チャイム前の教室は、いつもより少し騒がしかった。
ルビーは友達の女の子たちとおしゃべりしている。
「ねえねえ、昨日のテレビ見た?」
「B小町出てたよね!」
「見た見た!」
「アイ、かわいすぎ!」
ルビーは、えっへんと胸を張る。
「でしょー?」
「歌もダンスも最高だよね」
「ルビーちゃんってさ、事務所おなじでしょ?」
「じゃあB小町の人たち、見たことある?」
一瞬だけ、ルビーは言葉に詰まる。
それから、にこっと笑った。
「うん」
「えー! 近くで!?」
「どうだった!? アイってどんな人!?」
「……テレビと同じ」
「キラキラしてて、すごい人だよ」
それ以上は言わない。
“知ってる”と“近い”の間で、ちゃんと線を引く。
「いいなあ……」
「じゃあさ、アイってやさしい?」
「うん。すっごく優しい!」
「ルビーちゃん、ほんと好きだよね」
「ファンなの?」
ルビーは、笑顔で答えた。
「うん! 大好き!」
しばらくB小町の話で盛り上がったあと、
別の子が声をひそめる。
「そういえばさ……」
「なに?」
「鈴木さんちのジョン、怖くない?」
その名前が出た瞬間、
何人かが一斉にうなずく。
「わかる!」
「通るとき、絶対吠える」
「大きいし、こわいよね」
ルビーは首をかしげた。
「……そう?」
「え?」
「怖くないの?」
「うん」
「わたしには吠えないよ」
「えええ!?」
「ほんと!?」
「おすわりって言うと、ちゃんとするし」
「信じられない……」
「見たい!」
「放課後、見に行こうよ!」
「いいよ!」
ルビーは元気よく答えた。
⸻
「ねえねえ、ほんとに行くの?」
「ジョンのとこ? こわいって!」
「だいじょうぶだって」
ルビーは先頭を歩きながら、振り返って笑った。
「ちゃんと紹介すれば、吠えないから」
「ええ……ほんとに……?」
角を曲がると、鈴木さんの家。
柵の向こうで、ドーベルマンのジョンが歩いている。
通りがかった大人に向かって、低く唸る。
「ほら、やっぱり……」
友達が一歩下がった、そのとき。
「ジョン」
ルビーが呼んだ。
ジョンはぴたりと動きを止め、
ゆっくりこちらを向く。
「……あ」
さっきまでの威嚇が、消えていた。
「おすわり」
すとん。
大きな体が素直に座る。
「え!?」
「ほんとだ……!」
「いい子でしょ」
ルビーは得意そうに胸を張る。
「ジョン、この子たちね」
「わたしの友達」
ルビーが一人ずつ指さす。
「ミカちゃんとユイちゃん」
ジョンは一人ずつを見て、
ふん、と鼻を鳴らしたあと、視線をさげる。
吠えない。
「……吠えない」
「すご……」
「前は怖かったのに……」
「ちゃんと分かってるんだよ」
ルビーはそう言って、ジョンの頭を撫でた。
ジョンは抵抗せず、
むしろ少し誇らしげだ。
――そのとき。
「ルビー」
少し離れたところから、声。
「あ」
アクアが通りかかった。
ランドセルを背負い、
いつも通りの無表情。
ジョンはアクアに気づいた瞬間、
すっと姿勢を低くし、伏せる。
完全な服従のポーズ。
「……!」
友達が息を呑む。
「え、いまの見た?」
「急に……」
「やっぱり……」
ひそひそ声。
「アクアくんが原因じゃない?」
「絶対そうでしょ……」
「だって、あのジョンが……」
アクアは首をかしげた。
「……どうした?」
「ジョンが、すごいおとなしくなった」
「前からだろ」
「え?」
「ルビーの前では、ずっとこうだ」
ルビーも頷く。
「うん」
二人とも、本気で不思議そうだった。
「じゃ、帰るぞ」
「はーい」
ルビーは友達に手を振る。
「またね!」
「……またね!」
二人が並んで歩き出すと、
ジョンはその背中をじっと見送っていた。
⸻
二人の後ろ姿が角を曲がって消える。
「……仲いいよね」
「兄妹で一緒にお仕事してるんだもんね」
「いいなあ……」
「あんなお兄ちゃん欲しい」
「アクアくん、なんか大人っぽいよね」
「彼女とかいるのかな?」
「小学生で!?」
「でもいそうじゃない?」
笑い声が弾む。
ジョンはその横で、
何事もなかったかのように、静かに座っていた。
それが“当たり前”だと、
彼はもう学習しているのだから。
⸻
「はい、それでは――」
ルビーが、なぜかリビングの中央に立った。
両手を腰に当て、やけに胸を張っている。
「第一回・バレンタイン対策会議をはじめます」
「……は?」
ソファに座っていたアクアは、コーヒーを口に運びかけた手を止めた。
(また始まったな)
内心でため息をつく。
「この時期になるとですね、テレビ、雑誌、学校――」
「見ない日はありません、バレンタインという名のビッグウェーブ!」
「……うちは関係ねぇだろ」
「甘い!」
ルビーは指を突きつける。
「うちも! この波に! 乗ります!」
「乗らねぇよ」
「教室、もうデスゲームみたいな空気なんだから!」
「なってねーよ」
「お兄ちゃん、気づいてないだけ」
「みんな静かに、でも確実に、駒を進めてるの」
「なにをだ」
「男子は意味もなく机の中やロッカーを整理し始める!」
「意味なくないだろ」
「意味ないじゃん」
「ひでぇ」
ルビーは咳払いをひとつ。
「一方その頃、女子はどう動くか」
「……嫌な予感しかしねぇ」
「いわく――」
「“兵とは詭道なり”」
「ライバルを油断させ、平穏を装い、
最適なタイミングで一気に畳みかける」
「誰だよ、言い出したやつ」
「だからね、お兄ちゃん」
「もう戦場は動いてるの」
「平和に生きてぇ……」
「そこで!」
ルビーはパン、と手を叩く。
「わたしは独自に調査しました」
「お兄ちゃんに対するクラスのみんなのイメージ」
「……余計なことしやがって」
「今さら文句を言っても、後の祭りです」
「開き直りやがった……」
アクアは本気で頭をかかえた。
「では、発表します!」
ルビーは一度咳払いをし、口でドラムロールを始める。
「ドゥルルルルルル……」
「やめろ」
「第四位!」
「ジャン!」
「顔が怖い」
「おい」
アクアが即座に突っ込もうとすると、ルビーが手のひらを突き出した。
「まだ!」
「でもね?」
「……」
「たまに笑う顔がかっこいい」
「最初からそれだけ言え」
「続いて第三位!」
「ドゥルルルル……ジャン!」
「身体が大きくて頼りになる」
「……それは、まあ」
「重いもの持ってくれそう、だって」
「……そうか」
少しだけ納得する。
「第二位!」
「ドゥルルルル……」
(なんか、仗助思い出すな)
「ジャン!」
「無口だけど優しい」
「……」
「困ってたとき、さりげなく助けてくれた、だって」
アクアは何も言わなかったが、これは完全に褒め言葉だと理解した。
(まあ……悪くはねぇ)
「そして……」
ルビーのドラムロールが、やたら長くなる。
「ドゥルルルルルルルルルル……」
「……焦らすな」
アクアは無意識に唾を飲んだ。
「第一位!」
「ジャン!」
「ランドセルが似合わない」
「…………」
「どこかコスプレ感がある、だって」
アクアの中で、何かが静かに砕けた。
(自分でも思ってたが……)
(だからって……)
無言で固まる兄を見て、ルビーは追撃を入れる。
「ちなみにね」
「あのランドセル、ママが選んだやつだから」
「……」
「小学生のあいだは、ちゃんと背負ってもらいます」
「異論は?」
「……」
「認めません!」
ルビーは満足そうにうなずいた。
会議は終わった。
結論は何も出ていない。
ただ一人――
アクアだけが、静かにダメージを受けていた。
「……やれやれだぜ」
その呟きに、ルビーはにやりと笑った。
「大丈夫」
「世の中にはギャップ萌えがあるから」
「慰めになってねぇ」