虐殺姫は可愛くありたい 作:クロプトケープ
あっという間の出来事でした。
ゴスティバル族の王だったお爺様が遠征軍を率いて南の帝国へ攻め込んでから、それほど長い時間は経っていませんでした。
お爺様が討たれ、遠征軍が敗れたという知らせが届き、それから間もなく帝国軍が草原の世界へと侵入してきました。
お父様はお爺様の後を継いで王になりました。残っていた戦士たちを集め、離れていった部族をもう一度まとめ、帝国軍を追い返そうとしていました。私も、きっとお父様なら何とかしてくださるのだと思っていました。
けれど、それも長くは続きませんでした。
帝国軍と戦ったお父様の軍は、あっという間に蹴散らされました。敵の大将を見た途端、誰もが逃げ出したという噂です。
そして、昨日まではずっと遠くにいると思っていた帝国軍が、次の日にはすぐ近くまで来ていました。逃げる準備をする暇さえほとんどなく、気がついた時には、私たちの天幕の前に帝国兵が立っていました。
私たちに抵抗する力など残っていませんでした。武器を持つ男たちは戦いに出て、その多くが帰ってきませんでした。残されていたのは、私たちのような女や子供、それに僅かな従者ばかりでした。それも帝国軍に立ちふさがったものは次々と殺されていきました。そこには死体と炎だけがありました。
だから、何もできませんでした。
帝国兵に囲まれ、持っていたものを取り上げられ、ただ言われるままに手を差し出しました。両手を後ろへ回され、手首にきつく縄を掛けられても、抵抗することなどできませんでした。
縄を打たれることがどれほど屈辱的でも、拒むことさえできませんでした。
すぐ隣では、妹も捕まっていました。
妹は怖がって何度も私の方を見ていましたが、私にはどうすることもできませんでした。帝国兵に腕を取られ、私と同じように両手を縛られていくのを、すでに縄を掛けられた私は見ていることしかできませんでした。
「お姉様」と呼ばれても、そばへ行ってあげることさえできませんでした。
少し前までなら、妹にこんなことをする者がいれば、周囲の戦士たちが許さなかったはずでした。けれど、その戦士たちはもういませんでした。
私たちは王の一族でした。それなのに今は自分の妹一人を守ることさえできず、帝国兵の命令に従って並ばされるだけの捕虜になっていたのでした。
意外なことに、私と妹は殺されずに帝国へ丁寧に移送されることになりました。他の家族とは引き離されましたが、乱暴な扱いをされることはありませんでした。
捕虜なのですから、もっと酷い扱いをされるものだと思っていました。お爺様もお父様も帝国と戦い、たくさんの帝国兵を殺したのです。私たちがその一族だということも、当然知られていました。それなのに、縄を解かれて馬車に乗せられました。
もちろん自由になったわけではありませんでした。馬車の前後には武装した帝国兵が付き、休憩の時にも必ず見張りが立っていました。どこかへ逃げようとすれば、すぐに捕まったでしょう。
それでも、扱いそのものは驚くほど丁寧でした。
夜になれば天幕が与えられ、食事も兵士たちが食べている硬いパンだけではなく、温かいスープや肉まで出されました。水も十分にもらえました。最初の晩、妹は目の前に置かれた器をじっと見つめたまま、なかなか手をつけませんでした。
「お姉様……これ、食べてもいいのでしょうか」
「出されたのだから、いいのでしょう」
「毒が入っていたりしませんか?」
小さな声でそんなことを言うので、私は思わず周囲を見回しました。監視の兵はこちらを気にする様子もなく、少し離れたところで仲間と話していました。
「私たちを殺したいのなら、毒なんて使わないでしょう。食べなさい。食べられる時に食べておかないと駄目です」
そう言ってみせましたが、私だって理由は分かりませんでした。
捕虜として価値があるからでしょうか。お父様が生きていて、私たちとの交換を持ちかけられるとでも思っているのでしょうか。それとも、帝国では高貴な家の女を捕らえた時にはこうする決まりなのでしょうか。
けれど、尋ねる勇気はありませんでした。余計なことを言って、今の扱いまで失いたくなかったのです。
何日かして、私たちはラリサという帝国の都市へ到着しました。草原しか知らなかった私には、それだけでも別の世界のように見えました。高い城壁があり、その内側には石造りの建物が隙間なく並んでいました。道には馬だけでなく荷車が何台も行き交い、見たこともないほど多くの商人がいました。
そこで私たちは、さらに奇妙な扱いを受けました。
まず風呂へ入れられました。長い移動で汚れた身体を洗われ、髪まで丁寧に梳かされました。その後で用意されたのは、捕虜に着せるような粗末な服ではありませんでした。
帝国で作られたドレスでした。私がそれまで見たどんな衣装よりも細かな刺繍が入り、触れただけで上等な布だと分かるものでした。
「お姉様……これ、本当に私たちが着ていいものなのでしょうか。こんな服、私たちのところにもありませんでしたよね。見てください、袖のところにも刺繍が入っています。それに、この布、触ってみてください。すごく柔らかいです」
妹は困惑したように言いながらも、その声を弾ませていました。裾を両手で摘まみ上げ、しげしげと眺めています。
「帝国の人が着なさいと言って持ってきたのだから、着ていればいいでしょう。それに、そんなに嬉しそうな顔をしながら私に聞かれても、脱ぎなさいとは言えないわよ」
「だって、こんな服を着るのは初めてなんですもの。お姉様だって見ていたでしょう? 着せてもらっている時から、ずっと自分の袖を触っていました」
「私は、どういう作りになっているのか気になっただけよ。草原の服とは全然違うでしょう。こんなに布を重ねたら、馬にも乗りにくそうだし」
そう言ってみたものの、妹の指摘は半分くらい当たっていました。認めるのは少し悔しかったのですが、本当に綺麗だったのです。草原でも、私たちは王族として相応の衣装を持っていました。祭りの日には鮮やかに染めた布をまとい、金や銀の飾りをつけることもありました。
けれど、帝国のドレスはまるで違いました。
何枚もの布を重ねて形を作り、胸元から袖にかけて細かな刺繍が施されています。私に与えられたものには小さな花が縫い込まれ、少し身体を動かすだけでも裾が柔らかく揺れました。妹のものは、私のものよりさらに華やかでした。
「でも、お姉様。これを見てください。こうやって少し持ち上げてから回ると、裾がものすごく広がるんですよ。さっき着せてくれた女の人が、帝都の貴族の娘はこういう服で踊ることもあるって教えてくれました」
そう言うなり、妹は鏡の前でくるりと身体を回しました。ふわりと裾が膨らみ、それを鏡で確認すると、本人はますます嬉しそうに笑います。
「ちょっと、そんなに回ったら転ぶわよ。ただでさえ着慣れていない服なんだから。裾を踏んで頭でも打ったらどうするの」
「大丈夫です。それに、お姉様もやってみてください。きっとお姉様のドレスの方が綺麗に広がりますよ。背も私より高いですし」
「やらないわよ。私はあなたみたいな子供じゃないんだから」
「そんなことを言って、お姉様だって私と二つしか違わないじゃないですか。それに、誰も見ていませんよ。兵士だって部屋の外ですし、ここには私たちしかいないんですから」
そこまで言われて、私は思わず扉の方を見ました。確かに監視の兵は外にいましたが、部屋の中には私たちしかいません。
「……一回だけよ。それで満足しなさい」
「やっぱりお姉様もやってみたかったんじゃないですか」
「あなたがうるさいから付き合ってあげるの。余計なことを言うならやめるわよ」
慣れない裾を少し摘まみ、妹がやったのと同じように身体を回してみました。思った以上に布が大きく広がりました。鏡の中に、見慣れない格好をした自分がいます。
捕虜として連れてこられた草原の娘には、とても見えませんでした。
「ほら、やっぱり綺麗です。お姉様にはそういう色の方が似合うんですよ。草原にいた時の服より、こっちの方がずっと――」
「それは言い過ぎよ。私たちの服だって綺麗だったでしょう」
「もちろん好きです。でも、こういう服も一度くらい着てみたかったんです。帝国の商人が持ってくる絵を見て、どんな人が着るんだろうって思っていましたから。まさか自分が着ることになるとは思いませんでしたけど」
そこで妹は、鏡に映る自分をもう一度眺めました。
「……お父様にも見せたかったです」
それまで浮かれていた声が、少しだけ小さくなりました。私も返事に困りました。お父様がどうなったのか、私たちはまだ詳しく聞かされていませんでした。ただ、戦いに敗れたことだけは知っています。
私は妹の肩に手を置きました。
「今は考えなくていいわ。せっかくこんな服を着せてもらったのだから、今日くらい喜んでいればいいでしょう。明日どうなるかなんて、私にだって分からないもの」
「……そうですね。それなら、お姉様。髪もやってあげましょうか? さっき帝国の女の人がやっていたのを見ていました。ここのところを編んで、この飾りを――」
「待ちなさい。それ、私の髪で試すつもりでしょう」
「失敗してもほどけばいいだけです。それに、このドレスなら髪も帝国風にした方が似合いますよ。お姉様は髪が長いんですから、きっと綺麗になります」
妹はすっかりその気になって、机の上に置かれていた櫛を手に取っていました。
久しぶりに見る楽しそうな顔でした。それを見てしまうと、嫌だとも言えませんでした。
「……変になったら、今度は私があなたの髪で好きに遊ぶからね」
「大丈夫です。絶対に綺麗にしますから」
そう言って妹は私を鏡の前へ座らせました。
捕らえられてから初めて、その時間だけは、私たちは自分たちが捕虜であることを忘れていました。
そして、何となく思いはじめていました。もしかしたら、私たちは助かるのかもしれない。帝国の貴族のところへ人質として預けられるのかもしれない。あるいは、身代金を払えば故郷へ帰してもらえるのかもしれない。
そんな期待すら抱き始めていました。
ラリサには私たち以外にも、同じような少女が集められていました。
服装こそ帝国風に変えられていましたが、茶色い髪に紫の目、なにより顔を見れば分かりました。ゴスティバル族の娘たちでした。それも、ほとんどが有力な家の娘です。
お爺様の宴で何度か会ったことのある、別の部族の族長の娘をはじめ、顔だけなら知っている少女が何人もいました。お爺様のもとへ族長たちが集まった時に見かけた人。祭りで一度だけ話した人。名前だけ知っていた人。
不思議なことに、私たちはみな似たような扱いを受けていました。食事を与えられ、身体を清潔にされ、美しい服を着せられる。
その一方で、決して外へは出してもらえませんでした。理由を尋ねても、監視の兵士たちは何も答えてくれず、ただここで大人しくしているようにと言われるだけでした。
これだけ丁寧に扱われているのに、自由だけは与えられない。そのことがどうにも不気味で、私たちは自分たちがこれからどうなるのか分からないまま、ラリサで何日かを過ごしました。
この時の私たちはまだ、自分たちがこれほど大切に扱われていた理由を知りませんでした。