灰色の科学者と金色の共犯者   作:AmberGlimmer

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共鳴する魂

ご提示いただいた第9話につきましても、前回のルールを維持し、**「戦闘のクライマックス」「マナ酔いという代償」「ヒロイン(セーラ)との精神的な結合」**を意識して構成しました。

 

特に、セーラの「見えすぎる眼」による苦悩の告白と、それをエデンが「レンズ」として肯定するシーンは、感情の盛り上がりに合わせて改行のペースを変化させています。

 

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### 第9話:共鳴する魂と、新たな契約

 

 世界が、血の味で満たされていた。

 口の中を切ったわけではない。

 呼吸をするたびに肺腑を満たす空気が、濃厚な鉄錆の臭気と、腐敗したマナの残滓、そして死の予感で濁りきっているのだ。

 

 王立魔術学園、地下迷宮第四層『嘆きの回廊』。

 有史以前の文明が遺したとされるその空間は、いまや一つの巨大な胃袋と化していた。

 

 「――右、四十五度! 伏せて!」

 

 少女の悲鳴にも似た指示が、轟音の隙間を縫って鼓膜を劈(つんざ)く。

 思考する時間など、コンマ一秒も残されていない。

 剣崎エデンは反射的に、泥にまみれた身体を右斜め前方へと投げ出した。

 地面を転がる。擦りむいた皮膚が悲鳴を上げるが、そんな痛みは脳内麻薬の洪水にかき消される。

 

 ゴオォォォォォッ!!

 

 直後、彼が瞬き一つする前まで存在していた空間を、暴虐の嵐が通り過ぎた。

 

 キマイラの尾だ。

 大蛇の形状をしたその尾は、単なる肉体の一部ではない。高密度のマナを纏った、生きた攻城兵器である。

 風圧だけで、エデンの白衣の裾がカミソリで切られたように裂ける。

 強固な古代の石畳が、まるで濡れた粘土のように無造作に抉られ、礫(つぶて)となって四方八方へ弾け飛ぶ。

 

「ぐっ……! いちいち動きが派手すぎんだよ、このデカブツがッ!」

 

 エデンは粉塵に塗れながらも体勢を立て直し、手に持った唯一の武器――赤錆の浮いた鉄パイプを構えた。

 長さは一メートル弱。かつてこの迷宮を掘り進めた鉱夫が遺した、ただの廃材。

 

 現代兵器も、化学薬品も、すべて尽き果てた。

 硝酸アンモニウムによる吸熱凍結も、テルミット反応による超高温溶解も、この理不尽な怪物の「再生能力」の前では児戯に等しかった。

 今の彼に残されたのは、この頼りない鉄屑と、背後で震える少女の「眼」だけ。

 

「グルルゥゥゥ……ッ」

 

 迷宮の主、キマイラ・ロードが喉を鳴らす。

 その三つの首――獅子、山羊、竜――が、それぞれ異なる殺意を宿してエデンを見下ろしていた。

 圧倒的な質量差。

 生物としての格の違い。

 

 だが、エデンは引かなかった。引けるはずがなかった。

 

『エライザ! 敵の運動エネルギー予測! 次の攻撃パターンは!?』

 

(――回答。筋肉の収縮率、マナの流動パターンより、獅子頭部による噛みつき、および山羊頭部による角の突き上げの複合攻撃(コンビネーション)と予測。……回避成功率、0.8%)

 

 0.8%。

 絶望的な数字だ。だが、ゼロではない。

 エデンは口元を歪め、ニヤリと笑った。それは虚勢であり、同時に科学者としての意地だった。

 

「……統計学上、その1%未満の『外れ値』こそが、定説を覆すんだよ!」

「エデン! 喉元! 再生が追いついてない! マナ密度、一時的に低下中!」

 

 セーラの声が、再び響く。

 彼女の金色の魔眼には、世界のマナ全てが「情報」として映っている。

 怪物の体内を循環するマナの流れは次の動きの予測を与え、それらが一体となり極彩色のサーモグラフィのように視覚化されているのだ。

 エデンという「盲目の射手」にとって、彼女は唯一無二の「照準器」だった。

 

「了解……! そこかよッ!!」

 

 エデンは地面を蹴った。

 恐怖で足が竦みそうになるのを、獣のような咆哮で無理やりねじ伏せる。

 

 キマイラが次のブレスを吐こうと、獅子の口を大きく開け、肺に空気を吸い込んだその瞬間。

 筋肉が弛緩し、防御が最も薄くなる、その刹那。

 

 エデンは、鉄パイプを槍のように構え、突進した。

 狙うは、セーラが示した一点。

 マナの防壁が薄れている、喉の奥の柔らかい粘膜。

 

「貫けぇぇぇぇッ!!」

 

 ドスッ!!

 

 鈍く、湿った感触が手に伝わる。

 鉄パイプの先端が、キマイラの喉を深々と貫いた。

 錆びた鉄が肉を裂き、気管を塞ぐ。

 

「ギャアアアアアアアアッ!?」

 

 悲鳴。

 ブレスの火種が体内で暴発し、黒煙が口から漏れる。

 キマイラが苦痛にのたうち回る。巨体が暴れ、壁に激突し、迷宮全体が地震のように揺れる。

 チャンスだ。

 ここで畳みかけるしかない。

 相手が混乱している今こそ、決定的なダメージを与える好機。

 

「目は口ほどに物を言うんだろ!? なら黙ってろ!!」

 

 エデンは怯むことなく、暴れるキマイラの体に飛び乗った。

 剛毛を掴み、振り落とされそうになるのを必死で耐えながら、怪物の頭部へとよじ登る。

 目指すは、脳幹に最も近い中枢神経。

 山羊の首の、あの不気味な横長の瞳。

 

「マナ盲を……舐めるなぁぁぁッ!!」

 

 エデンの全体重と、落下エネルギーを乗せた渾身の一撃。

 鉄パイプの鋭利な断面が、山羊の眼球に突き刺さる。

 

 グシャリ。

 

 生々しい破壊音。

 水晶体が破裂し、硝子体液が飛び散り、エデンの白衣を汚す。

 手応えはあった。

 眼窩の奥、脳に近い部分まで鉄屑を押し込んだ。

 

「はぁ、はぁ、……どうだ……ッ!?」

 

 エデンはキマイラの顔面から飛び退き、着地した。

 肩で息をしながら、怪物を見上げる。

 動かない。

 三つの首がだらりと垂れ下がり、痙攣している。

 勝ったか?

 勝ったはずだ。 いかなる生物であれ、脳を破壊されれば機能停止する。それは生命の摂理だ。

 

 ――しかし、世界は、エデンの常識を嘲笑う。

 

 ジュルリ、ジュルリ。

 

 そんな、背筋が凍るような湿った音がした。

 静寂を破ったのは、再生の賛歌ではなく、捕食の咀嚼音だった。

 

 キマイラの潰れた眼球から、赤黒い触手のような肉芽が、ウジ虫のように溢れ出したのだ。

 それらは、突き刺さったままの鉄パイプに絡みつき、飲み込み、そして――

 

 バキィッ!! グシャアッ!!

 

 硬質の鉄パイプを、まるでクラッカーのように噛み砕いた。

 鉄分すらも栄養素として取り込み、自らの肉体の一部として再構築していく。

 傷口が塞がるどころか、そこから新たな「骨の装甲」が生え始め、より禍々しい形状へと進化を遂げていく。

 

「……あ?」

 

 エデンの手には、へし折られたパイプの持ち手だけが残されていた。

 震える指先。

 再生ではない。

 これは「進化」だ。

 この怪物は、受けたダメージすらもマナとして学習し、物理的な攻撃に対する耐性を獲得している。

 物理法則が通じない。

 質量保存の法則も、エネルギー保存の法則も、この圧倒的な理不尽の前では紙切れ同然だった。

 

「グルルゥゥゥ……」

 

 キマイラが、ゆっくりと首を持ち上げる。

 再生した山羊の目は、以前よりも赤く、憎悪に満ちて輝いていた。

 

 その視線が、エデンを射抜く。

 嘲笑。

 明確な侮蔑。

 

「……逃げるぞ、セーラッ!」

「ッ……ええ!」

 

 エデンは凍りつく思考を無理やり動かし、セーラの手を引いて、近くの岩陰の亀裂へと滑り込んだ。

 直後、キマイラの鉤爪が、彼らのいた場所を粉砕する。

 

 ドガアアアアンッ!!  岩盤が砕け、破片が降り注ぐ。

 迷宮の闇が、二人を飲み込んだ。

 

 岩陰の狭い空間。

 そこは、埃とカビの臭い、そして自分たちの発する冷や汗の臭いが充満する、暗い閉鎖空間だった。

 外からは、ドシン、ドシンと、死刑執行人の足音が近づいてくる。

 岩が削られる音。

 キマイラの荒い鼻息。

 それらが、エデンの精神をやすりのように削っていく。

 

「……はぁ、はぁ……くそ……」

 

 エデンは冷たい岩壁に背を預け、ズルズルと座り込んだ。

 手には、無惨に折れた鉄パイプの残骸と、空になった薬品瓶が握りしめられている。

 硝酸アンモニウム、酸化剤、テルミット、マグネシウムリボン、濃硫酸。

 

 日本から持ち込んだ知識と、この世界でかき集めた素材で作った、エデンの「全財産」。

 それら全てを使い果たした。

 

 万策尽きた。

 脳内シミュレーターが、真っ黒な壁にぶつかって停止している。

 何度計算しても、弾き出される生存確率は「0.00%」。

 

「……結局、僕は……ハッタリだけの詐欺師かよ」

 

 乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。

 

 王都に来てから、ずっとそうだった。

 白衣を着て、難解な科学用語を並べて、煙に巻いて。

 「天才魔導物理学者」? 「株式会社エデン・ワークスCEO」?

 笑わせる。

 ただの理科オタクじゃないか。

 マナ一つ練れない、魔法一つ使えない、この世界で最も無力な「空っぽ」の人間。

 それが、剣崎エデンの正体だ。

 

(もし、ここにいるのが『勇者』だったら)

 

 ふと、そんな思考が過る。

 きっと、聖剣の一振りで、あるいは規格外の魔法で、あの怪物なんて一撃で消し炭にしているだろう。

 汗一つかかず、セーラを助け出し、爽やかに笑うのだろう。

 

 けれど、ここにいるのはエデンだ。

 泥水をすすり、嘘で塗り固めた、持たざる者。

 

「……エデン」

 

 隣で、衣擦れの音がした。

 エデンは、虚ろな目で隣を見た。

 セーラだ。

 彼女は、膝を抱えてうずくまっていた体を起こし、じっとこちらを見ていた。

 ボロボロの制服。

 煤で汚れた頬。

 だが、そのサングラスの奥にある瞳だけは、暗闇の中で光を失っていなかった。

 

「……すまない、セーラ」

 

 エデンの目から、悔し涙が滲んだ。

 それは、彼がこの世界に来て初めて見せる、本当の弱さだった。

 プライドも、虚勢も、すべて剥がれ落ちた、裸の感情。

 

「僕にマナがあれば……。みんなみたいに、魔法が使えれば……君を助けられるのに」

 

 もし自分に魔法の才能があれば、炎で焼き払えた。風で切り裂けた。

 けれど、自分には何もない。

 ただの無力な人間が、身の程知らずにも「君を守る」なんて約束をしてしまった。

 その結果が、これだ。

 彼女を道連れに、暗い地下で死ぬ。

 

 ドォォン!!

 

 近くの岩が砕かれる音がした。

 振動が背中に伝わる。

 死の足音が、もう目の前まで来ている。

 

「……違う」

 

 隣で、空気を裂くような震える声がした。

 エデンの袖を掴んでいたセーラの指先が、布を突き破らんばかりに強く食い込む。

 

「謝るのは……私の方だよ」

「え……?」

 

 エデンが顔を上げると、セーラはサングラスをかなぐり捨てていた。

 露わになったその素顔。

 世界中から忌み嫌われた金色の魔眼から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、煤けた頬を濡らしていた。

 彼女は、自身の胸元を――心臓のある場所を、引きちぎるように強く押さえつける。

 

「私には、あるの。……マナが。この体の中に、使いきれないほど溢れかえってる」

 

「……は?」

 

 エデンは耳を疑った。マナがある? この華奢な少女の中に?

 マナ欠乏で苦しむ自分とは真逆の言葉。だが、彼女の悲痛な表情は嘘を吐いていない。

 

「なのに、私……何もできない。こんなに持っているのに、それを外に出すことも、魔法として使うこともできない……! ただ持っているだけで、エデンを守れない……!」

 

 セーラは嗚咽した。喉の奥から絞り出される、魂の叫び。

 彼女にとっての絶望は、「持たざること」ではなかった。

 強大な力(ちから)を持ちながら、それを出力する術を持たず、大切な人が死に行くのをただ見ていることしかできない、自分自身の欠陥への絶望だ。

 

「私こそ、役立たずの『空っぽ』なんだよ……!」

 

 セーラが膝から崩れ落ちそうになる。

 エデンは咄嗟に、その小さな体を抱き止めた。

 

「……ッ、離して! 私なんか……」

「暴れるな、馬鹿!」

 

 エデンは叫び、セーラの体を力づくで自身の胸に押し付けた。

 泥と冷や汗にまみれた互いの体温が、痛いほどに伝わる。

 腕の中で、セーラが小刻みに震えている。それは恐怖からだけではない。体内で暴走しそうになるマナの奔流に、彼女自身の肉体が悲鳴を上げているのだ。

 

「……どういうことだ。説明しろ、セーラ。君にはマナが見えているんだろう? どうして使えない?」

 

 エデンの心音を聞きながら、セーラは掠れた声で答えた。

 

「……見えすぎるからだよ」

「見えすぎる?」

「魔法は『イメージ』でしょ? ……でも、私の眼には全部が見えちゃうの」

 

 彼女の顔が、エデンの胸に押し付けられる。世界を見たくないというかのように。

 

「……全部、マナにしか見えないの。大気を満たす粒子の輝き、物質を繋ぎ止めている力の結び目……世界中のすべてが、光り輝くマナの奔流として、膨大な情報になって頭に入ってくる。だから……『炎』って念じても、私の頭の中では『熱を生み出すための、何億ものマナの衝突』として分解されちゃうの。……あまりに鮮明すぎて、曖昧なイメージが維持できなくて、マナが霧散しちゃうんだよ……!」

 

 高解像度すぎる視界。

 この世界の魔法は、個人の想像力という「曖昧な枠組み」に依存している。「なんとなく」の想像で世界を騙す技術だ。

 だが、セーラにとって世界はあまりにも「具体的」すぎた。嘘やごまかしの効かない彼女の真実の眼は、魔法という「ご都合主義」を許容できなかったのだ。

 

「だから、私の中のマナは……ずっと行き場を失って、体の中で腐っていた。……誰の役にも立てずに」

 

 エデンは、腕の中の少女をさらに強く抱きしめた。

 熱い。彼女の体は、行き場のないエネルギーで、火傷しそうなほど熱くなっている。

 もしこのまま暴走すれば、彼女は自壊するだろう。

 

 だが。

 その「熱」を感じた瞬間。

 エデンの脳内で、錆びついていた歯車が、カチリと音を立てて噛み合った。

 電撃が走ったような衝撃。

 

(曖昧なイメージが維持できない……? 具体的すぎて分解される……?)

 

 それは欠陥じゃない。

 むしろ、エデンが求めていた「最強の条件」だ。

 

「……顔を上げろ、セーラ」

「……いや。見ないで……」

「いいから見ろ!」

 

 エデンはセーラの頬を両手で挟み、無理やり顔を上げさせた。

 至近距離。

 涙に濡れた金色の瞳が、エデンの焦茶色の瞳と交差する。

 互いの呼吸がかかる距離で、エデンは彼女の奥底を見据えた。

 

「過剰な解像度。……そうか、君に必要なのは『曖昧なイメージ』じゃない」

 

 エデンは、片手で足元に転がっていた折れた鉄パイプを拾い上げ、セーラの手を導いて握らせた。

 そしてその上から、自分の手を強く重ねる。

 指と指を絡ませるように、強く、絶対に離さないように。

 

「君に必要なのは……『揺るぎない事実』だ」

「……え?」

「僕の頭の中にある『物理法則』は、イメージなんかじゃない。宇宙のどこに行っても変わらない、絶対的なルールだ。……曖昧さなんて、1ミリもない」

 

 エデンは、額をセーラの額にコツンと当てた。

 視線を逸らさせない。彼女の視界を、エデンだけで埋め尽くす。

 

「聴け、セーラ。これは賭けだ。……いや、心中だ」

 

 エデンの低い声が、セーラの鼓膜を震わせる。

 

「僕が『理論(レシピ)』を読み上げる。君はその眼で世界を見ながら、僕の言葉通りにマナを流し込め。……解像度を下げる必要はない。君が見ている高精細な世界に、僕の物理という枠組みを叩き込むんだ」

「でも……もし失敗したら……」

「失敗したら、君のマナが暴走して、僕らは肉片も残さず消し飛ぶ」

 

 セーラが息を呑む。

 エデンは逃げずに、残酷な真実を告げた。

 

「逆に、僕の計算が間違っていても、僕らはマナの逆流で廃人になるだろう。……僕のミスで君も死ぬし、君のミスで僕も死ぬ」

 

 それは、命の境界線を溶かし合う行為。

 互いの心臓を素手で握り合うような、極限の信頼。

 

「……それでも、やるか?」

 

 エデンは問うた。

 セーラは、目の前の男を見た。

 震えている。彼だって怖いのだ。汗が流れている。

 けれど、その瞳は真っ直ぐに自分を見ていた。

 「見えすぎる眼」を持つ自分から、目を背けずに。

 「使いこなせない力」ごと、抱きしめてくれている。

 

(……ああ)

 

 セーラの胸の奥で、燻っていた熱が、形を変えていく。

 それは、腐敗したエネルギーではなく、燃え上がるような愛おしさと覚悟へ。

 

「……やる」

 

 セーラは、エデンの手に重ねた自分の手に、力を込めた。

 額を押し付け返し、エデンの匂いを深く吸い込む。

 

「私の命、全部エデンにあげる。……暴走したら、一緒に死んで」

「……ハハ、重いな。だが……悪くない」

 

 エデンはニヤリと笑った。

 それは、世界への反逆を企てる共犯者の笑み。

 

「僕が『銃』になる。……君は『弾丸』になれ」

 

 二人の体温が、鉄パイプを通して一つになる。

 もはや、どちらがエデンで、どちらがセーラかわからないほどに、意識が溶け合っていく。

 

「信じる。……エデンの『物理(うそ)』を、私にちょうだい!」

 

 セーラの金色の瞳が、かつてない輝きを放った。

 エデンは叫んだ。

 

「上等だ。……さあ、反撃開始だ!」

 

          ***

 

 エデンは岩陰から飛び出した。

 迷いはない。

 まるで、勝利が約束された舞台へと上がる役者のように、背中にセーラを背負って。

 

「グルァッ!?」

 

 キマイラが反応する。

 獲物が出てきた。愚かな人間たちが、自ら死に場所を選んで出てきた。

 獅子の口が開き、灼熱のブレスを吐こうとする。喉の奥で、マナが収束し、紅蓮の輝きを放つ。

 

 だが、遅い。

 

「セーラ、リンク開始! 対象、足元の液体マナの集合体だ! 全マナを『水』の制御へ回せ!」

 

 エデンの叫びと共に、背中のセーラがギュッと腕に力を込める。

 彼女のサングラスのない金色の瞳が、世界を見据える。

 彼女の視界に、物理的な「水たまり」は存在しない。

 あるのは、地面に滞留する、冷たく静謐な『青いマナの塊』だけ。

 

「イメージしろ! 柔らかい液体じゃない! それは鋼鉄よりも硬く、音よりも速い、流れる刃だ!」

 

 エデンはセーラと共に握る鉄パイプを、指揮棒のように振るう。

 それに応えるように、セーラが認識した『青いマナ』が逆巻き、空中に舞い上がった。

 

「圧力、300メガパスカルへ加圧! ベルヌーイの定理を適用、断面積を極小へ絞れ!」

 

 エデンの口から飛び出す、聞き慣れない数値と単語。

 だが、セーラにはわかった。

 背中合わせの体温を通して、エデンの脳内にある「設計図」が流れ込んでくる。

 それは、彼女が見ている混沌とした光の世界に、青白く輝く「グリッド線」が現れる。

 

 マナが霧散しようとするのを、エデンの理屈が「枠」となって押し留める。

 膨大なエネルギーが、針の穴を通すような一点に凝縮されていく。

 

(……見える。エデンの言う『必然』の形が!)

 

 迷いはない。その設計図の通りに、ありったけのマナを叩き込むだけ。

 失敗すれば、圧力に耐えきれずに二人は消し飛ぶ。

 だが、失敗なんて、絶対にしない。

 

「いけぇぇぇぇっ! セーラァッ!!」

 

 ドォッ!!

 

 セーラの全身から、黄金のマナが噴き出した。

 それは魔法陣も詠唱も介さない、純粋で暴力的なエネルギーの注入。

 

「穿てッ!! 『超高圧水流切断(アクア・ジェット・カッター)』ッ!!」

 

 エデンが狙いを定め、セーラが引き金を引いた。

 

 ズドオオオオオオオオオンッ!!

 

 大気を切り裂く音速の衝撃波が、狭い地下空間を揺るがした。

 二人の目の前から放たれたのは、優雅な水魔法ではない。

 マッハ3まで加速され、極細の針のようになった「水」だ。

 エデンの物理理論による完璧な制御と、セーラの規格外のマナ量が可能にした、最強の物理切断兵器。

 

 それは、空間ごと切り裂くように、一直線に伸びた。

 

 キマイラが吐き出そうとした炎を左右に切り裂き、鋼鉄の装甲を紙のように貫通し、筋肉を易々と分断し、骨を真っ二つにし、背後の岩盤すらも両断する。

 

 ヒュンッ。

 

 一瞬の静寂。

 音が置き去りにされた世界で、水の刃が通り過ぎた軌跡だけが、白く輝いていた。

 

「……ガ、ア……?」

 

 キマイラが、間の抜けた声を上げた。

 自分が何をされたのか、理解できていない。

 痛みすらない。あまりにも鋭利な切断は、痛覚信号が発生する暇すら与えない。

 

 一拍遅れて。

 

 ズズッ……。

 

 巨体が、斜めにズレた。

 獅子の首と、山羊の首の間から、胴体にかけて。

 赤い線が走り、そこから左右に分断された。

 

「…………」

 

 切断面は、鏡のように滑らかだった。

 細胞も、再生の中核となる魔石も、すべてが分子レベルで切断されている。「再生」という現象が入り込む隙間すら与えない、完全なる分断。

 

 ドサアアアアッ!!

 

 迷宮の主が、崩れ落ちる。

 三つの首は、二度と動くことはなかった。

 

「……はぁ、はぁ……やった、か……?」

 

 エデンは鉄パイプを取り落とした。狙いを定めるための計算で、脳が焼き切れそうだった。

 

(エライザ! 再生反応は!?)

(……否定。対象のバイタルサイン、完全消失。……全身の細胞壊死を確認。再生、不能です)

 

「……っしゃああああッ!!」

 

 勝利の咆哮を上げた、その時だった。

 

 グラリ。

 

 世界が、傾いた。

 

「……ッ、え……?」

 

 エデンは立ち尽くしていた。

 セーラからあふれ出すマナの余波をゼロ距離で受けた代償。

 「マナ盲」である彼の脳は、マナの流動という未知のデータを処理しきれず、ショートを起こしたのだ。

 

 視界がホワイトアウトする。

 平衡感覚が消失する。

 血液が逆流するような、激しい吐き気と酩酊感。

 これを魔法使い達は「マナ酔い」と呼ぶが、そんな生易しいものではない。

 魂が肉体から剥離するような、強烈な虚脱感だった。

 

「……あ、れ……? 足、が……」

「エデン? ……ちょっと、エデン!?」

 

 エデンの膝が、糸の切れた人形のように折れた。

 地面が顔に向かって迫ってくる。

 受け身を取る力すらない。

 意識が、闇へと溶けていった。

 

          ***

 

 闇の底から、意識が浮上した。

 最初に感じたのは、痛みではなかった。

 寒さでもない。

 

 温かさ、だった。

 凍りついた脳髄を、外側からゆっくりと溶かしていくような、柔らかく、陽だまりのような体温。

 そして、トクトクとリズミカルに響く、誰かの鼓動の音。

 

「……ん……」

 

 エデンは重い瞼を開けた。

 視界はまだ少し霞んでいるが、自分がどういう状態にあるのかは、すぐに理解できた。

 

 背中に感じる、柔らかな感触。

 お腹に回された、細い腕。

 どうやら自分は、座り込んだまま、背後から誰かに抱きしめられているらしい。

 まるで、壊れかけた人形を繋ぎ止めるかのように。

 

「……気がついた、エデン」

 

 耳元で、鈴を転がすような声がした。

 セーラだ。

 彼女は、エデンの体に頭を預け、背中合わせならぬ、背中抱き(バックハグ)の状態で、彼を支えていたのだ。

 

「……ああ。……悪い、気絶してたか」

「悪い、じゃないよ。……心臓が止まるかと思った」

 

 セーラの腕に、ぎゅっと力がこもる。

 エデンは動こうとしたが、指一本動かせないほどの脱力感が残っていた。

 仕方なく、そのまま彼女に体重を預ける。

 不思議と、悪くない気分だった。

 地下迷宮の冷たい空気が、二人の間の熱を際立たせている。

 

「……怖かった」

 

 不意に、セーラが呟いた。

 それは、キマイラに対するものではなかった。

 もっと古く、もっと深い傷跡からの言葉。

 

「……ずっと、嫌われていたんだ」

 

 彼女の声が、震えながら紡がれる。

 

「この『眼』のせいで。……村の人たちは私を見ると石を投げた。生まれてから何度も住む場所を変えて、しまいには、親さえも私を気味悪がって捨てた。『化け物』『魔女』『呪いの子』……それが、私の名前だった」

 

 セーラの手が彼の服を握りしめる。

 

「誰も私を見ようとしなかった。私の目を見ると、みんな逃げていった。……だから、諦めていたんだ。私は一生、暗い場所で一人ぼっちで生きて、誰にも知られずに死ぬんだって」

 

 彼女の告白は、重く、痛ましかった。

 金色の魔眼。

 見えすぎる眼は、人の醜さや嘘までも暴き、それゆえに恐れられ、疎ましがられ、いつしか世界の呪いや澱みと紐づけられ、異端の象徴として迫害されるようになったのだということは、容易に想像できた。だから彼女は、前髪で、サングラスで瞳を隠し、心を閉ざした。

 

「でも……キミは違った」

 

 セーラが、エデンの首筋に額を押し付ける。

 熱い雫が、エデンの肌を濡らした。

 

「キミは、私の眼を見て逃げなかった。……『綺麗だ』って言ってくれた。『必要だ』って言ってくれた。……あんな恐ろしい怪物の前で、『君の眼で見ろ』って……私を信じてくれた」

 

 エデンは、動かない右手を必死に動かし、胸元にあるセーラの手の上に重ねた。

 彼の手もまた、震えている。

 

「……当たり前だ」

 

 エデンは、掠れた声で言った。

 慰めの言葉なんて知らない。

 だから、彼は彼らしい「事実」を口にした。

 

「僕は、性格の悪い詐欺師だぞ? ……利用価値のあるものを捨てるわけがない」

「……ふふ、また強がりを」

「強がりじゃない。……科学的観測に基づく事実だ」

 

 エデンは、重ねた手を強く握った。

 

「君のその眼は、呪いなんかじゃない。……僕という『盲目の科学者』に、世界を見せてくれる唯一のレンズだ。高精度で、美しくて、かけがえのないセンサーだ」

「……レンズ」

「そうだ。……レンズがなければ、望遠鏡も顕微鏡も成り立たない。遠くにある美しい事象にも、小ささに隠れた不可思議な現象にも、気づけない。……僕一人じゃ、ただの暗闇だ。君がいて初めて、僕の世界には色がつくんだ。君がいて初めて、僕はこの世界が美しいと知れるんだ」

 

 セーラの喉が、小さく鳴った。

 嗚咽を堪えているのか、それとも笑っているのか。

 彼女は、エデンをさらに強く抱きしめた。

 肋骨が軋むほどに。

 二人の境界線が溶けてなくなるほどに。

 

「……エデン。……私、もう離れないよ」

 

 それは、依存とも執着とも違う、確固たる意志。

 

「キミがキミの望みをかなえるまで……私が、キミの眼になってあげる。キミが嫌がったとしても、絶対に」

「……ハハ、それは頼もしいな」

 

 エデンは苦笑し、ようやく戻ってきた感覚で、体を起こした。

 背中の温もりが離れるのが、少しだけ惜しかった。

 彼は振り返り、セーラに向き直った。

 彼女の顔は涙でぐしゃぐしゃだったが、その金色の瞳は、地下の闇を払うように輝いていた。

 

「……じゃあ、契約更新だ」

 

 エデンは、左手の拳を突き出した。

 

「報酬は、僕の命。業務内容は、僕の隣で笑いながら、このクソみたいな世界をだますこと。……どうだ、ブラックだろ?」

 

 セーラは目を丸くし、それから、花が咲くように破顔した。

 涙を指で拭い、彼女もまた、小さな拳を突き出す。

 

「……謹んで、お受けします。……私の、共犯者さん」

 

 コツン。

 

 二人の拳が、軽く触れ合った。

 言葉以上の熱が、拳を通して伝播する。

 それは、どんな魔法契約よりも拘束力の強い、二人だけの秘密の儀式。

 

 二人は見つめ合い、どちらからともなく笑い出した。

 キマイラの死臭と、薬品の匂いが充満する地下の掃き溜め。

 けれど今の二人にとっては、そこは世界のどこよりも輝かしい「始まりの場所」だった。

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