灰色の科学者と金色の共犯者   作:AmberGlimmer

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限界寸前の詐欺師と、透明な猛毒

 胃袋が裏返るような嘔吐感で、剣崎エデンは目を覚ました。

 

 視界が明滅している。

 世界が回る。いや、実際に回っているわけではない。

 平衡感覚を司る三半規管が、大気中に充満する『異物』によって破壊的なノイズを発しているのだ。

 

 エデンはベッドから転がり落ちると、這いつくばったまま部屋の隅にあるバケツへと顔を突っ込んだ。

 

「――――ぅ、ぐっ、ォォォ……ッ!」

 

 喉の奥からせり上がってくるのは、昨晩無理やり流し込んだスープと、鉄錆のような味がする胃液だ。

 激しい痙攣が背中を走り、肋骨がきしむ。

 

 誰もいない、断崖絶壁に建つボロ小屋。

 隙間風が吹き込むこの廃屋だけが、異世界に放り出された彼の唯一の城だった。

 

「はっ、ぁ……、くそ……」

 

 口元を手の甲で乱暴に拭い、エデンは血走った目で虚空を睨む。

 そこには何もない。ただ、埃っぽい木の床と、薄汚れた壁があるだけだ。

 だが、エデンの肌は感じ取っていた。

 この空間に満ちる、濃密で、ねっとりとした、透明な猛毒を。

 

(酸素濃度正常、気圧安定。……なのに、まるで放射能汚染された原子炉の中にいる気分だ)

 

 ──マナ。

 この世界の人々が「神の恵み」と崇める魔法の源。

 

 だが、現代日本から転移してきた剣崎エデンにとって、それは致死性の毒ガスでしかなかった。

 彼にはマナを感じる器官がない。なのに、現地人が生まれつき持っている「マナを受け流すフィルター」も欠落している。

 ゆえに、呼吸をするたびに、皮膚が外気に触れるたびに、マナという名の異物が細胞を侵食し、拒絶反応を引き起こす。

 

 『マナ盲(マナ・ブラインド)』。

 それが、この世界がエデンに下した診断名だった。

 

(HPバーが真っ赤に点滅してるのが見えるようだ……。バッドステータス『マナ中毒』、『衰弱』、『恐怖』のフルコースだ。クソゲーもいいとこだろ)

 

 エデンは震える膝に力を込め、立ち上がる。

 洗面器の水で顔を洗う。冷たい水が、火照った肌を一瞬だけ鎮火させた。

 

 鏡を見る。

 そこに映っているのは、死人のように青白い顔をした、ひょろ長い優男だ。

 目の下にはどす黒い隈があり、頬はこけている。十七歳という年齢にふさわしい覇気など微塵もない。ただの、怯えた遭難者だ。

 

「……よし」

 

 エデンは鏡の中の自分に向かって、小さく呟いた。

 そして、壁にかけてあった「衣装」を手に取る。

 

 白衣だ。

 日本の高校の化学室からくすねてきて、「こちら」に持ち込んだ安っぽい化学繊維の白衣。

 だが、この世界において、これは彼の「聖衣」であり、身を守るための最強の「鎧」だった。

 

 袖を通す。

 襟を正す。

 背筋を無理やり伸ばし、口角を吊り上げる。

 

 怯えを塗りつぶせ。恐怖を仮面の下に隠せ。

 お前は無力な遭難者ではない。

 お前は、失われた古代の叡智を知る、稀代の天才魔導エンジニアだ。

 

「計算通りだ」

 

 鏡の中のエデンが、不敵な笑みを浮かべてそう言った。

 声が震えていないか確認する。

 表情筋が引きつっていないかチェックする。

 

「今の嘔吐も、体内の不純物を排出するためのデトックス・プロセスに過ぎない。……問題ない。全ては想定の範囲内だ」

 

 嘘だ。

 今にも泣き出して、布団にくるまって震えていたい。

 

 だが、そんなことをすれば、この村の人間たちは「得体の知れないよそ者」であるエデンを排除にかかるだろう。

 中世レベルの排他的な村社会だ。役に立たない異邦人など、口減らしのために崖から突き落とされても、何の不思議もない。

 

 生き残るためには、「利用価値」を示さなければならない。

 彼らが崇拝する魔法よりも、もっと高度で、もっと確実な「奇跡」を見せつける必要がある。

 

 エデンは白衣のポケットに、現代から持ち込んだ数少ない武器──薄型の関数電卓と、数本のボールペン──をねじ込んだ。

 これが、彼の魔法の杖だ。

 

「行くぞ。……クエスト開始だ」

 

 エデンはボロ小屋の扉を開け放つ。

 眼下に広がるのは、息をのむほど美しい、そして残酷なほど鮮やかな異世界の大パノラマだった。

 

          ***

 

 断崖の道を、エデンは風を切って歩く。

 

 白衣の裾がバタバタと音を立ててはためく。それは計算された演出だ。「偉そうな魔法使い」に見えるように、あえて大股で、胸を張って歩く。

 

 村へと続く赤土の道は、昨日の雨でぬかるんでいた。

 靴底に泥がまとわりつく感覚が不快だ。だが、それ以上に不快なのは、村人たちの視線だった。

 

 畑を耕す男たちが、手を止めてエデンを見上げる。

 川で洗濯をする女たちが、ひそひそと耳打ちを交わす。

 

「おい、あれだ。崖の上の変人だ」

「『白亜の魔導師』様だっけか? あんな若造が?」

「なんでも、西の都じゃ名の知れた賢者らしいぞ」

「へん、怪しいもんだ。マナの匂いがまるでしねぇじゃねぇか」

 

 聞こえている。

 彼らの言葉には、畏怖と、それ以上の猜疑心が混ざっている。

 エデンは視線を一切動かさず、彼らを路傍の石か何かのように無視して通り過ぎる。

 

(視線判定、敵対的。友好度レベル1。……いいさ、まだ「イベント」は始まっていない)

 

 心臓が早鐘を打っている。

 もしここでつまずいて転んだら? もし白衣が泥で汚れたら?

 それだけで「威厳」という名の魔法は解け、ただの無様な若造に逆戻りだ。

 

 エデンは冷や汗を白衣の下で流しながら、完璧なウォーキングを維持する。

 目的の場所は、村の外れにある製粉所だった。

 川の急流を利用した、この村の経済の心臓部だ。

 

 そこに、数十人の村人だかりができていた。中心にいるのは、立派な髭を蓄えた初老の男──村長だ。

 

「おお、来たか! 先生!」

 

 エデンの姿を認めると、村長が駆け寄ってくる。

 その顔には焦燥の色が濃い。

 

「待っておりましたぞ! 見てくだされ、この惨状を!」

 

 村長が指さした先には、巨大な水車があった。

 直径五メートルはある木造の水車だ。本来なら川の勢いを受けて力強く回転し、小麦を挽く石臼を動かしているはずのそれ。

 

 だが今は、完全に停止していた。

 川の水は激しく流れているのに、水車はピクリとも動かない。まるで目に見えない巨人の手によって押さえつけられているかのようだ。

 

「昨日から急に動かなくなりましてな。村の力自慢を十人集めて押しても、ビクともせんのです」

「……ふむ」

 

 エデンは顎に手を当て、思わせぶりに水車を見上げる。

 内心では、必死に観察を行っていた。

 

(構造解析。……外傷なし。漂流物の詰まりもなし。軸受け部分に黒い汚れ。腐食か? いや、あれは……)

 

「村の祈祷師にも見せたんですがね、『川の精霊がお怒りじゃ』の一点張りで……。供物を捧げても効果がない。このままじゃあ、収穫した麦が粉にできず、冬を越せません!」

 

 村長が泣きつく横で、祈祷師らしき老婆がエデンを睨みつけていた。

 彼女の手には怪しげな骨や羽根が握られている。

 

「村長、騙されちゃなんねぇ! こんなマナの枯渇した若造に何ができる! これは『重石の呪い』じゃ! もっと上等な酒を川に流さねば、精霊様の怒りは解けぬ!」

 

 老婆が叫ぶと、村人たちがざわめく。

 「重石の呪い」。いかにも魔法世界らしい、非科学的な説明だ。

 

 だが、エデンは鼻で笑った。

 意識して、冷笑的な音を漏らす。

 

「ふッ……」

「な、何がおかしい!」

「いや、失敬。あまりにも原始的な解釈だったので、つい」

 

 エデンは白衣を翻し、水車の軸へと歩み寄る。

 

 心臓が破裂しそうだ。

 もし「呪い」が実在したらどうする? もし、本当に精霊の仕業だったら?

 エデンにはマナが見えない。そこに悪霊がへばりついていても、彼には気づけないのだ。

 

 これは賭けだ。

 命をチップにした、ハッタリという名のギャンブル。

 

(確率仕事しろ……! 頼む、物理現象であってくれ……!)

 

 エデンは軸受けに手を触れる。

 ざらりとした感触。そして、微かな熱。

 鼻を近づける。

 焼けたような金属と、炭化した木の匂い。

 

(……勝った)

 

 エデンの中で、ファンファーレが鳴り響く。

 これは呪いではない。ましてや精霊の怒りでもない。

 単なる物理的な故障だ。

 

 長年の使用により、軸受けの潤滑油が切れ、さらに摩耗によって生じた金属粉やら木屑やらが固着し、強烈な摩擦抵抗を生んでいるのだ。いわゆる「焼き付き」の一歩手前である。

 

「なるほど。『重石の呪い』……ね」

 

 エデンは振り返り、村人たちを見渡す。

 青白い顔に、精一杯の傲岸不遜な笑みを張り付ける。

 

「あながち間違いではない。だが、解法が稚拙だ。酒を流したところで、物理的係数は変動しない」

「な、何をわけのわからんことを……!」

「村長、用意していただきたいものがある」

 

 エデンは祈祷師を無視し、村長に指を立てて指示を出す。

 

「一つ。質の悪い油。食用でなくていい、松脂や魚の油でも構わん。できるだけ粘度の高いものを樽一杯」

「あ、油ですか? そんなもんで……」

「二つ。乾燥した丸太だ。長さはこの水車の半径の二倍……そうだな、六メートルほどの硬い木材を一本」

「そ、それだけでいいのですか? 魔道具や、聖水は?」

「必要ない」

 

 エデンはきっぱりと言い放つ。

 その瞳は、夜明け前の空のように冷たく、深い色を湛えていた。

 

「私の術式に、不確定なマナなど不要だ。……世界の理(ルール)を少し書き換えるだけでいい」

 

          ***

 

 三十分後。

 製粉所の前には、エデンの指示した物品が揃えられていた。

 村人たちは遠巻きに、この奇妙な儀式を見守っている。

 

 エデンは白衣の袖をまくり、関数電卓を取り出した。

 電源を入れる。液晶画面に「0」の数字が浮かぶ。

 ただの計算機だ。だが、この世界の人々にとって、発光する文字盤を持つその機械は、未知の古代遺物(アーティファクト)に他ならない。

 

「起動)。……環境変数、読み込み開始」

 

 エデンは意味もなくキーを叩く。

 タタタ、タンッ。

 小気味よい打鍵音が、静まり返った場に響く。

 

「重力定数、補正。摩擦係数、再定義。……ほう、ここの地脈は少し乱れているな」

 

 独り言を呟きながら、エデンは水車の軸受け部分に、村人が持ってきた油をたっぷりと流し込んだ。

 ドボドボと、黒い液体が隙間に吸い込まれていく。

 これが潤滑剤だ。固着したサビや汚れを油膜で包み込み、滑りを良くする。

 

「汚らわしい! 精霊様の通り道を汚すとは!」

 

 祈祷師が悲鳴を上げるが、エデンは無視する。

 次に、用意させた丸太を手に取る。

 そして、水車の適当な部分に丸太の先端を差し込んだ。

 支点となる場所には、手頃な大きさの岩を噛ませる。

 

 ──てこの原理。

 アルキメデスが「我に支点を与えよ、さらば地球をも動かさん」と言った、単純にして最強の物理法則。

 だが、魔法に頼り切り、物理法則の探求を疎かにしてきたこの世界の人々にとって、これは魔法以上に理解不能な現象となる。

 

「離れていろ。……衝撃が来るぞ」

 

 エデンは丸太の端、力点に手をかける。

 彼の細い腕に、村人たちが失笑を漏らす。

 十人の大男が押しても動かなかった巨大水車だ。あんなひ弱そうな男が、棒切れ一本で動かせるはずがない。

 

「おい若造、無理をするなよ。腰が折れるぞ!」

「へっ、とんだ茶番だ」

 

 嘲笑が飛ぶ。

 エデンは、その嘲笑を燃料に変える。

 

 (笑え。笑っていればいい。……その顔が驚愕に変わる瞬間こそが、俺の報酬だ)

 

 エデンは目を閉じ、深呼吸をする。

 胃の奥のムカムカを抑え込む。

 そして、カッと目を見開いた。

 

「術式展開──『ベクトル増幅(ブースト)』!!」

 

 叫びと共に、エデンは丸太に全体重をかけた。

 

 てこの作用点が、数十倍に増幅されたトルクを伝え、水車に上向きの力をかける。

 油によって摩擦係数が極限まで低下した軸受けが、水車を持ち上げられてさらに抵抗が下がり、そして──。

 

 ギィィィッ……!

 

 錆びついた金属音が響いた。

 村人たちの嘲笑が、一瞬で凍りつく。

 

 ギギッ、ゴォンッ!

 

 固着が剥がれる重い音が轟き、巨大な水車がわずかに動いた。

 一度動き出せば、あとは川の水流が仕事を引き継ぐ。

 

 水を受け止めた羽根板が、重力に従って沈み込む。

 ゴウン、ゴウン、と低い唸りを上げて、水車が回転を始めた。

 

「う、動いた……!?」

「バカな! 指一本触れずに……いや、棒一本で!?」

「あの大質量を、たった一人で……!」

 

 村人たちが目を見開き、後ずさる。

 エデンは丸太から手を離し、乱れた白衣をパンパンと払った。

 

 内心では、膝がガクガクと震えている。

 (お、重すぎだろ……! 計算より荷重がかかってたぞ。もう少しで丸太が折れるところだった……危ねぇ……!)

 

 だが、彼はゆっくりと振り返り、関数電卓をパチンと閉じてみせた。

 涼しい顔で。

 まるで、散歩のついでに小石を拾ったかのような気軽さで。

 

「Q.E.D.(証明終了)。……『重石の呪い』とやらは、祓わせていただいた」

 

「お、おおお……!!」

「なんてことだ、これが魔法……いや、『白亜の魔導師』の力か!」

「すげぇ! マナの光も見えなかったぞ! 無詠唱どころか、無発光の高等魔法だ!」

 

 村長が涙を流してエデンの手を取る。

 祈祷師の老婆は、腰を抜かしてパクパクと口を開閉させている。

 歓声が上がる中、エデンは口元だけで笑った。

 

 これは魔法ではない。

 ただの物理だ。

 だが、わからない人間にとっては、十分に魔法に見える。

 

 アーサー・C・クラークは言った。「十分に発達した科学技術は、魔法と区別がつかない」と。

 逆もまた真なり。

 ──未知の物理現象は、魔法として崇められる。

 

「村長、報酬は約束通り、当面の食料と……この村での滞在許可でいいですね?」

「もちろんですとも! いや、金貨も弾みますぞ! なんでも言ってくだされ!」

 

 英雄扱いされるエデン。

 だが、彼の視界の端が、再びチカチカと明滅し始めていた。

 

 限界だ。

 緊張が解けた反動で、抑え込んでいたマナ酔いが一気に押し寄せてきたのだ。

 

「……感謝する。だが、私は研究で忙しい。あとで私の家まで報酬を届けてくれ」

 

 エデンは村長の誘いを断り、踵を返す。

 早く帰りたい。

 早く、あのボロ小屋に戻って、横になりたい。

 

 背中で村人たちの称賛の声を聞きながら、エデンは逃げるように、けれど決して走らずに、その場を去った。

 

          ***

 

 小屋にたどり着いた瞬間、エデンは崩れ落ちた。

 膝が笑うどころか、完全に機能を停止した。

 玄関の土間に倒れ込み、荒い息を吐く。

 

「はぁ、はぁ……ッ、げほっ……!」

 

 胃液すらもう出ない。ただの空嘔吐が続く。

 冷たい床に頬を押し付け、エデンは目を閉じた。

 

(クリアした……。クエスト達成……)

 

 だが、これは一時しのぎに過ぎない。

 今日は「てこの原理」でなんとかなった。だが、明日は? 明後日は?

 

 この世界には、物理法則だけでは説明できない現象──本物の魔物や、呪いも存在するはずだ。

 マナが見えないエデンにとって、それらは「不可視の即死トラップ」でしかない。

 

「……無理だ」

 

 エデンは弱音を吐いた。

 誰もいないからこそ漏れる、本音。

 

「見えないんだよ……。計算式は合ってても、変数が入力できなきゃ解けないんだよ……」

 

 エデンは自分の手を空にかざす。

 そこにあるはずのマナが見えない。

 彼は、目隠しをして地雷原を歩いているようなものだ。

 

「眼が……欲しい」

 

 マナを見る眼。

 世界を観測するセンサー。

 自分の偽りの理論を、現実に繋ぎ止めてくれる「観測者」。

 

「誰か……僕の『嘘』を、見つけてくれ……」

 

 意識が暗闇に沈んでいく。

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