透明な箱の中で、蟻は今日も静かに土を掘る。
だが彼らは知らない。外には巨大な存在がいて、興味本位の視線だけが降り注いでいることを。
観察とは優しさではない。ただ、力ある者が弱きものを覗き込む行為にすぎない。
アクアとルビーが高校生になったその日、家を出る直前まで笑っていたアイが――倒れた。
「夜はお祝いしようね。楽しみにしててね」
そう言って手を振るアイは、まるでいつも通りで、幸せそうで。
だからこそ、ミヤコがリビングで飾り付けをしていて気づいた瞬間、現実だったとは思えなかった。
最初は“座ったまま寝落ちしただけ”に見えた。
苺プロのマネージャーとして、アイが仕事も子育ても全力で頑張っていることを知りすぎるほど知っているミヤコは、
「それだけ疲れてるんだよね」と自分に言い聞かせそうになった。
けれど――違和感が消えない。
アイが、子どもたちの晴れの日に、準備の途中で眠ってしまう?
そんなこと、これまで一度もなかった。
「……アイ?」
肩を優しく揺らす。しかし、返事はない。
胸の奥で、氷のような不安が膨らんだ。
ミヤコはすぐにかかりつけの病院へ連絡し、アイはそのまま入院となった。
医師は「強い疲労による意識低下。経過観察が必要」と言ったが、どこか歯切れが悪かった。
夜。
アイの病室には、静かな機械音だけが響いていた。
ベッドの横には不安げなルビーが寄り添い、泣き出しそうな目でアイを見つめている。
ミヤコもその肩を抱き寄せ、震える声で「すぐ起きるよ。ちょっと疲れちゃっただけ」と繰り返していた。
アクアだけが、じっとアイを見つめていた。
表情はいつも通り落ち着いているようで、しかしその瞳の奥は深い迷いに揺れている。
彼は静かに、自分のスタンドを展開する。
前世の母親――空条家で起きたあの惨劇。
スタンドが暴走し、母を傷つけ、昏睡させたあの記憶が脳裏をよぎる。
同じことがアイに起こっていないか。
そして、誰かが彼らの幸せに爪を伸ばしているのではないか。
アクアはアイの身体を覆う“何か”を探す。
数秒後、彼は小さく息を呑んだ。
(……スタンドではない。だが、これは外からの干渉だ。自然ではない)
何かが、アイに触れている。
優しく眠らせるようでいて、深く沈めていくような気配。
その瞬間――病室の外から、かすかな猫の鳴き声が聞こえた。
まるでアクアを呼ぶような、低く、長い声。
アクアは眉をひそめる。
(あの“キジ白”……あれはただの猫じゃない)
ルビーが不安げに袖をつかむ。
「お兄ちゃん……ママ、大丈夫だよね?」
アクアはその手にそっと触れ、短く、しかし確かに言った。
「大丈夫だ。任せておけ。――必ず助ける」
ミヤコに向き直り、深く頭を下げる。
「ミヤコさん、アイとルビーをお願いします。少し調べたいことがある」
ミヤコは何も聞かなかった。
ただ、真剣なアクアの目を見て小さく頷いた。
アクアは病室を出る。
廊下の奥からまた、猫の鳴き声がした。
日常を守るために。
家族の笑顔を取り戻すために。
誰が相手でも、どんな“異常”であっても――アクアは向かう。
アイが、眠ったまま静かに息をしている病室を背にして。
彼の足取りは、迷いもためらいもなく、ただまっすぐだった。