世界は、乾ききっていた。
ジリジリと肌を焼く太陽光線。 大気中に充満するマナの密度が、熱波に乗って上昇している。
剣崎エデンは、ボロ小屋の窓から外を覗き、不快そうに眉をひそめた。
「……気温32度、湿度15%。不快指数は『死ねる』レベルだな」
水車を修理してから三日が経過していた。 村での評判は上々、エデンは「先生」と呼ばれ、当面の食料と路銀を手に入れた──はずだった。
だが、この世界(クソゲー)の運営は、プレイヤーに安息を与えるつもりがないらしい。
井戸が、枯れたのだ。
原因は不明。地殻変動か、あるいは地下水脈の自然な枯渇か。エデンの科学知識を以てすれば、ボーリング調査を行って新たな水源を探ることも不可能ではない。
だが、この村の人々は「科学」よりも先に「犯人」を探し始めた。 水がなくなったのは、誰かの行いが悪いからだ。 誰かが精霊を怒らせたからだ。 誰かが──「穢れ」を持ち込んだからだ。
その矛先がどこに向くかなど、確率論を持ち出すまでもなく明白だった。 よそ者であるエデンか、あるいは──。
「……騒がしいな」
風に乗って、怒声が聞こえる。 それは祭り囃子のような陽気なものではなく、もっとどす黒く、粘り気のある、集団ヒステリー特有の周波数帯だった。
エデンは一度無視しようとした。 関わればろくなことにならない。自分の生存だけで手一杯だ。HPもMPもカツカツの状態で、他人のトラブルという名のサイドクエストを受注する余裕はない。
だが、その怒声の中に、微かな、しかし聞き捨てならない音が混ざっているのを、エデンの耳は拾ってしまった。
それは、硬いものが肉を打つ音。 そして、幼い獣が喉を鳴らすような、押し殺した呼吸音。
「……チッ」
エデンは舌打ちをし、白衣を羽織った。
見に行くだけだ。観測するだけ。 リスク管理の一環として、現状を確認しに行くだけだ。 そう自分に言い訳をして、エデンは熱波揺らめく外へと踏み出した。
***
村の広場は、狂気で舗装されていた。
乾いた砂埃が舞う中、数十人の村人が円を作っている。彼らの目は血走り、口元からは唾が飛んでいた。 その中心に、一人の少女がうずくまっていた。
泥だらけのボロ布をまとった、小さな体。 手足は枯れ木のように細く、肌は土汚れで黒ずんでいる。 その銀髪は、泥と油で固まり、見る影もない。
だが、その隙間から覗く瞳だけが、異様な輝きを放っていた。 溶かした黄金。 あるいは、捕食者を睨む猛禽類の眼光。
「この忌み子が! お前が来てからろくなことがねぇ!」 「井戸の水が枯れたのは、お前の目が濁っているからだ!」 「出て行け! いや、ここで死んで詫びろ!」
罵倒と共に、握りこぶし大の石が投げつけられる。 一投ではない。四方八方から、雨あられのように礫(つぶて)が飛来する。
普通の少女なら、悲鳴を上げて頭を抱え、数秒後には血まみれになって動かなくなっているだろう。
だが──エデンは見た。 その瞬間、世界のスローモーション再生を。
少女は、泣いていなかった。 震えてもいなかった。 ただ、じっと虚空を見つめていた。
(……ヤバい、当たる)
右前方から、男が全力で投じた石。 少女の頭部を狙った殺意の弾道は、正確に彼女の頭蓋骨を砕くと思われた。
少女の金色の瞳が、わずかに揺らぐ。 その瞬間、彼女は首をコクリと、わずか三センチだけ左に傾けた。
ヒュンッ。
石は彼女の頬をかすめ、数本の銀髪を巻き上げて後方へと過ぎ去った。 続けて左後方から飛来した石を、彼女は肩を数ミリ下げるだけで回避した。 正面からの石は、半歩退くことで威力を殺し、胸に当たっても痛打とならない角度で受け流した。
まぐれ、ではない。
「……は?」
エデンは思わず声を漏らした。 村人たちは興奮していて気づいていない。 彼らは「石が当たった」「いや外れた」「もっと投げろ」と騒ぐばかりだ。
だが、離れた場所にいるエデンだけが、その異常性に気づいていた。
彼女は、全ての石を見ていた。 いいや、見ているだけではない。 その軌道を、速度を、着弾点を、投じられる前の筋肉の動きから予測し、最小限の動きで回避している。
(あり得ない……。なんだ、あの動体視力は? いや、視力じゃない。あれは──)
エデンの脳内で、思考が高速回転を始める。 現代科学の知識と、彼自身の「眼」への渇望が、一つの仮説を組み上げる。 彼は無意識に、脳内に宿るAIに問いかけた。
(エライザ! 対象の挙動解析! あれは何だ!?)
──『全知全能のカケラ』。 それが、エデンが現代日本から持ち込んだ唯一のチート能力の正体だ。
転移の直前、現代の神から譲渡された管理者権限の一部。 それはエデンに、周囲の温度、湿度、運動量ベクトルなどをリアルタイムで数値化して教えるセンサーであり、同時に、あらゆる現代科学知識を参照できる巨大なデータベースでもあった。
魔法は使えない。知能がずば抜けて高いわけでもない。だが、物理法則を知り、利用することにかけては、彼はこの世界で神に等しい情報量を持つ。
そのインターフェースである『エライザ』が、即座に冷徹な回答を弾き出した。
『──回答。対象個体は、飛来物の物理ベクトルを、視覚情報としてリアルタイム処理しているものと思われます。しかし、それだけでは対象個体の回避行動の50%しか説明できません』
(50%だけ? どういうことだ)
『──追加回答。対象個体が、飛来物を放つ別個体の行動、筋肉の動きなど外部から観測できる情報から正確に予測できたとしても、2回に1回は回避不能になるはず、ということです。したがって、対象個体がこれまで100%回避している可能性は、0.3%であり、不自然です』
(……わかった。では、どうしたらそのような回避が可能であると考えられる?)
『──追加回答。私の持つ2025年時点の人類の知識では説明不能です。推測できる要因として、超技術により未来が予測できる、一連の事象は彼らが示し合わせて行われている茶番である、この世界特有の現象、あるいは……』
エデンの背筋に、戦慄が走った。
この世界特有の現象……マナの流動が見えている?
エデンが喉から手が出るほど欲しかった能力。 マナが見えない「マナ盲」の彼にとって、世界は闇鍋のようなものだ。いつどこで魔法が発動し、どんな現象が起きるか予測できない。 だからこそ、彼は物理法則という、この世界では不完全な「杖」にしがみついている。
だが、あの少女は持っていた。 生まれつき、この世界を数値として捉える、神の眼を。
「……あいつだ」
エデンの乾いた唇が動く。 欲望が、恐怖を塗りつぶしていく。
「あいつがいれば……僕の『魔法物理学』は完成する。あいつが観測し、僕が計算すれば……最強のシステムが組める!」
彼女は、ただの薄汚れた浮浪児ではない。 エデンにとっての、最高性能の「外部演算装置」であり、欠落した視覚を補う「センサー」だ。
拾わなければならない。 これはレアアイテムのドロップだ。見過ごせば二度と手に入らない。
だが──。
「死ねぇっ! 魔女め!」
ドゴッ、という鈍い音が響いた。 同時に複数投げられ、回避しきれなかった大きめの石が、少女の細い肩に直撃したのだ。
少女が初めて、苦痛に顔を歪めて崩れ落ちる。 それを見た群衆の興奮が、臨界点を突破した。
「当たったぞ!」 「やれ! 動けなくなった今が好機だ!」 「殺せ! 村のために!」
群衆の中でもひと際大きな男が、農具の鍬(くわ)を高く振り上げた。 鉄の刃が、真夏の日差しを反射して鈍く光る。 それは脅しではない。明確な処刑の動作だった。
(──詰んだ)
エデンの脳内シミュレーターが、冷酷な結果を弾き出す。 介入のリスク:死亡率85%。
相手は数十人の暴徒。こちらは貧弱な科学者もどき一人。 武器なし。魔法なし。体力なし。 助けに入れば、巻き込まれて死ぬ。 合理的に考えれば、ここで回れ右をして、小屋に帰って布団をかぶるのが正解だ。
そう、それが「賢いプレイヤー」の選択だ。
(見なかったことにしろ。どうせあの子は助からない。僕には関係ない。僕の借金返済計画に、人助けなんて項目はない……!)
エデンは踵を返そうとした。 足に力を入れる。 逃げろ。逃げろ。逃げろ。
──『その目が悪いんだ!』
罵声が耳に刺さる。 少女が顔を上げる。 泥と血にまみれたその顔。 金色の瞳が、一瞬だけ、遠くにいるエデンを捉えた気がした。
その目は、助けを求めてはいなかった。 絶望すらしていなかった。 ただ、「ああ、やっぱり世界はこうなんだ」という、諦めと納得だけが漂っていた。 かつて、好きな少女を助けられず、世界から弾き出された時の、エデン自身の目と同じ。
「あ──」
思考が、爆ぜた。 損か得かを考える心が粉々に砕け散った。
(ふざけんな……!)
何が合理性だ。何が計算通りだ。 あんな目をしている奴を、見捨てて逃げる? そんな惨めな物語を、僕は認めるのか?
「……待てェェェェッ!!!」
エデンの喉から、裏返った悲鳴のような咆哮がほとばしった。
思考するより先に、足が動いていた。 白衣をバタつかせ、泥を蹴り上げ、エデンは死地である広場の中心へと全力疾走していた。
心臓が早鐘を打つ。肺が焼けるように熱い。 怖い。死ぬほど怖い。 足が震えて上手く走れない。 それでも、彼は止まらなかった。
「ひっ、あ……!?」
鍬を振り下ろそうとしていた男が、突然の乱入者に驚いて動きを止める。 エデンは少女と男の間に滑り込み、両手を広げて立ち塞がった。
背中越しに、少女の微かな体温を感じる。 目の前には、血走った目をした大人たち。 鼻先数センチのところには、錆びた鉄の刃。
(やべぇ。死ぬ。これ絶対死ぬ)
エデンの膝がガクガクと笑う。 今すぐ土下座して謝りたい。 だが、一度舞台に上がってしまった以上、降りることは許されない。 エデンは引きつった顔筋を総動員して、最大のハッタリを張り付けた。
「……何をしている、愚民ども」
声が震えないように、腹に力を入れる。 できるだけ傲慢に。できるだけ偉そうに。 相手を見下すような視線を投げかける。
「せ、先生……? どいてくだせぇ! こいつは村に災いをもたらす魔女だ!」 「そうだ! こいつのせいで井戸が!」 「どかないなら、あんたも同罪だぞ!」
殺気がエデンに集中する。 皮膚がチリチリと痛い。マナの濃度が上がり、吐き気がこみ上げてくる。 エデンは必死に胃液を飲み込み、鼻で笑った。
「くだらん。……実にくだらん。相関関係と因果関係の区別もつかんのか、お前たちは」
エデンは白衣のポケットから、いつもの関数電卓を取り出す。 意味もなくカチャカチャとキーを叩く。 それは威嚇射撃だ。「私にはお前たちの知らない力があるぞ」というブラフだ。
「この娘の目は、魔女の証などではない。……これは、私の実験に必要なレア・サンプルだ」 「は、あ? 実験……?」 「そうだ。先日の水車修理、覚えているな? ああいった高度な術式で物理法則を書き換えるには、この娘が持つ特殊なマナ波長が必要なのだ。いわば、生きた『触媒』だ」
全部嘘だ。 出まかせだ。 だが、真実よりも、もっともらしい嘘の方が人は信じやすい。
「村長はどこだ? 私はこの娘を引き取ると言っている。村の厄介払いができて、私の研究も進む。その結果、お前たちの村もどんどん豊かになる。……どうだ? 悪くない話だろう?」
冷静に、論理的に説得しようとした。 利益を提示すれば、人間は理性的になると信じていた。 だが──エデンは計算違いをしていた。
今の彼らは、人間ではない。「群衆」という名の怪物だ。 怪物は、止まらない。彼らが求めているのは理性的な解決ではなく、暴力的な生贄の血なのだ。
「うるせぇ!!」
一人の男が叫んだ。
「難しいことはわかんねぇ! でもなぁ、今こいつを殺さねぇと、気が済まねぇんだよ!」 「そうだ! 先生だか何だか知らねぇが、俺たちの邪魔をするなら……!」 「余所者が、偉そうな口をきくんじゃねぇ!」
空気が変わった。 畏怖が消え、純粋な敵意が満ちる。 鍬を持った男が、再び筋肉を隆起させる。
今度は、止まらない。 エデンごと、少女を叩き斬るつもりだ。
(あ、これ詰んだわ)
スローモーションの中で、エデンは悟った。 言葉は、暴力の前では無力だ。 振り下ろされる刃。 エデンには防ぐ術がない。魔法も使えない。身体能力は女子高生以下。
死ぬ。 ここで、こんな泥だらけの村で、この世界に来てからたったの三日で、名もなき死体として終わる。
──その時。 背後で、小さな手がエデンの白衣を掴んだ。
「……避けて」
鈴を転がすような、しかし氷のように冷徹な声。
「え?」 「右へ45度。……私が、誘導します」
エデンの意思ではない。 背中の少女が、エデンのベルトを強く引いたのだ。
ブンッ!!
豪風が鼻先を通過した。 鍬の刃が、エデンの横髪を数本散らして、地面に深々と突き刺さる。
紙一重。 いや、ミリ単位で見切ったような、神がかり的な回避。
「なっ……!?」
鍬を振るった男がバランスを崩す。 エデンもまた、自分がなぜ生きているのかわからず、呆然とする。 だが、背中の少女の声が、今度は鋭く命令を下した。
「前へ。……右足で踏み込んで、その黒い箱を突き出して」
黒い箱。関数電卓のことか。 エデンは混乱したまま、しかし何かに操られるように指示に従った。
右足を踏み出す。 男の懐に入る。 電卓を突き出す。
それは、まるでダンスのステップのようだった。 エデンの貧弱な運動能力を、少女の最適解の誘導が補完し、完璧なカウンターの形を作り上げる。
「今」
少女の声に合わせて、エデンは無意識に叫んでいた。
「喰らえ! 『高周波スタン・ショック』!!」
もちろん、そんな機能は電卓にはない。 だが、エデンが電卓を突き出した先は──男の無防備な鳩尾(みぞおち)だった。 硬いプラスチックの角が、神経の束が集中する急所に、ピンポイントでめり込む。
「が、はっ……!?」
男は白目を剥き、空気の抜けた風船のように崩れ落ちた。 魔法ではない。 ただの、完璧なタイミングと位置で叩き込まれ、意識を刈り飛ばすのに十分な急所突き。
静寂。 圧倒的な静寂が、広場を支配した。 村人たちは口をあんぐりと開けている。
ひ弱な優男が、村一番の力自慢を一撃で沈めたのだ。 しかも、得体の知れない「黒い箱」を使って。
「……計算通りだ」
エデンは震える足を必死に隠しながら、倒れた男を見下ろした。 汗が滝のように流れる。心臓が痛い。 だが、彼はニヤリと笑ってみせた。 悪魔のように。あるいは、神のように。
「言ったはずだ。……私と、この娘が揃えば、物理法則など書き換えられると」
背中で、少女が荒い息を吐いているのがわかる。 エデンは振り返らず、片手を後ろに回した。 少女の冷たい手が、ためらいがちに、その手に触れる。
「行くぞ、助手。……僕たちの研究室へ」
エデンは少女の手を引き、凍りついた群衆の中を悠然と歩き出した。 誰も止めなかった。 止められなかった。 未知への恐怖と、圧倒的な「結果」を見せつけられた彼らは、ただ道を開けることしかできなかったのだ。
***
村を抜け、断崖のボロ小屋に戻るまで、二人は無言だった。 小屋に入り、扉を閉め、鍵をかけた瞬間──。
「おえぇぇぇぇぇ……ッ!!」
エデンはその場に蹲り、盛大に嘔吐した。 限界だった。 緊張、恐怖、マナ酔い、過呼吸。全てのバッドステータスが一気に炸裂した。
「はぁ、はぁ、死ぬ……マジで死ぬかと思った……!」
涙目で床を叩くエデン。 そんな彼の無様な姿を、少女は入り口で立ったまま、じっと見下ろしていた。 その金色の瞳には、困惑と、わずかな好奇心、そして警戒色が混ざっていた。
「……なんで」
少女が、掠れた声で呟く。
「なんで、助けたの。……キミも、石を投げればよかったのに」 「は……?」
エデンは口元の汚れを拭い、顔を上げた。 少女は本気で不思議がっているようだった。 自分が助けられる価値などない。迫害されるのが世界のルールだ。そう信じ込んでいる目だ。
「……勘違いするな」
エデンは立ち上がり、よろめきながら椅子に座った。 そして、努めて冷徹な声を作る。 これは契約だ。情けではない。ビジネスだ。そう自分に言い聞かせなければ、恐怖で心が壊れそうだったからだ。
「僕は君を助けたわけじゃない。……君の『眼』を確保しただけだ」 「眼……?」 「そうだ。君には見えているんだろう? ……マナの流れが」
少女がビクリと肩を震わせる。 まるで悪事を指摘されたように、申し訳なさそうな顔をして。
──だが。
「……見えないんだ」
エデンは、床を睨みつけたまま絞り出した。 その声は、広場で見せた傲慢な英雄のそれではなかった。 闇夜で迷子になった子供のような、あるいは深海に放り出された遭難者のような、縋るような響きがあった。
「この世界のマナも、魔法も、精霊の光も……僕には何一つ見えない。五感のすべてが、この世界の理から拒絶されている。……本当に、見えていないんだ」
「……え?」
少女が息を呑む気配がした。 この男の話は、村のうわさで聞いた。『白亜の魔導師』。 こんな辺境の地にいるのが不思議なくらいの地位の人間で、実際に不可思議な力で村の水車を直したとも聞いた。 そんな男が、実はマナを見えていなかったなどと、誰が信じるだろうか。
だが、エデンは顔を上げた。 その瞳は、夜明け前の空のように暗く、そして飢えていた。
「本当だ。本当に、見えていない。見えているふりをして、分かっている演技をして、今まで生きてきた」 「……本当なの?」 「ああ。だから……君が必要だ」
エデンは震える指先を、少女の方へと突きつける。 それは救いを求める手であり、同時に、逃がさないと脅すような切実さを孕んでいた。
「君が僕の眼になってくれ。……僕の観測装置になれ」 「観測……?」 「そうだ。君のその金色の瞳で世界を捉え、その情報を僕に入力しろ。風の動きを、マナの奔流を、僕に教えろ」
エデンは熱に浮かされたように言葉を継ぐ。 これは契約だ。 生存のために互いの臓器を貸し借りするような、血肉の通った取引だ。
「そうすれば、僕は計算ができる。物理と魔法の両方を把握し、最強の理論を組み上げられる。二人でなら、神だろうが、運命だろうが、このクソみたいに理不尽な世界だろうが……すべてを、騙し通せるんだ!」
少女は、目を丸くしたまま凍り付いていた。 彼女の時間は、そこで止まっていた。
──『その目が気持ち悪い』 ──『近づくな』 ──『こっちを見るな』
物心ついた時から、その金色の瞳に向けられたのは、恐怖と嫌悪、そして排除の意志だけだった。 誰もが目を背けた。 誰もが石を投げた。
けれど、目の前の男は違った。 泥と吐瀉物にまみれ、生まれたての子鹿のように震えながら、彼はその瞳を──その呪いを、「必要だ」と断言したのだ。
(……あ)
少女の心の奥底で、何かが決壊する音がした。 それは「救われた」という安堵ではない。 自分という存在の形が、嫌悪されるゴミから必要な部品へと書き換わる、魂の再定義だった。
少女は、おずおずと一歩、泥だらけの床を踏みしめた。
顔を歪める。 泣きたいのか、笑いたいのか、あるいは怒りたいのか。感情の整理がつかず、頬の筋肉がひきつり、乾いた泥がボロボロと剥がれ落ちる。 ぐしゃぐしゃになった顔で、彼女は精一杯の虚勢を吐き出した。
「……変なヤツ。さっきまで吐いてて、膝もガクガク震えてるくせに……偉そう」
「うっ、うっさい……! これはデトックスだ。体内の毒素を排出する、高度な健康法だ……!」
エデンが顔を真っ赤にして反論する。 その情けなさが、どうしようもなく人間臭くて──少女の胸に、温かい灯がともる。 彼女はためらいがちに、けれど確かな意志を込めて、自分の名前を口にした。
それは、世界に対して初めて宣言する、彼女自身の存在証明だった。
「……セーラ」
小さな手が、エデンの震える手に重ねられる。
「私、セーラ。……セーラ=クローム。……よろしく」
少女──セーラは、泥だらけの手を、エデンに差し出した。 エデンはその手を見て、フッと笑う。 そして、自分の白衣の袖で、乱暴に彼女の手の泥を拭き取った。 その下から現れたのは、傷だらけだが、白く綺麗な肌だった。
「剣崎エデンだ。……僕の会社、エデン・ワークスへようこそ。給料は出ないが、飯と寝床、それと……この世界をだます『嘘』を提供しよう」
二人の手が、握られた。 汗と泥と、微かな血の匂い。 それが、世界から見捨てられた「詐欺師」と「共犯者」の、最初の契約だった。