『今まで名前で呼んでたのを急に名字で呼んだらどんな反応するだろう』
魔が刺した様にふと思いついたそんな考えが頭から離れず、実行したくなってしまった。
友人は前から苗字で呼んでるし、最近図書館で一緒に勉強してる女の子も同様。
妹は名前で呼んでるけど、家族相手に自分の名字で呼ぶのは流石におかしい。
という事で、幼なじみの綾瀬相手に実行する事にした。してしまった。
早速朝の教室で、向こうがいつもの様に挨拶をしてくれたのに合わせて『おはよう河本さん』と朗らかな、さも普段からその様に呼んでる風を装って言った。
途端に胸の中で猛烈な違和感が渦巻いた。そう言えば初めて会った日から、本人を前に『綾瀬』以外の呼び方をしたことが今まで無かったかもしれない。
これは恐らく向こうもすぐに『何それ、きゅうにどうしたの』と驚くだろうなと思ったが、綾瀬は幾許か目をパチパチさせると、すぐに『えぇ、おはよう』とにこやかに笑って、女友達のところへ行ってしまった。
その後も綾瀬は特に変わった様子もなく、移動教室や放課後の委員会活動などが多かったのもあり、綾瀬と普段より会話する時間が無くて、期待していた反応や展開と程遠い結果で終わった。
肩透かしを食らった気分になったが、実際に口にしたら自分の方が変な気分になった物だから、『まぁ良いか』とそれ以上考えずに1日を終えた。
問題が起こったのは次の日からだ。
何と今度は綾瀬の方からこちらを『野々原くん』も呼んできた。
意趣返しだと言うのはすぐに分かったけど、それ以上に綾瀬の口から他人行儀な言葉を向けられる事に驚いた。
けれど、昨日仕掛けた側があっさり表情に出すのも負けた気がするので、努めて平静を装いつつ『おはよう』と、昨日の綾瀬みたいに返事を返した。
これは一本取られたな……そう思ったのも束の間、この日は昨日会話しなかった分を取り返すかの様に、綾瀬の方から積極的に声を掛けてきたから大変。
ことあるごとに『野々原くん』から始まる会話に、当初抱いてた違和感は段々と疎外感へと変わっていくのが分かった。
たかが呼び方一つで、こんなに受ける印象が変わるのか……
気分はさながら捨てられたペットみたいな感じで、綾瀬のいない場所で長々深々とした溜め息を何度も吐いた。
そんな時間もようやく終わりを迎える。帰りのHRが終わったのに合わせて、逃げる様に教室を後にする。
帰り道を歩きながら今日のことを考えて、明日も綾瀬から名字で呼ばれる日が続いたらどうしよう、なんて事をつい考えてしまう。
昨日魔が刺したばかりに……せめて、別の人間で試すべきだったと後悔していると、ふと自分が名前で呼ぶ相手が、綾瀬しかいなかった事に気づいた。
また、同じように、自分を名前で呼んでくれるのも綾瀬しかいなかった。
幼なじみということもあるかもしれないが、自分と綾瀬にとって、名前で呼ぶという行為は日常であるのと同時に、特別な繋がりだったのだ。
そうと気づかずに、自分は軽率にそのつながりを断ってしまった……ショックよりも呆れの感情で、またもながーい溜め息を吐いた、その時だ。
「ちょっとは、反省、した?」
後ろから、聴き慣れた声が耳に届いた。
振り返ると、カバンを片手に綾瀬が、なぜか息を切らしながら立っていた。
どうしてそんな息を切らしてるのか──口に出す前に、綾瀬が自分を追いかけてきたのだと気づく。
綾瀬はそんな自分の心を見透かした様にジトーッと睨み、ある程度呼吸が落ち着いてから言った。
「もう、すぐに帰るんだもの。慌てて追いかけちゃったじゃない」
「えっと……ごめんなさい」
特に言い返す理由もないし、むしろ追いかけてくれた事が嬉しかったので、素直に謝る。
それが意外な反応だったのか、綾瀬はまたも目をぱちくりさせた後……昨日とは違う勝ち誇った笑みを浮かべて言った。
「どうやら、相当名字で呼ばれたのが効いたみたいね」
「……」
流石にそれを素直に認めるのは恥ずかしいので、目線を逸らして頷くだけに留めたが、綾瀬にはそれでも充分だったらしい。
トコトコと俺の前まで来て、下から見上げる様にこっちを見る。
「どんな気持ちだった? 名字で呼ばれて」
「喧嘩した時みたいに、距離感あった」
「あとは?」
「このまま、元通りにならないんじゃ無いかって、心配になった」
さっきまでは素直に話すと恥ずかしいとか思ってたのに、綾瀬のこちらをまっすぐ見つめる瞳を見ていると、自然に言葉が出てきた。
「……それなら、最初に河本さんなんて呼ばれた時の、こっちの気持ちも分かるよね?」
「……はい、深く反省しております」
もう2度と、こんな事はしない。
そう深く心に決めたのであった。
「さて、それじゃあ仲直りした事だし、お家に帰りましょ。今日ってこの後暇よね?」
「うん、そうだけど」
「なら、昨日名前呼んでくれなかった分、今から部屋でたっくさん呼んでもらうから。耳元でたーくさん」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、そう話す綾瀬だった。