ボロ小屋の窓から差し込む朝日が、舞い散る埃をキラキラと照らしていた。 だが、その穏やかな光景とは裏腹に、剣崎エデンの顔色は優れない。
昨日の「水車修理」と「少女救出劇」。 二つの大仕事を終えた彼だが、その脳内シミュレーターは警報を鳴らし続けていた。
「……もう、ここにはいられないな」
エデンは、荷物をまとめながら独りごちた。
村人たちは昨日、エデンのハッタリに圧倒されて引き下がった。だが、熱狂はすぐに冷める。 冷静になれば、「あいつ、本当に魔法使いか?」「あの娘は本当に必要な触媒なのか?」という疑念が頭をもたげてくるはずだ。
特に、井戸の水が戻らなければ、彼らの不安はすぐに怒りへと転化し、今度はエデンごと魔女を火あぶりにしようとするだろう。
「ここにとどまるのは、どう見ても死亡ルート。……逃げるが勝ち、か」
エデンは、部屋の隅で膝を抱えて座っている少女──セーラに視線を向けた。
泥を落とし、エデンの予備のシャツ(サイズが大きすぎてワンピースのようだ)を着た彼女は、窓の外をじっと見つめていた。 その金色の瞳は、何も映していないようでいて、すべてを見透かしているようにも見える。
「おい、助手」 「なに? エデン」
昨晩、泥のように眠ったからか、彼女の顔は元気を取り戻したように見える。
「出発するぞ。目的地は王都スレイプニルだ。……この村に長居するのは危険すぎる」 「……賢明な判断だね」
セーラは表情を変えずに立ち上がる。 だが、その手が一瞬だけ震えたのを、エデンは見逃さなかった。 彼女はまだ、怯えているのだ。村人たちに──いや、自分を拒絶した世界そのものに。
「セーラ。一つ、聞かせろ」
エデンは作業の手を止め、努めて事務的な声を装って聞いた。
「君は、なぜあそこまで憎まれていた? 井戸が枯れたのは地質学的な問題だ。君のせいである確率は万に一つもない。そして、それを君もわかっていたはずだ……なのに、なぜ?」 「…………」
セーラは沈黙した。 無意識のうちに、その手が自分の前髪へと伸びる。 長く伸びた髪をさらに引き下ろし、その金色の瞳をエデンの視線から隠そうとする仕草。
やがて、ぽつりと、乾いた言葉が落ちた。
「……私が、余所者だから」 「余所者?」 「そう。身寄りのない余所者の子供で、ごくつぶしの孤児。それに……ほら、私の眼って光ってて気持ち悪いでしょ。そんな子が水を汲んで飲んだら、その直後に井戸が枯れた。だから、村の人たちで何日か話し合って、公開処刑ってわけ。私は魔法も使えないし、反撃できないからさ」
「……クソだな。マジで、クソだ」
エデンは低く呟いた。 胸の奥で、ドス黒い怒りが湧き上がる。 それは村人たちへの怒りであり、同時に、そんな理不尽な世界に彼女を一人で放っておいた、昨日までの自分への怒りでもあった。
「悪かった」 「……え?」 「気づくのが遅れた。……あの村には一週間前から行っていたのに。そんなことになっているなんて知ろうともしなかった」
エデンは頭を下げた。 プライドの高い彼が、素直に謝罪を口にする。 それは「契約者」としてではなく、不器用ながらも彼女の痛みに寄り添おうとする一人の人間としての言葉だった。
「この世界はバグだらけだ。確率も論理も仕事をしていない。……だが、君が悪いわけじゃない。そして、君のその眼は、呪いなんかじゃない」
エデンは顔を上げ、セーラの金色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「それは才能だ。……僕が保証する。君は、世界で一番優れた観測装置だ」
セーラは目を丸くし、数回瞬きをした。 そして、ふいっと顔を背けた。 耳の先が、少しだけ赤くなっている。
「……バカみたい。大げさなんだよ、エデンは」 「事実だ。僕は事実しか言わない」 「はいはい。……じゃあ、連れてってよ。私の才能を役立てる場所に」
セーラはバッグを背負い、扉の方へと歩き出した。 その足取りは、昨日よりも少しだけ軽やかに見えた。
***
村をこっそりと抜け出し、街道に出てから数時間が経過していた。 太陽は容赦なく照りつけ、地面からは陽炎が立ち上っている。
「……暑い。これはもはや低温調理だ。僕はローストビーフになるつもりはないぞ」
エデンは白衣の襟をパタパタとさせながら、恨めしげに空を仰いだ。 体力のない現代っ子である彼にとって、徒歩での長距離移動は地獄だった。 一方、セーラは涼しい顔で歩いている。彼女の背中には、エデンの実験器具が詰め込まれた巨大なリュックがあるにも関わらずだ。
「だらしないね、エデン。まだ3キリしか歩いてないよ」 「3キリ? ああ、3キロか。訂正しろ。体感では30キリだ。……それに、王都まではこの15倍、45キリはある。着くまでに日が暮れてしまうぞ」
エデンの苦情に、セーラはあきれたような表情を浮かべながら、
「日が暮れるって……一日で着くわけないじゃん。……普通に歩けば二日はかかるでしょ」 「二日!? 野宿か!? この繊細な僕に、土の上で寝ろと!?」
エデンが絶望的な悲鳴を上げた、その時だった。 後方から、ガラガラという車輪の音と、馬のいななきが聞こえてきた。
振り返ると、砂煙を上げて一台の馬車が近づいてくる。 中型の荷馬車だ。幌(ほろ)がかけられ、積荷は見えないが、御者台には身なりの良い商人と、いかつい男が座っている。
「……来た!」
エデンの目が、カネの匂いを嗅ぎつけた詐欺師のように輝いた。
「見ろ、セーラ。あれは『カモ』だ」 「カモ?」 「そうだ。僕の『話術スキル』と、君の『可憐な助手』という演技力を組み合わせれば、あの馬車をタダで利用できる」
エデンは懐から、徹夜で偽造した身分証を取り出した。 『王立魔術学校・特別高等顧問』。 金箔(に見せかけた黄色のインク)が輝く、いかにも権威ありげなカードだ。
「作戦はこうだ。僕は極秘任務中の高貴な魔導師。君はその弟子。『馬車が故障して困っている。王都まで乗せてくれれば、私の権限で関所の通過税を免除してやろう』と持ちかける」 「……それ、嘘じゃん」 「人聞きが悪いな! 『交渉』だ。それに、馬車の中で僕の知識をいろいろと教えてあげよう。そうすれば、きっと彼らもこの世の真実に涙を流して感謝するはずだ」
エデンは白衣を整え、髪をかき上げた。 自信満々だ。田舎の商人など、権威をちらつかせればイチコロだという計算があった。
「よし、行くぞ。君は黙って、儚げな美少女を演じていればいい」
エデンは道の真ん中に進み出ようとした。 手を上げ、優雅に声をかけようとする。
「おや、そこの御じ──」
グイッ。 強い力で、白衣の裾を引かれた。
「ぐぇっ!?」
エデンは体勢を崩し、その場によろめいた。 振り返ると、セーラが冷ややかな目で彼を見上げている。
「な、何をするんだセーラ! 今、まさに交渉のフェーズに……」 「やめて。……あの馬車、乗らない」
短く、しかし絶対的な拒絶。 普段のクールな口調とは違う、鋭い警告を含んだ声だった。
「はあ? 何を言ってるんだ。あれを逃したら、次はいつ馬車が来るかわからないんだぞ? 僕の足はもう限界なんだ!」 「それでもダメ。……死にたくなきゃ、下がって」
セーラはエデンの腕を強引に引き戻し、転がるように身を隠す。
馬車が近づいてくる。 御者台の男たちが、ちらりとエデンたちが潜む草むらを一瞥した。 その視線は、商人の愛想笑いではなく、獲物を値踏みするような冷たい光を宿していた。
馬車が通り過ぎていく。 土煙が舞い、独特の甘い匂いが鼻をかすめた。
馬車が見えなくなるまで、セーラはエデンの口を手で塞いでいた。 静寂が戻ると、彼女はようやく手を離した。
「……ぷはっ! 何なんだよ! 今の絶好のチャンスを……」 「エデン、あんた、目が節穴なの?」
セーラはため息をつき、呆れたように言った。
「あの馬車、おかしいよ。……積荷の大きさと、車輪の沈み方が合ってない」 「は?」 「見た目で偽装してるけど、マナで見ると荷台の底が二重になってる。……それに、匂ったでしょ? あの甘ったるい匂い」
エデンは記憶を検索する。 甘い匂い。植物性の芳香。……まさか。
「……『幻惑草(イリュージョン・ウィード)』か?」 「正解。しかも、かなり濃縮されたやつ。……あの馬車から漏れてるマナの波長、ドロドロしてて最悪だった。たぶん、密輸業者だよ」
エデンの顔から血の気が引いた。
幻惑草の密輸。 この国では重罪だ。見つかれば即座に処刑、あるいは一生鉱山で強制労働させられるレベルの犯罪だ。
もし、あそこで「関税免除」などと持ちかけていたら? 相手は「正体がバレた」と勘違いし、口封じのためにエデンたちを殺していただろう。 あるいは、まんまと乗せてもらえたとしても、関所の検問で巻き添えを食らっていただろう。
(……死んでた。確率99.9%で、バッドエンド直行ルートだった……!)
エデンは冷や汗で濡れた手で、自分の顔を覆った。 自分の浅知恵が、自分自身を殺すところだったのだ。
「……御者の男も、ただの雇われじゃない。腰のマナの練り方、あれは人を殺し慣れてる傭兵のものだった。……エデンみたいなヒョロヒョロ、指先一つで殺されるよ」
セーラは淡々と、しかし残酷な事実(ファクト)を突きつける。 エデンは何も言えなかった。 反論の余地がない。彼女の「眼」が捉えた情報は、エデンの「推測」を遥かに凌駕していた。
「……助かった。礼を言う」
エデンは苦渋の表情で、それでも絞り出すように言った。 負けを認めるのは癪だが、事実は事実だ。
「まさか、こんな田舎道で麻薬カルテルに遭遇するとはな。……アンラッキーも、ここまで来ると芸術的だ」 「ねえ、もっと慎重になりなよ。この調子で動いたら、すぐに死体になっちゃうよ」 「……ぐぬぬ」
セーラは少し得意げに鼻を鳴らした。 その表情は、先ほどまでの怯えた少女ではなく、頼れるパートナーの顔だった。
「で? どうすんの、エデン。馬車で楽ちん作戦は消滅したけど」 「……プランBだ」
エデンは観念したように、ボロボロの地図を広げた。
「街道はリスクが高い。あいつらが検問で止められて騒ぎになれば、僕らも足止めを食らう。……森を抜ける」 「森? でも、さっき『迷いの森』って看板に書いてあったよね?」 「ああ。地元民も避けるルートだろうな。だが、今の僕らには……最強のナビゲーターがいるじゃないか」
エデンはセーラを指差した。
「君の眼なら、獣道も見つけられるだろう? 魔物のいない安全なルートを算出してくれ」 「……人使いが荒いなぁ」 「給料分は働け。……頼む」
最後の一言は、小さな声だった。 セーラはそれを聞いて、くすりと笑った。
「給料は貰ってないけど。しょうがないなぁ。……わかった、案内してあげる」
セーラは地図を覗き込み、そして森の奥を見据えた。
彼女の瞳が、金色の光を帯びる。 複雑に入り組んだ森の木々、その隙間を縫うように流れるマナの奔流。彼女には、そこにある「正解の道」が、光のラインとなって見えていた。
「こっち。……私の足跡を踏んで歩いて。変なとこ踏んだら、毒虫に刺されるよ」 「了解だ、先生」 「先生じゃないし」
セーラが軽やかに森へと足を踏み入れる。 エデンはため息をつきながら、その小さな背中を追った。
足は痛い。 服は汚れる。 楽な道など、どこにもない。
けれど、エデンの心は不思議と軽かった。 一人なら選べなかった道。一人なら気づかずに死んでいた罠。 それを回避し、「安全な道」を選び取ることができた。 それは、彼の人生において初めての経験だったかもしれない。
「……計算通りだ」
エデンは強がって呟いた。 前を行くセーラには聞こえない距離で。
「君という『変数』を組み込んだ僕の計算式は……今のところ、完璧に機能している」
森の緑が深くなる。 二人の影は、木漏れ日の中へと溶けていった。 王都への旅路は、まだ始まったばかりだ。