灰色の科学者と金色の共犯者   作:AmberGlimmer

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王都の掃き溜めと永久氷結箱

 王都シーラム。  スレイプニル王国の心臓部であり、大陸最大のマナ集積地。

 

 高さ三十メートルを超える巨大な城壁に囲まれたその都市は、遠目に見れば「繁栄の象徴」であり、近づけば「欲望の坩堝(るつぼ)」だった。

 

 二日間の過酷な徒歩旅を経て、西門の巨大なアーチをくぐった剣崎エデンとセーラ=クロームを出迎えたのは、鼓膜を震わせるほどの喧騒だった。

 

 石畳を叩く馬車の車輪音。  市場から流れてくる香辛料と腐敗臭の混ざり合った匂い。  そして、視界を埋め尽くす人、人、人。

 

「……人口密度過多だ。酸素が足りない」

 

 エデンは白衣の襟をパタパタとさせながら、うんざりした顔でメインストリートを見渡した。

 

 泥だらけの靴、くたびれた白衣。隣には、ボロボロのローブを羽織り、巨大なリュックを背負った少女。  どう見ても、成功者には見えない。ただの「夢破れて都へ流れてきた田舎者」の姿だ。

 

「文句を言わないで、エデン。……とりあえず、座れる場所。足の裏が限界」

 

 セーラが小さく呻く。  彼女のナビゲートのおかげで、魔物との戦闘は避けられた。だが、物理的な距離という障害は消えない。  二人はゾンビのような足取りで、路地裏の薄暗い広場にある、壊れかけたベンチへと雪崩れ込んだ。

 

「……さて」

 

 エデンは大きく息を吐き、懐を探る。  取り出したのは、革袋だ。村を出る時、村長から「報酬」として受け取った路銀である。

 

 中身を手のひらにぶちまける。  チャリ、という軽い音がした。

 

「銀貨三枚、銅貨五枚。……しめて三千五百円相当か」

 

 エデンの顔が引きつった。  王都の物価は田舎の比ではない。  宿代、食費、そして何より──この後の「計画」に必要な資金。  どう計算しても、圧倒的に足りない。

 

「詰んでるね」

 

 セーラが横から覗き込み、容赦のない事実を告げる。

 

「この額じゃ、まともな宿には一泊もできない。……馬小屋か、スラムの共同寝室が関の山」 「断る。僕の繊細な肌はダニとの同居を拒否している」 「じゃあ野宿? 王都の衛兵は厳しいよ。浮浪罪で捕まる」

 

 セーラはリュックから固くなったパンを取り出し、半分にちぎってエデンに渡した。  それが、今の彼らの全食糧だ。

 

「……エデン。これからどうするの?」

 

 パンをかじりながら、セーラが問う。  その金色の瞳は、不安よりも「お手並み拝見」といった色を帯びている。  彼女はもう、ただ怯えるだけの少女ではない。エデンという奇妙な男が、この窮地をどう「計算」するのか、観察しているのだ。

 

 エデンはパンを口に放り込み、咀嚼しながら脳内サーチをかけた。

 

(現状分析。資金不足。社会的信用ゼロ。コネクションなし。……ないない尽くしだ)

 

 だが、彼には現代知識がある。  そして何より、この世界の人々が知らない「物理法則」という武器がある。

 

「……まずは、資金調達だな」

 

 エデンは立ち上がり、パンのカスを払った。  その目には、獲物を狙う詐欺師の光が宿っていた。

 

「セーラ。君の『眼』を貸してくれ。……ゴミ山の中から、宝を探すぞ」

 

          ***

 

 二人が向かったのは、王都の下層区画にある「古道具街」だった。

 

 ここは正規の市場ではない。盗品、ガラクタ、出所不明の魔道具の残骸などが無造作に積み上げられた、いわば王都の掃き溜めだ。  錆びた剣、割れた水晶玉、変色した薬瓶。  マナの澱みが漂う不衛生な路地を、エデンは目を輝かせて歩き回る。

 

「ほう……これはいい。純度90%の銅管じゃないか」

 

 エデンが拾い上げたのは、ひしゃげた金管楽器の残骸だった。  店主の爺さんが、パイプをふかしながら睨む。

 

「おい若いの。それはゴミだ。溶かしても銅貨一枚にもなりゃしねぇぞ」 「ゴミかどうかは私が決める。……これと、そこの木箱。それからあの黒い粘土のような塊をもらおう」 「全部で銅貨三枚だ」

 

 エデンは値切りもせずに金を払う。  セーラは呆れたようにそれを見ていた。

 

「エデン、本気? そんなガラクタ、何に使うの?」 「ガラクタ? 失礼な。これは材料だ」

 

 エデンは次に、錬金術師の店で硝石と水を購入した。  さらに、布屋の裏手で端切れの布を大量に買い込む。

 

 なけなしの銀貨が消えていく。  手元に残ったのは、ガラクタの山と、わずかな小銭だけ。

 

「……で? これで何を作るつもり?」

 

 日が傾きかけた路地裏で、セーラが荷物の山を指差した。  エデンはニヤリと笑う。

 

「今から、この世界には存在しない『魔法』を作る。……名付けて、『魔導冷却器』だ」

 

          ***

 

 夜。  廃屋の軒下を借りて、エデンとセーラの「工作」が始まった。

 

「いいかセーラ。この世界の人間は『冷やす』ことに関して無知だ。氷魔法を使えばいいと思っている。だが、氷魔法はマナ消費が激しく、持続性がない。……貴族たちは、夏場の食料保存に頭を悩ませているはずだ」

 

 エデンは説明しながら、手を動かし続ける。  彼の脳内には、現代の冷蔵庫──ではなく、もっと原始的かつ確実な「非電化冷蔵庫(ポット・イン・ポット・クーラー)」の設計図が展開されていた。

 

 原理は単純だ。  「気化熱」を利用する。  水が蒸発する時、周囲から熱を奪う性質を利用して、内部を冷やす。  アフリカの砂漠地帯などで使われる知恵だが、エデンはここに現代物理学によるブーストを加える。

 

「外側の木箱と、内側の銅管の間に、水を含ませた布と砂を詰める。……そして、この銅管の配置だ」

 

 エデンは金管楽器を叩いて伸ばし、複雑なコイル状に加工していく。  エライザの演算補助により、表面積を最大化し、熱交換効率を極限まで高めた形状だ。

 

「吸熱反応。……硝石を水に溶かせば、さらに温度は下がる。ファンタジー世界の住人は『氷魔法』という現象しか知らないが、僕は『熱力学』という法則を知っている」

 

 カン、カン、カン。

 

 エデンがハンマーを振るう音が、夜の闇に吸い込まれていく。  セーラはその手元を、魔眼でじっと観察していた。

 

「……すごい」

 

 彼女は思わず呟いた。  エデンにはマナがない。魔法を使っていない。  なのに、彼が組み上げた装置の周りで、熱と干渉するマナが書き換わっていくのが見える。  大気中の熱が吸い上げられ、箱の中が急速に「凪(なぎ)」の状態──低温へと移行していく。

 

 マナを使わない魔法。  それが、エデンの言う「物理学」なのか。

 

「完成だ」

 

 深夜。  エデンの目の前には、一見すると不格好な木箱が鎮座していた。  だが、その表面には、エデンがインクで書き込んだ「意味ありげな数式」がびっしりと描かれ、禍々しくも神秘的なオーラを放っている。

 

「名付けて『古代アトランティスの永久氷結箱』。……どうだ、それっぽいだろう?」 「……趣味が悪い。呪いのアイテムにしか見えない」 「それがいいんだ。……貴族ってのは、機能よりも『物語(ストーリー)』に金を払う生き物だからな」

 

 エデンは満足げに頷き、セーラに向き直った。

 

「作戦フェーズ2だ。……明日の朝、これを売りに行く。ターゲットは、この街で一番『新しもの好き』で、かつ『見栄っ張り』な貴族だ」 「……心当たりあるの?」 「ない。だから、これから探すんだ。……君の『眼』でな」 「……了解」

 

 セーラは短く答え、そしてジトッとした目でエデンを見上げた。  その視線には、明らかな不満の色が混じっている。

 

「で、エデン。……大事な質問があるんだけど」 「なんだ?」 「ターゲットを探すのはいいけど……今夜の寝床は?」

 

 エデンは無言で、自分たちが座り込んでいる廃屋の床──埃とカビにまみれた板の間を指差した。

 

「ここだ」 「…………」

 

 セーラが深いため息をついた。それは諦めではなく、限界寸前のボイラーのような、危険な排気音だった。

 

「あのね、エデン。私たち、ここに来るまで二日間、森の中で野宿だったよね?」 「ああ。君のナビゲートのおかげで、木の根を枕にするコツは掴めた」 「昨日はこの廃屋の床で雑魚寝。……これで三日連続だよ? 女の子に、三日連続で硬い床で寝ろっていうの?」

 

 セーラが抗議の声を上げる。  無理もない。風呂にも入らず、着替えもなく、泥と汗にまみれたまま三日間。  潔癖症気味のエデンですら限界なのだから、彼女にとっては地獄だろう。

 

「我慢しろ、セーラ。これは『初期投資』の段階だ」 「初期投資?」 「そうだ。なけなしの金を宿代に使ってしまえば、この冷蔵庫を作る材料費が捻出できなかった。……快適なベッドを手に入れるためには、今夜だけは歯を食いしばるしかないんだ」 「うぅ……。社長とか名乗ってるくせに、社員にやさしくないよぅ……」

 

 セーラは恨めしげに呟きながら、薄汚れたローブにくるまった。  彼女の髪は少しベタついており、ローブを引き寄せる手も薄汚れていることに、エデンは気づいた。

 

「明日だ。……この商談が成功すれば、絹のシーツで寝かせてやる。約束する」 「……絶対だよ。嘘ついたら、エデンの枕元に毒蜘蛛を放つから」

 

          ***

 

 翌朝。  王都の一等地、貴族街。  その一角にある豪奢な屋敷の応接間に、場違いな二人の姿があった。

 

「……ほう。これが、古代遺跡から発掘された魔道具だと?」

 

 ふかふかのソファに深々と座り、疑わしげな視線を向けてくるのは、この屋敷の主──ガストン男爵だ。  恰幅の良い体躯に、これ見よがしな宝石のついた指輪。  セーラの「観測」によれば、彼は最近、商売で成功して成り上がった新興貴族。

 

(伝統や格式がない分、金で買える「箔」に飢えている。……最高のカモだ)

 

 エデンたちは、水場で可能な限り泥を落とし、白衣のシワを伸ばして「現場帰りの研究者」の体を装っていた。  薄汚れた身なりではあったが、門番たちはこの「謎の箱」が放つ冷気と、エデンの堂々たるハッタリに気圧され、主への取次を許してしまったのだ。

 

「左様でございます、男爵閣下」

 

 エデンはうやうやしく頭を下げた。昨日の詐欺師の顔は消え、そこには知的な学者の仮面がある。

 

「これは『永久氷結箱(エターナル・フロスト)』。……マナを注がずとも、内部に入れたものを永久に冷やし続ける、失われた古代技術の結晶でございます」

 

 エデンは芝居がかった手つきで、木箱の扉を開けた。  冷気が白い霧として漏れ出し、中には市場で買ったリンゴが鎮座している。その表面には、美しい水滴が結露していた。

 

「おお……! 冷たい! 確かに冷えている!」

 

 男爵が身を乗り出す。その目が、商人としての計算を弾き出した。  王都の夏は暑い。食料保存や晩餐会のワイン冷却のために雇う「氷魔法使い」の人件費は、月額で金貨数枚にもなる。  だが、この箱があれば──。

 

「マナが不要ということは、維持費がゼロ……ということか?」 「その通りです。初期投資のみで、半永久的に冷えたワインを楽しめます。……他の貴族たちが汗を拭いながらぬるい酒を飲んでいる中、閣下だけが氷温の美酒を振る舞うことができるのです」

 

 男爵の脳裏に、「どうだ、羨ましいだろう」とライバルたちを見下ろす自身の姿が浮かんだ。  承認欲求と経済合理性。  二つの欲望を同時に満たす提案に、男爵の喉が鳴る。

 

「素晴らしい……! これがあれば、次回の夜会は私が主役だ……!」

 

 (勝った。釣り針にかかった)

 

 エデンは内心でガッツポーズをした。  だが、商談成立目前、男爵の目がふと鋭く細められた。  彼は箱の側面にある、水を入れるためのタンク(給水口)に気づいたのだ。

 

「……待て。これは何だ?」 「は?」 「ここからなにかを入れるようになっているな。……維持費ゼロと言ったが、燃料が必要なのか?」

 

 男爵の声に、疑惑の色が混じる。  彼は無知だが、馬鹿ではない。商売で成り上がった男だ。「タダより高いものはない」という警戒心が頭をもたげた。

 

「それに、この内部の管……。ただの銅ではないか? 魔導金属(ミスリル)でもないのに、なぜ冷える? まさか、まやかしではあるまいな」

 

 (……チッ、鋭いな)

 

 エデンの背中に冷や汗が伝う。  物理的な説明はできない。「気化熱です」などと言っても、魔法社会の常識では「そんなもので冷えるか!」と一蹴されるだけだ。  マナを使わない現象など、この世界では「詐欺」と同義なのだから。

 

「それは……その……」 「答えられんのか? 貴様、私を騙そうとしているな!」

 

 空気が凍りつく。  控えていた護衛の兵士たちが、剣の柄に手をかけた。  商人の勘が「怪しい」と告げている。このままでは叩き出される──。

 

 エデンが撤退を考えた、その時だった。

 

「……旦那様。触れてはいけません」

 

 凛とした、涼やかな声が響いた。  それまでエデンの後ろで、借りてきた猫のように黙っていたセーラだ。  彼女は一歩前に出ると、男爵の手を優しく、しかし毅然と制した。

 

「そこの銅のコイル……。それはただの管ではありません。『精霊の通り道』です」 「な、なに? 精霊の……?」 「はい。この箱は、水を触媒にして『氷の精霊』を強制召喚し、その管の中を高速で循環させることで冷気を生み出しているのです」

 

 セーラは金色の瞳を細め、もっともらしく銅管を指差した。  その表情は真剣そのもの。嘘をついている微塵の揺らぎもない。

 

「見てください、この複雑な曲がりくねった形状……。これは精霊を閉じ込め、逃がさないための『迷宮結界』の幾何学模様なのです」 「迷宮……結界……!?」 「ええ。ですから、不用意に触れれば……中の精霊が怒り狂い、旦那様の指を一瞬で凍りつかせてしまうでしょう。最悪の場合、腕ごと切り落とすことになります」

 

 嘘だ。  全部、真っ赤な嘘だ。  コイルはただの熱交換器だし、触ってもちょっと冷たいだけだ。  だが、この嘘は男爵にとって「渡りに船」だった。

 

 「ただの銅管で冷える」という不可解な現象に、男爵が納得できる「魔法的なロジック」が与えられたからだ。  危険で、複雑で、魔法的。  それこそが、高価な魔道具である証拠だと、彼は誤解した。

 

「そ、そうなのか……! 危うく触るところであった!」

 

 男爵は慌てて手を引っ込めた。

 

 恐怖は、疑念を上書きする。  ただの「怪しいガラクタ」は、一瞬にして「取り扱いの難しい、選ばれた者だけが持てる国宝級の呪物」へと昇格した。

 

「水が必要なのも、精霊への『供物』だったのだな……! なんと理にかなっている!」 「左様でございます、旦那様。……この箱は、それほど強力な力を持っているのです」

 

 セーラは深々と頭を下げる。  エデンは呆気にとられながらも、即座に話を合わせた。

 

「そ、そうです! さすがは私の助手、説明が行き届いている。……閣下、おわかりいただけましたか? この危険性こそが、本物の証なのです」

 

 男爵は何度も頷き、震える手で懐から小切手を取り出した。  もはや彼に迷いはない。  この「危険で、誰も持っていない、維持費のかからない魔法の箱」を手に入れ、次の夜会でライバルたちの度肝を抜く未来しか見えていなかった。

 

「買おう! 言い値で買おう! ……素晴らしい、これこそ私が求めていた『神秘』だ!」

 

          ***

 

 男爵の屋敷を出た二人は、大通りを早足で歩いていた。  エデンの懐には、金貨五十枚分の小切手が入っている。

 

 路地裏に入り、人目がないことを確認してから、エデンは壁に背中を預けて大きく息を吐いた。

 

「……ふぅ。心臓が止まるかと思ったぞ」 「ふふふ……エデンの顔、引きつってたよ」

 

 セーラもまた、緊張を解いて肩の力を抜く。  エデンは彼女を見下ろし、ニヤリと笑った。

 

「お前、詐欺の才能があるな」 「……不本意な褒め言葉ね」 「『精霊の通り道』だの『迷宮結界』だの、よくもまぁ、あんな大嘘がスラスラ出てくるもんだ。……僕のシナリオにはなかったアドリブだぞ」

 

 エデンがからかうと、セーラは少しむっとして唇を尖らせた。

 

「……生きるためだよ。それに、エデンの嘘は詰めが甘いし」 「甘いだと?」 「うん。理屈っぽすぎる。……あの男爵みたいな人は、『原理』じゃなくて『恐怖』や『神秘』に弱いって、マナの色に出てたから」

 

 セーラの指摘は的確だった。  エデンは論理で人を騙そうとするが、人間は感情で動く。  セーラは「眼」で相手の感情(パラメータ)を読み取り、そこに最適な「物語」を流し込んだのだ。

 

「……完敗だ。君は優秀な共犯者だよ、セーラ」 「どうも。……で、これからどうするの? 大金持ちになったけど」

 

 セーラが小首を傾げる。  エデンは小切手を取り出し、太陽にかざした。

 

「決まっているだろう。この金で、まずは……」 「宿」

 

 エデンの言葉を遮り、セーラが食い気味に言った。  その瞳は、いつになく真剣で、鬼気迫るものがあった。

 

「え?」 「宿だよ、宿! それも最高級の!」 「いや、待て。ほら、お前もわかっただろ? 永久氷結箱は売れるって。だから、もう一つ作って……」 「却下! 絶対却下!」

 

 セーラはエデンの白衣の袖を強く引っ張った。

 

「三日だよ? 三日間も野宿でお風呂なし! 私の髪、もう限界! 服もなんか臭うし、肌もカサカサ! こんな以上になっちゃったら、宿だって門前払いされるよ!」 「いや、待て。過剰申告だ」

 

 エデンは冷静に首を振った。

 

「君からは特に不快な臭気係数は検出されていないぞ。そう思い込んでるだけなのでは?」 「え?」 「ほら、むしろ、森の植物由来の香りというか……」

 

 言いながら、エデンは確認のために無遠慮に顔を近づけ、クン、と鼻を鳴らした。

 

 バシッ!!

 

「……っぐ!」

 

 乾いた音が路地裏に響き、エデンは鼻を押さえてのけぞった。  セーラが、容赦のない平手打ちを見舞ったのだ。

 

「最低! ……乙女の匂いを勝手に嗅ごうとするなんて、最低だよ! それ以上近づいたら嚙みつくよ!?」 「なっ……!? 僕はただ、現状認識(ファクトチェック)をしようとだな……!」 「うるさい! エデンが臭くないって言っても、私が気持ち悪いの! 臭いものは臭いの!」

 

 セーラは真っ赤になって怒っている。  その剣幕に、エデンは「む……。それは確かに」と引き下がらざるを得なかった。  データがどうあれ、彼女のメンタルが限界を迎えているのは事実らしい。

 

「わかった、わかったから殴るな! ……そうだな、まずは身なりを整えるのが先決か」 「当たり前でしょ! お風呂! ふかふかのベッド! あと美味しいご飯!」

 

 セーラが指を折りながら要求を突きつけてくる。  その必死な様子に、エデンは苦笑した。  普段は冷徹な観測者である彼女も、今はただの「お風呂に入りたい女の子」だ。

 

「よし、承認する。……経費による福利厚生の充実だ」 「やった……!」 「この街で一番いい宿を探せ。金ならある。……今日は泥のように眠るぞ」

 

 エデンが宣言すると、セーラはパァっと顔を輝かせた。  その笑顔は、商談の時の演技でも、冷めた観察者の顔でもない、年相応の無邪気なものだった。

 

「案内する! あっちの通りに、すごく綺麗なマナが流れてる宿があったの!」 「おい、走るな! 僕の体力ゲージはもうゼロなんだぞ!」

 

 セーラに手を引かれ、エデンはよろめきながら走り出した。

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