絶体絶命だな──〈百舌〉と対峙しながら、アレクセイは静かにそう考えていた。文字通りの空手で来たのだ、〈糸〉も〈硝子〉も、李明花の柳剣も手元にはない。あったとしても〈百舌〉相手に、どこまで戦えるだろうか。
だが意に反して、〈百舌〉はただ立ち尽くしたままだった。まるで自分が生涯追い求めてきた目的を見失ったかのように。
「こいつは……俺を招き入れておいて、背後から刺そうとした」ようやく口を開きはしたが、それでさえどこか茫然自失だった。「だから逆に刺してやった。動かなくなるまで何度も……何度も」
まるで弁解するような口調だった。しかしあの〈百舌〉が、僕に何を弁解する必要があるというのだろう。
アレクセイは胸を朱に染めて倒れている〈師匠〉を見た。聞きたかったことの大半は、結局聞けずじまいだった。あまりにも多くの謎を抱いたまま、彼は死んだ。まるでこうなることを予想していたかのように。
だが、今は生きている者のことを気にしなければならない。
「僕は麓までこの子を送り届ける。その後でなら決闘にでも処刑にでも、何でも応じてやる」
〈百舌〉の両目が訝しげに細められた。「お前はさっきから何を言っている?
アレクセイは呆気に取られそうになった。〈百舌〉の表情は真剣で、ユーモアなど欠片も見当たらない。
「残念だが、今は無粋な客を迎える必要がある。
「…… ハイチ=ドミニカ連邦海軍強行偵察連隊か。初めから彼らを巻き込むつもりだったんだな?」
「お前にとっても知らない仲でもないだろう。一個小隊だろうと一個大隊だろうと返り討ちにするまでだが、不意打ちされるよりは怒り狂って押しかけてこられる方が楽だからな。それで〈最後のヒュプノス〉が釣れるとなれば充分だ」
戸外で風が強くなった。
窓から覗いてみても、人影はない──だが無数の気配を感じる。研ぎ澄まされた、プロの戦意と殺意。
アレクセイの目から見ても見事な隠形だった。おそらくは光学迷彩装備のステルスヘリによる空輸だろう。
暗殺者のアドバンテージは奇襲──先んじて数と火力でそれを潰しに来たか。
アレクセイは粗末な暖炉から30センチほどの火かき棒を取った。頼りなくとも〈糸〉も〈硝子〉もない現状では貴重な武器だ。
「まずあの羽虫どもを潰す必要があるな。俺とお前の間に割り込んでくる邪魔者以外の何者でもない」
「へえ。てっきり、僕が君の一番の
「皮肉か」〈百舌〉は片頬で笑った。ぎごちなくはあるが、確かに笑顔だった。「
言い返そうとした時──家のすぐ傍らでシャンパンの栓を抜くような音が連続した。
殺到した擲弾数発が、荒屋同然の民家を粉々に吹き飛ばした。
子供をコートの懐にかばい、自分も口元を押さえて伏せる。おかげで雪崩落ちる民家の壁と天井をまともに背で受けることになったが、打撲程度で済んだ。壁も天井も薄くて脆くなっていたのが幸いしたか。
〈百舌〉が駆けて行った方向から、立て続けに掃射音が響いてくる。そして柔らかいものを引き裂く音と身の毛のよだつ悲鳴。〈百舌〉があの調子で暴れ狂っているのだろう。少なくとも心配は必要なさそうだ。
「ここでじっとしていて。誰が来ても出ては駄目だ。必ず迎えに来る」
言葉はわからなくても通じるはずだ。子供は震えながら頷いた。
──身を沈め、人の背よりわずかに低い程度の叢の中を走る。無数の銃弾が空を切り裂いて殺到する。数秒もあれば、アレクセイの肉体を見る影もなく損壊させるだろう。
そしてアレクセイには、その数秒あれば充分だ。
湿った何かを砕く音。発砲していた兵士の一人が人形のように崩れ落ちる。アレクセイの投擲した墓石の欠片が、その顔面を砕いていた。
絶命した兵士を盾に走る。数発の銃弾が死体に食い込むが、貫通はしない。
銃弾を撃ち尽くした兵士が装填しようとした時には、アレクセイが致命的な距離まで接近していた。死体のホルスターから引き抜かれたナイフが奔った。手首、太腿、そしてわずかにボディアーマーから除く首の隙間。血煙が舞う頃にはもう絶命している。
わずか後方にいた兵士が発砲──できない。自動小銃の機関部に、アレクセイの投げたナイフが噛んで作動不良を起こしている。
一息に踏み込み、ヘルメットごと兵士の首を抱え込んで一回転させる。頚椎の折れる乾いた音が響き、また兵士が斃れる。
〈糸〉や〈硝子〉がなくとも〈ヒュプノス〉の戦闘能力に遜色はない。息を吐くように死を撒く、生ける死神。
──いや、これは、本当に〈ヒュプノス〉の能力なのだろうか?
(何をやっているんだろうな、僕は……)
走りながら、銃弾を避けながら──そして殺しながら。アレクセイはそう自問せずにいられなかった。
相良龍一を殺し損ね、〈ヒュプノス〉の兄弟姉妹は皆死に絶え、死に場所を求めるうちに龍一と旅路を共にし、新しくできた居場所のはずの〈カルネアデス〉からも抜け出し、そして今、見ず知らずの少年のために殺されかけている。
僕は……本当は何がしたいんだろう?
だがそのような分別臭い思考とはまた別に、アレクセイの中では何かが警報を鳴らし続けていた。
先ほどから強行偵察連隊の戦法は生身の兵士による波状攻撃しか行っていない。よく訓練された兵士たちではあるが、それだけだ。恨み重なる〈ヒュプノス〉抹殺の意志を固めたにしては、一辺倒すぎやしないか?
(彼らは僕の何を知っている……?)
アレクセイの戦い方が近接戦に特化していることを知っている──〈糸〉の弱点を知っている。
それだけか? 龍一やアレクセイ憎さのために〈王国〉を裏切り、対抗組織である〈連盟〉と組んだ者たちが、それだけを頼みにアレクセイへ挑むか?
(まだ、何かあるな……)
そこまで考えて、アレクセイは宙に身を投げ出した。ほとんど反射的な行動だった。
炸裂する擲弾の何倍もの轟音。一瞬前までアレクセイがいた地に、巨大なクレーターが出現していた。骨片混じりの大量の土砂が、雨のように降り注ぐ。
目眩と耳鳴り──立ち直るまでにやや時間がかかった。口の中の砂利を吐き出しながら起き上がる。
おそらくは迫撃砲。数キロ先から丘越しに砲弾を撃ち込んできている。軽量で持ち運びが容易、しかも短時間で多量の砲弾を投射できる迫撃砲は特殊部隊の標準装備だ。〈糸〉があれば対処は容易だが、ほぼ素手に近い現状ではそれもできない。
土煙の向こうから現れる、
人とも鼠ともつかない突き出た鼻面、翼と一体化した長すぎる両腕。直立した蝙蝠のごとき外観は酷似している。だがやはり細部は違う──より細身で、洗練された印象がある。
何より、あの人間蝙蝠より一回り大きい。生身の人間を直接改造したものではない。生体部品を多用した強化外骨格。
それが一体、二体……音もなく、一定の距離を保ちアレクセイを包囲する。おそらくはコンテナ一個分──一個小隊。
「……それが君たちの切り札か」
『〈ブルクサ〉。〈連盟〉が開発した未分類特殊
応えた声は意外に若々しかった。欧米への留学経験でもあるのか、綺麗なアクセントの英語だ。
「僕や龍一を殺すために〈王国〉を裏切って〈連盟〉と結んだのか。僕らのことがそんなに憎いのか?」
『そんなに不思議か、薄汚い殺し屋?』嘲笑など片鱗も伺えない冷めた口調が、逆に殺意の深さを物語っていた。『ダニエル大隊長が身寄りのない俺にとってどんな存在だったのか、いくら説明してもお前には理解できないだろう。俺だけじゃない、連隊に今いるのは程度の差こそあれ、似たような境遇の奴らばかりだ』
声に出さず呟く──僕らは因縁を重ねすぎたよ、龍一。
『お前の次はあの〈竜〉だ。お前ごときを殺せないようで、大隊長の仇など討てはしない』
殺意を示すように、〈ブルクサ〉のセンサーアイが緑から真紅に切り替わる。『ここで死ね、〈最後のヒュプノス〉』
〈ブルクサ〉の手首から射出された細長い刃を回避──刃を受けた墓石が粉と破片を撒き散らして両断される。伸縮自在のワイヤーブレード。
走るアレクセイを追って轟音と銃火が迸る。立て続けに放たれた12番ゲージ弾が閃くコートの裾を穿つ。
(ワイヤーブレード、そして散弾銃……〈ヒュプノス〉、いや、僕を殺すのに特化した装備か)
それだけではない──〈ブルクサ〉の前面装甲、人間で言えば喉から胸部にかけての部分が展開。複雑な内部機構を露わにする。
身を翻したが避け損ねた。耳をつんざく金属音と衝撃波がアレクセイの耳だけでなく、全身を打ち据える。
(音響発生機……!)
本来なら暴徒鎮圧用の装備──目標を殺さず無力化するための非致死性兵器。
口から勝手に吐瀉物が噴き出る。目の奥で金と黒の光が明滅し、まともに立っていられない。
〈ヒュプノス〉総体が存在した頃なら肉体的・精神的ダメージを分散させることもできた。だが、今はできない。
頭痛と耳鳴りの止まない頭を押さえる──
意志と、五感と、運動神経を切り離す。人が慣れた場所にあるものをいちいち意識して取らないように全身を駆動させる。もちろん長くは保たない。だがワイヤーと12番ゲージ弾と衝撃波に狙われている最中に、身動きが取れないよりはましだ。
疾走を開始する──
上下左右から襲いかかるワイヤーブレードを掻い潜り、横薙ぎに火かき棒を振った。狙いは〈ブルクサ〉の顔面──人間で言えば目に当たる部分。
指先ほどの大きさしかないセンサーアイに、火かき棒の鉤状になった先端部が突き刺さる。獣のごときパイロットの絶叫。振り回される腕を強引に抱え込み、別の〈ブルクサ〉へと向ける。闇雲に放たれた散弾が展開された音響発生機に命中、露出した内部機構を砕いた。
四方八方から放たれた散弾とワイヤーが〈ブルクサ〉を引き裂くが、アレクセイは既に高々と跳躍している。
上空から渾身の力で別の〈ブルクサ〉頭部に火かき棒を叩き込む。先端が角のように頭頂部へ突き立った。パイロットは即死だろう。
狙い通りだ──切り離した意識の端で思う。生体部品を多用している弊害。俊敏性を増すためにかなり防御力を犠牲にしている。せいぜい拳銃弾を防ぐ程度の装甲しか保有していないようだ。なら、勝機はある。
脇腹に数発の散弾がめり込む、不愉快な衝撃。だが肉体は動く。まだだ。まだ。
〈ブルクサ〉が彼らの最後のカードなら、僕の最後のカードはこれだ。
右手の親指を掴んで捻る。第一関節から親指が外れ、その隙間から〈糸〉の煌めきが溢れ出る──義指に仕込んだ〈糸〉。
掴みかかってくる〈ブルクサ〉の腕を躱し、身を投げ出しながら〈ブルクサ〉の腕と首に〈糸〉を巻き付ける。リボンのようにたわんで飛んだ〈糸〉は瞬時に締まり、切断された〈ブルクサ〉の頭部と腕が立て続けに地へ落ちた。
──奇妙に透き通った気分だった。歩兵たちが咥えてくる掃射音も、炸裂する迫撃砲弾の轟音も、ひっきりなしに浴びせられる衝撃波さえ、遠い遠い潮騒のようにしか感じられない。
欲しいものも喪うものもない。ただ戦うことにのみ身体が駆動する──
が、いつのまにか、アレクセイの視界は横倒しになっていた。横頬に土くれが降りかかるのを感じる。迫撃砲弾で舞上げられた土砂だ。
意志よりも肉体の方が先に根を上げた──意識から肉体を切り離して動ける時間の限度を越えたのだ。心臓は胸を突き破って躍り出そうなほどに荒れ狂っている。全身が燃えるように熱いのに、氷よりも冷たい汗が止まらない。
ここまでか。
『ここまでだな』冷たい声。『一個小隊分の〈ブルクサ〉相手に粘ったものだ。だが、それも終わりだ。大隊長殿も、あの世でならお前の罪を許してくださるだろう』
周囲を取り囲まれる気配──アレクセイのいかなる攻撃手段も届かない距離からの、火器を構える気配。
爆音が響く。数体まとめて〈ブルクサ〉が人形のように宙へ舞った。
『仲間がいたのか!? しかし、なぜ今になって……!?』
〈ブルクサ〉たちの隠し切れない動揺の気配。それでも連携を崩さず後退していくのは見事だったが、砲火はその頭上にも容赦なく降り注いでいく。
「おう殺し屋、まだ生きてるみてえだな。いや失敬、元殺し屋だったか。正確に言わねえとあの小娘に怒られっちまう」
草むらを掻き分けて現れたのは、両手両足にアシスト式のパワーアーマーを装着したシュウだった。手には人間では持ち上げることすらできそうにない大型の火砲を構えている。
「どうしてここがわかったんだ?」
「大体てめえと同じ方法だよ。世界中の〈ヒュプノス〉が殺された場所を〈白狼〉がピックアップして、まだ殺されていない、人里から完全に離れたわけでもない地点を選び出した。こんな辺鄙な場所とは思わなかったけどな。万が一にも外れたら間に合わないんだ、ひやひやもんだったぜ」
シュウの鼻の脇に皺が寄る。「ったく、発信機なんか仕込もうもんならすぐ気づかれっちまうからな。龍一もブリギッテも『本人の好きなようにやらせてほしい』ってよ、その皺寄せを食うのは全部俺様なのにな」
「ごめん」
「謝るんだったらあいつらに謝れよ。俺様一人でミルカやイナンナをどうやって宥めりゃいいんだ? エトナ山を更地にする方がまだ簡単だぜ」
「〈
聞き覚えのある声とともに、数人の兵士が悲鳴を上げて宙を舞った。地に落ちた時には気絶している。
「アレクセイさん! ご無事だったんですか!? 怪我してませんか!?」
駆けてきたのは〈クルースニク〉形態に変じたミルカだ。その後から、強化弓を手にしたブリギッテ、それに龍一とアイネイアが駆け寄ってくる。
「ブリギッテ……」
アレクセイを見たブリギッテの顔が一瞬だけ安堵し──次の瞬間、音を立てそうな勢いで眦が吊り上がった。その勢いたるや、両脇の龍一とシュウが一歩下がってしまったくらいだ。
これは殴られるかな、と思った。実際、ああもはっきり「先走りはしない」と約束しておいて完全にそれを破ったのだから怒るのも当然である。殴られても文句は言えないところだ。
だが、
「よかった……無事で」
彼女は意に反して、心底ほっとしたように肩を落とした。目尻に涙まで浮かべている。隣に立つイナンナが、気遣わしげに肩をさすっている。これは正直、殴られるよりこたえた。
「アレクセイよ。そなたの勇気と胆力は、この場にいる誰もが知ることである。何もそれを自ら誇る必要もないのではないかな? それもブリギッテやミルカに心労を与えてまで」
平生なら気楽な、気楽すぎるほど豪快に「よくあることよ」で笑い飛ばしてしまうアイネイアにまでそう言われるのは、それなりに深刻ではないだろうか。
黙っていた龍一が口を開く。「アレクセイ。
静かな口調だった。アレクセイは一瞬考え──そして、考える必要もないことに気づいた。
「もう一度、
主語はなくとも、龍一は察したようだった。「なら、止めない」
シュウが何かを放る。「使いな。てめえのメインウェポンだ」
放られたのは〈糸〉の射出機と〈硝子〉、それに李明花の柳剣だ。
アレクセイは皆の顔を見直した。期待を込めた目、不安を隠せない眼差し、そして最後までやりきって来いよという目……。しかし、少なくとも行くな、という者はいなかった。
ならば、返す言葉は一つしかないと思った。
「行ってくる」
「シュウくん、そのおっかない銃は一体何なの!?」
「あ? 見てわかんねえか、レーザープリンターだよ。レーザーの原理を応用して『死』を印刷するんだ」
「そんな怖いレーザープリンターなんて知らないっ!」
相変わらず仲が良いな、と苦笑いする。
背後からはなおも戦闘の轟音が聞こえてくるが、こちらまで追撃してくる気配はない。龍一やブリギッテ、それにシュウやアイネイアまで加わっているのだ。易々と突破はできないだろう。
それがわかれば充分だ。
走る。身体は先刻より明らかに軽い。
草が音もなく裂け、至近距離で銃火が閃く。光学迷彩を利用しながらの〈ブルクサ〉の急襲だ。走りながら、散弾を避けながら〈糸〉を展開。
宙に張り巡らせた〈糸〉を踏み台に跳躍。抜き放った柳剣を一息に突き出す。正面から刺突を受けた〈ブルクサ〉のパイロットは、驚愕する間もなく咽頭を貫かれて即死した。
左手を離し〈糸〉を後方へ大きく振る。〈糸〉の先端に結び付けられた〈硝子〉が飛び、後方から掴みかかろうとした〈ブルクサ〉の眉間に深々と突き刺さった。
──〈糸〉をただ振り回して切り刻むだけの武器と捉えている限り、君たちは僕に勝てない。
ひっきりなしに聞こえていた迫撃砲弾の炸裂音が止んでいる。龍一たちが迫撃砲チームの排除に成功したのだろう。
(強行偵察連隊に手渡された〈ブルクサ〉がコンテナ一個、一個小隊分だとしても、もう半数近くは片付けたはずだ……)
アレクセイが2体、シュウに始末された機体に〈百舌〉と戦った機体を含めても、半数を割っているだろう。それでも退却の気配がないのは恐るべき戦意だが。
しかし安心はまだ早い。強行偵察連隊を排除したら〈百舌〉は即座にアレクセイを殺しにかかるだろう。
雑木林の中から掃射が湧き起こる。散弾とワイヤーブレードが墓石を引き裂く。身を沈めて走りながら兵士から奪ったナイフを投げつけ、〈ブルクサ〉の眉間に刺さったそれを跳躍して踵で叩き込んだ。
投射されるワイヤーブレードを柳剣で絡め取り、左手で握り込んでいた墓石の破片を指弾として飛ばす。確かな手応え──指弾が〈ブルクサ〉のセンサーを破壊。距離を詰め、装甲の薄い脇腹の可動部に〈硝子〉を突き刺す。
『馬鹿な、これで終わりなのか……』〈ブルクサ〉から声が漏れる。先ほどの指揮官の声だった。『俺はこんなところで、大隊長殿の仇さえ討てずに死ぬのか……』
何かを感じて後方へ飛び退く──地に伏した獲物に向けて〈百舌〉が上空から飛びかかる。
〈百舌〉の足が最後の〈ブルクサ〉の頭部を、まるで空き缶のように踏み潰す。
「これで邪魔者は消えたな」
〈百舌〉の真円に近い目が──さらに見開かれる。「
拒むことも避けることもできない〈同調〉が津波のようにアレクセイを飲み込んだ。全てが消えた。周囲の物音の一切が、暗い空が、遠くの山々が、歪な墓石の群れが──天も地も、明るさも暗ささえも。
殺すと言ったのは比喩だ。
背後とも脳裏ともつかない位置から〈百舌〉の囁きが聞こえた。初めて聞く、優しいとさえ言える彼の声と口調だったが、それは触れただけで指が落ちる〈硝子〉の刃より危険に思えた。お前を洗脳しようというわけでもない──ただ、今までのお前が消えるだけだ。
百舌の早贄のように、スティレットより遥かに鋭利な思念が眉間を貫いた。血は一滴も流れず、ただ何かが流れ出していく気配があった。悲鳴を上げようにも、指一本、舌の先さえ動かせない。
お前があの
囁きとともに〈百舌〉はアレクセイのあらゆる記憶を切開し、掘削し、並べて解析し、そして嬲っていた。
脇腹の急所を刺して瞬時に絶命させた壮年の男の顔とともに、ブリギッテの作ってくれたサンドイッチのマスタード入りマヨネーズソースの味が舌先に蘇った。うたた寝をしている老女の頸椎を折る感触はディロンの実家で味わった羊肉パイの芳香を帯び、路地裏に差し込む光を背景に手を振るミルカの笑顔はたちまち鼻腔を満たす血臭に塗り潰された。
お前は人間離れした人間に過ぎないが、あの相良龍一は本物の怪物だ。異形の者同士なら手を取り合えると思うなら大間違いだ──いつか決定的な差異が露呈し、奴らはお前を真っ先に排除するだろう。
怒りより、恐怖より、無力感が足元から押し寄せてきた。
あの
〈王国〉の庇護など悪い冗談でしかない──俺とお前で、誰も到達できなかった高みへ駆け登るんだ。〈師匠〉でさえ夢の中にしか思い描けなかった〈最後にして最初のヒュプノス〉として。
悲鳴さえ上げられず、指さえ動かせず、自分が刻一刻と死んでいくのを感じた。〈同調〉が完了すれば、彼は自分の名すら忘れるだろう。アレクセイ、という仮初の、どこかにいた誰かの名前すら。
それでいいのか?
指先がほんの少しだけ動く──それですら眠り込んだが最後、二度と目を覚まさなくなりそうな疲労を押し殺し、さらに全ての神経を指先に集中させる必要があった。
僕にもいたはずなんだ。まだ目も開かないうちから、自分のことを覚えてくれていた誰かと誰かと誰かが。
いつしか彼は叫んでいた。喉から血を吹き出さんばかりに、まるで産声のように。
頭の中に差し入れられた手を掴み返す。驚愕した〈百舌〉が必死で抑え込みにかかるが、止める気はなかった。叫びながら〈百舌〉の思念を鷲掴みにし、渾身の力を込めて握り潰した。
凄まじい反動があった。血流さえ緩やかになっていた全身にたちまち血が巡り、半ば呼吸を忘れていた肺が勢いよく呼気を再開した。咽せて咳き込み、ついでに足元に思い切り吐いた。口の中の不愉快な酸味でさえ、生きている証に思えた。
「なぜだ……」
頭を押さえる〈百舌〉の顔は、隠し切れない憤怒と失望に歪んでいた。「そこまで理解しながら、なぜ俺を拒む……」
「何度やっても同じだ」肩で息をしながらも、憎悪に満ちた視線を正面から見返す。魂の一番触れられたくない部分を汚らしい手で探られた嫌悪は消えていない──だが少なくとも、頭の中の靄は完全に消失していた。「僕はもう……自分の死が即ち贖罪だとは思わない」
「奴らが……お前を……受け入れてくれるとでも期待しているのか」
「君があくまで言葉を使って説得しようとしていたら、僕も感化されたかも知れない。でも君は〈同調〉で僕の意思を丸ごと塗り潰そうとした……何のことはない、コミュニケーションの問題を全て〈同調〉で解決しようとする〈ヒュプノス〉の悪癖に、君もしっかり染まっていたわけだ」
決定的な一言を吐き出す。それが何を意味するかを知りながら。
「家族ごっこがしたかったのは、君の方だろう」
「……死ね!」
本物の憤怒とともに〈百舌〉が突進してくる。怒りに半ば我を忘れながらも攻撃に隙はない。繰り出された〈爪〉が、アレクセイの袖口を二の腕近くまで切り裂く。その攻撃の間断を容赦なく埋める、スティレットの連続突き。
柳剣を抜き放ち、数度切り結ぶ。鋭い金属音とともに火花が散る──〈爪〉とスティレットの激しい連携は、柳剣とのリーチの差を物ともしない。逆にアレクセイの方が〈百舌〉の怒涛の攻撃に押されつつある。
(この動き、この動きをどこかで見た……)
そうだ、これと全く同じ動きを〈師匠〉は見せていた。あの目にも止まらぬ刺突……。
銃弾のごとき〈爪〉の貫手をアレクセイは柳剣でかろうじて受け、そして
だが〈百舌〉はわずかにバランスを崩しただけで、左手のスティレットを突き出した。
(これだ……!)
〈爪〉はフェイント──いや、この時に限った話ではない。あの恐ろしげな〈爪〉は脅威だが、それが〈百舌〉の真価ではない。〈爪〉の回避に成功した直後、なお繰り出される急所への一撃──避けようのない死のフェイント。
僕は死んだ、とアレクセイは思う。だからその後の動きは、単なる肉体の反射行動だった。
アレクセイは引かず、息が〈百舌〉にかかるほどになおも踏み込んだ。左胸に鋭い痛み。
だがよろめいたのは〈百舌〉の方だった──アレクセイの〈硝子〉が、深々と胸に突き刺さっていた。
彼は数歩後退り、すとんと尻餅を突いた。あの〈百舌〉とは思えない、滑稽でさえある動きだった。遊び疲れた子供が、不意に動けなくなるように。
顔をしかめ、アレクセイは胸を押さえる。スティレットの一撃は、胸骨に当たってわずかに皮膚を裂いただけで止まっていた。
「なぜ……わかった……」
掠れた声での問いからは主語が抜けていた。だが、アレクセイは何を問われたかもうわかっていた。
「〈師匠〉がそれと全く同じ動きをするのを見た。君は左利きだったんだな? 大抵の相手は右手の〈爪〉で事足りたんだろう。だがとどめなら、利き手である左手で刺してくると踏んだだけだ」
「あの爺い……自分は地獄に落ちても、確実に俺を道連れにするつもりだったのか」
合点したように笑おうとして、〈百舌〉は弱々しく咳き込んだ。鮮血が地面に散る。
「どうだろうな。それならもっとはっきりと言葉にして僕に伝えたはずだ。彼にもわからなかったのかも知れない──君に勝ってほしいのか、それとも僕に勝ってほしいのか。むしろそれは、君の願望に過ぎないんじゃないのか?」
「知ったふうな口を……」
〈百舌〉は嘲笑おうとして、もうその気力もないようだった。溜め息に似た呼気を漏らし、何か宙を掻くような動きを見せて、彼は事切れた。
アレクセイもまた力尽きる寸前だった。周囲に撒き散らされている鮮血は、もう自分のものなのか〈百舌〉のものなのかも判別できない。
ふと──〈百舌〉の血に染まった手が、何かを示しているように見えた。
上着の内懐から、四角い紙片のようなものが覗いている。
(手紙……?)
これを取り出そうとして事切れたのだろうか。
抜き出してみて、アレクセイは動揺した。宛名には『アレクセイと名乗るお前へ』とある。
ではこれは〈師匠〉の手紙なのだ。最初で最後の、彼からアレクセイへ書かれた手紙。
手紙は手触りの良い上質な紙に書かれ、〈師匠〉の手による流麗な書体で記されていた。筆跡は力強く、インクの染みや乱れは見当たらなかった。
──この手紙をお前が読んでいるということは、私がもうこの世にいない証だろう。〈ヒュプノス〉でなくなったお前が私の元を訪れた時、私は喜び、そして畏れた。喜んだのはお前を追って〈百舌〉が現れるだろうこと、そして畏れたのは、お前なら〈同調〉などなくとも、私の秘密を苦もなく暴くだろうことをだ。お前の目を見ては言えなかった。だからここに記す。
付け加えることは多くない。何もかもお前が言った通りだからだ──私は多くの命を奪い、また間接的に数えきれないほどの人間を殺した。全て〈ヒュプノス〉のためだ。そのためにお前を育て、〈ヒュプノス〉の傲慢を挫くために〈百舌〉を育てた。命じたのは〈最初のヒュプノス〉だが、命じられなくてもそうしただろう。
だが、やがて私は恐ろしくなった。人を殺し、〈ヒュプノス〉を殺すために〈百舌〉を育て、そしてまたその〈百舌〉を殺そうとしていることをだ。傲慢なのは私ではないのか? 罰せられるべきは私ではないのか?
初めはお前と〈百舌〉を相打ちさせるつもりだった。だがお前と対面し、今度こそどうするべきなのか本当にわからなくなった。お前は〈ヒュプノス〉でなくなった今も生きている。生きて、足掻きながら、もがきながら、お前なりの何かを模索しようとしている。それを断つのは本当に正しいのか。
何もわからなくなった。だからお前に託す。
すまなかった。さらばだ。
限界が近づきつつあった。震える指先から手紙がこぼれ落ち、風がアレクセイの手から瞬く間に手紙を奪い去った。
手を伸ばそうとして、できなかった。その時になってようやく、自分の身体が横倒しになっていることに気づいた。
意識が途切れる寸前。
誰かが──誰かと、誰かと、誰かが、笑いながら彼の顔を優しく撫でたように思った。
「アレクセイさん、起きてください……どうして目を覚ましてくれないんですか?」
「呼吸はしているわ。それより大声を出さないで。頭を打っているのかも知れない」
声が聞こえる──ミルカとブリギッテの声だ。
薄く目を開けると、藍色から青へと変じようとしている夜明けの空が見えた。その空を背景に、皆がいた──龍一、ブリギッテ、ミルカ、シュウ、アイネイア、イナンナ。
「子供……子供を見なかったか? まだ小さい……この土地の子供だと思うんだが」
アレクセイの質問に、なぜか彼ら彼女らは両隣の者と顔を見合わせた。
「それが……おかしいのよ。あなたが倒れているところまではその子が案内してくれたのだけど、気がついたらいなくなっていて」
「私はともかく、龍一さんやブリギッテさんの目や、それにシュウくんのセンサーにまでですよ。そんなことあります?」
「……そうか。役目を終えて、気が済んだんだな」
ブリギッテとミルカがまたも顔を見合わせたが、説明する気はなかった。アイネイアはただ一人合点しているようだったが。
龍一が手を差し伸べてきたが、自分で上体を起こした。失血のせいか目眩はあるが、気分は悪くない。
「やるべきことをやったという顔だな、勇士よ」
「どうかな……」
アイネイアの言葉にかぶりを振る。これが生き延びて見たかった光景なのかはわからない。だが少なくとも今は、過去を振り払ったという思いはあった。
「自分のルーツが気になるから、探しに行く。理屈はわかるけど、探しすぎない方がいいぞ、アレクセイ。何て言うか……自分の生まれた場所を探すってのは、死に場所を探すのと似てるからな」
「死に場所……」呟いた。「そうか、僕は……死にたかったのか」
気づくのが遅えよ、とシュウが吐き捨てる。「ま、気づく前にくたばるよりゃましだけどな……〈糸〉も〈硝子〉も全部置いていきやがって。俺様が届けなかったら危ねえところだったろうが」
龍一とアイネイアに肩を借りて歩き出す。もう足元はずいぶんと明るくなっている。
「血は止めましたが、これ以上の治療はより落ち着いた場所が必要です。〈カルネアデス〉に戻りましょう」
「ありがとう、イナンナ。でもその前に埋葬していきたい。一人……いや、二人か」
「アレクセイも言い出したら聞かない人ね。いいわ、終わるまで梃子でも動かないでしょうし。全く、誰に似たんだか」
俺の方を見ながら言うなよ、という龍一のぼやきは無視されている。
「まあ、最後の一仕事ってわけだな。ちょうどよかったじゃねえか、ここは墓だしよ」
「どうしてシュウくんはそうデリカシーがないの!? シュウくんのノンデリ! ノンデリAI!」
「何なんだよてめえは……」
──龍一たちに肩を借りて歩き出したアレクセイを、小高い丘から一対の目が見つめていた。
「やっぱり、君が
頭に綿毛のような毛がわずかに生えたばかりの、目ばかり大きい子供の姿は瞬時にかき消え、全身白ずくめの青年に取って代わられる。スーツも、ネクタイも、革靴さえ白。ただ豊かな毛髪と目の色だけが茶色い。
「
〈白い男〉、あるいはモーリッツと名乗る青年の口元から、大人の二の腕ほども長く太い異様な色合いの舌が飛び出し、ずるりと唇を舐めた。
「まっ、それが上手く行かなくても、それはそれで僕に好都合だけどね……」
「そうか……やはりあの〈最後のヒュプノス〉は勝ち残ったか」金髪の女性秘書からの報告を聞いて〈犯罪者たちの王〉プレスビュテル・ヨハネスは呟く。「〈ヒュプノス殺し〉などという、
「ですが、陛下。ハイチ=ドミニカ連邦の背後に潜む〈連盟〉なる組織の全貌は、未だ不透明で……」
「〈連盟〉など計画を進める上で必然的に発生する
「かしこまりました。御心のままに、〈犯罪者たちの王〉」
「ミルカ。一つ頼みがあるんだ」
「はっ、はい!? な、何なりと!」
「帰ったら、君が作れる料理を作れるだけ作ってみてくれないかな。もしかしたら……僕が好きになれるものがあるかも知れない」
「わ、わかりました! このミルカ・ストラトヴィチ、きっとアレクセイさんの大好物を見つけてみせます!」
「全部なんて相当な量よ……と言いたいところだけど、他ならないアレクセイの頼みとあってはね。私も作るわ」
俺も作るよ、と龍一。「いつも自分の望みをはっきり言わない友達からの頼み事は、どんな手間がかかろうと叶えてやりたいからな」
「余もその料理とやらをしてみようではないか!」
大音声とともになぜかアイネイアが胸を張る。「考えれば友をもてなす料理なるもの、王になる前に一度くらいは試してみるのも悪くあるまい!」
「いいけど王子……調理台を真っ二つにしないでね?」
シュウが溜め息を吐く。「この面子で料理かよ。要塞を落とすんじゃねえんだぞ?」
イナンナは口に手を当てて笑っている。「こんな大勢で、アレクセイさんが好きなものを見つけるために料理するんですもの。きっと素晴らしいものになりますよ」
やっと家に帰れるな、とアレクセイは思った。
(百舌の殺害方法 完)
『百舌の殺害方法』後編にして完結編です。そして本作を持って2025年度の執筆を終了といたします。読んでくれた方、ありがとうございました!
今後の予定や来年の抱負などはまた後日とさせていただきます。よいお年を!