虐殺姫は可愛くありたい 作:クロプトケープ
トーナメントは、正直に言って散々だった。
前半こそ、順調だった。
剣の冴えも、槍の運びも悪くない。観衆の熱もほどよく、若い騎士たちも緊張はしているものの、楽しんでいるのが分かる。
私としても、見ていて悪くない時間だった。
問題が起きたのは、最後の最後だ。
ユリウス皇子の相手をしていた騎士が、明らかに未熟さから一線を越えかけた。
槍の高さ。踏み込みの勢い。
このまま続ければ、事故になる、そう判断したから、私が止めた。
そこまでは、良かったと思っている。
もちろん、この程度で騎士を罰しようなどとは、最初から考えていない。
緊急性がない以上、裁くべきは私ではなく、陛下と法だ。
それに、誰の目から見ても故意とは思いにくい。若い騎士同士、緊張すればこういうことは起こる。注意と助言で済む話だ。
そのはずだった。
それを、ぶち壊したのがユリウス皇子だ。
注意とアドバイスを伝えている途中で、突然、処刑はやめてほしいだの、命だけは助けてほしいだのと、必死に懇願してきた。
意味が分からなかった。
もともと、処刑などする気はない。一度も、そんなことを考えたことはない。
だが、ああいう形で懇願されると、まるで私が今まさに騎士を殺そうとしていたかのように見えてしまう。「最初からそのつもりはなかった」と後から言うのも、あまりに見苦しい言い訳だ。
正直に言えば、腹が立った。
一度、手合わせをしてみて、皇子の伸びも感じていた。この試合のあとで、素直に褒めてやろうとすら思っていたのだ。
それなのに、なんという仕打ちだろう。
なにより気に入らないのは、私が「意味もなく殺しまくる存在」だと思われているらしい、という点だ。私は快楽殺人鬼ではない。
殺すことを選べる人間ではあるが、それはあくまで手段としてだ。それも、戦争という状況下に限られる。理由もなく人を殺す趣味など、持ち合わせていない。
恩着せがましいことを言うつもりはないが、あの騎士を止めたのは、明確に皇子を守るためだった。せめて、話は「ありがとうございます」「助かりました」くらいから始まるものだと、どこかで思っていた。
それが、まさか……
どうかお慈悲を、になるとは。
私は、思っていた以上に、恐れられているらしい。
このままでは、可愛らしい姫としてのイメージが損なわれてしまう。どうにかして社会的な信用を取り戻さないといけない。
私は必死だった。
私のこれまでの戦いは、言うならば剣によるものだった。戦場では敵を切り伏せ、従わせ、そして滅ぼすためにそれを振るっていればよかった。
そんな武力こそが全ての世界と違って、帝都は文の世界。すなわち、紙とペンこそが主戦場なのだ。
その世界で戦えていない私がおかしな評価を受けるのも当然と言えば当然かもしれない。私が書いたのはあくまでも戦記であって、それは私の考えを述べるためのものではない。
だからこそ、トーナメントを振り返って、ここで一つ論を立てることが必要なのかもしれない。
そのタイトルは殺人論。早く出すことを意識してタイトルは安直だが、中身はここ数年で考えてきたことを詰め込んでいる。こういうのは、ややこしいタイトルを付けるほど手に取ってもらえない。ある程度ド直球なタイトルで書くべきなのだ。
そして、これは未だに誰のためでもない無意味な殺人や部下への安易な命令を繰り返すこの理不尽な世界へのアンチテーゼとして書いている。
一章は技術的な話だ。
意図的に人を殺すために狙うべき急所、死に至る出血量、生死予測や確実性としての手段比較。逆に殺さないで済む甚振り方まで。私の試してきた手段の総まとめに当たる。
帝都の貴族や役人は実際の殺人から離れているので、まずは人を殺すというのがどう言うことなのかを丁寧に理解してもらう必要がある。
二章は個別の殺人ではなく、組織や戦略との関わりに焦点を当てている。それと同時に、殺人が人の精神へどういう影響を与えるかの分析もここで行っている。
拷問や処刑の敵味方への影響。戦場での判断。権限の与え方と握り方。誰の責任でやるのかを明確にしないと命令の効力が弱まり、部下は躊躇ってしまうということ。
そして、私が書きたかった三章に入る。この章は殺人という行為がどう使われるべきかという論点として書いている。
人が人を殺すというのは大変なことだ。通常の社会では、社会を成立させるために殺人に対する強烈な忌避感を植え付けている。それ故に、殺人の実行者は殺し殺されることに精神的な困難を抱えがちになる。
なので、部下に命じる殺人に対しては強力で明白、正当であると認識できる理由を説明する必要がある。ここで特に気をつけるのは、その論理は味方や日常生活に持ち込まれないことが明らかであるものでなければならないということだ。快楽殺人や無差別殺人をしたい訳でも、させたい訳でもない。
尤も、末端の兵士に深遠な哲学を解いても仕方がないこともある。生きるために武器を持って向かってくるものを自身を昂らせて殺すというのは至極当然な話しだ。そこに、指揮官への信頼を加えることで有意義であることを後から説明するという手段を否定はできない。
だけど、指揮官はそうであってはならない。昂りで、感情で、単なる恨みで殺人を命じる。それは指揮官の責務の完全なる放棄に他ならない。
人に命じる以上、味方に分かるように、なぜ殺すかの、なぜ死んでもらわなくてはかならないかを説明してあげないといけない。
つまり、殺人に対するコストというのは、平時の社会秩序と戦時の殺人において一貫する理論を構築し、それを浸透させるコストであると言える。私に言わせてみれば命の尊さというのは、社会秩序から得られる利得が大きいことの言い換えである。
そして、ここまでが味方への話で、第四章は敵への挑発と恐怖のやり方。もっと言えば戦略的な拷問のやり方についてだ。
三章の殺人に現れる困難は逆に相手に向かって使うこともできるというだけでオマケのようなもの。
これで私が怖がられているのも、そういう効果が効き過ぎただけで、本当の私は酷薄でも非人道的でもないということを分かってくれるだろう。
数日間の執筆を終えて筆を置いた私に、涼しい風が吹き寄せる。
人は無秩序で説明できないものを恐れるもの。理性的な相手を怖がることは難しいはずだ。
私は晴れやかな気分で眠るのだった。
恐怖とは、単なる残虐さから生まれるものではない。理解できないもの、説明できないもの、そして予測できないもの。そうしたものの前で、人は自ら想像を膨らませて恐怖を作り出す。
だからこそ、必要なのは行為そのものではない。その行為がどのように見えるか、どのように語られるかだ。
つまり、私が恐れられているのも、そうした効果が、少しばかり効き過ぎただけに過ぎない。
本当の私は、酷薄でも非人道的でもない。ただ少し、方法を理解しているだけだ。
数日間かけて書き上げた原稿を閉じ、私は筆を置いた。
窓から、涼しい風が吹き込んでくる。
人は、無秩序で説明できないものを恐れる。
逆に言えば、理性的な相手を本気で恐れることは難しい。
私は満足げに椅子から立ち上がり、灯りを落とした。そして、晴れやかな気分のまま眠りについた。
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