灰色の科学者と金色の共犯者   作:AmberGlimmer

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死の迷宮

 肺が焼けていた。  呼吸をするたびに、錆びた鉄やすりで気管を擦られているような、ざらついた痛みが走る。

 

 王立魔術学園の地下深部。そこは、地上の常識が通用しない「異界」だった。

 

 壁面を覆うのは、湿った粘液質の苔。  天井からは、鍾乳石のように固まったマナの結晶が垂れ下がり、時折、蛍光色の雫を滴らせている。  ピチャン、という水音が、暗闇の中で不気味に反響していた。

 

「……ッ、はぁ、はぁ、はぁ……!」

 

 剣崎エデンは、もつれる足を叱咤し、地下への階段を転がるように駆け下りていた。

 

 視界が明滅する。  平衡感覚がおかしい。  地面が波打ち、壁が迫ってくるような錯覚に襲われる。

 

 これは「マナ酔い」の症状だ。  マナを受け流すこともできない「欠陥品」である彼にとって、地下迷宮の高濃度マナ環境は、致死性の猛毒に等しい。  皮膚の表面がチリチリと焼けつき、胃の腑が裏返りそうなほどの吐き気が込み上げる。  酸素濃度は正常なはずなのに、体が酸素を取り込むのを拒絶しているような、生理的な嫌悪感。  まるで、深海の底に生身で放り込まれたかのような圧迫感だった。

 

(――警告。マスターのバイタルサイン、危険域(レッドゾーン)に突入。心拍数180超過。血中酸素飽和度、低下中。直ちに帰還することを推奨します)

 

 脳内で響くAI・エライザの無機質な声が、エデンの焦燥を煽る。

 

「……うるさい! 黙ってナビゲートしろ!」

 

 エデンは荒い息と共に、心の中で悪態をついた。

 

 帰還推奨?  そんなことは、言われなくてもわかっている。  今すぐにでも踵を返し、地上の新鮮な空気を吸いたい。ふかふかのベッドに倒れ込みたい。

 

 だが、それができない理由がある。  脳裏に焼き付いているのは、昨日見た少女の顔だ。

 

 セーラ=クローム。  金色の魔眼を持つ、孤独な少女。

 

 彼女は、エデンの書いたメモ書き――「あったらいいなリスト」の冗談を真に受けて、たった一人でこの地獄へ降りてしまった。

 

 『高純度ミスリル』。  そんなもの、エデンの研究には必須ではない。あれば便利、程度の代物だ。  だが、彼女はそれを「エデンのために」命がけで取りに行った。  自分の価値を証明するために。  エデンに捨てられないために。

 

「……バカ野郎が。……僕なんかのために、命を張るなよ……!」

 

 エデンは歯を食いしばり、滲んでくる涙と汗を乱暴に拭った。

 

 違う。  バカなのは自分だ。  彼女の不安に気づけなかった自分だ。

 

 「共犯者」だと言いながら、彼女を道具のように扱い、その心の機微を見落としていた自分の傲慢さが、彼女をこの暗闇へと追いやったのだ。

 

 もし彼女が死んだら。  その想像だけで、心臓が凍りつくような恐怖を覚えた。  ルキナの手がかりが消えるとか、そんな損得勘定ではない。  ただ、あの不器用な笑顔が二度と見られないという事実が、何よりも耐え難かった。

 

「……死なせるか。……絶対に、連れ戻す!」

 

 エデンは白衣のポケットに入れた「武器」を確認する。  即席で作った科学兵器たち。  試験管、薬品、金属粉末。  どれも子供の火遊びレベルの代物だが、この魔法世界においては未知の現象を引き起こす切り札になるはずだ。

 

(――索敵再開。対象個体の反応、急速に接近。地下4層『嘆きの回廊』最深部にて停止中。周囲に高エネルギー反応。状況、極めて危険)

 

 エライザの警告音が、鋭く鳴り響く。

 

「見つけた……!」

 

 エデンは最後の力を振り絞り、崩落した瓦礫の山を飛び越えた。

 

          ***

 

 地下4層。  そこは、世界から色が失われたような、灰色の空間だった。

 

 かつて古代人が掘り進めた坑道の跡地だろうか。  天井は高く、数十メートルはあるドーム状の空洞が広がっている。  その地面には、無数の白骨が散らばっていた。  人の骨ではない。魔獣の骨だ。  ここが、弱肉強食の頂点に立つ捕食者の「食堂」であることを、無言で物語っていた。

 

 セーラは、その広場の隅、巨大な岩の陰に身を潜めていた。  膝を抱え、自身の口元を両手で強く押さえる。  呼吸音すら漏らしてはいけない。  心臓が肋骨を内側から叩き壊しそうなほど暴れている。

 

 彼女の足元には、薄汚れた布袋が落ちていた。  その中には、鈍く青白い光を放つ鉱石――高純度ミスリルが入っている。

 

 見つけたのだ。  マナの流れを視る「眼」を使い、迷宮の複雑な罠をかいくぐり、ようやく手に入れた宝物。  これを持ち帰れば、エデンは喜んでくれる。  「よくやった」と褒めてくれる。

 

 そう思った瞬間だった。  ――絶望が、天井から降ってきたのは。

 

 ドォォォォン……ッ!!

 

 地響きと共に、広場の中央に巨大な質量が着地した。  舞い上がる土煙。  その向こうから現れたのは、生物としての常識を嘲笑うかのような、異形の姿だった。

 

 体高は五メートルを超えるだろうか。  筋骨隆々たる胴体は、鋼鉄のような筋肉の鎧に覆われている。  四肢には、地面を容易く抉る鋭利な鉤爪。  背中からは蝙蝠のような皮膜の翼が生え、尻尾は大蛇となって鎌首をもたげている。

 

 そして何よりおぞましいのは、その頭部だ。  たてがみを逆立てた獅子。  捻れた角を持つ山羊。  そして、毒液を滴らせる竜。  三つの首が、それぞれ別の意思を持って周囲を睥睨している。

 

 ――合成魔獣(キマイラ)。  それもただの個体ではない。  この迷宮の生態系の頂点に君臨する、「主(ロード)」と呼ばれる変異種だ。

 

(……あ……あ……)

 

 セーラは、サングラスの奥で目を見開いたまま、凍りついていた。  彼女の「眼」には見えてしまう。  あいつの体内で渦巻く、圧倒的なマナの奔流が。  それは生物の体内循環ではない。  まるで暴走した原子炉のように、無尽蔵のエネルギーが循環し、増幅を繰り返している。

 

 勝てない。  逃げられない。  生物としての格が違いすぎる。  セーラが握りしめていた護身用のナイフが、あまりにもちっぽけで、惨めな鉄屑に見えた。

 

「グルルゥゥゥ……ッ」

 

 獅子の首が、低く唸った。  その音波だけで、セーラの隠れている岩がビリビリと振動する。  鼻孔が大きく開き、空気中の匂いを嗅ぎ取ろうとしている。  マナの匂い。  恐怖の匂い。  そして――生贄の匂い。

 

 ギョロリ。  山羊の首が、あり得ない角度で回転し、セーラの隠れている岩陰を凝視した。  横長の瞳孔が、セーラと目が合った。

 

「――ッ!!」

 

 見つかった。  その確信と同時に、世界がスローモーションになる。

 

「ガアアアアアアアッ!!」

 

 咆哮。  キマイラが跳んだ。  巨体に見合わぬ爆発的な瞬発力。一瞬で距離をゼロにする。

 

 セーラは反射的に横へ転がった。

 

 ドガアアアンッ!!

 

 彼女が隠れていた岩が、一撃で粉砕される。  飛び散る礫がセーラの頬を切り裂く。  砂煙の中、セーラは無様に地面を這い、後退った。  背中が冷たい壁に当たる。  行き止まりだ。  目の前には、三つの首をもたげた死神が、嘲笑うように彼女を見下ろしていた。

 

 獅子の口が、大きく裂けるように開く。  その喉の奥で、紅蓮の光が収束していく。  熱い。  まだ吐き出されていないのに、周囲の空気が歪み、肌が焦げるような熱波が押し寄せる。

 

 火炎ブレス。  あんなものを至近距離で浴びれば、骨すら残らない 。

 

(死ぬ……)

 

 セーラの脳裏に、走馬灯のように記憶が巡る。  冷たい村人たちの目。  投げつけられた石の痛み。  ずっと一人だった。  ずっと寒かった。

 

 でも、最後に見えたのは――。  『君の眼が、必要なんだ』  必死な顔で、そう言ってくれた黒髪の少年の姿。

 

 エデン。  ごめんなさい。  役に立ちたかった。  ミスリルを持って帰って、「すごいね」って褒められたかった。  ただ、あなたの隣にいてもいい理由が欲しかっただけなのに。

 

 セーラは涙をこらえ、ギュッと目を閉じた。  炎の轟音が、世界を飲み込もうとした、その時。

 

「――空間温度、強制引き下げ(ダウン)ッ!!」

 

 聞き覚えのある、しかし普段とは違う、張り詰めた声が鼓膜を打った。

 

 ヒュンッ!  風を切る音。  何かが、セーラとキマイラの間に投げ込まれた。  それは数個の、薄い革でできた袋だった。

 

「熱力学的凍結(エントロピー・フリーズ)ッ!!」

 

 エデンの叫びと共に、パックが破裂した。  中に入っていた白い粉末(硝酸アンモニウム)と、水が一気に混ざり合う。  その吸熱反応が、同封されている氷を作る魔石を起動し、猛烈な吸熱反応が起こる。

 

 パキパキパキパキッ!!

 

 空気が悲鳴を上げた。  周囲の熱エネルギーが一瞬にして奪い取られ、温度が氷点下へと急降下する。  キマイラが吐き出した灼熱の火炎ブレスは、その熱源を根こそぎ奪われ、エデンたちの目の前で「凍りつく」ように消失した。

 

 炎が消えたのではない。  燃焼に必要な温度を維持できなくなり、物理的に存在を許されなくなったのだ。

 

 ジュゥウウウウ……ッ。

 

 白い水蒸気が爆発的に広がり、視界を覆う。  舞い散る氷の結晶が、セーラの頬に冷たく触れた。  彼女がおそるおそる目を開けると、そこには――。

 

 ボロボロの白衣をまとい、肩で息をするエデンの背中があった 。

 

「エデン……?」 「……遅くなって、悪い。……計算より、階段が長かった」

 

 エデンは振り返らず、震える声で言った。  彼は強がっているが、足がガクガクと震えているのがセーラには見えた。  無理もない。  目の前にいるのは、A級指定の化け物なのだから。

 

「グルッ……!?」

 

 キマイラが、呆気にとられたように動きを止めている。  自分の最強の武器である炎が、マナの干渉もなく「消された」ことに混乱しているようだ。  エデンはその隙を見逃さなかった。  セーラの襟首を掴み、乱暴に引き立たせる。

 

「立って解説してる暇はないぞ! 逃げるぞセーラ!」 「えっ、あ、うん!」 「今ので吸熱パックの半分以上使った! 二発目はないと思え!」

 

 エデンはセーラの手を引き、迷宮の奥へと走り出した。  背後で、キマイラの混乱が怒りへと変わる気配がした。  獲物を横取りされた屈辱。  未知の攻撃への警戒心。  それらが混ざり合い、殺意の波動となって膨れ上がる。

 

「ガアアアアアアアッ!!」

 

 鼓膜をつんざく咆哮。  地響きが迫ってくる。  速い。  四足歩行の魔獣の速度は、人間の全力疾走など比較にならない。

 

「……クソッ! やっぱ速いな! 想定より1.5倍増しか!?」 「エデン、追いつかれる! もうすぐそこまで!」

 

 セーラが悲鳴交じりに叫ぶ。  背後を振り返れば、キマイラの三つの首が、すぐそこまで迫っていた。  鋼鉄の爪が振り上げられる。  逃げ切れない。  このままでは、背中から引き裂かれる。

 

「……チッ、ジェットコースターは好きか?」 「へっ!? じぇっと?」

 

 エデンは懐から、武骨なコントローラーを取り出した。  カチッ、とスイッチを入れる。

 

 ウィィィン……!

 

 彼が履いている革靴の底に埋め込まれた、超小型の魔導ヒーターが起動した。  靴底の温度が、瞬時にして数百度まで跳ね上がる。

 

「掴まれセーラ! 舌を噛むなよ!」 「な、なにをする気!?」 「摩擦係数をゼロにする! 物理法則の抜け穴(グリッチ)を使わせてもらう!」

 

 エデンはセーラを抱き寄せると、床に溜まっていた水たまりに向かって、加熱された靴底を思い切り叩きつけた。

 

「ライデンフロスト推進(スチーム・スライダー)ッ!!」

 

 ジュッ!!!

 

 爆発的な蒸発音。  高温の物体が液体に触れた時、その瞬間に発生した蒸気が膜となり、物体を液体から浮き上がらせる現象――ライデンフロスト効果。  エデンの靴底と地面の間には、今、超高圧の蒸気の層が形成されていた。  摩擦抵抗は、限りなくゼロに近い。

 

「うおおおおおおおッ!?」 「きゃああああああッ!!」

 

 二人の体が、矢のように射出された。  まるで氷上のスケーターのように、いや、摩擦のない世界を滑るピンボールのように、猛スピードで迷宮の床を滑走していく。

 

 風が唸る。  景色が流れる。  キマイラの爪が、二人がいたはずの空間を空しく切り裂いた。

 

「は、速い! エデン、これ速すぎる!」 「ブレーキはついてない! 曲がる時は重心移動だ! 遠心力を信じろ!」

 

 エデンはセーラを抱えたまま、体を大きく傾ける。  カーブを曲がりきれず、壁に激突しそうになるが、足元の蒸気噴射を調整して強引に軌道を変える。  火花が散り、靴底が赤熱する。

 

「しつこい……! まだ追ってくる!」

 

 セーラがサングラス越しに背後を確認する。  キマイラは壁を蹴り、天井を走り、重力を無視した立体機動で追いすがってきていた。  その目は執念深く、獲物を逃がすまいと爛々と輝いている。  距離が縮まる。  蛇の尾が、鞭のようにしなり、エデンの足を狙って襲いかかる。

 

「……させるかよ!」

 

 エデンは滑走の勢いを保ったまま、白衣の胸ポケットからガラスのカプセルを取り出した。  中には、ドロリとした不気味な赤色の液体が揺れている。

 

「お返しだ! 受け取りな!」

 

 エデンは尾の攻撃をよけつつ、そのカプセルを、迫りくるキマイラの鋼鉄の爪目掛けて叩きつけた。

 

「急速酸化(ラスト・アクセラレーション)ッ!!」

 

 パリンッ!  カプセルが砕け、液体が飛散する。  それは、超強力な酸化剤に、金属腐食を促進する特殊触媒を混ぜ合わせた、エデン特製の「老化薬」だ。

 

 ジュワアアアアア……ッ!!

 

 酸が金属を焼く、嫌な音が響いた。

 

「グルッ!?」

 

 キマイラが悲鳴を上げる。  白銀に輝いていた自慢の鉤爪が、見る見るうちに変色していく。  銀から、くすんだ灰色へ。  そして、赤茶色へ。

 

 数秒前まではダイヤモンドのような硬度を誇っていた爪が、数十年放置された廃材のように朽ち果てていく 。

 

「『時間経過』を加速させた! 手入れをサボった鉄は脆いぜ? 君の爪、もう賞味期限切れだ!」

 

 キマイラが怒り狂って爪を振るう。  だが。

 

 ボロッ。

 

 乾いた音と共に、爪は根元から折れ、粉々の錆となって床に散らばった。

 

「グオッ……!?」

 

 キマイラの動きが止まる。  自分の体の一部が、理解不能な現象によって崩れ去った恐怖。  エデンはその隙を見逃さなかった。  滑走の勢いを利用して急停止(ドリフト)し、靴底のスイッチを切る。  蒸気が晴れる中、彼はセーラを背後に守り、次なる武器を取り出した。  それは、金属粉末がぎっしりと詰まった、太い筒状の容器だった。

 

「硬い装甲が自慢なら……溶かせばいい!」

 

 エデンは筒の信管を引き、発火させる。  狙うは、キマイラの急所。  心臓を守る、最も分厚く、強固な胸板だ。

 

「テルミット溶解(メタル・メルトダウン)ッ!!」

 

 エデンが筒を投げつける。  着弾した瞬間。

 

 カッッッ!!!!

 

 地下迷宮の闇を、太陽のような閃光が切り裂いた。  酸化鉄とアルミニウム粉末による、テルミット反応。  その化学反応が生み出す熱量は、摂氏三千度にも達する。  鉄をも泥のように溶かす超高温の奔流が、キマイラの胸板に直撃した。

 

「ガアアアアアアアアアアッ!!」

 

 絶叫。  魔獣の断末魔が、迷宮全体を震わせる。  装甲が飴細工のように溶け落ち、その下の肉を焼き、骨を焦がす。  強烈な異臭――焼けたタンパク質と、気化した金属の臭いが充満し、鼻をつく。

 

「……やったか!?」

 

 エデンは目を覆いながら、叫んだ。  これだけの熱量だ。生物なら生きていられるはずがない。  心臓ごと焼き尽くしたはずだ。

 

 煙が晴れていく。  そこに立っていたのは、胸に風穴を開けられ、黒焦げになったキマイラの巨体だった。  動かない。  沈黙。

 

「……勝った……?」

 

 セーラが震える声で呟く。  だが。  エデンの表情は、勝利の喜びに緩むどころか、戦慄に凍りついていた。

 

 (――警告。対象個体の生体反応、消失せず。再生プロセス開始)

 

「……嘘だろ」

 

 エデンが呻く。  その目の前で、悪夢のような光景が展開された。

 

 ブクブクブク……。

 

 黒焦げになったキマイラの傷口が、泡立つように蠢き始めた。  周囲の空間から、マナが渦を巻いて吸い込まれていく。  溶け落ちたはずの装甲が、肉が、骨が、時間を巻き戻すような速度で再構築されていく。  金属結合の強制解除? 熱による破壊?  そんな物理法則の限界など、マナというデタラメなエネルギーの前では、児戯に等しいと言わんばかりに。

 

「金属結合の再構築……だと……?」

 

 数秒後。  そこには、傷一つない、完全な姿のキマイラが立っていた。  折れた爪すらも、より鋭く、より硬質に再生している。  三つの首が、一斉にエデンたちを睨みつけた。  その瞳には、先ほどまでの油断はない。  あるのは、純粋な殺意と、獲物を甚振って殺すという残虐な意思のみ。

 

「……反則だろ。……熱力学第二法則はどうなってるんだよ……!」

 

 エデンは乾いた笑いを漏らし、後ずさった。  背中が岩壁にぶつかる。  逃げ場はない。

 

 手持ちのカードは?  ポケットを探るが、指先が触れたのは空っぽの試験管だけだ。  吸熱パック、全損。  酸化カプセル、使用済み。  テルミット、在庫切れ。

 

 科学の力で挑んだ戦いは、魔法の理不尽さの前に、脆くも敗れ去った。

 

「グルルゥゥゥ……」

 

 キマイラが一歩、また一歩と距離を詰めてくる。  その足音が、死へのカウントダウンのように響く。

 

「……エデン」

 

 セーラが、エデンの白衣の裾を掴んだ。  見れば、彼女はサングラスに手をかけていた。  その顔色は蒼白だが、金色の瞳には、悲壮な決意の光が宿っていた。

 

「……私を置いて、逃げて」

 

 消え入りそうな声。  だが、その言葉には確かな重みがあった。

 

「私は魔法としての『術式』は組めない。……でも、私はマナを導ける。だから……全力で周りのマナを取り込んで、体内で暴走させる。……そうすれば、あいつを吹き飛ばすくらいの火力にはなる」 「……は?」 「あいつを道連れにする。……その隙に、エデンは逃げて」

 

 彼女は本気だ。  自分の命を、ただの爆弾として使い捨てようとしている。  エデンを生かすために。  自分が「荷物」にならないために。

 

「……ふざけるな」

 

 エデンの腹の底から、熱いものがこみ上げてきた。  恐怖ではない。  怒りだ。  こんな理不尽な世界への、そんな悲しい選択をしようとする彼女への、そして、どうしようもなく無力な自分への、激しい怒り。

 

「離して! 私なんか、元々死ぬはずだったんだから……! エデンが生き残れば、それで……!」

 

 セーラがサングラスを外そうとする。  その手を、エデンは乱暴に掴み上げ、壁に押し付けた。

 

「痛っ……!?」 「黙ってろッ!!」

 

 エデンの怒声が、迷宮に響き渡った。  キマイラすらも、その剣幕に一瞬足を止めるほどの気迫。  エデンは、涙を溜めたセーラの金色の瞳を、至近距離で睨みつけた。

 

「……二度と言うな。自分がいらないなんて」

 

 エデンの声が震えている。  彼だって怖いのだ。  膝は笑っているし、心臓は早鐘を打っている。  それでも、彼はセーラの手を離さなかった。

 

「僕が何のためにここまで来たと思ってる! ミスリルのためか? 研究のためか? ……違うだろ!」

 

 エデンは、掴んでいたセーラの手を、自分の胸に当てさせた。  ドクン、ドクンと、激しく脈打つ鼓動が伝わる。

 

「君がいなきゃ……誰が僕の『照準』を合わせるんだ」 「……え?」 「僕はマナが見えない。あいつの弱点も見えない。……ただの無力な人間だ。君がいなきゃ、何もできないんだよ!」

 

 それは、天才科学者を自称する彼にとって、最大の弱音であり、最大の告白だった。  セーラの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。

 

「……エデン」 「だから、眼を貸せ。……自爆するためじゃない。生き残るために」

 

 エデンは、足元に落ちていた瓦礫の中から、一本の鉄パイプを拾い上げた。  かつて坑道の支柱に使われていたのだろう。  錆びついて、曲がった、ただの鉄屑。  魔獣の装甲の前では、爪楊枝にもならないような代物だ。

 

 だが、エデンはその鉄屑を、まるで聖剣のように構えた。

 

「暴走させるんじゃない。……見るんだ、セーラ。あいつの『構造上の欠陥』を。弱点を。マナの流れが淀む場所を。……0.1ミリのズレでもいい、見つけてくれ!」

 

 キマイラが大きく息を吸い込む。  三度目の火炎ブレスの予備動作。  もう、防ぐ手段はない。  攻撃する弾もない。

 

 残されたのは、錆びた鉄パイプと、二人の絆だけ。

 

「心配するな。僕の理論と、君の観測があれば……神だって殺せるはずだ」

 

 セーラは涙を拭い、強く頷いた。  サングラスの奥、金色の瞳が、かつてないほど強く輝き始める。

 

 見えた。  キマイラの体内、燃え盛るマナの炉心の中に、極小の「裂け目」が。

 

「……エデン、……喉の奥、第三頸椎の隙間。……マナ密度、最低値!」 「了解。……計算終了だ」

 

 エデンはニヤリと笑った。

 

「さあ、課外授業の時間だ。……物理学の恐ろしさを、骨の髄まで教えてやる!」

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