ご提示いただいた第9話につきましても、前回のルールを維持し、**「戦闘のクライマックス」「マナ酔いという代償」「ヒロイン(セーラ)との精神的な結合」**を意識して構成しました。
特に、セーラの「見えすぎる眼」による苦悩の告白と、それをエデンが「レンズ」として肯定するシーンは、感情の盛り上がりに合わせて改行のペースを変化させています。
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### 第9話:共鳴する魂と、新たな契約
世界が、血の味で満たされていた。
口の中を切ったわけではない。
呼吸をするたびに肺腑を満たす空気が、濃厚な鉄錆の臭気と、腐敗したマナの残滓、そして死の予感で濁りきっているのだ。
王立魔術学園、地下迷宮第四層『嘆きの回廊』。
有史以前の文明が遺したとされるその空間は、いまや一つの巨大な胃袋と化していた。
「――右、四十五度! 伏せて!」
少女の悲鳴にも似た指示が、轟音の隙間を縫って鼓膜を劈(つんざ)く。
思考する時間など、コンマ一秒も残されていない。
剣崎エデンは反射的に、泥にまみれた身体を右斜め前方へと投げ出した。
地面を転がる。擦りむいた皮膚が悲鳴を上げるが、そんな痛みは脳内麻薬の洪水にかき消される。
ゴオォォォォォッ!!
直後、彼が瞬き一つする前まで存在していた空間を、暴虐の嵐が通り過ぎた。
キマイラの尾だ。
大蛇の形状をしたその尾は、単なる肉体の一部ではない。高密度のマナを纏った、生きた攻城兵器である。
風圧だけで、エデンの白衣の裾がカミソリで切られたように裂ける。
強固な古代の石畳が、まるで濡れた粘土のように無造作に抉られ、礫(つぶて)となって四方八方へ弾け飛ぶ。
「ぐっ……! いちいち動きが派手すぎんだよ、このデカブツがッ!」
エデンは粉塵に塗れながらも体勢を立て直し、手に持った唯一の武器――赤錆の浮いた鉄パイプを構えた。
長さは一メートル弱。かつてこの迷宮を掘り進めた鉱夫が遺した、ただの廃材。
現代兵器も、化学薬品も、すべて尽き果てた。
硝酸アンモニウムによる吸熱凍結も、テルミット反応による超高温溶解も、この理不尽な怪物の「再生能力」の前では児戯に等しかった。
今の彼に残されたのは、この頼りない鉄屑と、背後で震える少女の「眼」だけ。
「グルルゥゥゥ……ッ」
迷宮の主、キマイラ・ロードが喉を鳴らす。
その三つの首――獅子、山羊、竜――が、それぞれ異なる殺意を宿してエデンを見下ろしていた。
圧倒的な質量差。
生物としての格の違い。
だが、エデンは引かなかった。引けるはずがなかった。
『エライザ! 敵の運動エネルギー予測! 次の攻撃パターンは!?』
(――回答。筋肉の収縮率、マナの流動パターンより、獅子頭部による噛みつき、および山羊頭部による角の突き上げの複合攻撃(コンビネーション)と予測。……回避成功率、0.8%)
0.8%。
絶望的な数字だ。だが、ゼロではない。
エデンは口元を歪め、ニヤリと笑った。それは虚勢であり、同時に科学者としての意地だった。
「……統計学上、その1%未満の『外れ値』こそが、定説を覆すんだよ!」
「エデン! 喉元! 再生が追いついてない! マナ密度、一時的に低下中!」
セーラの声が、再び響く。
彼女の金色の魔眼には、世界のマナ全てが「情報」として映っている。
怪物の体内を循環するマナの流れは次の動きの予測を与え、それらが一体となり極彩色のサーモグラフィのように視覚化されているのだ。
エデンという「盲目の射手」にとって、彼女は唯一無二の「照準器」だった。
「了解……! そこかよッ!!」
エデンは地面を蹴った。
恐怖で足が竦みそうになるのを、獣のような咆哮で無理やりねじ伏せる。
キマイラが次のブレスを吐こうと、獅子の口を大きく開け、肺に空気を吸い込んだその瞬間。
筋肉が弛緩し、防御が最も薄くなる、その刹那。
エデンは、鉄パイプを槍のように構え、突進した。
狙うは、セーラが示した一点。
マナの防壁が薄れている、喉の奥の柔らかい粘膜。
「貫けぇぇぇぇッ!!」
ドスッ!!
鈍く、湿った感触が手に伝わる。
鉄パイプの先端が、キマイラの喉を深々と貫いた。
錆びた鉄が肉を裂き、気管を塞ぐ。
「ギャアアアアアアアアッ!?」
悲鳴。
ブレスの火種が体内で暴発し、黒煙が口から漏れる。
キマイラが苦痛にのたうち回る。巨体が暴れ、壁に激突し、迷宮全体が地震のように揺れる。
チャンスだ。
ここで畳みかけるしかない。
相手が混乱している今こそ、決定的なダメージを与える好機。
「目は口ほどに物を言うんだろ!? なら黙ってろ!!」
エデンは怯むことなく、暴れるキマイラの体に飛び乗った。
剛毛を掴み、振り落とされそうになるのを必死で耐えながら、怪物の頭部へとよじ登る。
目指すは、脳幹に最も近い中枢神経。
山羊の首の、あの不気味な横長の瞳。
「マナ盲を……舐めるなぁぁぁッ!!」
エデンの全体重と、落下エネルギーを乗せた渾身の一撃。
鉄パイプの鋭利な断面が、山羊の眼球に突き刺さる。
グシャリ。
生々しい破壊音。
水晶体が破裂し、硝子体液が飛び散り、エデンの白衣を汚す。
手応えはあった。
眼窩の奥、脳に近い部分まで鉄屑を押し込んだ。
「はぁ、はぁ、……どうだ……ッ!?」
エデンはキマイラの顔面から飛び退き、着地した。
肩で息をしながら、怪物を見上げる。
動かない。
三つの首がだらりと垂れ下がり、痙攣している。
勝ったか?
勝ったはずだ。 いかなる生物であれ、脳を破壊されれば機能停止する。それは生命の摂理だ。
――しかし、世界は、エデンの常識を嘲笑う。
ジュルリ、ジュルリ。
そんな、背筋が凍るような湿った音がした。
静寂を破ったのは、再生の賛歌ではなく、捕食の咀嚼音だった。
キマイラの潰れた眼球から、赤黒い触手のような肉芽が、ウジ虫のように溢れ出したのだ。
それらは、突き刺さったままの鉄パイプに絡みつき、飲み込み、そして――
バキィッ!! グシャアッ!!
硬質の鉄パイプを、まるでクラッカーのように噛み砕いた。
鉄分すらも栄養素として取り込み、自らの肉体の一部として再構築していく。
傷口が塞がるどころか、そこから新たな「骨の装甲」が生え始め、より禍々しい形状へと進化を遂げていく。
「……あ?」
エデンの手には、へし折られたパイプの持ち手だけが残されていた。
震える指先。
再生ではない。
これは「進化」だ。
この怪物は、受けたダメージすらもマナとして学習し、物理的な攻撃に対する耐性を獲得している。
物理法則が通じない。
質量保存の法則も、エネルギー保存の法則も、この圧倒的な理不尽の前では紙切れ同然だった。
「グルルゥゥゥ……」
キマイラが、ゆっくりと首を持ち上げる。
再生した山羊の目は、以前よりも赤く、憎悪に満ちて輝いていた。
その視線が、エデンを射抜く。
嘲笑。
明確な侮蔑。
「……逃げるぞ、セーラッ!」
「ッ……ええ!」
エデンは凍りつく思考を無理やり動かし、セーラの手を引いて、近くの岩陰の亀裂へと滑り込んだ。
直後、キマイラの鉤爪が、彼らのいた場所を粉砕する。
ドガアアアアンッ!! 岩盤が砕け、破片が降り注ぐ。
迷宮の闇が、二人を飲み込んだ。
岩陰の狭い空間。
そこは、埃とカビの臭い、そして自分たちの発する冷や汗の臭いが充満する、暗い閉鎖空間だった。
外からは、ドシン、ドシンと、死刑執行人の足音が近づいてくる。
岩が削られる音。
キマイラの荒い鼻息。
それらが、エデンの精神をやすりのように削っていく。
「……はぁ、はぁ……くそ……」
エデンは冷たい岩壁に背を預け、ズルズルと座り込んだ。
手には、無惨に折れた鉄パイプの残骸と、空になった薬品瓶が握りしめられている。
硝酸アンモニウム、酸化剤、テルミット、マグネシウムリボン、濃硫酸。
日本から持ち込んだ知識と、この世界でかき集めた素材で作った、エデンの「全財産」。
それら全てを使い果たした。
万策尽きた。
脳内シミュレーターが、真っ黒な壁にぶつかって停止している。
何度計算しても、弾き出される生存確率は「0.00%」。
「……結局、僕は……ハッタリだけの詐欺師かよ」
乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。
王都に来てから、ずっとそうだった。
白衣を着て、難解な科学用語を並べて、煙に巻いて。
「天才魔導物理学者」? 「株式会社エデン・ワークスCEO」?
笑わせる。
ただの理科オタクじゃないか。
マナ一つ練れない、魔法一つ使えない、この世界で最も無力な「空っぽ」の人間。
それが、剣崎エデンの正体だ。
(もし、ここにいるのが『勇者』だったら)
ふと、そんな思考が過る。
きっと、聖剣の一振りで、あるいは規格外の魔法で、あの怪物なんて一撃で消し炭にしているだろう。
汗一つかかず、セーラを助け出し、爽やかに笑うのだろう。
けれど、ここにいるのはエデンだ。
泥水をすすり、嘘で塗り固めた、持たざる者。
「……エデン」
隣で、衣擦れの音がした。
エデンは、虚ろな目で隣を見た。
セーラだ。
彼女は、膝を抱えてうずくまっていた体を起こし、じっとこちらを見ていた。
ボロボロの制服。
煤で汚れた頬。
だが、そのサングラスの奥にある瞳だけは、暗闇の中で光を失っていなかった。
「……すまない、セーラ」
エデンの目から、悔し涙が滲んだ。
それは、彼がこの世界に来て初めて見せる、本当の弱さだった。
プライドも、虚勢も、すべて剥がれ落ちた、裸の感情。
「僕にマナがあれば……。みんなみたいに、魔法が使えれば……君を助けられるのに」
もし自分に魔法の才能があれば、炎で焼き払えた。風で切り裂けた。
けれど、自分には何もない。
ただの無力な人間が、身の程知らずにも「君を守る」なんて約束をしてしまった。
その結果が、これだ。
彼女を道連れに、暗い地下で死ぬ。
ドォォン!!
近くの岩が砕かれる音がした。
振動が背中に伝わる。
死の足音が、もう目の前まで来ている。
「……違う」
隣で、空気を裂くような震える声がした。
エデンの袖を掴んでいたセーラの指先が、布を突き破らんばかりに強く食い込む。
「謝るのは……私の方だよ」
「え……?」
エデンが顔を上げると、セーラはサングラスをかなぐり捨てていた。
露わになったその素顔。
世界中から忌み嫌われた金色の魔眼から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、煤けた頬を濡らしていた。
彼女は、自身の胸元を――心臓のある場所を、引きちぎるように強く押さえつける。
「私には、あるの。……マナが。この体の中に、使いきれないほど溢れかえってる」
「……は?」
エデンは耳を疑った。マナがある? この華奢な少女の中に?
マナ欠乏で苦しむ自分とは真逆の言葉。だが、彼女の悲痛な表情は嘘を吐いていない。
「なのに、私……何もできない。こんなに持っているのに、それを外に出すことも、魔法として使うこともできない……! ただ持っているだけで、エデンを守れない……!」
セーラは嗚咽した。喉の奥から絞り出される、魂の叫び。
彼女にとっての絶望は、「持たざること」ではなかった。
強大な力(ちから)を持ちながら、それを出力する術を持たず、大切な人が死に行くのをただ見ていることしかできない、自分自身の欠陥への絶望だ。
「私こそ、役立たずの『空っぽ』なんだよ……!」
セーラが膝から崩れ落ちそうになる。
エデンは咄嗟に、その小さな体を抱き止めた。
「……ッ、離して! 私なんか……」
「暴れるな、馬鹿!」
エデンは叫び、セーラの体を力づくで自身の胸に押し付けた。
泥と冷や汗にまみれた互いの体温が、痛いほどに伝わる。
腕の中で、セーラが小刻みに震えている。それは恐怖からだけではない。体内で暴走しそうになるマナの奔流に、彼女自身の肉体が悲鳴を上げているのだ。
「……どういうことだ。説明しろ、セーラ。君にはマナが見えているんだろう? どうして使えない?」
エデンの心音を聞きながら、セーラは掠れた声で答えた。
「……見えすぎるからだよ」
「見えすぎる?」
「魔法は『イメージ』でしょ? ……でも、私の眼には全部が見えちゃうの」
彼女の顔が、エデンの胸に押し付けられる。世界を見たくないというかのように。
「……全部、マナにしか見えないの。大気を満たす粒子の輝き、物質を繋ぎ止めている力の結び目……世界中のすべてが、光り輝くマナの奔流として、膨大な情報になって頭に入ってくる。だから……『炎』って念じても、私の頭の中では『熱を生み出すための、何億ものマナの衝突』として分解されちゃうの。……あまりに鮮明すぎて、曖昧なイメージが維持できなくて、マナが霧散しちゃうんだよ……!」
高解像度すぎる視界。
この世界の魔法は、個人の想像力という「曖昧な枠組み」に依存している。「なんとなく」の想像で世界を騙す技術だ。
だが、セーラにとって世界はあまりにも「具体的」すぎた。嘘やごまかしの効かない彼女の真実の眼は、魔法という「ご都合主義」を許容できなかったのだ。
「だから、私の中のマナは……ずっと行き場を失って、体の中で腐っていた。……誰の役にも立てずに」
エデンは、腕の中の少女をさらに強く抱きしめた。
熱い。彼女の体は、行き場のないエネルギーで、火傷しそうなほど熱くなっている。
もしこのまま暴走すれば、彼女は自壊するだろう。
だが。
その「熱」を感じた瞬間。
エデンの脳内で、錆びついていた歯車が、カチリと音を立てて噛み合った。
電撃が走ったような衝撃。
(曖昧なイメージが維持できない……? 具体的すぎて分解される……?)
それは欠陥じゃない。
むしろ、エデンが求めていた「最強の条件」だ。
「……顔を上げろ、セーラ」
「……いや。見ないで……」
「いいから見ろ!」
エデンはセーラの頬を両手で挟み、無理やり顔を上げさせた。
至近距離。
涙に濡れた金色の瞳が、エデンの焦茶色の瞳と交差する。
互いの呼吸がかかる距離で、エデンは彼女の奥底を見据えた。
「過剰な解像度。……そうか、君に必要なのは『曖昧なイメージ』じゃない」
エデンは、片手で足元に転がっていた折れた鉄パイプを拾い上げ、セーラの手を導いて握らせた。
そしてその上から、自分の手を強く重ねる。
指と指を絡ませるように、強く、絶対に離さないように。
「君に必要なのは……『揺るぎない事実』だ」
「……え?」
「僕の頭の中にある『物理法則』は、イメージなんかじゃない。宇宙のどこに行っても変わらない、絶対的なルールだ。……曖昧さなんて、1ミリもない」
エデンは、額をセーラの額にコツンと当てた。
視線を逸らさせない。彼女の視界を、エデンだけで埋め尽くす。
「聴け、セーラ。これは賭けだ。……いや、心中だ」
エデンの低い声が、セーラの鼓膜を震わせる。
「僕が『理論(レシピ)』を読み上げる。君はその眼で世界を見ながら、僕の言葉通りにマナを流し込め。……解像度を下げる必要はない。君が見ている高精細な世界に、僕の物理という枠組みを叩き込むんだ」
「でも……もし失敗したら……」
「失敗したら、君のマナが暴走して、僕らは肉片も残さず消し飛ぶ」
セーラが息を呑む。
エデンは逃げずに、残酷な真実を告げた。
「逆に、僕の計算が間違っていても、僕らはマナの逆流で廃人になるだろう。……僕のミスで君も死ぬし、君のミスで僕も死ぬ」
それは、命の境界線を溶かし合う行為。
互いの心臓を素手で握り合うような、極限の信頼。
「……それでも、やるか?」
エデンは問うた。
セーラは、目の前の男を見た。
震えている。彼だって怖いのだ。汗が流れている。
けれど、その瞳は真っ直ぐに自分を見ていた。
「見えすぎる眼」を持つ自分から、目を背けずに。
「使いこなせない力」ごと、抱きしめてくれている。
(……ああ)
セーラの胸の奥で、燻っていた熱が、形を変えていく。
それは、腐敗したエネルギーではなく、燃え上がるような愛おしさと覚悟へ。
「……やる」
セーラは、エデンの手に重ねた自分の手に、力を込めた。
額を押し付け返し、エデンの匂いを深く吸い込む。
「私の命、全部エデンにあげる。……暴走したら、一緒に死んで」
「……ハハ、重いな。だが……悪くない」
エデンはニヤリと笑った。
それは、世界への反逆を企てる共犯者の笑み。
「僕が『銃』になる。……君は『弾丸』になれ」
二人の体温が、鉄パイプを通して一つになる。
もはや、どちらがエデンで、どちらがセーラかわからないほどに、意識が溶け合っていく。
「信じる。……エデンの『物理(うそ)』を、私にちょうだい!」
セーラの金色の瞳が、かつてない輝きを放った。
エデンは叫んだ。
「上等だ。……さあ、反撃開始だ!」
***
エデンは岩陰から飛び出した。
迷いはない。
まるで、勝利が約束された舞台へと上がる役者のように、背中にセーラを背負って。
「グルァッ!?」
キマイラが反応する。
獲物が出てきた。愚かな人間たちが、自ら死に場所を選んで出てきた。
獅子の口が開き、灼熱のブレスを吐こうとする。喉の奥で、マナが収束し、紅蓮の輝きを放つ。
だが、遅い。
「セーラ、リンク開始! 対象、足元の液体マナの集合体だ! 全マナを『水』の制御へ回せ!」
エデンの叫びと共に、背中のセーラがギュッと腕に力を込める。
彼女のサングラスのない金色の瞳が、世界を見据える。
彼女の視界に、物理的な「水たまり」は存在しない。
あるのは、地面に滞留する、冷たく静謐な『青いマナの塊』だけ。
「イメージしろ! 柔らかい液体じゃない! それは鋼鉄よりも硬く、音よりも速い、流れる刃だ!」
エデンはセーラと共に握る鉄パイプを、指揮棒のように振るう。
それに応えるように、セーラが認識した『青いマナ』が逆巻き、空中に舞い上がった。
「圧力、300メガパスカルへ加圧! ベルヌーイの定理を適用、断面積を極小へ絞れ!」
エデンの口から飛び出す、聞き慣れない数値と単語。
だが、セーラにはわかった。
背中合わせの体温を通して、エデンの脳内にある「設計図」が流れ込んでくる。
それは、彼女が見ている混沌とした光の世界に、青白く輝く「グリッド線」が現れる。
マナが霧散しようとするのを、エデンの理屈が「枠」となって押し留める。
膨大なエネルギーが、針の穴を通すような一点に凝縮されていく。
(……見える。エデンの言う『必然』の形が!)
迷いはない。その設計図の通りに、ありったけのマナを叩き込むだけ。
失敗すれば、圧力に耐えきれずに二人は消し飛ぶ。
だが、失敗なんて、絶対にしない。
「いけぇぇぇぇっ! セーラァッ!!」
ドォッ!!
セーラの全身から、黄金のマナが噴き出した。
それは魔法陣も詠唱も介さない、純粋で暴力的なエネルギーの注入。
「穿てッ!! 『超高圧水流切断(アクア・ジェット・カッター)』ッ!!」
エデンが狙いを定め、セーラが引き金を引いた。
ズドオオオオオオオオオンッ!!
大気を切り裂く音速の衝撃波が、狭い地下空間を揺るがした。
二人の目の前から放たれたのは、優雅な水魔法ではない。
マッハ3まで加速され、極細の針のようになった「水」だ。
エデンの物理理論による完璧な制御と、セーラの規格外のマナ量が可能にした、最強の物理切断兵器。
それは、空間ごと切り裂くように、一直線に伸びた。
キマイラが吐き出そうとした炎を左右に切り裂き、鋼鉄の装甲を紙のように貫通し、筋肉を易々と分断し、骨を真っ二つにし、背後の岩盤すらも両断する。
ヒュンッ。
一瞬の静寂。
音が置き去りにされた世界で、水の刃が通り過ぎた軌跡だけが、白く輝いていた。
「……ガ、ア……?」
キマイラが、間の抜けた声を上げた。
自分が何をされたのか、理解できていない。
痛みすらない。あまりにも鋭利な切断は、痛覚信号が発生する暇すら与えない。
一拍遅れて。
ズズッ……。
巨体が、斜めにズレた。
獅子の首と、山羊の首の間から、胴体にかけて。
赤い線が走り、そこから左右に分断された。
「…………」
切断面は、鏡のように滑らかだった。
細胞も、再生の中核となる魔石も、すべてが分子レベルで切断されている。「再生」という現象が入り込む隙間すら与えない、完全なる分断。
ドサアアアアッ!!
迷宮の主が、崩れ落ちる。
三つの首は、二度と動くことはなかった。
「……はぁ、はぁ……やった、か……?」
エデンは鉄パイプを取り落とした。狙いを定めるための計算で、脳が焼き切れそうだった。
(エライザ! 再生反応は!?)
(……否定。対象のバイタルサイン、完全消失。……全身の細胞壊死を確認。再生、不能です)
「……っしゃああああッ!!」
勝利の咆哮を上げた、その時だった。
グラリ。
世界が、傾いた。
「……ッ、え……?」
エデンは立ち尽くしていた。
セーラからあふれ出すマナの余波をゼロ距離で受けた代償。
「マナ盲」である彼の脳は、マナの流動という未知のデータを処理しきれず、ショートを起こしたのだ。
視界がホワイトアウトする。
平衡感覚が消失する。
血液が逆流するような、激しい吐き気と酩酊感。
これを魔法使い達は「マナ酔い」と呼ぶが、そんな生易しいものではない。
魂が肉体から剥離するような、強烈な虚脱感だった。
「……あ、れ……? 足、が……」
「エデン? ……ちょっと、エデン!?」
エデンの膝が、糸の切れた人形のように折れた。
地面が顔に向かって迫ってくる。
受け身を取る力すらない。
意識が、闇へと溶けていった。
***
闇の底から、意識が浮上した。
最初に感じたのは、痛みではなかった。
寒さでもない。
温かさ、だった。
凍りついた脳髄を、外側からゆっくりと溶かしていくような、柔らかく、陽だまりのような体温。
そして、トクトクとリズミカルに響く、誰かの鼓動の音。
「……ん……」
エデンは重い瞼を開けた。
視界はまだ少し霞んでいるが、自分がどういう状態にあるのかは、すぐに理解できた。
背中に感じる、柔らかな感触。
お腹に回された、細い腕。
どうやら自分は、座り込んだまま、背後から誰かに抱きしめられているらしい。
まるで、壊れかけた人形を繋ぎ止めるかのように。
「……気がついた、エデン」
耳元で、鈴を転がすような声がした。
セーラだ。
彼女は、エデンの体に頭を預け、背中合わせならぬ、背中抱き(バックハグ)の状態で、彼を支えていたのだ。
「……ああ。……悪い、気絶してたか」
「悪い、じゃないよ。……心臓が止まるかと思った」
セーラの腕に、ぎゅっと力がこもる。
エデンは動こうとしたが、指一本動かせないほどの脱力感が残っていた。
仕方なく、そのまま彼女に体重を預ける。
不思議と、悪くない気分だった。
地下迷宮の冷たい空気が、二人の間の熱を際立たせている。
「……怖かった」
不意に、セーラが呟いた。
それは、キマイラに対するものではなかった。
もっと古く、もっと深い傷跡からの言葉。
「……ずっと、嫌われていたんだ」
彼女の声が、震えながら紡がれる。
「この『眼』のせいで。……村の人たちは私を見ると石を投げた。生まれてから何度も住む場所を変えて、しまいには、親さえも私を気味悪がって捨てた。『化け物』『魔女』『呪いの子』……それが、私の名前だった」
セーラの手が彼の服を握りしめる。
「誰も私を見ようとしなかった。私の目を見ると、みんな逃げていった。……だから、諦めていたんだ。私は一生、暗い場所で一人ぼっちで生きて、誰にも知られずに死ぬんだって」
彼女の告白は、重く、痛ましかった。
金色の魔眼。
見えすぎる眼は、人の醜さや嘘までも暴き、それゆえに恐れられ、疎ましがられ、いつしか世界の呪いや澱みと紐づけられ、異端の象徴として迫害されるようになったのだということは、容易に想像できた。だから彼女は、前髪で、サングラスで瞳を隠し、心を閉ざした。
「でも……キミは違った」
セーラが、エデンの首筋に額を押し付ける。
熱い雫が、エデンの肌を濡らした。
「キミは、私の眼を見て逃げなかった。……『綺麗だ』って言ってくれた。『必要だ』って言ってくれた。……あんな恐ろしい怪物の前で、『君の眼で見ろ』って……私を信じてくれた」
エデンは、動かない右手を必死に動かし、胸元にあるセーラの手の上に重ねた。
彼の手もまた、震えている。
「……当たり前だ」
エデンは、掠れた声で言った。
慰めの言葉なんて知らない。
だから、彼は彼らしい「事実」を口にした。
「僕は、性格の悪い詐欺師だぞ? ……利用価値のあるものを捨てるわけがない」
「……ふふ、また強がりを」
「強がりじゃない。……科学的観測に基づく事実だ」
エデンは、重ねた手を強く握った。
「君のその眼は、呪いなんかじゃない。……僕という『盲目の科学者』に、世界を見せてくれる唯一のレンズだ。高精度で、美しくて、かけがえのないセンサーだ」
「……レンズ」
「そうだ。……レンズがなければ、望遠鏡も顕微鏡も成り立たない。遠くにある美しい事象にも、小ささに隠れた不可思議な現象にも、気づけない。……僕一人じゃ、ただの暗闇だ。君がいて初めて、僕の世界には色がつくんだ。君がいて初めて、僕はこの世界が美しいと知れるんだ」
セーラの喉が、小さく鳴った。
嗚咽を堪えているのか、それとも笑っているのか。
彼女は、エデンをさらに強く抱きしめた。
肋骨が軋むほどに。
二人の境界線が溶けてなくなるほどに。
「……エデン。……私、もう離れないよ」
それは、依存とも執着とも違う、確固たる意志。
「キミがキミの望みをかなえるまで……私が、キミの眼になってあげる。キミが嫌がったとしても、絶対に」
「……ハハ、それは頼もしいな」
エデンは苦笑し、ようやく戻ってきた感覚で、体を起こした。
背中の温もりが離れるのが、少しだけ惜しかった。
彼は振り返り、セーラに向き直った。
彼女の顔は涙でぐしゃぐしゃだったが、その金色の瞳は、地下の闇を払うように輝いていた。
「……じゃあ、契約更新だ」
エデンは、左手の拳を突き出した。
「報酬は、僕の命。業務内容は、僕の隣で笑いながら、このクソみたいな世界をだますこと。……どうだ、ブラックだろ?」
セーラは目を丸くし、それから、花が咲くように破顔した。
涙を指で拭い、彼女もまた、小さな拳を突き出す。
「……謹んで、お受けします。……私の、共犯者さん」
コツン。
二人の拳が、軽く触れ合った。
言葉以上の熱が、拳を通して伝播する。
それは、どんな魔法契約よりも拘束力の強い、二人だけの秘密の儀式。
二人は見つめ合い、どちらからともなく笑い出した。
キマイラの死臭と、薬品の匂いが充満する地下の掃き溜め。
けれど今の二人にとっては、そこは世界のどこよりも輝かしい「始まりの場所」だった。