灰色の科学者と金色の共犯者   作:AmberGlimmer

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月夜の懺悔

 王都シーラム、第一街区。  その一角に佇む高級宿『銀の匙亭』の最上階、特別室(スイート)。

 

 そこには、この世の楽園があった。  少なくとも、三日間、泥と埃にまみれ、硬い木の根を枕にして眠っていた剣崎エデンにとって、この空間は天国以外の何物でもなかった。

 

 深紅の絨毯が敷き詰められた床。  猫足の家具。  魔法照明の柔らかな光。  そして何より──部屋の中央に鎮座する、キングサイズの天蓋付きベッド。

 

「……重力が、仕事をしていない」

 

 エデンは、その巨大なベッドに大の字になって沈み込んでいた。

 

 最高級の羽毛布団。絹のシーツ。  身体が雲に吸い込まれるような感覚。  全身の筋肉が、喜びのあまり悲鳴を上げている。

 

「摩擦係数ほぼゼロ。反発係数最適化。……これは人をダメにする構造力学だ」

 

 エデンは天井を見上げながら、うわ言のように呟いた。

 

 風呂上がりだ。  一時間近く、熱い湯に浸かっていた。  備え付けの高級石鹸で、三日分の垢と屈辱を洗い流した。髪はサラサラになり、肌からはほのかにハーブの香りが漂っている。

 

 身体が鉛のように重い。  だが、それは不快な重さではない。極限まで張り詰めていた緊張の糸が切れ、強制シャットダウンへと移行する直前の、甘美な倦怠感だ。

 

(……生きてる)

 

 エデンは自分の手のひらを顔の前にかざした。  泥も、血もついていない。清潔な手だ。

 

 昨日の今頃は、まだ森の中で毒虫に怯えていた。  今日の昼間は、詐欺がバレる恐怖に震えていた。  それが今は、王侯貴族のような夜を過ごしている。

 

「人生のアップダウンが大きすぎる……。こんな毎日は心臓に悪い」

 

 エデンは大きく息を吐き、目を閉じた。  意識が、微睡みの海へと沈んでいく。

 

 もう何も考えたくない。  明日のこと──これからどうやってルキナを探すのか、この広い世界でどう立ち回るのか、そんな重いタスクは、全部明日の自分に丸投げだ。

 

 ──コン、コン。

 

 不意に、控えめなノックの音が静寂を破った。  エデンは弾かれたように目を開けた。  一気に警戒心が高まり、エデンは低い声で聞いた。

 

「……誰だ?」 「私」

 

 扉の向こうから、聞き慣れた、しかしどこか普段より少し高く響く声がした。  セーラだ。

 

「……鍵は開いてる。入れ」

 

 エデンが言うと同時に、重厚なオーク材の扉が音もなく開いた。  廊下の光が差し込み、逆光の中に一つの影が浮かび上がる。

 

 そして、扉が閉められ、その影が部屋の魔法照明の下へと歩み出てきた瞬間──。  エデンの呼吸が、止まった。

 

「……お風呂、すごかった」

 

 そこに立っていたのは、エデンの知る「薄汚れた浮浪児」ではなかった。  いや、知っているはずの少女なのに、まるで別人のような圧倒的な「質感(テクスチャ)」を持って、そこに存在していた。

 

 濡れたプラチナシルバーの髪。  泥と油で固まっていたその髪は、丁寧に洗われ、月光を織り込んだ絹糸のような輝きを取り戻していた。  いつもは顔を覆い隠している長い前髪も、今は濡れて左右に分けられている。  そのせいで、普段は隠されている端正な顔立ちと――隠され続けてきた金色の瞳が、無防備なほど露わになっていた。タオルで拭いたばかりなのだろう、毛先から一滴の雫が落ち、鎖骨のくぼみへと吸い込まれていく。

 

 肌は透き通るように白く、湯上がり特有の火照りが、頬と首筋に淡い桜色のグラデーションを描いている。

 

 着ているのは、宿が用意した清潔なネグリジェだ。  飾り気のない純白の生地だが、薄手のシルクは身体のラインを隠すにはあまりにも無防備で、ふわりと動くたびに、少女特有の華奢でありながら柔らかさを帯びた肢体を浮かび上がらせていた。

 

 ──美しい。

 

 エデンの脳内で、あらゆる言語化が停止し、その単語だけが弾き出された。  それは庇護欲をそそる可愛らしさではない。  触れれば壊れてしまいそうな硝子細工の繊細さと、夜の静寂を支配する女神のような神々しさが同居する、暴力的なまでの「美」だった。

 

 濡れた髪から漂う、甘い石鹸の香り。  少し恥ずかしそうに、しかし真っ直ぐにこちらを見つめる金色の瞳。  その破壊力(物理)は、エデンの貧弱な精神障壁を一撃で粉砕するのに十分すぎた。

 

「……セーラ」 「ん? なに、エデン。……ジロジロ見て」

 

 彼女は小首を傾げる。  その無防備な仕草すら、今のエデンには心臓へのクリティカルヒットだった。  エデンは、乾いた喉を鳴らし、呆然としたまま問いかけた。

 

「……君は、何歳だっけ?」

 

 間抜けな質問だった。  だが、確認せずにはいられなかった。  出会った時は、栄養失調とサイズの合わないボロ服のせいで、13歳か14歳くらいの子供だと思い込んでいた。  だが、目の前にいる存在は、どう見ても──。

 

「16だけど。……どうして?」

 

 セーラはキョトンとして、大きな瞳をパチクリとさせた。

 

 16歳。  エデンは心の中で頭を抱えた。  1つ下だ。ほぼ同い年じゃないか。  「子供だから」という言い訳で、三日間、並んで寝ることを正当化していた理屈の防壁が、ガラガラと崩れ落ちる音がした。

 

「……いや、なんでもない。……そうか、16か。……そうだよな」

 

 エデンは動揺を隠すために、わざと視線を天井へと逃がした。  心拍数が上昇している。冷や汗が出そうだ。  (落ち着け。相手は従業員だ。ただの観測装置だ)

 

 セーラは裸足でふかふかの絨毯を踏みしめ、ペタペタとベッドの方へ近づいてくる。

 

「エデン」 「な、なんだ。……もう寝る時間だぞ。明日に備えて……」 「ここ、座っていい?」 「は?」

 

 エデンが起き上がろうとするより早く、セーラはベッドの縁に手をかけた。  そして、エデンの身体を──正確には、布団の上からエデンの足を──グイッと奥の方へ押しやった。

 

「ちょ、おい! 君の部屋は隣だろう! ここは僕の……」 「いいじゃん、減るもんじゃないし。……このベッド、無駄に広いんだから」

 

 セーラは悪びれもせず、エデンを追いやったスペースにちょこんと腰掛けた。  ベッドのスプリングが沈む。  距離が、近い。  彼女の体温と、石鹸の香りが、エデンの鼻腔をくすぐる。

 

 エデンは背中をヘッドボードに押し付け、布団を盾にするように抱え込んだ。

 

「……福利厚生の範囲外だぞ、これは」 「すぐ帰るから。ちょっとだけ」

 

 セーラは膝を抱え、少しだけ俯いた。  濡れた銀髪が、カーテンのように彼女の横顔を隠す。  その表情は、先ほどまでの無邪気なものではなく、どこか深刻な、夜の静けさに似た色を帯びていた。

 

 しばらくの沈黙。  聞こえるのは、遠くの通りのざわめきと、二人の呼吸音だけ。

 

「……ねえ、エデン」

 

 やがて、セーラが口を開いた。

 

「これから、どうするの?」 「どうする、とは?」 「お金は手に入った。……当分は暮らせるくらいの大金。だから……その先の話」

 

 セーラは顔を上げ、その金色の魔眼でエデンを見据えた。

 

「エデンは、何のためにこんなことしてるの? ただ生き延びるためだけなら、これで終わりにしていいはず。だけど……キミは次を考えている」 「…………」 「何があるの? この街に」

 

 真っ直ぐな問いかけだった。  嘘を見抜く眼を持つ彼女に対して、適当な誤魔化しは通用しない。  エデンは溜息をつき、枕元のサイドテーブルに置いてあったハーブティーを一口飲んだ。すでに冷めたそれをゆっくり飲みこむと、エデンは口を開いた。

 

「……探しているんだ」

 

 エデンが絞り出した言葉は、高級宿の分厚い絨毯に吸い込まれ、消え入りそうに響いた。

 

「探し物?」 「いや。……人だ」

 

 エデンは、セーラの金色の瞳から逃げるように、天井の一点を見つめた。  そこには豪奢なシャンデリアの装飾があるだけだ。だが、エデンの網膜には、そこにあるはずのない別の映像が──焼き付いて離れない「過去の残像」が、ノイズのように明滅していた。

 

「網画(あみガ)ルキナ。……僕の、幼馴染だ」

 

 その名前を口にするだけで、胸の奥に埋め込まれた棘が暴れだす。  チクリ、なんてものではない。心臓を直接鷲掴みにされ、雑巾のように絞り上げられるような、鈍く重い激痛。  罪悪感。後悔。そして、焦燥。  それらが黒いタールとなって、エデンの思考回路を塗りつぶしていく。

 

「僕たちは二人で、ここではない場所……『日本』という世界から、この異世界に飛ばされた」 「二ホン? 外国、ってこと?」 「いや……そうだな。そう、外国だ。とても遠い、外国だ。そこから、ここへ、来てしまったということだ」

 

 エデンは乾いた唇を舐めた。  異世界転移。ファンタジー小説なら冒険の始まりだが、自分にとっては遭難事故の報告書だ。  いや、正確じゃない。  事故じゃない。あれは人災だ。

 

 エデンは自分の膝の上で、拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、微かな痛みが走る。その痛みだけが、彼を現実に繋ぎ止めるアンカーだった。

 

「僕が余計なことをしたせいで……僕が、彼女を巻き込んだんだ」 「……余計なこと?」 「ハッタリだよ。……ただの、くだらない虚勢だ」

 

 エデンは自嘲気味に笑った。その笑顔は、泣き顔よりもずっと歪で、痛々しかった。

 

「あの時、僕たちはある遺跡──いや、未知の空間に迷い込んだ。そこで『何か』が問いかけてきたんだ。『汝、この世界の理(ことわり)を解するか』と」

 

 神か、上位存在か、あるいは高度なシステム管理者か。  圧倒的な光の中で問われたその質問に、本来なら「いいえ」と答えるべきだった。あるいは、隣にいた天才科学者であるルキナに判断を委ねるべきだった。

 

 だが、あの頃のエデンは愚かだった。  好きな女の子の前で、無知な自分を晒したくなかった。  ただカッコつけたかった。  自分は特別なんだと、彼女と対等な場所にいるんだと、証明したかった。

 

「僕は震える足で踏ん張って、知ったかぶりをした。『当然だ』って嘘をついた。……そして、目の前に現れた『承認』のスイッチを、意味もわからず押したんだ」

 

 それが、破滅のトリガーだった。  世界が反転する感覚。重力が消失し、視界がデータと光の奔流に飲み込まれる恐怖。

 

「エラーが起きた。……僕の魂なんかじゃ、その『理』を受け止めきれなかったのか、そもそも、そうなるような仕組みなのか知らないが……システムが暴走して、僕たちは次元の狭間に、その外国から危険場所をつなぐ落とし穴に、放り出されそうになった」

 

 エデンの声が微かに震え始める。  思い出すのは、その瞬間の光景だ。  警報音のような耳鳴りの中で、ルキナだけが冷静だった。  彼女は即座に状況を理解し、そして──動いた。

 

「転移の瞬間、ルキナは僕を突き飛ばしたんだ」

 

 ドンッ、という衝撃が、今も背中に残っている。  彼女の細い腕から繰り出された、渾身の突き飛ばし。

 

「彼女は何かを叫んでいた。『バカ!』だったか、『生きて』だったか……あるいは、僕を罵倒していたのかもしれない。……わからない。音は光に掻き消された」

 

 エデンは顔を覆った。指の隙間から、天井の光が滲んで見える。

 

「彼女は、自分だけが崩壊する場所に残って……僕だけを、安全な座標(ここ)へと弾き出したんだ」

 

 気がついたら、エデンはあの断崖のボロ小屋にいた。  静寂だけがあった。  隣にいるはずの少女の姿は、どこにもなかった。  残っていたのは、自分の無力さと、彼女の犠牲によって得られた「生」だけ。

 

「気が狂いそうだったよ。……いや、半分狂ってたのかもしれない。僕だけが助かって、彼女だけが行方不明だ」

 

 エデンは自分の頭を指先でコンコンと叩いた。

 

「そして、皮肉なことに……僕の脳内には、『全知全能のカケラ』が埋め込まれていた。君が見た僕の力は、全部こいつのおかげだ」

 

 物理法則を検索し、あらゆる科学知識を引き出す、神の権能の一部。  だが、エデンはそれを誇るどころか、汚らわしいものを見るように吐き捨てた。

 

「こんな力、凡人の僕が扱えるはずがないんだ。……本来なら、天才だったルキナが受け取るべきものだった。あるいは、彼女が持っていた知識そのものが、カケラとなって僕の中に残っただけなのかも」

 

 エデンは深く息を吐き、セーラを見た。  彼女は黙って聞いていた。  相槌も打たず、慰めの言葉も挟まず、ただその金色の瞳で、エデンの魂から滴り落ちる汚泥のような懺悔を、一滴残らず受け止めていた。

 

「僕は泥棒だ。……彼女の人生を奪い、彼女の才能を奪って、のうのうと生き延びている、ただの嘘吐きだ」

 

 それが、剣崎エデンの正体だ。  天才魔導エンジニアでも、英雄でもない。  ただの、罪人。

 

「だから、探さなきゃいけない」

 

 エデンは顔を上げ、濡れた瞳に決意の光を灯した。  それは希望というよりも、執念に近い、暗く燃える炎だった。

 

「彼女を見つけ出して、土下座して謝って……そして、このふざけた力を全部返して、彼女を元の世界に帰す。……それが、僕に残された唯一の贖罪だ」

 

 部屋に、重い沈黙が落ちた。  遠くで時計台の鐘が鳴る音が聞こえる。  エデンは全てを吐き出し、空っぽになったような虚脱感の中で、セーラの反応を待った。

 

 軽蔑されるだろうか。呆れられるだろうか。あるいは、頭がおかしいと思われるのだろうか。  でも、それでも構わないと思った。彼女には、嘘をつきたくなかったから。

 

「……エデンは? エデンは帰らないの?」 「僕は……」

 

 エデンは言葉を詰まらせた。  自分に帰る資格があるのか。  あるいは、ルキナを帰すための代償として、自分がこの世界に残る必要があるのではないか。  そんな予感が、ずっと彼の背中に張り付いている。

 

「……わからない。だが、まずは彼女を見つけることだ。王都シーラムは大陸の中心だ。情報も、物資も、人も集まる。彼女がこの世界のどこかにいるなら、何かしらの痕跡がここに集まってくるはずだ」

 

 エデンは視線を彷徨わせた。  具体的なアテはない。  国王に頼み込むべきか、魔術学校とやらへ行くべきか、裏社会で情報を買うべきか、あるいは……。  まだ、道は見えていない。

 

「……正直、何の手掛かりも、何の計画もない。ただ、ここにいれば何かが掴める確率が一番高い。そう信じている。……それだけだ」

 

 エデンは肩をすくめ、話を強引にまとめた。  これ以上、自分の無計画さと内面をさらけ出すしたくない。  彼は視線をセーラに戻し、努めて明るい調子で言った。

 

「僕の話は終わりだ。……で、君はどうするんだ、セーラ」 「私?」 「ああ。当面の生活費は稼いだ。君の取り分も渡す。……この街で暮らすなり、どこか別の国へ行くなり、好きにすればいい」

 

 それは、本心であり、嘘でもあった。  彼女の「眼」は必要だ。失いたくない。  同時に、自分の贖罪の旅に、これ以上この少女を巻き込んでいいのかという迷いもあった。  彼女はもう、十分に傷ついている。平穏な暮らしを送る権利があるはずだ。

 

 だが、セーラはきょとんとして、それから少し不満そうに眉をひそめた。

 

「……解雇通知?」 「違う。……選択肢の提示だ」 「ふーん」

 

 セーラはベッドの上で膝を抱え直し、じっと自分の足先を見つめた。  そして、唐突に顔を上げた。

 

「ねえ、エデン」 「なんだ」 「……私の眼、どう思う?」

 

 彼女は自分の左目を、細い指先で指し示した。  金色の眼。  輝くような瞳を開き、瞬きもせず、セーラは試すような目つきで、エデンを見ている。  その奥にある思惑も、感情も、見通すことはできない。  だから、エデンは、自分が思ったことを、そのまま口にした。

 

「……綺麗だ」

 

 ぽつりと、その言葉が落ちた。

 

「え……」 「宝石みたいだ、とか、そういう陳腐な比喩は嫌いだが……。とても美しいと思う。物理的には、光の屈折率が素晴らしい。それに……」

 

 エデンは少し照れくさくなって、鼻の頭を指でかいた。

 

「君がその眼で世界を見ている時、君は迷っていない。……その凛とした眼差しは、僕は嫌いじゃない」

 

 静寂。  部屋の空気が、一瞬で色を変えたような気がした。

 

 セーラは瞬きもせず、固まっていた。  やがて、その白い頬が、耳まで一気に赤く染まっていく。

 

「…………っ」

 

 彼女はバッと顔を背け、膝に顔を埋めた。  濡れた銀髪の隙間から、赤い耳だけが見えている。

 

「……ずるい」 「は?」 「そういうの……ほんと、ずるい。……計算なの? 天然なの?」 「心外だな。僕は事実を述べただけだ」 「うっさい……!」

 

 セーラはくぐもった声で悪態をついた。  しばらくモゾモゾとしていたが、やがて意を決したように顔を上げた。  その瞳は、まだ少し潤んでいるが、先ほどまでの迷いは消えていた。

 

「……わかった」 「何がだ?」 「決めた。……私、ついていく」 「……いいのか? 僕の旅は、多分、ろくなことにならないぞ。危険だし、非効率だし、今日みたいに野宿もするだろうし」 「いいの」

 

 セーラはきっぱりと言い切った。

 

「エデンの願いが叶うように、私が協力してあげる。……エデンは何も見えていないし、嘘つくの下手だし、放っておいたらすぐ死んじゃいそうだから」 「……言い過ぎじゃないか?」 「事実でしょ?」

 

 セーラはふふっと笑った。  それは、昼間の商談で見せた演技の笑顔でも、村で見せた諦めの笑顔でもない。  年相応の、悪戯っぽくて、とびきり可愛い笑顔だった。

 

「それに……」 「それに?」 「私、社員だし。……『エデン・ワークス』の」

 

 セーラは胸を張って言った。

 

「社長の夢を叶えるのは、優秀な社員の務めでしょ? ……その代わり」 「その代わり?」 「ボーナスは弾んでよね。……あと、お風呂付きの宿も、定期的に」

 

 エデンは呆気にとられ、そして──吹き出した。

 

「くっ……、ははは!」 「な、何がおかしいのよ!」 「いや……確かにそうだ。君は我が社の貴重な人材だ。手放すのは損失だな」

 

 エデンは笑いながら、セーラに手を差し出した。  握手の手だ。

 

「よろしく頼む、セーラ。……僕の眼になってくれ」 「うん。……任せて、エデン」

 

 セーラはその手を握り返した。  湯上がりの手のひらは温かく、そして力強かった。

 

「……じゃ、おやすみ」

 

 セーラは手を離すと、身軽な動作でベッドから降りた。  そして、扉の前で振り返り、悪戯っぽくウィンクをした。

 

「あ、そうだ。……さっきの『綺麗』ってやつ。また、言ってね」 「なっ……! わ、忘れてくれ! あれは失言だ! データの削除を要求する!」 「やーだねー。……おやすみ、社長さん」

 

 バタン。  扉が閉まる。  部屋に残されたのは、赤面して固まるエデンと、微かに残る石鹸の香りだけ。

 

「……勝てない」

 

 エデンは枕に顔を埋めた。  脳内シミュレーターが、これからの旅の難易度を再計算している。  魔物や貴族よりも、あの16歳の少女との距離感の方が、よほど難解で攻略困難なクエストになりそうだ。

 

 だが、不思議と不安はなかった。  一人ではない。  その事実が、最高級の羽毛布団よりも温かく、エデンの心を包み込んでいた。

 

 窓の外では、大きな満月が王都の夜を照らしていた。  それはまるで、これから始まる二人の、長く険しい、けれどきっと退屈しない旅路を祝福しているかのようだった。

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