【〈ホテル・セントーサ〉潜入作戦失敗から十数時間後──地中海上空数千メートルを飛行中の〈カルネアデス〉会議室】
イナンナの指が無惨な傷口に触れると、驚くほどの勢いで痛みが引いていった。文字通りの「手当て」だ。
「いかがですか?」
「ありがとう。だいぶ良くなった」
アレクセイは腕を曲げ伸ばしして確かめる。こびりついた血と、わずかに引き攣るような感触以外に傷を思わせるものはない。腕の肉が半分ほども抉り取られたというのに。
「ごめんなさい。私のせいだわ」
ブリギッテは見るも気の毒なほどしょげ返っていた。勝ち気ではあるが、それと同じくらいに優しい少女でもある。「助けるどころか、私の方がかばわれて……」
『ふむ。君が気落ちする理由がわからないな。何しろ私には最初から最後まで、傷ついた仲間をかばって勇敢に戦う少女しか見えなかったからな』
「なんと!」
〈白狼〉の言葉を受けて、突然アイネイアががばりと立ち上がる。「傷ついた仲間を見捨てることなく最後まで勇敢に戦い続けた、優しく気高く美しく勇敢な戦乙女だと!? それは一体、何というブリギッテなのだ!?」
つられて傍らのミルカが目を丸くする。「ええっ!? 傷ついた仲間をかばって一歩も引くことなく勇敢に戦い続けた、綺麗で優しくて頭が良くて何でもできてかっこいい女性って、一体どこのブリギッテさんなんですか!?」
「二人とも急に何を言い出すのよ!?」
「ブリギッテよ。ミルカも余も、心底そう思って言っているのだ。決してからかっているわけではないぞ」
「そ、そうですよ! 綺麗で優しくて頭が良くて……」
「なおさら恥ずかしいからやめてってば!」
顔を真っ赤に染めたブリギッテが声を上げると、温かな笑い声が室内に満ちる──アレクセイも微笑するが、声は上げない。
「しかし、とんでもねえ奴が現れたな。〈ヒュプノス〉専門の殺し屋かよ……しかも素手で強化兵士をバラ肉みてえに解体しやがったぞ」
「言い方に気をつけて」ミルカが竦み上がったのを見たのか、ブリギッテがシュウを叱責する。
「中国拳法でいう鷹爪拳のように、指先を使った戦闘法はないでもない。もっとも、強化兵士の防弾皮膚をアーマーごと貫くのは別の技術だろうが」格闘家としての龍一の意見。
『おそらく、これだろう』
〈白狼〉が正面スクリーンに何かの解析図を映し出す。
「これは?」
『アレクセイが使う〈糸〉の構造図だ。〈糸〉の効力については今さら解説は不要だろう。折れず、曲がらず、しなやかでありながら強靭で、蜘蛛の糸より細く、鋼鉄の塊を叩きつけても切れない。武器としては言わずもがなだ──ただし、アレクセイには悪いが、これは既にありふれた技術だ』
おかまいなく、とアレクセイは片手を上げる。
『加工の難しさ、何より扱いの難しさから闇市場でも入手は極めて難しい。従って〈糸〉から派生した技術は、例えばボディアーマーの表面加工など防御的な分野に留まっていた。ごく最近までは、だが』
「私たちが見たのは稀有な、武器としての使用例ね。それも〈糸〉以外での」
『〈糸〉の重要な特性の一つに
アレクセイは頷く──つい数時間前、まさにその〈糸〉で
話の行く先を察したミルカが青ざめる。「まさか、それがあの〈爪〉……ってことなんですか?」
『折れず、曲がらず、しなやかでありながら強靭で、しかも人体と拒絶反応を起こさない。
今度こそ会議室に一同の、声にならない呻きが充満した。──ボディアーマーすらも紙のように引き裂く〈百舌〉の〈爪〉。
「刀剣に使うには柔軟すぎ、弾丸として使うにはコストがかかりすぎる、だから人体に直接埋め込む……か。間違ってはいないけど、極端すぎるな」
『〈糸〉と同じ組成の爪も、〈糸〉を切断する特殊コーティングのスティレットも、既に闇市場で公開済みの技術を応用したに過ぎない。恐るべきは──そのありふれた技術のみで〈ヒュプノス〉を殺し得た〈百舌〉の戦闘能力だ』
「しかも其奴が、昼も夜もアレクセイをつけ狙っている……侮れぬ相手だ」
考え込んでいたシュウが、ふと思いついたように口にする。「アレクセイよお……例の〈ヒュプノス〉の総体とやらから、奴との戦闘情報をサルベージできねえのか? 弱点とまではいかなくとも、対策くらいは立てられるかも知れねえ」
アレクセイは首を振る。「理屈ではある……ただそれは不可能だ。〈ヒュプノス〉総体は僕の知る限り完全に消失したし、たとえあったとしても、僕にはもうアクセスする
室内に声にならない溜め息が満ちる。
「それじゃどうしようもねえな……」
「アレクセイさんのせいではありません。他に対策を考えないと」
「幾ら凄腕でも、ああもピンポイントで私たちを探り当てられるものなの?」考え込みながらブリギッテ。「むしろあの会合自体、私たち……いいえ、アレクセイを誘き寄せるための罠だったんじゃないかしら。ブローカーも連絡将校も、単に『操作』されただけだったのかも」
『何らかの組織のバックアップを受けている可能性は否定できない。困難だが、私の方からも追ってみよう』
ミルカが不安げに周囲を見回した。「そ、そんな凄い殺し屋だからって、ここまでアレクセイさんを追いかけてきませんよね? いくら何でも、空は飛べませんよね?」
シュウが呆れ顔になる。「あのなあ。俺たちだって永久に飛んではいられねえんだぞ」
『シュウの言う通りだ。この〈カルネアデス〉は輸送ドローンからの補給さえあれば最大で半年以上飛行を続けられるが、それはあくまで理論上の話だ。メンテナンスのため、定期的に地上へ降りなければならない。それに、今までの話を聞く分に〈百舌〉がその程度で諦めるとは思えない』
その通り──声に出さず呟く。たとえ標的が空に浮かんでいようと、〈ヒュプノス〉だったらその程度で諦めはしない。僕を殺すためだけに動き続ける〈百舌〉なら尚更だろう。
『今日は遅い。〈百舌〉対策は後日改めて練り直そう。アレクセイ、ブリギッテ、失敗は失敗として受け止めよう。今は身体を休めてくれ。ご苦労だった』
「わかった」
「アレクセイさん! 今日の晩御飯はアレクセイさんの好きなものにしますね。治りはしても大怪我の直後なんだから、栄養のありそうなもの一杯作りますよ。何がいいですか?」
アレクセイは笑って首を振る。「ありがとう。でもすぐには思いつかないな。君に任せていいかい、ミルカ?」
ミルカがふん、と盛大に鼻から息を吐く。「任されました! それじゃ、ペリメニと担々麺にしますね!」
「それ単にてめえが食いたいだけじゃねえか!」
「楽しみにしているよ」笑って踵を返そうとしたアレクセイは、その時何かを言いたげなブリギッテの視線に気づいた。
「アレクセイ。
「ああ」
にこやかに返す。これだから彼女は油断ならない、そう思いながら。
「約束して。この件に関しては……ううん、あなたの悩み事は一人で抱え込まないって」
「わかった。約束するよ」
微笑むと、彼女の表情が少しだけ緩んだ。
彼ら彼女らはいわゆる「いい人」ではない。だが……立派な人たちだ。僕とは違う。
あったとしても、それは消えた。〈ヒュプノス〉総体もろとも、他の兄弟姉妹たちと共に。
今、君たちと一緒にいるのは自分が誰だったのか、何をしようとしていたのか、それすら思い出せない、かつての僕の抜け殻だ。
いや……「取り戻すべき過去がある」と思うことすら、単なる僕の願望に過ぎなかったのかも知れない。
──その夜、アレクセイは誰にも何も告げることなく〈カルネアデス〉を後にした。
【数日後──ギリシャ・ロドピ山脈、ブルガリア国境沿いの名もなき小村】
生きてこの地を踏めるとは思わなかった、その思いしかなかった。
まともに舗装すらされていない地面に降り立つと、年代物のバスはあちこちから軋みを上げながらガソリン煙を撒き散らして走り去った(バスの運転手は親切にも、ひどく訛った英語で『今日この路線を使うお客さんはあんたが最初で最後だよ』と教えてくれた)。聞こえるのは風の音。そして名も知らない鳥と獣の鳴き声のみ。
生きて「彼」に会う日が来るとは思わなかった、改めてそう思いながらアレクセイは砂利を踏み締めて歩き出す。
ここに至るまでに、どこかで力尽きると思っていた。あまりにも多くの命を手にかけすぎた。あまりにも多くの恨みを買いすぎた。「彼」に会うことなく、いつかどこかで骸となって路上に転がるだろうと。自分が殺した者同様、その際には墓碑すら残らないだろうと。
だが僕は今、生きてここにいる。
──どんな光景を予想していたにせよ、少なくともこのようなものは思い至らなかった。
道ですらない道を歩き、小高い丘を登りつめたアレクセイの目に飛び込んできたのは、無数に並ぶ石の列だった。
(墓碑……?)
並ぶ石は大小不揃いで、磨かれてすらいない。だがそれは確かに墓碑だった──表面の文字は掠れかけて消え、読めないものも多い。
並ぶ墓碑の果てに、小さな民家があった。物置か何かを無理やり住居として使っているらしい。粗末な一軒家は灰色の外壁も合わさって、それ自体が一つの墓碑にも見えた。
『変わったお人だよ……こんな辺鄙な土地に、何年か前にふらりとやってきてねえ』先ほどの運転手の(頼みもせずに教えてくれた)話を思い出す。『金はいらないから、この土地の墓守をさせてくれと言うんだ。先代の墓守は何年も前にくたばっちまったし、若い奴は皆都会へ出ちまうし、そもそも墓守なんてやりたがる奴もいねえ。手入れするもんがいなきゃ荒れ放題なんだから、確かに助かってはいるんだが』
人の気配──なし。物理的・電子的トラップの設置──なし。
躊躇わず、アレクセイは民家に近づいていった。この距離でアレクセイの感覚を欺き得る者が悪意を持って隠れていたら、どれほど警戒していようと死んだも同然だった。
今のアレクセイは手足に等しい〈糸〉も〈硝子〉も身に帯びていない。あの剣客・
死にたいわけではない。だが自分の命一つで済むのなら、それでいいと思っている。
粗末な外観に相応しい貧相なドアを押すと、軋みながらあっさりと開いた。鍵さえかかっていなかったらしい。
入ってみてすぐに、これは寝て起きるだけの場所でしかない、と悟った。照明はシェードすらついていない裸電球が一つのみ。粗末な鉄製の寝台、最低限の調理器具、とても客人を迎える大きさではないテーブルと椅子。単に家具が少ないだけではない、住む者が日々の味気ない暮らしを少しでも快適なものにしようとする工夫や愛着が一切見られなかった。囚人を閉じ込めた独房の方が、まだ生活感があるだろう。
寝台の傍らに置かれた写真立てが目に入る。痩身を目の粗いシャツとズボンに身を包んだ厳しい顔立ちの初老の男が、右手を誰かの肩に置き、左手を杖に預けてカメラを睨んでいる。肩に手を置かれた者の顔は──わからなかった。写真の半分は切り取られていたからだ。
思わせぶりな写真と、その飾り方だった。まるで何かの謎かけだ。
粗末な椅子を引き、アレクセイは自分のもののように腰かけた。それもまた馴染んだ感触だった──初めて座る椅子のはずなのに。
家の主はすぐに帰ってきた。
ドアが軋み、わずかに傾いだシルエットが戸口に立った。
「……お前か」
アレクセイは立ち上がり、一礼した。写真の中と全く同じ顔の……ただし、遥かに痩せ衰えた老人に。
「初めまして、と言うべきですか? それともお久しぶり、ですか? 〈
「よくここがわかったな」
湯でも沸かすつもりなのか、携帯式のガスコンロに着火しながら〈師匠〉が呟く。実際この粗末な家では、それ以上のもてなしは無理だろう。
「困難ですが、できなくはありませんでした」椅子に座ったまま、アレクセイはそう返す。「あなたを今まで探さなかったのは、思いつきすらしなかったからです。あなたが……生きているなんて。
あの日──〈のらくらの国〉が消失し、〈月の裏側〉が壊滅し、そして未真名市上空に〈割れ目〉が出現した日。プレスビュテル・ヨハネスの指示で〈ヒュプノス〉のみを選択的に殺す致死性ウィルス〈毒〉が散布され、全世界の〈ヒュプノス〉が死に絶えた日。アレクセイただ一人を除いて。
「だがお前は私が生きていると確信し、実際、ここまで来た。驚いたか、それとも失望したか?」
「驚きはしましたが、別に失望はしていません。僕だって生きている……
苦く呟くアレクセイを〈師匠〉は色素の薄い瞳で見つめていたが、やがて薬缶で沸かした湯を薄汚れたカップに注いだ。「飲め。言っておくが、味は期待するなよ」
アレクセイは一口含んだが、確かに期待するなと断るだけあるなと思った。その辺の野草でも摘んで煮出した方がまだましな味になりそうだ。ブリギッテの入れてくれた紅茶とは比べ物にならない。
対して〈師匠〉は平然と自分のカップを口に運んでいる。こんな土地で暮らしていたら頑丈にもなるだろうが、それにしてもあんまりだと思う。
「〈同調〉は使えるのか?」
愉快な話題ではなかったが、避けられない話題でもある。「時々は。思い出したように使える時もあれば、頭痛が始まるほど集中しても使えない時もあります」
「〈同調〉がある分、〈ヒュプノス〉は直接顔を合わせ、言葉を介して意見の擦り合わせを行うのを怠る悪癖があるな」〈師匠〉はひっそりと笑った。そんな笑い方をするのも初めてなら、そもそも彼が笑うのを見るのも初めてだった。「お前もこの一年で学んだだろう。〈ヒュプノス〉が犯罪業界でどれほど猛威を振るい……そしてどれほどのものを台無しにしたかを」
「ええ。僕とあなたと全ての〈ヒュプノス〉が、どれほど間違っていたかをね」
「皮肉か。お前は私が想像していたより多くを学んだようだ」
「しかし、何よりも驚いたのは」
アレクセイはカップをテーブルに置く。腹の探り合いをしていても仕方がない。
「あなたが〈
アレクセイの視線を〈師匠〉は真っ向から受け止めた。笑いも怒りもせずに。
「驚いたか、それとも失望したか」
先ほどと同じ問いに、アレクセイも同じ答えを返す。「失望はしていません、驚きはしましたが。〈ヒュプノス〉の〈師匠〉が……〈誰でもない〉だったなんて」
〈誰でもない〉とは〈ヒュプノス〉が非〈ヒュプノス〉、つまり思念から成る情報共有ネットワークに存在しない人間のことを指す。改めて聞くと幾分か選民思想じみた、歪んだエリート主義的な呼称だ、と思った。虐げられる者たち、力なき者たちの牙。それが〈ヒュプノス〉であるはずなのに。
〈誰でもない〉は非〈ヒュプノス〉全般を指す呼称だが、同時に〈ヒュプノス〉のネットワークから一時的に──あるいは永久的に追放された人間の呼称でもある。
そして〈師匠〉が〈誰でもない〉であることは、今や疑いようもない事実だった──意識を向けてみても、かつての〈ヒュプノス〉同士のような〈同調〉は発生しない。岩か石のような沈黙しか返ってこない。
「それにしても、なぜ……」
問いかけようとして──何かの気配を感じ、アレクセイは脇に目をやった。
頭に綿毛のような頭髪しか生えていない、丸い頭がテーブルから付き出ている。
そのうち、鳥のような丸い目がようやくテーブルの端からアレクセイを見つめた。
背伸びしてようやくテーブルから目元だけ出せるような、小さい男の子だ。鳥のような丸い目には、驚きと好奇心しか浮かんでいない。
服装は粗い目の生地からなる半袖に半ズボン。こんな山岳地帯では薄手すぎる格好だ。
戸口が開く音は聞こえなかった──確かにだ。ではこの子は最初から部屋の中にいたことになる。自分と〈師匠〉の両方に全く気づかれずに?
「近所の子だ」素っ気なく〈師匠〉が言った。「来るなと言っても聞かんから、最近ではそのままにしている。盗られて困るものもないからな」
アレクセイはついまじまじと〈師匠〉の顔を見てしまった。からかわれているのかと思ったが、革の仮面のような顔にはユーモアの欠片も見当たらない。近所の子とは言うが……ここへ来るまで、四方数キロに渡り住居らしい住居など見当たらなかったはずだ。
そもそも、あの〈師匠〉が子供を住居に出入りさせていること自体、異常だった。やはり何かがおかしい。
「君は誰? お父さんやお母さんと一緒に来たのかい?」
聞いてみたが、首を傾げるばかりだ。英語では通じないのかと思い、ギリシャ語をはじめ数ヶ国語で話しかけてみたが、やはり同様だった。言葉が通じる以前に、そもそもわからないらしい。
「さて、どこまで話したかな……〈誰でもない〉の話だったか?」
「あなたが〈誰でもない〉だった、というところまでです」
「聡いお前のことだ。それで終わりではないだろう。次の質問も当然用意してあるのではないか?」
「……ええ」
無意識に乾いた唇を舐めていた。「あの〈百舌〉は
「なぜそう思った?」
「〈ヒュプノス〉の敵対組織が用意したにしては、あの〈百舌〉は対〈ヒュプノス〉にあまりにも特化しすぎています──それも高レベルで。〈爪〉も、特殊コーティングされたスティレットも、それ自体は既にありふれた技術ですが〈同調〉はそうはいかない。易々と再現できるものではない……だが〈ヒュプノス〉に協力者がいるとすれば、難易度は大きく下がる」
畳みかけるように、アレクセイは話し続けた。〈師匠〉に口を挟む隙を与えないがために。「そして動機を別にすれば、それができる者は世界中の〈ヒュプノス〉でも多くはない。〈最初のヒュプノス〉か、さもなければ……あなただ」
「一つひとつ情報を吟味していけば、真相に辿り着くのは難しくなかったか。──その通りだ」
あっさりと肯定された。
言を左右に言い逃れする気配など欠片もなかった。その素っ気なさに、かえって気分が悪くなってきた。腹の底に澱のようなものがじくじくと溜まっていく。
「……どうして?」
「急に質問が具体性と精彩を欠いたな。まあいい、順に答えよう。問われて隠す必要もない答えだ」
あのひどい味の煎じ汁(断じて茶とは呼びたくなかった)をまた一口飲んで〈師匠〉は口を開く。
「お前も一度は考えたことがあるだろう──
喉を鳴らさずにいるのに苦労した。裏社会の調整役、犯罪業界の抑止力といての〈ヒュプノス〉。もしこの地上に現存する人間全てが〈ヒュプノス〉になってしまえば、
「その時僕たちは……いや、あなたたちは、
「やはりお前も、その問いに気づいていたか」〈師匠〉は頷く──当然の問いだ、と生徒を褒める教師のように。
「この世の誰もが〈ヒュプノス〉になってしまえば、世界から事実上の争いはなくなる。〈ヒュプノス〉同士の殺し合いには、極めて強い拒否反応が発生するからだ。
思いついたように〈師匠〉が急に問うた。「お前はあの〈竜〉、相良龍一と行動を共にしていたな。その周囲の
「……いえ。とてもそうは思えません」
龍一やブリギッテ、ミルカやイナンナ。そしてアイネイアやシュウ……〈ヒュプノス〉に取り込まれたところで、その性格も能力も一変するわけではない。だがアレクセイが彼ら彼女らから受け取ったもの、それと同じものを〈ヒュプノス〉が与えられただろうか? とてもそうは思えなかった。
仮に彼ら彼女らが〈ヒュプノス〉総体と合一できたところで、互いを単なる殺しの道具としてしか見なさない関係に堕ちていただろう。
〈師匠〉の眼差しが冷たさを増した。「お前も口にしただろう。非〈ヒュプノス〉を〈誰でもない〉と呼ぶその傲慢。それを憂えた者もいた。私と、もう一人が」
「〈
もうここまで来て、アレクセイにはこの会話の進む方向が見えてしまった──おぞましい方向が。
〈師匠〉は満足げに頷く。「やはり聡いな。そうだ、私は彼の人から〈ヒュプノス〉の総体を離れ、私だけの、私にしかできない使命を与えられた。もし〈ヒュプノス〉が己が使命を忘れ、地上の全てに害を為そうとした時、その時のための
「……それがあの〈百舌〉なんですね」
「〈ヒュプノス〉から離れたところで、〈ヒュプノス〉の技術を使い、〈ヒュプノス〉を殺すためだけの存在を作り上げる。〈最初のヒュプノス〉が私に与えた使命を、私は一も二もなく引き受けた。拒絶など考えもしなかった」
「
昏い怒りが言葉に籠るのを止められなかった。「〈最初のヒュプノス〉はやはり、何らかの形で生きているんでしょう? 生きて、僕らと〈百舌〉が殺し合うのを嘲笑いながら見ているはずだ。もしかすると、今の僕とあなたのやり取りも」
「そこまではわからん。だがこれだけは言える……彼の人は嘲笑ってなどいない。いや、むしろお前に期待をかけている。どうしようもなく愛しているからだ」
「自分の子供同士が……いや半身、あるいはそれ以上の存在同士が殺し合うことを喜ぶ親などいません。いたとしたら、獣以下だ」
〈師匠〉の顔に恐ろしく意地の悪い憫笑が浮かんだ。「ほう。〈ヒュプノス〉総体が現存した頃のお前なら、決して言わなかった台詞だ。やはりあの〈竜〉は、お前に少なからず影響を与えたようだな」
もう耐えられなかった。音を立ててアレクセイは立ち上がる。「今ので終わりではないでしょう。話してください」
「何をだ」
「全てを。
「そこにお前の考えているような秘密などない。〈ヒュプノス〉の一人に加わった時点で、誰であろうと過去の一切に意味はなくなる。お前が路地裏で生まれ育った貧しい子供であろうと、裕福な実業家の一人っ子として生まれた甘やかされた子息だろうと」
「……〈百舌〉も僕と同じ
「然り。ヨハネスの全世界規模に渡る人身売買ネットワークがなければ、そもそも最適な人材を選出することは不可能だった。標的が相良龍一か、それとも〈ヒュプノス〉そのものであったのかの違いだけだ」
「どこから買われてきたかもわからない子供なら徹底的に利用してやれ……〈ヒュプノス〉にするも〈百舌〉にするもこちらの思うがままだ。そういう理屈ですか」
黒い思いが胸中で渦巻いた──あの〈百舌〉のために怒る日が来るなどと夢にも思わなかった。
「少なくとも確信しましたよ……なぜ〈ヒュプノス〉の誰も彼もが──〈師匠〉のあなたまでもが、その話になると
再び浮かぶ意地の悪い憫笑。「私を拷問にでもかけるか。それも子供の前で」
「無意味です。あなたは相当な苦痛に耐えられてしまうでしょうし、知らないことまでは吐きようがない。だからと言って僕に何もできないと思ったら大間違いです。あなたを殺さず、何もかもを吐き出させる方法ならいくらでもある」
お強いことだ、と〈師匠〉はこれ見よがしに溜め息を吐いてみせた。「手をかけて育て上げた我が
手にしていたカップをテーブルに置く、杖を片手に大義そうに立ち上がる──そこまでは見えた。一瞬たりとも目を離した覚えはなかった──そのはずなのに、瞬きする間に〈師匠〉は息がかかるほどの距離に立っていた。
まるで短刀のように、〈師匠〉の左手人差し指がアレクセイの胸板に与えられていた。
「
何かが爆発したような衝撃。
自分の身体がテーブルを掴もうとして果たせず、横倒しになるのがわかった。苦痛はないのに、ただ身体だけが動かない。
何かが転がる音はその一瞬後に聞こえてきた。〈師匠〉が手放した杖が、床に転がる音だ。あの子供が驚きに丸い目をさらに真ん丸くしているのが見えた。
「何たる体たらくだ。これが〈ヒュプノス〉種の存亡を一身に担った〈最後のヒュプノス〉とは」薄れゆく意識の中、呆れ果てたと言わんばかりの溜め息が聞こえてきた。「もうすぐ〈百舌〉がここに来る。お膳立ては全て私の方で整えてやる──せめてそれまで寝ていろ」
今のは……薄れゆく意識をアレクセイはどうにか繋ぎ止めようとした。今の動き、確かにどこかで見た……。
顔を何か柔らかなものが叩いている。目を開けてまず飛び込んできたのは、泣きそうな顔でアレクセイの顔を叩いているあの子供だった。
「大丈夫だ。大丈夫だから、叩かないでくれ……」
周囲を見て、自分が並べた椅子の上に寝かされていることに気づいた。大した高さではないが、子供には大儀な高さだろう。
暖房もないのに身体はさほど冷えていないな、と思ったら、毛布をかぶせられていた。そんな気を遣うくらいなら最初から気絶させなければいいのに、と罵りたくなる。あの爺いめ。
「何があったんだい?」
問いかけるが、子供の口から漏れるのは猫が鳴くような唸り声ばかりだ。目元を擦りながら、どうにか部屋の片隅を指差している。
そして──アレクセイは気づいた。天井にも床にも、粘液じみたものがこびりついていることに。人生の中で、うんざりするほど見てきた人間の体液だ。裸電球の光の下、それらは余計にどす黒く見えた。
壁にもたれるような姿勢で〈師匠〉は死んでいた。これ以上ないほど完全に死んでいた。胸板を赤く染め、わずかに見開かれた目は虚ろで、もう何も見ていない。
そして、その傍らに、あの〈百舌〉が立っていた。
無表情ですらない、一切の表情が失せた顔をして。
反射的に子供を背後にかばったが、〈百舌〉はただ呆然と立ち尽くしている。丸い目が動き、ようやくアレクセイを見たが──襲いかかるどころか身構えさえしなかった。それすら思いつかない様子だ。
「どうした? この爺いがくたばっているのがそんなに不思議か?」
まるでようやく表情を変えることを思い出したとでも言うように、返り血を浴びた凄絶な姿で〈百舌〉が笑ってみせる。
自分が死んでも〈師匠〉が死ぬことはないと思っていた──痺れたような頭で、アレクセイはそれだけ考える。
「お前だってこいつを殺してやろうと思ったのは一度や二度じゃないだろう? 俺は寝ても覚めても、こいつをこうしてやることだけを考え続けた。ずっと……ずっとだ」
だがアレクセイにはその恐ろしい顔が、涙を流さずに泣いているようにしか見えなかった。
完結編となる後編、怒涛のアクション回です。お楽しみに!