虐殺姫は可愛くありたい 作:クロプトケープ
帝都での新たな日常は、少しだけ退屈な日々だった。
一日の始まりに敵軍の報告が来ることもなく、寝る前に食糧と水の心配をすることもない。
いつもの癖で地図を広げても、そこには敵軍も補給拠点も書かれてはいない。
ただ整った地形図と、丁寧に描き込まれた街道網が広がっているだけだ。
朝の祈りの時ですら、一体何を祈ればいいのか分からなくなってきている。
かつては戦勝や兵たちの無事を願って、祈りというより願掛けに近い熱情を込めていたのに、いまは平和すぎて祈る対象がぼやけてしまった。
神様も困っているかもしれない。
とはいっても、姫君らしい趣味というのもまだ見つけられていない。
礼法、ダンス、音楽に手芸。
帝都にはそれらがいくらでもあるものの、どれも始めるにはちょっとだけ勇気が要る。
陣中で泥にまみれ、焚き火で髪先を焦がしていた身からすると、どれもこれも優雅すぎて近寄りがたいのだ。
それに、なぜか皇子と関わる機会も得られていない。
帝都入りしてからもう何週間も経つのに、儀礼的な挨拶を除けば顔を合わせたのはほとんどない。
あとは仕事に熱心なのか、「お忙しいので」「本日は会議が」という報告ばかりでなかなかお会いすることができていない。ただ、これは当然のことで後継者候補の皇族に暇があるわけはない。むしろ、きちんと役目を果たしていることに私は安堵しつつも、少し寂しく感じていた。
そんな中で、私がハマったのが本の執筆活動だった。
「こっちがフォキス公爵領の地図ね。そう、その資料もそこに置いておいて」
侍女が書簡や地図を机の上に積み上げていくたび、胸が高鳴った。
なにしろ、ここは宮廷書庫のすぐそばであり、欲しい資料はなんでも手に入る。
精度の高い地図、過去百年分の徴税記録、外交往来の記録、さらには古い将軍の日誌まで。私たちが野戦で使っていた、雨風で滲んだ簡易地図なんかとは比べ物にならない。
資料に囲まれた机は、もはや小さな作戦司令室のようだった。
陣中でも日記として自軍と敵軍の動き、それから周囲の地勢や産物なんかを書き記していたものの、それを俯瞰して眺める余裕は私には無かった。
あの日々は、とても書くために生きてはいなかった。
ただ、生き延び、勝つために書いていた。
史上の英雄たちも自らの活動を本や戦記として残していたもの。これを残すというのは、そこに新たなページを増やす作業に他ならない。
私が積み上げるページは、誰かが未来に開くかもしれない歴史書の片隅に紛れ込むのだろう。そう思うと少しくすぐったかった。
それに、私がやりたいのは単なる戦記物だけではなくて、今後の国家のあり方や戦略、そして武器や社会体制に応じた戦術なんかを纏めたものも是非とも書いておきたい。
兵站線の引き方、部隊編成の欠点、経済と動員、国家モデルと戦略、そしてそれらへの攻撃。そういったテーマが次々と頭に浮かんでくる。
しかしまずは基礎から。
だから私は、出来るだけ記憶と事実を忠実にした戦記から先に書き、その後に他の著作にも手を付けることにした。
「ちょっと刺激が少ないけど、毎日が楽しくて仕方ないわ!!これが平和、素晴らしいわ!!」
戦記の始まり、第一章にあたる
――隣国アッティカ王国の傭兵隊を公都近くのアソプス川を越えさせて引き込み、中央突破して全部川に叩き込んだあの戦い――
は、思いのほかあっという間に書き終わってしまった。
泥の匂い。
騎兵の突撃音。
進軍する槍衾。
川岸で転ぶ兵を助け起こしながら叫んだ命令。
命乞いだからこその名文。
それらを思い起こして文章にしていく作業は、むしろ少し楽しかった。ページを書き終えた瞬間、胸がすっと軽くなるのを感じた。
「うーん、どこに置いておけばいいのかしら」
戦場では配置ひとつで軍が全滅するのに、今は一冊の本の置き場所で悩んでいる。
なんて平和な悩みだろう。
少し笑いながら、私は書き上げた第一章をそっと撫でた。
宮廷書庫においておこう、そう思うだけで胸が高鳴った。
この帝都のどこかで、未来の誰かが、私の戦記を開くのかもしれない。
そして、それは意外にも早く訪れることになる。
私の真面目な戦記をもとに、というより素材にされて、脚色されたものが帝都で出回ったようなのだ。
どうやら最近の宮廷では英雄物語がひどく流行っているらしい。
貴族の婦人方は新しい恋物語と武勇伝に飢え、若い侍女たちは寝る前に読む娯楽としてちょうどよい刺激を求め、文官たちは文官たちでどれが史実に近いかで賭け事まで始めていると聞く。
そんな折、書庫で私の戦記を見つけた誰かが
「これは面白い!素材が新鮮だ!」
と思ってしまったのだろう。
結果、その誰かが勝手に英雄譚の体裁に書き直した写本が、宮廷内で静かに、しかし爆発的に広まっていった。
タイトルは、
『アイメレア姫英雄記』
……そのままである。もっと捻ってもよかったのに。
中身を読んだとき、私は思わず本を閉じたくなった。
なにしろその中では、
私は川を背にして乾坤一擲の大会戦で傭兵隊を打ち破ったことになっていた。
勇ましく馬を駆り、たったひと声で軍勢が動き、私の振り下ろす指揮杖だけで敵が大河のように崩れ去る――
そんな、まるで吟遊詩人が酔って作ったような描写が延々と続いているのだ。
実際の私は、靴に泥が詰まり、声は裏返り、川岸で滑って転びかけ、側近に腕を掴まれて立て直したりしながら命令を飛ばしていたというのに。何しろ初陣なので仕掛けのタイミングも滅茶苦茶だったのだ。なにより、勝てたのは偽装退却で川を渡らせたからであって、正面からの戦闘でやり合えたわけではない。
さらにひどいのは、敵の指揮官の描かれ方だった。
その本の中では、
彼は「姫を見て心を折られる哀れな凡愚」であり、「姫の気迫に震え、ついに自滅した哀れな道化」であり、しまいには「姫の美貌に動揺して敗れた男」になっていた。
……美貌で敵を倒した覚えは、残念ながら一度もない。
本当の彼はもっと手強かった。少なくとも、物語にあるようなマヌケではなかった。
それなのに写本の中では、彼はほとんど私を引き立てるための小物扱いである。
女官の一人が少し笑いながら報告してきた。
「姫様、宮廷の婦人方の間では、あのアソプス川の戦いが大人気なのですって!勇ましい姫将軍が敵を一喝したという場面、何度読み返しても胸が熱くなるそうですわ!」
胸が熱くなるのは宮廷の夫人方だけで、こっちは冷や汗が止まらない。
さらに聞けば、アマーリエ皇女もその英雄記を読み、
「まあ!こんな勇ましいなんて!素敵!」
と目を輝かせていたらしい。
戦場を知らない女性陣ほど戦場に夢を見るのか、あるいは単に退屈しのぎに都合のよい武勇伝を求めているのか……或いは英雄になら負けても仕方がないと割り切ることができるからなのか
いずれにせよ、私の地味で泥臭い戦記はすっかり華やかなおとぎ話に仕立て上げられてしまった。
私は本を閉じ、ため息をついた。
誰よ、こんなものを書いたのは。
そして同時に、頬の内側がくすぐったくなるような感覚もあった。
恥ずかしさと、むず痒さと、ほんの少しの誇らしさが混ざった、不思議な感情。
だけど、帝都に来てからは怖がられてばかりだったから、こういうのもいいのかもしれない。
「まあ……いっか。迷惑では、ない……はずよね」
自分に言い聞かせるように呟いたけれど、胸の奥ではやっぱりざわつくものがあった。