーマンの月収なら即座に吹き飛びそうな高価なボトルが次々と砕け散り、砕けたガラスと琥珀色の液体が宙に舞う。

「とどめを刺せ! 隙を与えるな!」

 唾を飛び散らしながら下されたブローカーの号令に〈ゴリアテ〉は律儀に応えた。重機関銃の銃身下に装着された擲弾発射機(グレネードランチャー)が、機関銃の乱射に比べれば軽く間の抜けた音を立てる。音の軽さに反して威力は覿面で、顔が映るほどに磨き上げられた黒檀のカウンターは見るも無惨なほど粉々に吹き飛んだ。

 立ちこめる煙に、即座にスプリンクラーが作動。床も、カウンターの残骸も、転がる死体も見る間に人工の雨に打たれていく。

「やったか? ……いや、まだ油断するな、奴の死体を引きずり出してこい!」 

 号令に〈ゴリアテ〉が一歩踏み出した時。

 唸りを上げて飛来した何かが〈ゴリアテ〉の顔面を直撃した。

 首を失くした護衛の死体そのものだ。人一人分の重量物の投擲に、さしもの強化兵士も一瞬よろめく。

 その隙に〈百舌〉は獲物に躍りかかっていた。

 見上げるほどに体格差のある〈ゴリアテ〉の懐に〈百舌〉は一瞬で滑り込んでいた。翻った手刀の一閃が、背のバックパックから伸びた弾帯を断ち切る。まるで踏み台のように重機関銃の銃身を蹴り、〈百舌〉は〈ゴリアテ〉の肩へ跨っていた。

 力任せに振り落とせる位置ではない。苦し紛れのように重機関銃が火を吐くが、切れた弾帯では数発を放っただけで、すぐ沈黙した。

 しぃっ、と鋭い呼気とともに、手刀が繰り出されていた。ほぼ真下へ、垂直に繰り出された貫手は、戦闘服と強化された皮膚を物ともせず一瞬で貫いた。

 硬いものが砕ける音、柔らかいものを無理やりこじ開ける生々しい音。

 戦闘装具を全身に装着した巨躯が重々しく崩れ落ちる。軽く飛んで着地した〈百舌〉は、手の中のものをしげしげと眺めていた。

 抉り出した〈ゴリアテ〉の、まだ蠢いている心臓を。

(あの爪……何か仕込んでいるな)

 爪も恐ろしいが、より恐ろしいのは生身の人間を素手で引き裂くその膂力だ。何かの肉体強化なのか。

 声にならない悲鳴を上げ、連絡将校がホルスターから拳銃を抜き出す。だが発砲より早く〈百舌〉は渾身の力で何かを投げつけていた。

 苦鳴が響いた。凄まじい勢いで投げつけられた〈ゴリアテ〉の心臓は連絡将校の拳銃を弾き飛ばし、手首をへし折り、分厚い胸板に深々とめり込んでいた。仰向けに倒れた肢体がもがいているが、それは殺虫剤を浴びせられた虫のような末期の足掻きでしかない。

「誰か、誰か医者を……衛生兵!」

 血の泡を吐き出しながらもがく連絡将校に向け〈百舌〉が音もなく跳躍した。

 悲鳴を生卵が砕けるような音が覆い隠した。着地と同時に踏み下ろされた〈百舌〉の両足は、連絡将校の頭部を跡形もなく粉砕していた。

〈百舌〉が首を巡らせる──新たな標的に向かって。

「待て!」

 禿げ上がった額を赤く染め、ブローカーが唾を散らして力説する。「取引だ! 俺を生かしておけば役に立つぞ、殺し屋!〈連盟〉は必ずお前の力になる。生き残りの〈ヒュプノス〉も組織の総力を上げて見つけ出してやる!」

「お前たちとの『取引』など必要ない」

 初めて〈百舌〉が表情らしきものを見せた。笑ったのだ。

 これを笑顔と呼ぶなら、笑顔など見たくなくなるような笑顔だった。

()()()()殺せば、〈ヒュプノス〉はこの世から消滅する」

「待て……!」

「俺の心臓は、そのためだけに動いている」

 その後は、声とすら言えないおぞましい悲鳴が長く続いた。〈百舌〉がブローカーの頭部を両手で挟んで持ち上げたのだ。何かが砕け散り、悲鳴が止んだ。

 ブローカーの短躯が崩れ落ちる。彼の頭部は力任せに圧縮され、半分以下の大きさになっていた。

 動くものがいなくなった室内で、〈百舌〉は首を回し──そして止まった。

 鳥のように真ん丸く、瞼のない目が、

()()()()()()()()

 今はっきりと、アレクセイを見据えていた。

「く……!?」

 飛び退いたのは反射的なものだったが、結果的には正しかった。アレクセイが潜んでいた狭苦しい通風口兼点検用ダクトの床──〈百舌〉から見れば天井──が、切り裂かれるというよりは爆ぜた。

〈百舌〉がまたその鉤爪を振るったのだ。タイミングを過てば、顔面を大きく抉り取られていたに違いない。

 回避こそできたが、潜伏はとうに看過されていた。空中で身を捻ってどうにか着地する。

『逃げの一手だ、アレクセイ。そいつは君の同胞を幾人も血祭りに上げた〈ヒュプノス殺し〉、〈ヒュプノス〉の言わば()()だ』

「元気の出るアドバイスをありがとう。ただ、向こうに逃がしてくれるつもりは一切なさそうだね」

 ──見るも無惨な死体の数々と、粉砕された調度を挟んでアレクセイと〈百舌〉は対峙している。彼らの距離は十数メートルと離れてはいない。〈百舌〉の膂力からすればないも同然の距離だ。

(これは……まずいな)

 どう客観的に見ようと万事休すだ、とアレクセイは考える。不意打ちのアドバンテージは既に失われている。今から消えて隠れようとしても──ダクトの中で息を殺していた自分を容易く見つけ出した〈百舌〉が、それを見逃してくれるものか。

「そこまでよ!」

 凛とした声に風切り音が重なった。そして何かを叩くような鋭い音も。

 空を切り裂いて飛来した矢を〈百舌〉は素手で受け止めていた。鋭い鏃と彼の眼球は、2センチと離れていなかった。

「例の弓使いの小娘か」

 矢を小枝のようにへし折りながら首を回した〈百舌〉がブリギッテを直視する。

 まずいどころか最悪になった、アレクセイはそう認めざるを得ない。

 ブリギッテは勇敢な娘だ。ましてアレクセイの危地を看過するはずもない──しかし、今ばかりはそれが完全に裏目に出てしまった形だ。

 返り血に塗れた凄惨な〈百舌〉に顔を強張らせながらブリギッテは怯えてはいなかった。一呼吸で次の矢を抜き打ちする。

 飛来した矢を〈百舌〉は苦もなく叩き落とす。が、その矢の影からもう一矢が〈百舌〉の喉元に迫っていた。隠し矢だ。

 本来なら防御も回避もままならない速さとタイミングの一矢。

 だがそれを〈百舌〉は()()()()()躱わしていた。肉体そのものが水と化したような異様な回避方法だった。

 愕然としながらも三の矢を番えようとするブリギッテだったが、一瞬で距離を詰めた〈百舌〉の繰り出す蹴りの方が遥かに速い。直撃こそ避けたものの、強化弓は手から弾き飛ばされてしまった。弓がカーリングのように床を滑っていく。

「俺の心臓は〈ヒュプノス〉を殺すためだけに動いている」

 起きあがろうともがくブリギッテに〈百舌〉が右手を振りかざす。

「ましてや他の邪魔者に、俺が塵芥以上の価値を見出すと思うか?」

 その右手が振り下ろされる寸前──〈百舌〉は振り向きざまに()()を一閃させていた。

 アレクセイが振るった〈硝子〉の見えない刃が、甲高い音を立てて弾き返される。

〈百舌〉の左手には、魔法のように鎧通し(スティレット)が現出していた。鎧の隙間を狙い突き刺すための短剣──〈百舌〉のもう一つの爪。

 後方へ飛び退きながらアレクセイが〈糸〉を展開させる。視認すら難しい、しかも触れただけで四肢が落ちかねない極細の、そして必殺の砦。

 しかし。

〈百舌〉の無造作に振るうスティレットで〈糸〉が断ち切られる。数トンの鉄塊を叩きつけても切れない〈糸〉が。闇市場には既に流出済みの技術──〈糸〉の分子構造を溶解させる特殊コーティングか。

 新たな〈糸〉を展開させる──そのことごとくが切断あるいは回避される。血と、肉片と、破壊された調度に足を取られかねない室内を〈百舌〉は平坦な床のように軽々と距離を詰めてくる。

(こいつには〈糸〉による空間制圧が効かない……!)

 スティレットの鋭い刺突──それも三連続。眉間・腹・喉を狙ういずれも必殺の一撃。

 かろうじて躱わした。が、完全には避けきれなかった。刃先がアレクセイの胸を掠め、隠蔽型戦闘服が浅く切り裂かれる。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 何とかしなければ──焦りを募らせるアレクセイに向け、〈百舌〉の忙しなく動き回っていた眼球が止まる。

 視線が合った瞬間、アレクセイはよろめいていた。二度とあるはずのない馴染みの感覚。自分の身体が限りなく広がっていき、同時に縮んでいくような奇妙な感覚。

 目の前の恐ろしい〈百舌〉へのあらゆる攻撃意欲が消失した。構えたはずの〈硝子〉の切先が下がっていく。

同調(チューニング)〉だ。

 そんなはずはない──痺れていく頭の片隅で思う。僕以外の〈ヒュプノス〉は皆死んだはずだ。〈同調〉を使える者はもう存在しない。

 あるいは──この〈百舌〉以外。

〈百舌〉の右手が神速で振るわれる寸前。

 アレクセイは悲鳴を上げた。悲鳴を上げながら〈同調〉を全力で拒んでいた。腕が内側から爆発したかのような衝撃。

〈百舌〉の右手人差し指と中指は、身を翻したアレクセイの左上腕部を深々と抉っていた。鮮血と肉片が飛び散り、絨毯の上にまた奇怪な紋様を描いた。

「……跳ね除けたか」

〈百舌〉の顔がわずかに歪んでいた。〈同調〉を拒否され、彼の側にも少なくないダメージがあったのだろう。

 どうにか着地できたが、そこまでだった。〈硝子〉を取り落とさないようにするのがやっとの有り様だ。まして〈糸〉の精密な制御などは望むべくもない。

 切断機能をオフにした〈糸〉で上腕部を傷口の上で締め、間に合わせの止血を行う──だがこの場ではそれが精一杯だ。とても〈百舌〉との正面戦闘などに耐えられる力は残っていない。

「あの日以降、〈ヒュプノス〉の独占していた技術は闇市場へ流出し、今では〈糸〉も含めほぼ解析されている」

 血の色に染まった視界の向こうから、〈百舌〉の静かな声が聞こえてくる。

「〈()調()()()()()()()()()()

 

「アレクセイ!?」

 ブリギッテは悲鳴を上げたが、それだけではどうにもならないことはわかっていた。ロンドンでも新香港でも、ここまで追い詰められたアレクセイを見るのは初めてだった。このままでは彼は〈百舌〉の餌食となる──しかし、まともに立ち向かえさえできなかった自分に何ができるというのか。

『ブリギッテ。()()()B()()

〈白狼〉の声にブリギッテは我に返り、そして拾い上げた強化弓に矢を番える──これを使えば作戦の失敗を認めるしかない。ただ一矢のみの()()()

 放たれた矢は〈百舌〉とはまるで見当違いの方向に飛び、お義理のように手近なソファに突き刺さった。彼女の一射にしては技量の欠片も見えない、間抜けな一射だ。

〈百舌〉が弾かれたように顔を上げた。無言のまま、鼻先が別の生き物のように激しく蠢いている──矢の先端に装着された噴霧器から何かが放出されている。霧状の、そして発火性の気体が。

〈百舌〉が身を翻すのと、噴霧器とセットになっていた点火装置が作動するのはほぼ同時だった。

 着火。

 火炎地獄の現出だった。シュウと〈白狼〉の()()による気化爆薬はほぼ想定通りの破壊をもたらした。カウンターとソファの残骸も、そしてブローカーと連絡将校、ボディガードと〈ゴリアテ〉の屍も。何もかもが紅蓮に飲み込まれていく。

 破壊の張本人であるブリギッテさえ、爆風でゴムボールのように弾き飛ばされる有り様だった。咳き込みながら彼女は必死で携帯式酸素マスクを着用する。「ああ、もう! 私まで龍一のやり口に染まってきたじゃない!」

 豪奢な高級会員制バーは、今や爆撃された市街地のような惨状を晒していた。どれが破壊された調度で、どれが八つ裂きにされた上に真っ黒に焼け焦げた死体なのかも判然としない。夢中で周囲を見回したブリギッテは、自分と同じように爆風で横倒しになったアレクセイを見つけて心臓が凍りそうになった。

「アレクセイ!」

 駆け寄り抱え起こすと、出血は想像よりずっと少なかった。その理由はすぐにわかった。上腕部を〈糸〉で縛り、さらに傷口を〈糸〉で強引に縫い合わせていたのだ。

 さしものアレクセイもそれが精一杯で、うずくまったまま浅く呼吸を繰り返すのみだ。

「立ちましょう、アレクセイ。ここから逃げるのよ!」

 倒れ伏さないのがやっとという様子のアレクセイを抱え、ブリギッテは歩き出す。

「まずいわ。ショック状態が起こりかけている……〈白狼〉! 〈カルネアデス〉に連絡して、イナンナを待機させておいて!」

『わかった。戻り次第、アレクセイの治療に当たってもらう』

 だがアレクセイが考えていたのは痛みではなかった。考えていたのは、

 

「お前がどこに逃れようと、殺す」

 揺らぐ炎の向こうから〈百舌〉がアレクセイを見つめている。スーツの裾に火の粉がまとわりついているが、それさえ気にした様子もない。

「俺の心臓は、そのためだけに動いている」

 

 考えていたのはただ一つ──心臓が徐々に凍りついていくような、確信に基づく恐怖だった。炎の中に立ち尽くしながらこちらを見据える〈百舌〉の瞼のない目が、脳裏から離れない。

 どこに逃れようと、あいつは必ず追ってくる。

 僕の……最後の〈ヒュプノス〉の息の根を止めるまで。

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