虐殺姫は可愛くありたい 作:クロプトケープ
双方とも決定打はない。ただ時間だけが過ぎていく。日が高く昇る頃には、平原は何万本もの矢で埋め尽くされ、土は馬蹄に踏み固められ、戦場そのものが灰色へと変わっていた。
完全にこちらの選んだ戦場で、こちらの準備も万端。普段ならここまでやればほぼ確実に勝てる。それでも、優勢とは言い難い。大軍の指揮と遊牧民との戦い。慣れてない要素が二つ両立すると流石に難しい。
「あまり敵を削れていないようだけど、それ自体は問題ないわ…………だけど、陣地を押し込まれすぎると危ない…………。」
戦いは確実に激しさを増していた。
最初は遠距離から矢を射かけるだけだったゴスティバル族も、徐々にこちらの陣地へ踏み込み始める。
柵を引き倒し、逆茂木を馬で踏み潰し、盾を並べる歩兵へ軽騎兵が肉薄する。各所で白兵戦が始まり、ついにはいくつかの前線陣地が突破された。
「クレオン将軍が後退の許可を求めています!」
「ラプサニ山北側で柵を突破されました!」
「次の陣に引くように伝えなさい!」
伝令が次々と駆け込んでくる。私の前の地図では駒が少しずつ後退し、防御線は弓なりに押し込まれていく。当然だった。兵力が違う。
こちらは総勢二万五千。だが、そのうち五千は最初から戦わせていない。さらに突破口を塞ぐための予備隊も各所へ分散配置している。実際に前線へ張り付いている兵は、一万数千に過ぎなかった。
対するゴスティバル族は三万を優に超え、機動力も高いので前線で簡単に局所的優位を取られる。これだけの兵力差があれば、防御陣地があろうと押されるのは当然だった。
「姫様、このままでは……!」
イハリア伯の声が震える。私は首を振る。
「いいえ。これでいいわ」
思わず口元が緩む。いや、ここまで押し込まれなければ意味がない。
ここまでの攻め方を見るに、おそらくこれでもベリサデスは慎重な王だ。こちらを押し潰せる。そう確信するところまで前へ出てきてもらわなければならない。それでいて、大きな仕掛けが来る前にこちらのペースに飲み込みたい。
私は北の丘を見た。
その向こうでは、昼夜を問わず築かせた堰が、ラリサ川の水を静かに溜め続けている。
「……もう十分ね。」
私は静かに立ち上がった。
「堰を切りなさい。」
狼煙が上げれられる。
北方の丘に待機していた工兵たちが一斉に動き始めた。
木杭が抜かれ、土嚢が崩される。そして堰が決壊した。堰に蓄えられていた濁流が一気に解き放たれ、ラリサ川を飲み込みながら下流へ襲いかかる。
激流はあっという間に下流に到達し、増水した川は解き放たれたかのように暴れ回る。浅瀬は一瞬で激流へ変わり、渡河しようとしていた馬ごと兵士を押し流していく。
さらに水は川岸から溢れ、平原へ広がった。踝ほどの浅い水だった。
人が歩けないほどではない。
しかし、それで十分だった。乾いた草原を自在に駆け回っていたゴスティバル族の軽騎兵の脚が止まる。氾濫原は水を思い出して泥に変わる。馬は泥を跳ね上げ、蹄を取られ、速度を失う。遊牧民最大の武器だった機動力が、その瞬間だけ失われた。
眼下ではゴスティバル族が混乱していた。後方では鉄砲水によって渡河点が寸断され、前方では帝国軍が堅陣を築いている。
どちらへ向かうべきか。その判断すら統一されていない。特に南側の混乱が大きく、命令系統すら怪しいように見える。
前を向いて戦う部隊。後ろを振り返り退路を探す部隊。伝令が行き交い、軍旗が右へ左へ揺れる。軍としての動きが、一瞬止まった。
「今こそ叩き潰す時よ。全予備隊を投入して蛮族をラリサ川とペネイオス川に叩き込むわよ」
ただ、丘陵際だけは違う。特に北側は川からの距離と高さによって泥濘を免れていた。そこだけが、重騎兵が全力で駆けられる一本の道になっている。
「ナルセス将軍に伝えて。北側は水に乗じてキラダの村まで押し返しなさい。無理は必要ないわ。私が行くまで戦線を崩さないように。」
私は槍を受け取る。
「南も長槍兵を先頭に全軍前進。重装歩兵も続けて。まずはエレアまで押し込むわ。」
命令は間を置かず続く。
「ヨアヒム、総予備五千を中心に中央全軍で足の止まった敵中央を南に向けて殲滅しなさい。」
「はっ、姫様は………」
私は兜を深く被った。
「全騎兵に出撃準備。北に残った敵を叩き潰す」
馬が鼻を鳴らす。
角笛が低く鳴り響き、隊列を組んで進む。
私たちが進むのは、丘と平原の境界だった。
堰から流れ込んだ水は平原を薄く覆い、ゴスティバル族の馬の脚を鈍らせている。とはいえ、丘との境界までは水は来ない。
ゴスティバル族の騎兵たちは本能的に固い地面を目指して逃げ、こちらの陣が薄い場所に溜まる。つまり、丘と平原の境界線上に点々とゴスティバル族の小集団ができることになる。
そして、その周りの落とし穴や杭の位置はすべて私の頭に入っている。こちらは最短距離で駆け抜け、追い詰め、各個に叩き潰すことができる。
「蛮族狩りの始まりよ!!」
鉄蹄が一斉に鳴り始める。
「今よ。」
私は槍を前へ倒した。
「突撃!」
騎兵が一気に加速する。こちらは固い地面を選んで駆ける。
敵はこちらの陣地からの攻撃とぬかるみを避けようと互いに進路を譲り合い、隊列が乱れていく。
最初の衝突で敵の前列が大きく押し返される。続く騎兵が間断なく押し込み、ゴスティバル族の隊列は中央から裂け始めた。
「止まるな! そのまま押し切りなさい!」
私の号令に応え、騎兵が左右へ広がる。
突破することが目的ではない。混乱した敵をさらに押し広げ、軍としての形を完全に失わせること。
そのためだけに前へ進み、蹴散らしていく。
私が駆け抜け、小集団を撃破するたび、帝国軍の陣地から歓声が湧き上がる。
「押し返せ!」
「今だ!」
歓声は波のように戦線を伝わり、押され続けていた歩兵たちが再び槍を構えて前へ出る。
敵を何人倒したかなど、もう数えてはいない。一団を崩せば、次の一団へ。
槍を向けてくる者がいれば、その穂先を槍で弾き、馬体を寄せて踏み潰す。逃げようとする者がいれば、その背を追わず、隊列を整えようとしている者から先に突き殺す。
必要なのは単に殺すことではない。敵に、立ち止まる余裕を与えないこと。
敵の小集団がこちらを見た瞬間には、すでに私たちはそこにむけて突撃を開始している。迎撃のために馬首を巡らせれば、その間に帝国軍の歩兵が攻撃する。
本来なら、平原を駆ける遊牧民に対してこちらが行うような戦いではない。
彼らは広がり、囲み、離れ、また集まる。帝国軍の騎兵が追えば誘い込まれ、歩兵が固まれば矢を浴びせられる。決して一つの場所に留まらず、こちらの力が届かない場所から少しずつ削っていく。
けれど、今は違う。
平原は泥に変わり、背後には増水した川がある。
彼らの馬は疲れている。長く走れば脚を取られ、急に向きを変えれば速度を失う。数十騎ならまだしも、数百、数千が同時に動けば、前の騎馬が作った轍に後続がはまり、たちまち隊列が詰まる。
速さを失った遊牧民など、よい獲物だ。
私は思う存分槍を振るうのだった。
「姫様!」
左手から、味方の騎兵が泥を跳ね上げ、息を切らしながら一騎で駆け寄ってくる。
「ナルセス将軍からの伝令です。この先で敵主力らしき部隊と遭遇、前進を止めて交戦中です。」
丘を上って視線を向ける。
煙と砂埃の向こうから、帝国の旗が見えた。
北から進ませた部隊だが、迂回してきた敵とぶつかっているようだった。
敵の数は想像以上に多く、練度も高い。こちら側の旗は裂け、鎧は泥と血に覆われていた。それでも隊列は保たれている。槍兵を前に、弓兵を後ろに置き、その側面を騎兵が守っている。陣形が崩れたわけではない。
私は機動力のある軽騎兵を丘の上に残し、周囲の兵をかき集めて進む。陣地は軽騎兵の遅滞で守り、最悪取られても問題ない。
今、この戦場の重心はそこではない。北から回り込んでいる、敵の部隊。打撃力と機動力が生きている数少ない部隊だ。それを失えば、敵は戦場で能動的に打てる手を失うことになる。
つまり、あそこを叩き潰せば、この戦いは終わる。私は周囲の予備隊、押し返し終えた部隊、丘陵沿いの守備隊まで、一兵でも多く引き抜いて前へ向けた。
勝負はここだ。
敵の主力を、この一撃で粉砕する。そうすれば、敵は二度と立ち上がることはない。
感想楽しく読ませていただいております!