王都シーラムの裏路地、そのまた奥深く。
陽の光すらも忌避するような薄暗い地下室に、紫煙とインクの混じった独特の臭気が充満していた。
「……で? こいつが注文の品か?」
剣崎エデンは、カウンターに置かれた一枚の羊皮紙を手に取り、目を細めた。
そこには、精巧な偽造印章と共に、彼の新しい経歴が記されていた。
『氏名:エデン・フォン・ノイマン』
『年齢:25歳』
『出身:北方諸国連合・自由都市同盟』
『専攻:理論魔導物理学(未認可学問)』
『前職:フリーランスの魔導コンサルタント』
「悪くない出来だ。……紙の質感も、インクの経年劣化具合も完璧だ」
エデンが白衣のポケットからルーペを取り出し、ジロジロと鑑定する様子を、カウンターの向こうの男――闇ギルド『隻眼の鴉』の偽造師が、呆れたように見ていた。
「へっ、当たり前だ。俺の腕を疑うなよ。王家の紋章だって再現してみせるさ」
男は汚れた歯を見せて笑い、エデンが積んだ金貨の山を素早く懐に入れた。
「だがな、旦那。忠告しといてやるが……その身分証で『王立魔術学園』の門をくぐるのは、自殺行為だぜ?」
男の声が、急に低く、湿り気を帯びたものに変わる。
「あそこは伏魔殿だ。国中のマナの化け物が集まる場所だ。……あんたみたいにマナの匂いがしねぇ『空っぽ』な人間が近づけば、一瞬で圧し潰されるか、あるいは正体を見破られて地下牢行きだ」
脅しではない。純粋な警告だった。
この世界において、マナを持たない人間は「欠陥品」として扱われる。ましてや、エリートの巣窟である王立魔術学園において、魔力なき教師など前代未聞だ。
だが、エデンは鼻で笑い、偽造された履歴書を丁寧に鞄にしまった。
「ご心配には及ばない。……僕は自殺志願者ではないし、無謀な賭けをするつもりもない」
エデンは白衣の襟を正し、ニヤリと笑った。
「僕はただ、計算に基づいた『現地調査』に行くだけだ。……リスク管理は万全に行うさ」
「……ふん、好きにしな。死んでも文句言うなよ」
男は興味を失ったように手を振った。
エデンは地下室を後にする。
地上への階段を上りながら、彼は胸ポケットに入れたもう一枚の書類に触れた。
それは、数日かけて書き上げた、彼の「武器」だ。
[cite_start] 『マナ非依存型熱力学および運動エネルギー保存則に関する統一理論』[cite: 6]。
要するに、高校物理の教科書を、この世界向けにそれっぽく翻訳しただけの論文だ。
だが、この紙束こそが、魔力を持たない彼が魔術の殿堂に切り込むための、唯一の「剣」となるはずだった。
***
拠点である『エデン・ワークス』に戻ると、そこには奇妙な光景が広がっていた。
「……おい、セーラ。それはなんだ」
エデンは入り口で立ち止まり、思わず眉をひそめた。
店の奥、姿見の前でポーズをとっている少女――セーラ=クローム。
彼女が着ているのは、古着屋で買ったブレザーとスカートを改造し、それらしく仕立て直した「受験用の勝負服」だった。
深紅の生地は丁寧にプレスされ、胸元にはエデンが夜なべして刺繍した「名家っぽい紋章(架空)」のワッペンが輝いている。
一見すれば、地方貴族の令嬢が着ていてもおかしくない、清楚で品のある装いだ。
「なにって、衣装合わせだけど。……似合わない?」
セーラが振り返る。
その顔には、いつもの薄いブルーのサングラスがかけられていた。
王都の下町では「最新のファッション」として通っているが、格式高い王立魔術学園の試験にサングラス着用で挑むというのは、いささか攻めすぎな気もする。
「いや、服は完璧だ。良家の子女に見える。……だが、そのサングラスはどうにかならんのか? 面接官に『ふざけてるのか』と怒られる未来が見えるぞ」
エデンが指摘すると、セーラはサングラスのブリッジをくいっと持ち上げた。
「……だめ。これがないと、目が焼ける」
セーラは頑なに首を振った。
学園はマナ濃度が高い。彼女の敏感すぎる「魔眼」を保護するためには、フィルターが必要だという。
「……それに、エデンだって言ったじゃん。『眼精疲労対策は重要だ』って」
セーラは口を尖らせ、エデンの言葉を盾にした。
「ぐっ……まあ、確かに言ったが……」
エデンは言葉に詰まった。
彼もまた、セーラの「眼」が特殊なものであることは理解している。過度な光やマナの奔流が、彼女の神経に負担をかけるのだろうと推測していた。
「……まあいい。そこは『光過敏症』という設定で押し通そう。診断書も偽造しておく」
エデンはため息をつき、許可を出した。
「ただし、面接官の前で外せと強く言われたら、大人しく従うんだぞ。……心証が悪くなるからな」
「……頑張る」
セーラは曖昧に答え、スカートの裾を摘んでくるりと回ってみせた。
「で、エデン。……私の設定は?」
「ああ、完璧に仕上げてある」
エデンは鞄からもう一枚の書類を取り出した。
『氏名:セーラ・クローム』
『年齢:16歳』
『出身:地方の寒村(詳細は火災により記録消失)』
『特待生枠志願』
『保護者:エデン・フォン・ノイマン(叔父)』
「叔父?」
セーラがサングラス越しに嫌そうな顔をする。
「私が姪? ……何でそうなるの?」
「誰が老け顔だ! これはカモフラージュだ! 兄妹設定だと、僕の年齢設定の25歳と微妙に合わないし、親子だと若すぎる。消去法で叔父と姪が一番自然なんだ」
エデンは力説する。
「いいかセーラ。学園に入ったら、僕たちは赤の他人ではないが、ベタベタする関係でもない。あくまで『保護者と生徒』の距離感を保つんだ。ボロを出さないためにな」
「はいはい。……わかったよ、おじさん」
「おじさん言うな!」
軽口を叩き合いながらも、二人の間には心地よい緊張感が漂っていた。
これは遊びではない。
ルキナの痕跡を追うための、命がけの潜入任務だ。
「準備はいいか、セーラ。……明日が本番だ」
「うん。……任せて、エデン」
セーラはサングラスの奥で、微かに笑ったようだった。
その夜、エデンは遅くまで論文の最終チェックを行い、セーラは鏡の前で「普通の生徒」に見える立ち居振る舞いを練習し続けた。
***
翌朝。王立魔術学園の正門前。
そこは、圧倒的な「格差」の見本市だった。
「うわぁ……」
エデンは門の前に立ち、思わず呻き声を上げた。胃の腑が裏返りそうだ。
高さ二十メートルはある巨大な鉄門。その左右には、マナを動力源とするゴーレムの守衛が立っている。
そして、門をくぐっていく受験生たちの姿。
彼らが乗ってくるのは、豪華絢爛な馬車や、あるいは浮遊魔法で浮かぶ駕籠(かご)だ。
身にまとっているのは、最高級のシルクや魔導繊維で織られたローブ。
そして何より――彼らの全身から立ち上る、濃密なマナのオーラ。
(……酸素濃度低下。マナ濃度、致死レベル。……ここは毒ガス室か?)
エデンは白衣の袖で口元を覆い、必死に吐き気を堪えた。
「マナ盲」である彼にとって、高密度のマナ環境は、放射能汚染されたエリアに生身で放り込まれるようなものだ。
皮膚がチリチリと焼けつくように痛い。平衡感覚が狂い、地面が斜めに見える。
「……大丈夫? エデン」
隣を歩くセーラが、心配そうにエデンの袖を引く。
彼女はサングラスをしているおかげか、涼しい顔をしている。
「問題ない。……これは高地トレーニングのようなものだ。……肺活量が鍛えられる」
エデンは青白い顔で強がりを言い、震える足を踏み出した。
「行くぞ。……舐められたら終わりだ。胸を張れ」
「エデンこそ、猫背になってるよ」
セーラがエデンの背中をつつき、エデンの背筋がすっと伸びる。
二人は人波に逆らうように、校門をくぐった。
周囲の視線が突き刺さる。
「おい、見ろよあいつら」
「徒歩で来たのか? 平民か?」
「あの男、マナを感じないぞ。……使用人か?」
「女の方、なんだあの眼鏡。……色付き眼鏡なんて、遊びに来てるのか?」
クスクスという嘲笑。あからさまな侮蔑の視線。
貴族の子弟たちにとって、マナを持たない者や、TPOをわきまえない者は、同じ人間とは認識されない。
セーラのサングラスも「生意気な平民のファッション」として映っているようだ。
エデンはそれらを全て「環境ノイズ」として脳内で処理(ミュート)し、受付へと向かった。
[cite_start]「教師採用試験の面接に来た、エデン・フォン・ノイマンだ。……こちらは入学試験のセーラ・クローム」[cite: 7]
受付の事務官は、エデンの差し出した書類と、彼らの身なりを交互に見て、あからさまに嫌な顔をした。
「……予約は確認できていますが。……本当に受けるのですか? その……魔力測定の結果も提出されていませんが」
「必要ない。私の専攻は物理学だ。魔力はあってもなくても関係ない」
エデンがきっぱりと言い放つと、事務官は「はぁ……物好きもいたものだ」と小声で呟き、通行証を投げ渡した。
「生徒の試験会場は右の講堂。教師の面接室は中央塔の最上階です。……遅刻なさらぬように」
ここで、二人は別行動になる。
「……セーラ」
エデンは立ち止まり、セーラに向き直った。
「無理はするな。……もしマナ酔いが酷くなったら、すぐに棄権しろ。僕の面接がどうなろうと、君の安全が最優先だ」
エデンは本気で言っていた。
セーラは「眼」を酷使すると、マナの影響を受けやすい。こんな高濃度の環境で、彼女が耐えられるか不安だった。
だが、セーラはサングラスの奥で、力強く頷いた。
「平気。……私、これでも鍛えられてるから」
彼女は小さな拳を握ってみせる。
「エデンこそ、吐かないでね。……面接官にゲロ吐いたら、伝説になっちゃうよ」
「……善処する」
二人は拳を軽くぶつけ合い、それぞれの戦場へと向かった。
***
エデンは地獄の釜の底にいた。
中央塔の最上階。重厚な扉の向こうにある面接室は、物理的にも心理的にも圧迫感のある空間だった。
窓はなく、壁一面に歴代の学園長の肖像画が飾られている。
部屋の中央には長い机があり、その向こうに三人の面接官が座っていた。
両脇の二人は、疲れ切った初老の教授たち。
そして中央に、その男はいた。
ギデオン・バルバロス教頭。
禿げ上がった頭、鷲鼻、そして神経質そうな薄い唇。彼がまとっているローブは深紅で、胸には無数の勲章がジャラジャラとついている。
彼から発せられるマナの圧力は、部屋の空気を歪めるほどだった。
「……入りたまえ」
エデンは深呼吸し、マナ酔いの吐き気を胃の底に押し込んで、入室した。
「失礼します。エデン・フォン・ノイマンです」
一礼し、用意された椅子に座る。
ギデオンは手元の書類――エデンが偽造した履歴書と、自作の論文――をパラパラとめくった。
その指先は、汚いものを扱うように軽蔑に満ちている。
「……ノイマン君、だったかね」
ギデオンが、鼻にかかった不快な声で言った。
「君の経歴……『自由都市同盟』の出身? 聞いたことのない名前だ。どこの田舎だ?」
「北方の小規模な都市国家群です。……学術研究に特化した、閉鎖的なコミュニティでして」
エデンはスラスラと嘘をつく。設定は完璧に頭に入っている。
「ふん。……で、専攻が『理論魔導物理学』? なんだそれは。魔法学の亜種か?」
「いえ。魔法(マナ)に依存せず、自然界の法則のみで現象を解明・制御する学問です」
「マナに依存しない?」
ギデオンの手が止まった。
彼は顔を上げ、エデンを睨みつけた。
その目には、明確な敵意が宿っている。
「……君、自分が何を言っているのかわかっているのかね?」
ギデオンは論文の束を机に叩きつけた。
「この世界はマナでできている! 神の恵みたるマナなくして、火も水も風も生まれない! それを『依存しない』だと? ……これは学問ではない。ただの冒涜だ!」
唾を飛ばしての激昂。
強い言葉と態度で非論理的なことを主張するギデオンに、エデンはムカッとして反論しかけて――。
『理屈っぽすぎるよ、エデン』
ふと、セーラの顔が浮かんだ。
(『原理』じゃなくて『恐怖』や『神秘』に弱いタイプかもしれない、か)
エデンは感情を抑え込み、教頭の怒りを分析する。
(そうだ。……ガリレオもコペルニクスも、きっと、こうやって怒鳴られたんだろう)
彼は怒っているのではない。「恐れて」いるのだ。自分の理解できない概念、自分の権威を脅かすかもしれない異物を、本能的に排除しようとしているだけだ。
「教頭先生。……冒涜ではありません。これは『拡張』です」
エデンは静かに反論した。
「マナは確かに偉大です。ですが、マナが枯渇した環境下では? あるいは、アンチマジックフィールド内では? ……私の理論は、そうした極限状況でも生存・活動するための技術なのです」
「黙れ!」
ギデオンが立ち上がった。
彼の指先から、バチバチと火花のようなマナが迸る。
「屁理屈をこねるな! ……そもそも、君からはマナの匂いが微塵もしない! 魔力ゼロの『空っぽ』が、王立魔術学園の教師になろうなどと……片腹痛いわ!」
ギデオンはエデンを指差した。
「帰れ! 薄汚い詐欺師め! 二度とこの神聖な学び舎の敷居を跨ぐな!」
決定的な拒絶。
両脇の教授たちも、「やれやれ」といった顔でエデンを見ている。
ここで引き下がれば、全ては終わりだ。
ルキナの手がかりも、地下迷宮への道も閉ざされる。
(……さて、ここからが交渉の時間だ)
エデンは心の中でニヤリと笑った。
彼は立ち上がらなかった。
代わりに、白衣のポケットから、一つの小瓶を取り出した。
中には、透明な液体が入っている。
「……なんだそれは。毒でも飲むつもりか?」
ギデオンが警戒して眉をひそめる。
「いいえ。……これはただの水です」
エデンは瓶の蓋を開け、机の上にこぼした。
そして、もう一つのポケットから、小さな金属片を取り出した。
「教頭。あなたは言いましたね。『マナなくして火は生まれない』と」
「当然だ! 発火の詠唱もなしに、火など……」
「では、賭けましょう」
エデンは金属片を指で摘まみ、ギデオンに見せつけた。
「私が、詠唱もマナも使わず、この水から『爆炎』を生み出したら……私の話を聞いていただけますか?」
「は? ……馬鹿な。そんなこと……」
「イエスかノーか。……教育者なら、未知の可能性を否定せず、公平に判断すべきでは?」
挑発。
ギデオンのプライドを刺激する。
彼は顔を真っ赤にして、吼えた。
「いいだろう! やってみろ! もしできなければ、不敬罪で衛兵に突き出してやる!」
「交渉成立だ」
エデンは金属片を、水たまりへと放り投げた。
ポチャン。
軽い音と共に、金属片が水に触れる。
その瞬間――
化学反応が起きた。
ナトリウムと水が激しく反応し、水素ガスが発生する。そして反応熱によって水素が引火し――
ドォン!!
爆発音と共に、オレンジ色の炎が舞い上がった。
それは魔法のような優雅な炎ではない。暴力的で、不規則で、科学的な爆発だ。
「なっ……!?」
ギデオンがのけぞり、椅子ごと後ろにひっくり返りそうになった。
両脇の教授たちも、目を剥いて立ち上がる。
「ひ、火が……!? 詠唱もなしに!?」
「マナの光も見えなかったぞ! ……なんだ、今の現象は!?」
煙が漂う中、エデンは涼しい顔で(内心ではビビりながら)ハンカチで机を拭いた。
「これが化学です。……マナではなく、物質の性質を利用した発火現象。私の専門分野の一つに過ぎません」
静寂。
ギデオンは口をパクパクさせ、顔を青くしたり赤くしたりしている。
[cite_start] 彼は認めたくない。マナを持たない若造に、自分の常識を覆されたことを。[cite: 8]
だが、目の前で起きた現象を否定することもできない。
「……ぐ、ぐぬぬ……」
ギデオンは歯ぎしりをした。
ここでエデンを追い出せば、「未知の魔法(に見えるもの)」の秘密を知る機会を失う。それは魔術師としての探究心に反する。
だが、こんな生意気な男を認めるわけにはいかない。
その時、ギデオンの脳裏に、ある「厄介事」が浮かんだ。
学園の恥部。
誰も担任を引き受けたがらない、落ちこぼれと問題児の掃き溜め。
――Fクラス。
ギデオンの口元が、歪な笑みの形に吊り上がった。
「……よかろう。ノイマン君」
ギデオンは立ち上がり、埃を払った。
その目は、先ほどまでの激昂から一転、陰湿な光を宿していた。
「君のその……大道芸のような技術、少しは興味深い。だが、教師としての適性があるかは別問題だ」
「ごもっともです」
「そこでだ。……君に『試用期間』を与えよう」
ギデオンは机の引き出しから、一枚の辞令書を取り出し、乱暴にサインをした。
「君を特別講師として採用する。……担当クラスは『1年F組』だ」
両脇の教授たちが、息を呑んだ。
「き、教頭! F組など……あそこは教師の墓場ですよ!」
「殺されますぞ! 先月も担任が三人辞めたばかりだ!」
ギデオンはそれを手で制し、意地の悪い笑みをエデンに向けた。
「どうだね? Fクラスの担任を全うできれば、正式採用を考えてやらんでもない。……まあ、君のような『空っぽ』に、あの猛獣どもが従うとは思えんがね」
これは罠だ。
Fクラスに放り込み、生徒たちにボロボロにされて、泣いて逃げ出すのを待つという算段だ。
エデンもそれを察知した。
(Fクラス……。学園漫画でお約束の展開だな。……望むところだ)
正規のルートで潜り込めるなら、泥沼だろうが掃き溜めだろうが構わない。
むしろ、エリートクラスよりも、落ちこぼれクラスの方が、学園の「裏側(地下)」にアクセスしやすいかもしれない。
エデンは辞令書を受け取り、恭しく一礼した。
「謹んでお受けします、教頭先生。……その『猛獣』たちに、新しい芸を仕込んでみせましょう」
「ふん。……口だけは達者だな」
ギデオンは鼻を鳴らし、背を向けた。
「下がっていい。……明日の朝、教員室に来い。地獄への片道切符を渡してやる」
部屋を出たエデンは、廊下で大きく息を吐き、壁に背中を預けて崩れ落ちた。
「……はぁぁぁ……死ぬかと思った……」
手足が震えている。冷や汗でシャツがぐっしょりと濡れている。
ナトリウム爆破の時、実は分量を間違えて、想定より大きな爆発になっていたのだ。もう少しで自分の前髪が燃えるところだった。
「……だが、通った。……第一関門突破だ」
エデンは震える手で、辞令書を握りしめた。
『1年F組 担任 エデン・フォン・ノイマン』
その文字が、地下迷宮への通行手形に見えた。
***
講堂は、数百人の受験生で埋め尽くされていた。
熱気が凄い。
誰もが必死だ。王立魔術学園に入学することは、将来の栄達を約束されたも同然。貴族たちは家の名誉をかけ、平民たちは成り上がりを夢見て、殺気立っている。
セーラは会場の隅、一番後ろの席に座り、深く息を吸った。
(……臭い)
マナの臭いではない。
欲望の臭いだ。
「合格したい」「あいつより良い点を」「失敗したら親に殺される」
具体的な欲望まで読むことはできない。だが、薄いブルーのサングラス越しに見える世界は、彼らの欲望でどす黒く濁っている。
セーラにとって、この「見えすぎる眼」は呪い以外の何物でもなかった。
人の嘘がわかる。悪意がわかる。
だからこそ、彼女はずっと一人だった。誰も信じられなかった。
――エデンに出会うまでは。
(……エデンは、違う)
あの詐欺師の男。
口を開けば嘘ばかり。ハッタリと虚勢で生きている、どうしようもないペテン師。
けれど、彼の嘘には「色」がない。
誰かを傷つけるための濁った色ではなく、ただ生き残るための、必死で、透明で、どこか悲しい色。
そして何より――彼は、セーラの眼を「綺麗だ」と言った。
初めてだった。
眼を、必要だと言ってくれた。
(……受かる)
セーラはスカートの上で拳を握りしめた。
エデンが目的を果たすためには、私もここに潜り込まなきゃいけない。
足手まといにはならない。
私は、あの人の「眼」になると誓ったのだから。
「試験開始!」
試験官の合図と共に、筆記試験が始まった。
科目は『魔導理論』『魔法史』そして『一般教養(数学・自然科学)』。
セーラは迷わずページをめくり、後半の『一般教養』セクションに進んだ。
そこにあるのは、弾道計算や、魔力消費の効率計算の問題だ。
セーラはペンを走らせた。
解ける。スラスラと解ける。
エデンに教わった物理法則を使えば、複雑な魔法式など必要ない。最短ルートで「正解」が見える。
楽しい。
世界がクリアに見える。
マナを見る眼と、エデンの教え(ロジック)が組み合わさった時、彼女の中で「正解」が光って見えた。
だが、問題は次だった。
実技試験。
会場は屋外の演習場。
一人ずつ、水晶玉に手をかざし、魔力量を測定する。
「次、受験番号404番、セーラ・クローム!」
名前を呼ばれ、セーラは前に出た。
ざわめきが起こる。
「なんだあの格好」
「眼鏡? 遊び半分か?」
試験官も眉をひそめている。
「君、そのサングラスは……」
「……外せません」
セーラは小声で、しかし頑固に言い張った。
「光過敏症なので。……外すと、マナに酔って暴走します」
「暴走? ……ふん、大げさな」
試験官は不満げに鼻を鳴らしたが、水晶玉を指差した。
「まあいい。測定を始めろ」
セーラは恐る恐る、透明な水晶玉に手を触れた。自分の内側にあるマナをコントロールする。
水晶が、淡い青色に発光した。
「……ふむ。魔力量、平均よりやや上。まあ、悪くはない」
試験官が記録用紙にペンを走らせる。
セーラはほっと息をついた。
次は的当てだ。
動かない案山子を破壊すればよい、単純な実技。
魔法は使えないが、エデンに教わった通り、隠したギミックで石を発射し、乗り切るつもりだった。
だが――
[cite_start]「おい、ちょっと待て」[cite: 9]
背後から、傲慢な声がかかった。
振り返ると、そこには豪華なローブを着た少年が立っていた。金髪碧眼、取り巻きを引き連れた、いかにもな貴族の息子だ。
「なんだ、そのふざけた格好は。神聖な試験場にサングラスなど、不敬にも程があるぞ」
少年はセーラを見下し、ニヤリと笑った。
「平民が調子に乗るなよ。……顔を見せろ」
「やめて……」
セーラが後ずさる。
だが、少年は聞く耳を持たず、指先を振った。
「『風よ、暴け(ウィンド・ブラスト)』!」
無詠唱の風魔法。
本来なら、スカートをめくる程度の悪戯魔法だ。
だが、今のセーラにとっては致命的だった。
突風が、彼女の顔面を直撃した。
髪が舞い上がり、固定していたサングラスが宙を舞う。
「あ……」
時間が止まった。
白日の下に晒されたのは、隠し続けてきた少女の素顔。
整った、人形のような美貌。
そして……その中心で、太陽の光を浴びて輝く、二つの「金色」の瞳。
「ひッ……!?」
少年が、悲鳴を上げて尻餅をついた。
彼の顔から血の気が失せ、指差す手が小刻みに震えている。
「き、金色の……魔眼……!?」
その言葉は、まるで波紋のように会場全体に広がっていった。
ざわめきが、悲鳴に変わる。
「おい、嘘だろ……」
「あれは……伝説の『魔法殺しの呪い』の瞳だ!」
「目が合うと呪われるぞ! 石になるぞ!」
「殺せ! いや、捕らえろ! 衛兵!!」
生徒たちが逃げ惑い、試験官たちが杖を構える。
数百の視線が、恐怖と敵意に染まってセーラに突き刺さる。
「ち、ちがう……わたしは……!」
セーラは震える手で顔を覆おうとした。
だが、もう遅い。
世界が反転した。
エデンと過ごした温かい日々が嘘のように、彼女は再び、あの冷たく、残酷な「拒絶」の中心に立たされていた。
「確保しろ! 危険因子だ!」
「結界班、急げ! 魔女を封じ込めろ!」
衛兵たちの怒声が響く中、セーラはただ立ち尽くしていた。
逃げることも、弁明することもできず。
ただ、心の中で一つの言葉だけを繰り返していた。
(ごめんなさい、エデン。……ごめんなさい……)
***
数十分後。
学園の正門前には、放り出された二人の姿があった。
「……二度と来るな! この詐欺師め!」
衛兵が、エデンの荷物を地面に投げつける。
その中には、先ほどもらったばかりの「採用辞令書」も混じっていたが、それは無残にも破り捨てられていた。
「魔女を連れ込むなど、正気を疑う! 貴様らの名前はブラックリストに登録した! 国中の教育機関に手配してやるから覚悟しろ!」
鉄の扉が、重々しい音を立てて閉ざされた。
後には、乾いた風だけが残った。
「……」
エデンは無言で、散らばった荷物を拾い集めた。
破れた辞令書。
書き上げた論文。
全てがゴミになった。
ルキナの手がかりがある地下迷宮への道は、目の前で閉ざされたのだ。
「……エデン」
背後で、小さな声がした。
セーラだ。
彼女はサングラスをかけ直し、フードを目深に被っていたが、その肩が震えているのは隠せなかった。
「ごめんなさい……。私のせいで……」
消え入りそうな声。
彼女は知っている。エデンがどれだけ準備してきたか。どれだけのリスクを冒して、このチャンスを作ったか。
それを、自分の「眼」が全て台無しにしたのだ。
「…………」
エデンは振り返り、セーラを見た。
彼女は顔を上げようとしない。
エデンはため息をつき、乱暴に頭をかきむしった。
「……チッ、見る目のない連中だ」
吐き捨てた言葉は、セーラに向けたものではなかった。
「あんなレベルの低い試験官どもじゃ、君の才能は見抜けなくて当然だ。……それに、Fクラスなんてどうせロクな環境じゃない。ブラック職場を回避できてラッキーだったと思えばいい」
「……でも」
「帰るぞ、セーラ。……腹が減った」
エデンはセーラの言葉を遮り、スタスタと歩き出した。
強がりだ。
内心では、はらわたが煮えくり返るほど悔しいし、計画が白紙になって途方に暮れている。
だが、ここで彼女を責めて何になる?
彼女が一番傷ついていることは、その震える背中を見れば痛いほどわかった。
***
拠点である『エデン・ワークス』に戻ったのは、日が暮れてからだった。
店の中は静まり返っていた。
朝に出かける時は希望に満ちていた空気が、今は重苦しい沈黙に支配されている。
「……金貨が尽きたな」
エデンはカウンターで帳簿を開き、独り言のように呟いた。
偽造身分証に、セーラの衣装代、そして面接のための工作費。
手持ちの資金は底をついていた。
明日の食費すら怪しいレベルだ。
「……別の金策を練る必要がある。ルキナの件はいったん保留だ。まずは生存が優先だ」
エデンはセーラが心配しないよう、わざと明るく言ったつもりだった。
だが、その声には隠しきれない疲労と焦燥が滲んでいた。
店の奥、カーテンで仕切られた居住スペースで、セーラはその言葉を聞いていた。
膝を抱え、暗闇の中でうずくまる。
サングラスは外していたが、その金色の瞳には涙が溜まっていた。
(私のせいだ……)
エデンの計画を壊した。
エデンの財産を無駄にした。
そして何より――エデンの夢を、遠ざけてしまった。
『役立たず』
『疫病神』
村人たちの罵声が蘇る。
エデンは優しいから、私を責めない。
けれど、このままじゃ私は、ただのお荷物だ。彼に寄生して、彼の足を引っ張るだけの、呪われた存在だ。
「……エデン」
セーラは、カーテンの隙間からエデンの背中を見た。
彼は机に突っ伏して、疲れ果てて眠っていた。
[cite_start] その机の上には、学園の地図や、地下迷宮に関する資料が散乱している。[cite: 10]
その中の一枚。
エデンがメモ書きした、「欲しいものリスト」が目に入った。
『地下迷宮探索用装備リスト』
・高輝度ライト
・対魔物用スタンガン
・高純度ミスリル合金(※重要! これがないと迷宮のマナに僕は耐えられない気がする。迷宮に入るにはぜひ欲しい。市場価格:金貨100枚。……高すぎ。無理ゲー)』
高純度ミスリル。
地下迷宮の奥深くにしか存在しないとされる、希少なレアメタル。
エデンはそれを「重要でこれがないと迷宮に入るのは無理」と書いていた。
そして、その横には「金貨100枚」という絶望的な数字。
(……これがあれば)
セーラの瞳が、暗闇の中で揺れた。
もし、私がこれを手に入れられたら。
お金がなくて買えないなら、私が直接行って、取ってくればいい。
あの迷宮には、魔物がいるらしい。 危険な場所らしい。
そして、エデンはミスリルがないと迷宮に入れない。 でも、私の眼なら、魔物の動きも、マナの罠も見える。
捨てられたくない。
エデンの隣にいる資格が欲しい。
そのためなら、命なんてチップは安かった。
「……行ってくるね、エデン」
セーラは音もなく立ち上がった。
メモ用紙に、書き置きを残す。
そして、自分のリュックと、護身用のナイフだけを持って、静かに店を出た。
夜の王都は冷たい。
だが、彼女の足取りは迷っていなかった。
目指すは王立魔術学園。
その地下に広がる、死の迷宮。
***
翌朝。
鳥のさえずりと共に、エデンは目を覚ました。
「……うっ、身体が痛い」
机で突っ伏して寝ていたせいで、首と背中がバキバキだ。
あくびをして、伸びをする。
そして、習慣のように名前を呼んだ。
「おーい、セーラ。朝だぞ。……パンの耳くらいなら残ってるから、朝飯に……」
返事がない。
カーテンの奥も静まり返っている。
「……セーラ?」
嫌な予感がして、エデンはカーテンを開けた。
もぬけの殻だった。
ベッドは綺麗に整えられ、彼女の荷物がなくなっている。
そして、枕元に一枚の紙切れが置かれていた。
『エデンへ。
ごめんなさい。私のせいで、いろいろダメにしちゃって。
お詫びに、キミが欲しがってた「高純度ミスリル」を取ってきます。
地下迷宮にあるって、資料に書いてあったから。
これがあれば、エデンの研究も進むよね。
必ず戻ります。だから、心配しないで待ってて。
セーラより』
エデンの思考が凍りついた。
数秒後。
彼はその紙を握りしめ、顔面蒼白になって叫んだ。
「バ……バカかあいつはああああああッ!!!」
店中に響き渡る絶叫。
エデンは髪をかきむしり、その場をうろうろと歩き回った。
「ミスリル!? あれはただの『あったらいいなリスト』だぞ! 必須じゃない! それに耐えられない『気がする』って、ちゃんと書いてあるだろ! ああ、もう……国語ゼロ点かよ!」
エデンの脳内シミュレーターが、最悪の未来予測を弾き出す。
地下迷宮。
そこは、王立魔術学園ですら管理しきれていない、古代の遺物が眠る危険地帯だ。
強力な魔獣。致死性のトラップ。そして高濃度のマナ汚染。
いくらセーラの「眼」が優秀でも、たった一人で、しかもまともな装備もなしに潜れば……。
「生存確率、ほぼゼロ……! 自殺しに行くようなもんだ!」
エデンは白衣を羽織り、棚から大きなリュックをひったくるように取ると、店を飛び出した。
靴紐を結ぶ時間すら惜しい。
走りながら、脳内のAIに命令を飛ばす。
(エライザ! 索敵モード起動! セーラの生体反応を追え!)
『――警告。対象のID反応、微弱。王立魔術学園地下エリアにて、急速に深度低下中。……おそらくはマナ濃度の上昇により、通信途絶の恐れあり』
「くそっ、もう潜ってやがるのか……!」
エデンは王都の石畳を全力疾走した。
心臓が破裂しそうだ。足がもつれる。
だが、止まれない。
昨日、彼女が最後に浮かべた、今にも泣き出しそうな顔が脳裏に焼き付いている。
『心配しないで待ってて』
その言葉が、呪いのようにエデンの胸を締め付ける。
「ふざけんなよ……! 心配しないなんて、できるか、あのバカ!」
学園の裏口。 あそこに、敷地内につながる排水溝があることはリサーチ済みだ。 エデンはためらうことなく排水に飛び込むと、敷地内へと侵入した。
目指すは中央塔の地下。
迷宮への入り口。
教員でも生徒でもなくなった今、見つかれば即逮捕だ。
だが、そんなリスクなどどうでもいい。
エデンにとっての「宝」は、地下に眠るレアメタルなんかじゃない。
あの不器用で、生意気で、そして危なっかしい「共犯者」だけなのだから。
「待ってろ、セーラ……! 今行く……!」
エデンは闇の口を開けた地下への階段を、転がるように駆け下りていった。